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31.チョコ
しおりを挟む「ねぇ、変じゃない? 急にこんなの」
「ご夫婦の寝室でお休みになるのですから、このぐらい普通ですよ」
マイナのナイトドレスは、着ているほうが全裸よりも淫らといえるものから、月の障りの日にまとう厚手のズボン付きのものまで、様々な品をべイエレン公爵夫人から託されている。
つまり、全てはニコ次第なのである。
意図的に、恥じらうマイナがギリギリ抵抗しないような裾の長いドレスを選んだ。
しかし、リボンを解けばあっという間に裸という仕様だ。
(私を散々笑ったことを後悔するがいいわ)
ニコは怒っていた。
ヨアンと馬に乗ることになったことについては、マイナの現状を思えば許せた。
二人きりになる必要があることも理解できる。
昔から高いところが苦手で、それを隠してきた身としては悔しさは感じるところだが許せる。
ヨアンやマイナにバレたところで、という感じだ。
(あんのクソ旦那め、笑いやがって)
ただでさえ高くて怖かったのに、気難しいセラフィーナに降りるときに威嚇されてしまい、さらに怖い思いをした。
ヨアンがすぐ間に入ってセラフィーナを押さえてくれたけれど、震えていた足はさらに震えて歩けなくなってしまった。
そこをレイに見られてしまったのだ。
(不覚だったわ。ヨアンに抱えられているのが恥ずかしくて、到着してすぐヨアンに降ろせと言ってしまったせいね。もう少しセラフィーナから距離をあけた場所で降ろしてもらえばよかった)
ヨアンには自分のせいだと眉を下げて謝られた。
屋敷の中にいた使用人たちもヨアンが事情を説明してくれて、皆セラフィーナの気難しさを知っているから、むしろ気の毒がられた。
それなのに。
レイはニコの震えながら強がる姿がツボに入ったらしく、堪えようとすればするほど肩を震わせていた。
(絶対許さない!!)
マイナを夫婦の寝室に送り出し、明日の準備をする前に夕食を食べようと食堂へ向かった。
まだ使用人たちが食事をとっている時間だ。
今日のまかないは何だろうと考えながら歩いていると、後ろからエラルドに話しかけられた。
「ニコ、ちょっと談話室で話せるかな?」
「かしこまりました」
またご飯を食べそびれてしまうかも。
ガッカリしながらエラルドの後を追った。
談話室は業務連絡を行ったりする場所で、内緒ではないけれど人がいるときに話すには差し支えがあある、というようなときに使用される。
椅子とテーブルのみの簡素な部屋で、扉には大きな窓があり、中の様子が外からうかがえる。
男女の使用人が使っても、変な噂を立てられたりしないよう配慮されている部屋だ。
「忙しい時間に悪いね、夕食まだだよね?」
「はい。大丈夫です」
「手短に話すね」
エラルドの普段より砕けた口調に、ニコの警戒心が少し薄れた。
「今日のレイさまの態度をお詫びするよ。申し訳なかった」
「いえ。私も使用人らしからぬ言葉遣いをいたしました。申し訳ございません」
頭を下げたニコに、エラルドは驚いた顔をして、黒縁眼鏡をくいっと指で押し上げていた。
目が細くて鋭く、顔が小さい。
痩身で神経質そうに見えるので黙っていると怖いけれど、案外気さくなのかもしれない。
「大旦那さまについて、ニコはどのぐらい知ってる?」
「ほとんど存じ上げません」
「そっか。じゃあ、その辺りから話すよ」
「よろしくお願いします」
エラルドの話は衝撃的だった。
クソ旦那を再び旦那さまとお呼びしたくなるぐらい、大旦那さまは酷かった。
レイがマイナを大切にしていることをより理解できた。
マイナには言わないほうがいいと言われたが、そんなこと言われなくとも言えやしない。
ショックを受けるニコに、エラルドが「そんな顔もするんだね」と苦笑していたぐらいだ。
「それでね。レイさまは今日、奥さまがご実家に帰られたことを知って、離婚を突き付けられるとまで思い込んでいたらしくて」
「極端ですね? どういうことでしょう?」
「閨を先延ばしにしたせいで、奥さまが自信を無くしてしまったのだと思われたようで。レイさまもそのぐらい奥さまに対して余裕がないんだよね」
「それは……気付きませんでした」
「うん。勘違いだった気付いてホッとしたのもあるんだとは思うけど、レイさまも気を抜いてしまったのかな……それでも、さっきの態度は酷いよね。申し訳なかったね」
「いえ、そのことはもう……仕返しもしちゃいましたし」
「仕返し?」
マイナに閨用のナイトドレスを着せて夫婦の寝室に送り出したことを白状した。
レイからの指示だとしても、エラルドがニコに謝罪する必要は本来ならないのだ。
それなのに自分の時間を使ってまで事情を説明してくれた。
ニコも誠実に対応したいと思えた。
「ぷっ、いいね。俺はそういう仕返しは好きだよ」
