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一章 夕凪モラトリアム
5-3
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「……なあ、」
前方に大きな水槽が見える。桟橋を抜け、幾つも並ぶ外水槽には、ペンギンがぷかぷかと水面を泳いでいる。
足早に水槽の脇を抜けようとした友哉の後ろから、声が掛けられる。
「なあ!」
友哉は立ち止まらない。立ち止まれない。
胸の内に沸き上がるどす黒い奔流を、認めたくなくて、知られたくなくて、顔を伏せたままずんずんと水槽の奥へ、奥へ。
「なあ、……待てって、友哉!」
手を振り解かれ、友哉は立ち止まった。
名を呼ばれた。初めて呼ぶのがこんなタイミングでなくても良いじゃないか。
思いながら重い息を吐き、友哉は恐る恐る振り返る。友哉の背後の凪は、怒ってはいないようだった。只、困惑が青の瞳を揺らしている。
「今、名前呼んだ? 凪が呼んでくれるとか何か感動なんだけど。野良猫が懐いたみたいな」
「真壁、茶化すな」
どうやらもう呼んではくれないらしい。
いつもの悪癖でへらへらやり過ごそうとした友哉は、困って視線を彷徨わせた。屋外の水槽の中で、ペンギンがざぶんと水に飛び込む。燦々と降り注ぐ日差しに友哉の額を汗が覆っていた。
ペンギンのように水中に潜れたらどれだけ気持ちが良いだろう。現実逃避でフンボルトペンギンの水中水泳に目をやる友哉に、凪はずいと迫って来た。
「なあ、さっきの……何?」
「何って、何が」
「誤魔化すなって……何であんたが、俺の父親に怒ってんだよ」
「別に、怒った訳じゃ……」
ずいずいと迫る凪は、友哉の一歩前で立ち止まる。上目遣いでじっと見つめられ、友哉は返事に窮した。凪の顔には弱い。初めて会った時から、この美しい顔立ちからは逃れられないのだと、改めて理解させられる。
「怒ってた……のか、俺」
「そう見えたが。無自覚か?」
「いや、怒ってはいたんだけど、多分……」
「何だそのあやふやは。家族ごっことか、結構なこと言っていたじゃないか」
「うわ、蒸し返すな恥ずかしい」
友哉は両手で顔を覆った。思い出すと身悶えしそうになる。何だその決め台詞は。しかも当事者ですらないのに、わざわざ臭い嫌味を言うなどと。
うあー、と声にならない声で呻く友哉の前で、凪はくっ、と喉を鳴らした。
「……凪?」
「っはは、は、見たかさっきのあの人の顔! 家族ごっこって言われて、むちゃくちゃキレてんのに、自分が後ろ暗いことしてる自覚あるから、キレも出来なくて」
声を上げてくしゃりと凪は破顔する。直ぐに男に背を向けた友哉は気付かなかったが、言い捨てられた父親の顔を凪はしっかりと見ていたらしい。
「っはは、傑作だ。余りに滑稽だったから、その場で笑わない方が難しかったよ」
「いいのかよ……父親に」
「父親じゃないだろ、あれは」
辛辣に凪は笑う。友哉のようなもやもやした憤りではなく、実にあっけらかんと。どうやらほぼ初対面の父親の顔を見て、吹っ切れたらしい。何なのだそれは、ちくちく嫌味を言っていた自分が馬鹿みたいではないか。
「まあ、凪がそれでいいならいいんですけどー。……何かおれ、恥ずかしいし格好悪いし、どうすればいい?」
「いや、真壁がキレてたから俺も冷静になれたというか」
「それ余計恥ずかしいって! 何だよもう、こんなつもりじゃねえのに……」
友哉はがりがりと後頭部を掻いた。じりじりと陽が肌を焼く。屋外水槽の脇で立ち止まる友哉と凪の横を、カップルや家族連れが通り過ぎて行った。この先のドームで間もなく始まる、イルカショーでも見に行くのだろう。
凪が、ふっと笑った。先程までとは違う、柔らかく、痛みを堪えたような、泣く寸前のような表情で。
「あんたさ……案外、臆病だよな。全部流すし、こっちから行くと絶対引くし」
「……そんなことは、ない、けど」
「それなのに、時々こうやって……優しいから」
優しいつもりなどなかった。友哉は唇を噛む。凪の父親に腹を立てたのは友哉の身勝手な感情だ。優しさなどではない。寧ろそんなものとは対極の、どろどろとした、度し難い奔流が身の内に溢れ、御しきれなかっただけだ。
