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7、春の学院生活
63、貴族の慈悲
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「どうして、」
言いかけたアッシュが周囲の視線に口を噤んで、ぎゅっと目を瞑って頭を下げた。
「……ありがとうございました」
ここで無礼な態度を取れば、ほんとうに取り返しのつかない事になる。そう思いながら。
「教科書は、新しいのを買い直す必要がありそうね」
ネネツィカの母がそう言う声がいかにも優しく同情的だった。令嬢が地面に落ちた教科書を拾う姿は、いかにも美談だ。周囲でちらちら視線を送る大衆の視線が痛いほど感じられる。いじめられている可哀想な平民を、優しい伯爵家令嬢が助けた。そんな現実の中の『いじめられた可哀想な平民』には、大衆が知っているかどうかわからないがアッシュと令嬢には共通認識のもうひとつの属性がある。『平民』が『いじめられて可哀想』になったのは、自業自得なのだ――アッシュは『身の程知らずにも貴族に暴言を吐いた平民』でもあるのだ。
「むうん。一回も使われていないのに、物を粗末にして――ひどいですわ」
執事が拾ったそれをネネツィカが受け取り、母が「本当ね」と思いやり深い声で憐れみの視線を向けてくる。
ああ、この麗しき貴族たちの慈悲深さといったら!
日焼けするような外仕事にも視力が落ちるような内職にも無縁な白い手。
上質な生地製手袋を填めた手。
嫋やかで、きよらかな声。
周囲で守る護衛たちはいかにも屈強で、頼もしそうだ。
「アッシュ、アタクシと教科書を買いに行きましょう」
ネネツィカは入学式の出来事をさっさと水に流してしまったような顔でそう言って、アッシュの手を取った。
――ああ、同情されている。
アッシュはみじめな気分でトボトボと歩いてついていき、頭を下げて教科書を恵んで貰った。自腹で買い直す金なんてなかったから、実際それはとても助かったが、いかにも貴族といった集団の中にいるアッシュはとても悪目立ちして、どこにいても奇異の視線が追いかけて来た。
けれど、ああして庇ってもらって、今も衆目に晒されているからには、アッシュは明日からいじめから解放されるのかもしれない。許されるのかもしれない。優しいお貴族様の懐深さのおかげで――。
「ありがとう、ございます。伯爵夫人に、お嬢様」
「いいのよ。困ったことがあったらなんでも仰ってね」
「おや、ラーフルトン君。フィーリー君」
教科書を大切に抱えて感謝の言葉をたどたどしく並べていると、横合いから飄々とした声がかけられた。
「あら、フィーリー先生」
ネネツィカが名を呼んで、アッシュは最悪の気分でまた頭を下げた。学院で歴史を教えている先生がそこにいた。
「二人はすっかり仲良くなったんだなあ」
見当違いな事を言って先生が笑う。
「先生、学院生がさきほど――」
ああ、伯爵夫人が先生に事情を打ち明けてしまう。アッシュは顔を真っ赤にした。
「オレ、失礼します……! すみません、ありがとうございました!!」
「あっ、アッシュ」
背に聞こえる声から逃げるようにして、アッシュは一方的にこの同情による優しい庇護関係に終わりを告げて走り出した。
「ほんとうに、ありがとうございました、すいませんでした……」
――すいませんでした。ありがとうございました。
そんな言葉を吐くたび、自分がみじめったらしくなっていくみたいだ。
アッシュは走って、自宅を目指した。
この新品の教科書をみせて、親を喜ばせたかった。立派な学院生だねと言われたかった。お母さんの誇りだわ、と言わせたかった。
――誇れる自分でいないといけなかったのに。
そんなアッシュの前方に立ち塞がる者がいた――また貴族だ。高貴な気配を感じて、アッシュは恐れた。
「アッシュ・フィーリー?」
冷気を固めたみたいな声が名を呼んだ。
どうしてオレの名を知ってるんだろう。
もう世界中に知れ渡っているとでもいうんだろうか、クズでみじめなアッシュ・フィーリーの名が?