「……すみません」
「そもそも、それで二人が盛り上がっちゃって、明日の遊園地が延期になったところで、何の支障もないから安心していいよ」
「そうでしょうか?」
だんだん不安になってくる。
マイナは明日の遊園地行きを楽しみにしているのだ。
そもそも、あれだけ一緒に寝ていて何もなかったのだから、心配する必要はないのかもしれないけれど。
「むしろ、さっさと済ませてくれないかなって、俺なんかはちょっと思ってるんだけどね」
「それは……はい……」
どうあろうと、二人がいまだにいたしてないということが、この屋敷の緊張感を高めていることは確かだろう。
外に漏らすなというレイの目も怖い。
怯えている使用人がいないわけではない。
(言われなくとも漏らす気がない人は堂々としているのだから、怯える人には何かやましいことがあるのかもしれないけど)
「ニコとヨアンはこの屋敷に来てまだ日が浅いのに、皆と上手くやってくれて助かってるよ」
エラルドの不意打ちのような誉め言葉に、思わず頬が熱くなる。
奥さまに付いてきた侍女が婚家で上手くやれないなど、あってはならないことなので当然だと思っていたのだが。
「ヨアンを含めて、俺たちはレイさまと奥さまの幸せを願ってる運命共同体みたいなものだから、今後も情報共有しながら協力してやっていきたいって思ってるんだけど、どう?」
「もちろんです!! よろしくお願いしたします」
ニコが深々と頭を下げるとエラルドは満足そうに頷いて、鞄からオレンジ色のリボンのかかった茶色い箱を出した。
「いま王都で一番流行ってるチョコだって。二つ買ったから一つあげるよ」
「えっ、これって!?」
金色の文字で店名の入った綺麗な箱を凝視した。
並んだのに買えなかったという話もよく聞く店のチョコだ。
「知ってる?」
「もちろんです。すごく高いのに、すぐ売り切れになっちゃうやつです」
「そうなんだ? ちょっと伝手があっただけで、並んで買ったわけじゃないから気にしないで食べてよ」
「ありがとうございます」
ニコはこの屋敷に来てからほとんど休みがないので私的な買い物ができていない。
ずっと気になっていたチョコに、ニコの心は踊った。
(今日のお出かけも、本屋とカフェだったし)
ヨアンとは気心が知れているから、言えばチョコぐらい買いには行けたけど。
マイナのことが気になってしまい、それどころではなかった。
ここのところずっと浮き沈みを繰り返していたマイナが心配だったから目を離したくなかったのだ。
私的な買い物をしようなどと思える状況ではなかった。
(だからすごく嬉しい!!)
「…………喜んでもらえてよかったよ」
(ん?)
理路整然と淀みなく話すエラルドにしては珍しい間があり、ニコは小首を傾げた。
「あと、これは提案なんだけどね。奥さまの侍女か専属メイドがもう一人必要じゃないかと思うんだけど、どう?」
「それは……」
本音を言えば嫌だ。
マイナをずっと見てきたのはニコだという気持ちがどうしても出てきてしまう。
「ニコが筆頭なのは変わりはないんだけど、この屋敷に来てからほとんど休んでないでしょ? 労働環境としてはよくないよね。ヨアンより休んでないよ?」
「……そう、ですね」
「レイさまも気にしてるし、ニコが安心して仕事を任せられるような人物じゃなければ雇っても意味がないから、べイエレン公爵家から来てもらってもいいし。ちょっと考えておいて?」
「……わかりました」
「そんな不安そうな顔しなくて大丈夫だよ。レイさまも、ニコが嫌がるんじゃないかって気にしてたから。悪いようにはしないと思うよ」
向かい側からエラルドの手が伸びてきて、ニコの頭をポンポンと宥めるように叩いた。
思わず頭に手を当てながら、戻っていくエラルドの手を眺めていた。
「……ヨアンが、迎えに来たみたいだよ」
エラルドが扉を指さすのでそちらを向くと、窓に張り付くようにしてヨアンがこちらを見ていた。
「こわっ」
「ニコのことが心配なんだね」
「あんなに顔をくっつけたら窓が汚れちゃうのに」
全くダメな男である。
溜息をついたニコに、エラルドは「じゃあ、遅くまでごめんね」と言って立ち上がった。
その背を見送りながら、手にしたチョコの箱に思わず微笑んでしまう。
「ニコ、何を話してたの?」
「……仕事の話よ」
「ふうん……まぁいいや、早くご飯行こう? 終わっちゃうよ?」
「その前に、窓拭いて?」
「わかったー」
くしゃくしゃのハンカチを取り出して窓を拭いているヨアンは、頼りになるのかならないのかわからない。
護衛としては最高であることは間違いないのだが。
(エラルドさんて目つきは怖いけど、仕事ができるし、気遣いできるし、かっこいいなぁ)
チョコの箱を胸に抱き、思いにふけるニコであった。
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