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第一章
二人寄り添って 2
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透との出会い方は、隆文にとって衝撃が大きすぎて、彼の中での大事件となっている。
五年前の春の日、隆文は当直からの通常勤務を終えてぐったりしながら帰宅していた。当直の前日も言わずもがな通常勤務であり、この三日間で緊急オペだけでもかなりの数をこなしていた。
毎年、気付けばいつの間にか桜は散っているせいか、何となく桜でも見ながら帰るか、と回らない頭は考えはじめていた。それが、結果的に良い判断であったことを、この時の隆文はまだ知らないでいた。
少し遠回りになるため、いつもは使わない大通りも、この時期は桜並木に変化する。けれども隆文は、結局のところ、桜の何を愛でればいいのかまでは、分からないままに歩き続けていた。
ふと、桜とは別の花の香りを感じた。確か、芍薬。華道を嗜む祖父が初夏になると好んで切り花にしていた。あまり花には詳しくないが、この香りは幼少の頃から嗅ぎ慣れていた。しかし、時期的にはかなりずれているものだった。けれども隆文は、その甘さに釣られて、香りの元を無意識に辿ってしまった。徹夜明けの身体だからだろうか、随分と浮ついていたような気がする。
隆文さんって芍薬のいい香りがする。
いつも長続きしたことはないが、これまでに付き合った女性からよく言われた。祖父が生ける芍薬の香りは知っていたが、その香りが自分からもすることには今でもぴんと来ていない。
沢山の桜の木が生え茂る中でも、足の赴くままに歩けば、すぐに香りの元へと行き着くことはできた。
「えっ・・・・」
目の前に広がる光景に、頭の中に垂れ込めていた霧もあっという間に消えた。
太い桜の木の幹にぐったりと横たわる青年。制服のブレザーを肩からブランケットのように掛けていた。一瞬昼寝でもしているのかと思ったが、今は夜だ。よく見れば、眉間に皺を寄せ、呼吸も荒く覚束ない。明らかに異常事態である。隆文は、既に彼から香る芍薬の匂いすら気にならなくなっていた。職業柄すぐに脈を取ると、まずその体温の高さに驚いた。酷い熱だ。
「きみ、大丈夫か?」
大丈夫ではないと分かりながらも、確認のため声をかける。ぴくりと瞼が震えて薄く持ち上がる。
「・・・・ぅん」
小さな返事が返ってくるが、しんどそうに再び目が閉じられる。
「つらいよな、今病院に連れて行くから少し頑張ってそこの道まで出ような。」
そう言って青年の身体を抱き抱えるために、左腕を自分の肩に回して、右の脇腹辺りに手を添えた時だった。隆文は更なる異常事態に気がついた。ドロッとした何かが右の掌に纏わりつく。あまりにも知りすぎた感触。慌てて青年の身体を確認する。
「・・・・まさか」
シャツを捲ったその身体には、夥しい数の虐待痕があった。古くなったものの上に重なる新しい傷。薄い切創もあれば、じゅくじゅくとした赤や紫の痣。しかし、それよりも重症なのは右の脇腹にある火傷と、その下にあるナイフで切りつけられたような傷。内臓を傷つけるほどの深いものではないが、まるでその傷を隠そうとするかのように付けられた火傷の痕が気になった。嫌な思考に走る。
「・・・・まって、けいさつ、よばないで、ぼく、だいじょうぶだから」
どこにそんな力が残っていたのか、青年は強い力で隆文の腕を抑えて必死に手元の携帯を取り上げようとする。
「落ち着け、大丈夫だ。警察は呼ばない。」
「じゃ、なんで、でんわ、どこにかける、の?」
それでも信用ならないのか、力を込めたまま訊ねてくる。
「あいにく体力が無くてね、きみを一人では運べないから友だちに手伝ってもらおうと思ったんだ。春が来たとは言えども、まだ夜は冷える。一日くらいはうちに泊まって暖を取ってくれ。」
本当は彼を持ち上げるくらい余裕だし、呼ぶのも友だちではなく救急車、泊まるのも家ではなく病院だ。ある意味、救急車も友だちだし、病院も自宅より居る場所だから最早自宅だ、という謎理論を導き出すくらいには焦っていた。
「・・・・わかった」
それでも青年がほっとして納得してくれたものだから、やっと自分自身も落ち着けた気がした。
再び、ふわりと感じた芍薬の香りに、胸が締め付けられた。
俺はこの子をどうしたい?