――凪が自分だけを見ていればいい。
友哉は確かにあの時、そう思ったのだ。
幼げになる凪の顔を見ていられず、友哉は顔を逸らす。荒れた胸の内など知らず、ペンギンが優雅に羽繕いをしている。
「あんたが時々、そうやって……優しいから、だから俺は、……期待してしまう」
何を、などと聞き返す程には友哉も無粋ではなかった。かといって応じられるものではない。
友達を作らないのも、いつかの離れを恐れているからだ。心を近付けてしまえば、別れが辛くなるから。ましてやそれ以上の関係性など望むべくもない。
凪は友哉を臆病と言った。確かにそうだった。凪に惹かれる自分を知っていた。だからこそ、深入りをしないように、誤魔化して、冗談で包んで――いつ離れても辛くならないように。
けれど凪は行ってしまう。友哉より先にこの地を離れてしまう。ならば尚のこと、これ以上を望むなんて出来る訳がない。
そんなことは凪も分かっていると思っていたのに、こうして踏み込んで来るなんて、卑怯なんじゃないか。ぐっと奥歯を噛み締め友哉は思う。多分に他責が過ぎている自覚はある。
「何だよ、凪ちゃん、人肌でも恋しいの?」
「また、そういう……いいよもう、あんたのそういう性分も、慣れた。……もう一々傷ついてはやらないし、諦めてもやらない」
混ぜっ返す友哉には取り合わず、凪は緩く首を振った。そう流されるとそれはそれで困ってしまう。
閉口する友哉の肩を、凪がぽんと叩いた。
「別に、あんたに変わって貰おうとは思ってないから、あんまり気にすんなよ。ほら、席取りに行くぞ」
友哉を促し、凪はドームの方へと足を向ける。
父親の件が吹っ切れたからだろうか。凪の足取りは何処か晴れ晴れとしていた。
陽光が目に突き刺さり眩しい。目を眇めた友哉は、一歩遅れて凪の後に着いて行く。ざわざわと胸の奥が騒がしい。このままではいけないのは分かっているのに、奥底に染み着いた性分が真面目に向き合うことを許さない。
ちらりとこちらに視線を寄越す凪の、横顔は相変わらず美しくて、友哉は直視出来ずに俯いたまま追う。視界に映る白く細い手のひらを、握ることはもう出来そうにない。
前方に大きな水槽が見える。桟橋を抜け、幾つも並ぶ外水槽には、ペンギンがぷかぷかと水面を泳いでいる。
足早に水槽の脇を抜けようとした友哉の後ろから、声が掛けられる。
「なあ!」
友哉は立ち止まらない。立ち止まれない。
胸の内に沸き上がるどす黒い奔流を、認めたくなくて、知られたくなくて、顔を伏せたままずんずんと水槽の奥へ、奥へ。
「なあ、……待てって、友哉!」
手を振り解かれ、友哉は立ち止まった。
名を呼ばれた。初めて呼ぶのがこんなタイミングでなくても良いじゃないか。
思いながら重い息を吐き、友哉は恐る恐る振り返る。友哉の背後の凪は、怒ってはいないようだった。只、困惑が青の瞳を揺らしている。
「今、名前呼んだ? 凪が呼んでくれるとか何か感動なんだけど。野良猫が懐いたみたいな」
「真壁、茶化すな」
どうやらもう呼んではくれないらしい。
いつもの悪癖でへらへらやり過ごそうとした友哉は、困って視線を彷徨わせた。屋外の水槽の中で、ペンギンがざぶんと水に飛び込む。燦々と降り注ぐ日差しに友哉の額を汗が覆っていた。
ペンギンのように水中に潜れたらどれだけ気持ちが良いだろう。現実逃避でフンボルトペンギンの水中水泳に目をやる友哉に、凪はずいと迫って来た。
「なあ、さっきの……何?」
「何って、何が」
「誤魔化すなって……何であんたが、俺の父親に怒ってんだよ」
「別に、怒った訳じゃ……」
ずいずいと迫る凪は、友哉の一歩前で立ち止まる。上目遣いでじっと見つめられ、友哉は返事に窮した。凪の顔には弱い。初めて会った時から、この美しい顔立ちからは逃れられないのだと、改めて理解させられる。
「怒ってた……のか、俺」
「そう見えたが。無自覚か?」
「いや、怒ってはいたんだけど、多分……」
「何だそのあやふやは。家族ごっことか、結構なこと言っていたじゃないか」
「うわ、蒸し返すな恥ずかしい」
友哉は両手で顔を覆った。思い出すと身悶えしそうになる。何だその決め台詞は。しかも当事者ですらないのに、わざわざ臭い嫌味を言うなどと。
