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7、春の学院生活
83、音楽室の静寂と花
しおりを挟むどれくらい時間が経っただろう。
未だ、外は騒がしいようだった。
オスカー・ユンクはしばらくそこにいて、いつの間にか寝息を立て始めた少年を見ていた。
学院内は、現在結界めいた何かに妨害されて呪術が使えないのだという。
ただ目立つ肉の壁になり果てた黒い護衛たちを敷地外に追いやって、クレイは鐘の音と放送を聞いて笑い――出ていく気を失くした様子で楽譜を広げて寛ぎ、眠ってしまった。最近は身辺が落ち着かない日が続いていたと聞くので、疲れもあるのだろう。
窓がそよそよと外からの風を招いて、カーテンを揺らしている。
音楽室は、3階の高さにあった。
――ここからこの少年を落とせば、どうなるだろうか。
オスカーは無防備な少年を見て思案した。
護衛が救助し得ない状況。打ち所が悪ければ、即死であろう。良くても負傷は免れない。
この少年は、弱弱しい。
オスカーにはクレイより2つ年下の弟もいるが、下手するとそれより幼く見える。
体力もないし、運動もできない。術を使うところも見たことがない。転んだだけでも怪我を案じてしまうような、転ばせてもいけないと思ってしまうような風情なのだ、こんな生き物を落とすなどできようか。
「騎士たる者は優れた戦闘能力を有し、武勇に優れ、弱者の味方たらん。高潔であれ」
憧憬混じりに、そっと呟く。
それは、騎士道であった。
「誠実で、忠誠を違えることなく、博愛精神を持ち、信念を貫き、礼節を知る……」
さて、オスカーは騎士という身分ではない。
とはいえ、少年心としてそれに憧れる気持ちはあった。
――目の前の少年は、弱者である。
そんな念が胸に湧くのだ。
(竜……竜かあ)
オスカーが触れてきた数多くの王族の伝記では、その生命に加護を与えし守護竜は、王族が助けを求めれば神にも近い超常の権能を発揮してそれを助け、危機を必ず救うのだった。
今、この部屋の窓から少年を落とせば、この少年に加護を与えたと言われる、伝記にも滅多にその名を見せない守護竜アスライトは現れるのだろうか、この生命を助けるだろうか?
そろりそろり、迷いの中で手を伸ばし――、
……『もし現れなかったら、死ぬかもしれない』。
そんな思いがどきりと胸に鼓動を刻む。その可能性を恐れてしまうのは、自分が『現れない可能性が高いのでは?』と思っている証左だとオスカーは思った。
(おれは別に、怪我をさせたいとか殺したいわけじゃないんだ。どちらかといえば、その逆なのだ)
静寂の中。
空気が張り詰めるとはこういうことを言うのか、光に細かな埃が舞う視界に心臓の音が早まっていく、口の中が乾いて、瞬きすら恐れるように――、
「……『来ないよ』」
静寂の中、雨垂れがぽつりと落ちたように呟きが洩れた。オスカーの疑念に、少年が答えたのだ。
「!!」
稲妻に撃たれたように全身がびくりとした。葛藤の中にあっただけに、その衝撃は大きかった。後ろめたさのようなものが全身を打ち据え、オスカーを後退りさせた。
いつから。そんな思いが一瞬頭をいっぱいにする。
(見透かされている――何をしようとしたか、気付かれた!!)
オスカーは息を呑み、無言のまま踵を返して其処から逃げた。
(ああ、せっかくお気に入りになれていたのに)
なんて惜しいことを。これは嫌われる……。
――時間を置いて「何もありませんでした」みたいな面で近寄って行ったらワンチャンいけるだろうか?