淀んだ目で、アッシュがのろのろと彼を見る。
その人は、とても綺麗で、とても立派で、けれどどこか追い詰められたような顔をしていた。
「お前は今、学院で立場が悪くなっている。そうだな?」
確信するみたいにその人が言った。また同情される? また助けてくれるの? アッシュは仄暗く微笑んだ。
その白銀の髪の人が何かを言うより先に、後ろから手が掴まれた。先生だった。追いかけてきたらしい。
「気持ちはわかるんだけど、巻き込まないであげてくれる? 俺の生徒なんだ。それに、デンカがゲームの邪魔をしないようにしてって頼まれててさ……」
先生がへらりと笑ってそう言ったので、アッシュはびっくりした。先生の知り合い? デンカ? ゲーム? 貴族は目を見開いて何事かを呟いて、その後はなぜかアッシュにはも二人の会話が聞こえなくなった。
けれど、しばらくしたら貴族は消えて、先生がそおっと優しく、心配そうに声をかけてくれた。手を握ってくれた。
「大丈夫? このへん、物騒だね。おうちまで先生が一緒にいくよ」
言いかけたアッシュが周囲の視線に口を噤んで、ぎゅっと目を瞑って頭を下げた。
「……ありがとうございました」
ここで無礼な態度を取れば、ほんとうに取り返しのつかない事になる。そう思いながら。
「教科書は、新しいのを買い直す必要がありそうね」
ネネツィカの母がそう言う声がいかにも優しく同情的だった。令嬢が地面に落ちた教科書を拾う姿は、いかにも美談だ。周囲でちらちら視線を送る大衆の視線が痛いほど感じられる。いじめられている可哀想な平民を、優しい伯爵家令嬢が助けた。そんな現実の中の『いじめられた可哀想な平民』には、大衆が知っているかどうかわからないがアッシュと令嬢には共通認識のもうひとつの属性がある。『平民』が『いじめられて可哀想』になったのは、自業自得なのだ――アッシュは『身の程知らずにも貴族に暴言を吐いた平民』でもあるのだ。
「むうん。一回も使われていないのに、物を粗末にして――ひどいですわ」
執事が拾ったそれをネネツィカが受け取り、母が「本当ね」と思いやり深い声で憐れみの視線を向けてくる。
ああ、この麗しき貴族たちの慈悲深さといったら!
日焼けするような外仕事にも視力が落ちるような内職にも無縁な白い手。
上質な生地製手袋を填めた手。
嫋やかで、きよらかな声。
周囲で守る護衛たちはいかにも屈強で、頼もしそうだ。
「アッシュ、アタクシと教科書を買いに行きましょう」
ネネツィカは入学式の出来事をさっさと水に流してしまったような顔でそう言って、アッシュの手を取った。
――ああ、同情されている。
アッシュはみじめな気分でトボトボと歩いてついていき、頭を下げて教科書を恵んで貰った。自腹で買い直す金なんてなかったから、実際それはとても助かったが、いかにも貴族といった集団の中にいるアッシュはとても悪目立ちして、どこにいても奇異の視線が追いかけて来た。
けれど、ああして庇ってもらって、今も衆目に晒されているからには、アッシュは明日からいじめから解放されるのかもしれない。許されるのかもしれない。優しいお貴族様の懐深さのおかげで――。
「ありがとう、ございます。伯爵夫人に、お嬢様」
「いいのよ。困ったことがあったらなんでも仰ってね」
「おや、ラーフルトン君。フィーリー君」
教科書を大切に抱えて感謝の言葉をたどたどしく並べていると、横合いから飄々とした声がかけられた。
「あら、フィーリー先生」
ネネツィカが名を呼んで、アッシュは最悪の気分でまた頭を下げた。学院で歴史を教えている先生がそこにいた。
「二人はすっかり仲良くなったんだなあ」
見当違いな事を言って先生が笑う。
「先生、学院生がさきほど――」
ああ、伯爵夫人が先生に事情を打ち明けてしまう。アッシュは顔を真っ赤にした。
「オレ、失礼します……! すみません、ありがとうございました!!」
「あっ、アッシュ」
背に聞こえる声から逃げるようにして、アッシュは一方的にこの同情による優しい庇護関係に終わりを告げて走り出した。
「ほんとうに、ありがとうございました、すいませんでした……」
――すいませんでした。ありがとうございました。
そんな言葉を吐くたび、自分がみじめったらしくなっていくみたいだ。
アッシュは走って、自宅を目指した。
この新品の教科書をみせて、親を喜ばせたかった。立派な学院生だねと言われたかった。お母さんの誇りだわ、と言わせたかった。
――誇れる自分でいないといけなかったのに。
そんなアッシュの前方に立ち塞がる者がいた――また貴族だ。高貴な気配を感じて、アッシュは恐れた。
「アッシュ・フィーリー?」
冷気を固めたみたいな声が名を呼んだ。
どうしてオレの名を知ってるんだろう。
もう世界中に知れ渡っているとでもいうんだろうか、クズでみじめなアッシュ・フィーリーの名が?
淀んだ目で、アッシュがのろのろと彼を見る。
その人は、とても綺麗で、とても立派で、けれどどこか追い詰められたような顔をしていた。
「お前は今、学院で立場が悪くなっている。そうだな?」
確信するみたいにその人が言った。また同情される? また助けてくれるの? アッシュは仄暗く微笑んだ。
その白銀の髪の人が何かを言うより先に、後ろから手が掴まれた。先生だった。追いかけてきたらしい。
「気持ちはわかるんだけど、巻き込まないであげてくれる? 俺の生徒なんだ。それに、デンカがゲームの邪魔をしないようにしてって頼まれててさ……」
先生がへらりと笑ってそう言ったので、アッシュはびっくりした。先生の知り合い? デンカ? ゲーム? 貴族は目を見開いて何事かを呟いて、その後はなぜかアッシュにはも二人の会話が聞こえなくなった。
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「大丈夫? このへん、物騒だね。おうちまで先生が一緒にいくよ」
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