うあー、と声にならない声で呻く友哉の前で、凪はくっ、と喉を鳴らした。
「……凪?」
「っはは、は、見たかさっきのあの人の顔! 家族ごっこって言われて、むちゃくちゃキレてんのに、自分が後ろ暗いことしてる自覚あるから、キレも出来なくて」
声を上げてくしゃりと凪は破顔する。直ぐに男に背を向けた友哉は気付かなかったが、言い捨てられた父親の顔を凪はしっかりと見ていたらしい。
「っはは、傑作だ。余りに滑稽だったから、その場で笑わない方が難しかったよ」
「いいのかよ……父親に」
「父親じゃないだろ、あれは」
辛辣に凪は笑う。友哉のようなもやもやした憤りではなく、実にあっけらかんと。どうやらほぼ初対面の父親の顔を見て、吹っ切れたらしい。何なのだそれは、ちくちく嫌味を言っていた自分が馬鹿みたいではないか。
「まあ、凪がそれでいいならいいんですけどー。……何かおれ、恥ずかしいし格好悪いし、どうすればいい?」
「いや、真壁がキレてたから俺も冷静になれたというか」
「それ余計恥ずかしいって! 何だよもう、こんなつもりじゃねえのに……」
友哉はがりがりと後頭部を掻いた。じりじりと陽が肌を焼く。屋外水槽の脇で立ち止まる友哉と凪の横を、カップルや家族連れが通り過ぎて行った。この先のドームで間もなく始まる、イルカショーでも見に行くのだろう。
凪が、ふっと笑った。先程までとは違う、柔らかく、痛みを堪えたような、泣く寸前のような表情で。
「あんたさ……案外、臆病だよな。全部流すし、こっちから行くと絶対引くし」
「……そんなことは、ない、けど」
「それなのに、時々こうやって……優しいから」
優しいつもりなどなかった。友哉は唇を噛む。凪の父親に腹を立てたのは友哉の身勝手な感情だ。優しさなどではない。寧ろそんなものとは対極の、どろどろとした、度し難い奔流が身の内に溢れ、御しきれなかっただけだ。
――凪が自分だけを見ていればいい。
友哉は確かにあの時、そう思ったのだ。
幼げになる凪の顔を見ていられず、友哉は顔を逸らす。荒れた胸の内など知らず、ペンギンが優雅に羽繕いをしている。
「あんたが時々、そうやって……優しいから、だから俺は、……期待してしまう」
何を、などと聞き返す程には友哉も無粋ではなかった。かといって応じられるものではない。
友達を作らないのも、いつかの離れを恐れているからだ。心を近付けてしまえば、別れが辛くなるから。ましてやそれ以上の関係性など望むべくもない。
凪は友哉を臆病と言った。確かにそうだった。凪に惹かれる自分を知っていた。だからこそ、深入りをしないように、誤魔化して、冗談で包んで――いつ離れても辛くならないように。
けれど凪は行ってしまう。友哉より先にこの地を離れてしまう。ならば尚のこと、これ以上を望むなんて出来る訳がない。
そんなことは凪も分かっていると思っていたのに、こうして踏み込んで来るなんて、卑怯なんじゃないか。ぐっと奥歯を噛み締め友哉は思う。多分に他責が過ぎている自覚はある。
「何だよ、凪ちゃん、人肌でも恋しいの?」
「また、そういう……いいよもう、あんたのそういう性分も、慣れた。……もう一々傷ついてはやらないし、諦めてもやらない」
混ぜっ返す友哉には取り合わず、凪は緩く首を振った。そう流されるとそれはそれで困ってしまう。
閉口する友哉の肩を、凪がぽんと叩いた。
「別に、あんたに変わって貰おうとは思ってないから、あんまり気にすんなよ。ほら、席取りに行くぞ」
友哉を促し、凪はドームの方へと足を向ける。
父親の件が吹っ切れたからだろうか。凪の足取りは何処か晴れ晴れとしていた。
陽光が目に突き刺さり眩しい。目を眇めた友哉は、一歩遅れて凪の後に着いて行く。ざわざわと胸の奥が騒がしい。このままではいけないのは分かっているのに、奥底に染み着いた性分が真面目に向き合うことを許さない。
ちらりとこちらに視線を寄越す凪の、横顔は相変わらず美しくて、友哉は直視出来ずに俯いたまま追う。視界に映る白く細い手のひらを、握ることはもう出来そうにない。
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