――あの坊ちゃんはちょろいから、意外といけたりしないだろうか? なにせ、相手はあのクレイなのだ。
頭の隅では、そんなことを考えながら。
日差しが外の空で傾いているのが感じられる。
足音が遠くなり、呼吸に合わせて緩く吐息めいて笑みが零れた。
疑念を抱いて近くにいる者は、答えを与えればすぐに離れていく。
持っていないものに価値を見出して寄ってくる者は、持っていないと言えばさっさと逃げていくのだ。
柔らかな風に端をひらひらさせる楽譜の記号が視界に滲む。
白と黒の鍵盤の上を楽し気に、愛し気に、誇らし気に踊る白い指を思い出す――朧になりそうな記憶の中の母は、美しかった。
「アスライトは、ピアノを弾くと喜んでくれるのよ」
その存在が大好きなのだと笑う母は、少女のようだった。
「それじゃあ、それなら、お母様……」
だから少年はあどけなく、無垢に、希望を抱いたのだった。
「……ぼくも、ピアノを上手に弾けたら、アスライトにあえるかな……?」
クレイは、その竜の名を名乗ることを許されている。
その竜に加護を賜ったのだと皆が言って、それを理由に敬ってくれる。
王子の学友に選ばれて、エリックと親しく話す許可を貰った。
「ティーリー、友達ができたよ」
エリックは当たり前のように名を呼んだ。
呼べばそれが来る。それが空気のように自然なのだという声で、笑顔で呼んだ。
――そして、竜は現れた。
どんな色でも汚せないような真っ白な綺麗な竜が。
世界中の何物より綺麗な心を持っていると思わせる澄んだ青い瞳の竜が。
優しく、慈愛に満ちて、全身でエリックを守っている気配を漂わせる――そんな絶対的な守護竜、ティーリーが。
「我の大切な、愛するエリック王子」
そうエリックを大切そうに呼んで、エリックが「いつもそうしている」といった風情でその竜躰に無邪気に抱き着いて、甘えた。
「クレイ、アスライトにもあってみたいな。呼んでよ」
当たり前のようにエリックが求めた。
その姿が何人もの人に変わっていく。
ある時は、父。
ある時は、教師。
ある時は、医師。
ある時は、騎士――、
「……守護竜を呼べるのは、貴方様しかいないのです」
必死な声で縋ってきたフィニックス・キーリング。
すごすごと帰っていくその背中。
期待――落胆。失望。無力感。
彼らの気持ちがよくわかる。期待をして、がっかりする感覚を誰より知っていた。
その名を呼んでも来ないとわかりきっているから、その名を呼ぶことをやめてしまった。
呼んでこなかったときの静寂がいつも心の中に蘇るから。
◇◇◇
音楽室の戸を開けると、思っていた通り――そこには少年がいた。
ピアノの前で、音と戯れるのにも疲れたといった風情で鍵盤蓋を閉じてその上に突っ伏すようにして、クレイが眠っていた。
少女は、少年の傍にそおっと近寄った。
起きている、気付いている。
そう感じたけれど、ネネツィカは椅子をよいしょと運んで、隣に並べて座った。
無言のまま鍵盤蓋の端に肘をついて頬杖をつき『寝顔』を見つめていると、気まずいのか恥ずかしいのか、頬に赤みが差していく。
繊細な睫毛が落とした陰に薄っすらと隈めいた影が視えたから、寝不足かしらと呟いてみた。
「……割と、そう」
少年がむすっとした感じで返事をする。
「お布団にぬくぬくくるまって眠ったほうが、気持ちいいんじゃなくて?」
真剣な声色でそっと提案すれば、眉が寄った。指先でつついてみたいと思いながら、ネネツィカはくすっと笑った。
「まあ、お休みになっていても構わなくてよ。アタクシ、ちょっと今からここでひと騒ぎしますけれど」
少女がひょこりと仔うさぎみたいに椅子から降りて、窓辺に寄る。
危ないよと思わず言いそうになったのは、自分が先程落とされかけたからだろうか。クレイは寝たふりをするのをやめて、立ち上がった。
「何を――」
するの、と言いかけた言葉が途切れて、目が丸くなる。
窓の外に召喚され、巨体を起こす岩の集合体――ゴーレム。
「ゴレ男くんもたまには伸び伸び羽を伸ばしたいって言ってましたの」
陽だまりに咲く満開の花みたいに少女が笑みを咲かせ、手を差し伸べた。
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