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誠意の実る日
しおりを挟むその日、空は高く晴れていた。秋の夕暮れが始まりかけた午後四時、綾音は五日前にも訪れた銀座の裏路地にある小さなクリニックの再診を受けた。
受付で予約名を伝えると、即座に個室へと案内される。そこは内科兼カウンセリングを行う医師のもと、江口の手配により準備された“簡易健康確認プログラム”の一環だった。
「血圧、体温、アルコール検査、それと簡単な尿検査です。怖くないですよ、念のための確認ですから」若い女性医師が微笑みながら言う。その優しい声に、綾音はわずかに表情を緩めた。
──形式じゃなくて、これは“自分の意思”を守るための確認。
五日前に実施された性感染症を含む主要な検査の結果と、当日再確認された健康状態をもとに、医師から手渡されたのは「接触予定に伴う健診記録書」。項目ごとに“問題なし”と明記されていた。
同時刻、江口もまた五日前と同じ提携クリニックを再訪し、当日の状態確認を受けていた
「お互い、異常なし……だったね」
「うん。先生、びっくりしてた。こんな健診初めてだって」
二人は笑い合った。
________________________________________
午後五時。江口は、まずラウンジ「Aube」へと向かった。
その夜の同伴は、あくまでこれまでと同じ形式だった。仕事終わりの綾音を迎えに行き、まずは彼女の店でふたりの時間を過ごす──それが、アフターという名の次の提案への自然な導線だった。
「いらっしゃいませ。ご予約、承っております」
受付スタッフの案内に従って奥のテーブルに着いた江口のもとへ、ほどなくして綾音が現れた。「こんばんは、悠真さん。お変わりなかったですか?」 「うん。今日が来るの、ずっと緊張してた」 「私も……ちょっとだけ、いつもより気をつけて髪まとめてみたの」
いつものように笑う綾音。だが、その声の奥には、これから始まる何かへの決意がにじんでいた。
ボトルは以前入れたウイスキー。炭酸とカットレモンで、軽く割るのが彼の好みだった。綾音がそれを正確に再現してテーブルへ置く。
「……じゃあ、乾杯しましょうか。ここまで来た、私たちに」 「うん、ありがとう」
グラスが静かに触れ合い、ふたりの空間がゆるやかに閉じられた。
会話は穏やかに、いつものように流れていった。だが、どこかでお互い、いつもとは違う“時刻表”を心の中に持っていた。
小一時間ほどが過ぎた頃、綾音が席を立った。
「そろそろ、行きましょうか。……次の場所へ」
「うん」
江口が伝票をサインし、店を出る。
タクシーに乗り込む前に、綾音は小さく息を吸って言った。
「ちゃんと届いたよ、あの手紙。読んで、安心した」
綾音が先に口を開いた。
江口は真顔で、静かに頷いた。
「形式ばってるって思われたかもって、心配だった」
「ううん。むしろ、私の“選ぶ責任”まで渡してくれた。ちゃんと考える時間をくれたって、思った」
江口はほっとしたように笑い、言葉を続けた。
「じゃあ、今日、改めて提案してもいいかな」
綾音は静かに頷いた。
「うん。もう、覚悟はできてる。この時間を、忘れないようにしたいの。どんなふうに終わっても」
「忘れないよ。僕も」
ふたりを乗せたタクシーは、夜の銀座を抜けて、ホテルへと向かっていった。
──そして、静かに記録される夜が、始まろうとしていた。
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