腕の中の熱い塊を、どうしようもなく愛してやりたいと思った。
五年前の春の日、隆文は当直からの通常勤務を終えてぐったりしながら帰宅していた。当直の前日も言わずもがな通常勤務であり、この三日間で緊急オペだけでもかなりの数をこなしていた。
毎年、気付けばいつの間にか桜は散っているせいか、何となく桜でも見ながら帰るか、と回らない頭は考えはじめていた。それが、結果的に良い判断であったことを、この時の隆文はまだ知らないでいた。
少し遠回りになるため、いつもは使わない大通りも、この時期は桜並木に変化する。けれども隆文は、結局のところ、桜の何を愛でればいいのかまでは、分からないままに歩き続けていた。
ふと、桜とは別の花の香りを感じた。確か、芍薬。華道を嗜む祖父が初夏になると好んで切り花にしていた。あまり花には詳しくないが、この香りは幼少の頃から嗅ぎ慣れていた。しかし、時期的にはかなりずれているものだった。けれども隆文は、その甘さに釣られて、香りの元を無意識に辿ってしまった。徹夜明けの身体だからだろうか、随分と浮ついていたような気がする。
隆文さんって芍薬のいい香りがする。
いつも長続きしたことはないが、これまでに付き合った女性からよく言われた。祖父が生ける芍薬の香りは知っていたが、その香りが自分からもすることには今でもぴんと来ていない。
沢山の桜の木が生え茂る中でも、足の赴くままに歩けば、すぐに香りの元へと行き着くことはできた。
「えっ・・・・」
目の前に広がる光景に、頭の中に垂れ込めていた霧もあっという間に消えた。
太い桜の木の幹にぐったりと横たわる青年。制服のブレザーを肩からブランケットのように掛けていた。一瞬昼寝でもしているのかと思ったが、今は夜だ。よく見れば、眉間に皺を寄せ、呼吸も荒く覚束ない。明らかに異常事態である。隆文は、既に彼から香る芍薬の匂いすら気にならなくなっていた。職業柄すぐに脈を取ると、まずその体温の高さに驚いた。酷い熱だ。
「きみ、大丈夫か?」
大丈夫ではないと分かりながらも、確認のため声をかける。ぴくりと瞼が震えて薄く持ち上がる。
「・・・・ぅん」
小さな返事が返ってくるが、しんどそうに再び目が閉じられる。
「つらいよな、今病院に連れて行くから少し頑張ってそこの道まで出ような。」
そう言って青年の身体を抱き抱えるために、左腕を自分の肩に回して、右の脇腹辺りに手を添えた時だった。隆文は更なる異常事態に気がついた。ドロッとした何かが右の掌に纏わりつく。あまりにも知りすぎた感触。慌てて青年の身体を確認する。
「・・・・まさか」
シャツを捲ったその身体には、夥しい数の虐待痕があった。古くなったものの上に重なる新しい傷。薄い切創もあれば、じゅくじゅくとした赤や紫の痣。しかし、それよりも重症なのは右の脇腹にある火傷と、その下にあるナイフで切りつけられたような傷。内臓を傷つけるほどの深いものではないが、まるでその傷を隠そうとするかのように付けられた火傷の痕が気になった。嫌な思考に走る。
「・・・・まって、けいさつ、よばないで、ぼく、だいじょうぶだから」
どこにそんな力が残っていたのか、青年は強い力で隆文の腕を抑えて必死に手元の携帯を取り上げようとする。
「落ち着け、大丈夫だ。警察は呼ばない。」
「じゃ、なんで、でんわ、どこにかける、の?」
それでも信用ならないのか、力を込めたまま訊ねてくる。
「あいにく体力が無くてね、きみを一人では運べないから友だちに手伝ってもらおうと思ったんだ。春が来たとは言えども、まだ夜は冷える。一日くらいはうちに泊まって暖を取ってくれ。」
本当は彼を持ち上げるくらい余裕だし、呼ぶのも友だちではなく救急車、泊まるのも家ではなく病院だ。ある意味、救急車も友だちだし、病院も自宅より居る場所だから最早自宅だ、という謎理論を導き出すくらいには焦っていた。
「・・・・わかった」
それでも青年がほっとして納得してくれたものだから、やっと自分自身も落ち着けた気がした。
再び、ふわりと感じた芍薬の香りに、胸が締め付けられた。
俺はこの子をどうしたい?
腕の中の熱い塊を、どうしようもなく愛してやりたいと思った。
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