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23 生徒会長は猫王子
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「また桂一くんは、藤乃ちゃんとお友達のお出かけについて行ったのね? 駄目よ、邪魔したら」
「水着を買いに行くなんて言うから、心配でさ」
夕飯を食べ終え、私と兄、母で囲む食卓。母は兄の答えに、微妙な表情を返す。
「相手の子からしてみたら、あまり知らない男の人である、桂一くんが付いてくるのも心配だったんじゃないかしら」
母は慧のことを、「ケイ」という名前の響きから、女生徒だと思っている。勘違いから生まれる心配を、「慧は男性」と言って否定する勇気がない。
もし万が一、「男性なら出かけるのは駄目」と言われたら?
今の私にとって、彼との時間はとても大切なものなのに、困る。
「大丈夫だよ。今日はその子の妹さんも来たから、僕が相手できてちょうど良かったんだ」
たしかに、兄は凛の面倒をよく見てくれた。私と彼女が打ち解けられたのも、その前に兄が親しくなり、凛の警戒を解いていたからだと思う。
「そうなの」
「そう……なら、いいんだけど」
私が兄の言葉を肯定すると、母は、渋々といった雰囲気で頷いた。
夜になると、ベッドの中で、本を読む。実のところこれは、私の日課と化していた。
悪役令嬢ものの本はとても面白くて、知識を活用し、活躍する主人公の生み出す、爽快な展開をつい追ってしまう。
この世界がゲームと同じだ。そのことに気づいたら、尚更、主人公と自分を重ねてしまう。
私は、ゲームでは脇役だ。
だけど、ゲームの知識を得つつある今、「悪役令嬢」みたいな行動ができるかもしれない。
実際に行動するかどうかはともかく、そんな気持ちによって、物語にいっそう没入できるようになってきた。
「お嬢様、最近楽しそうですね」
「……そうかしら?」
「ええ。学園に向かわれるとき、楽しげなお顔をされていますよ」
バックミラー越しに、山口と目が合う。
彼の観察眼は鋭いので、そう言うのなら、きっとそうなのだろう。
「山口にそう見えるのなら、きっと楽しいんだわ」
「おや、違いますか? 決めつけてしまいましたかね」
山口は柔らかく笑う。指先で、ハンドルを軽く叩く。トントン、という音も、柔らかで心落ち着く。
山口の観察眼は、鋭い。自分でも気づいていない今の気持ちを、指摘されることがよくある。
彼が楽しげだと言うのなら、私は楽しいのだ。言われてみれば、たしかに。
泉という友人もできた。
会長たちと話せるようになった。
身だしなみを気をつけるようになり、整える楽しさも知った。
そして何よりも楽しいのは、放課後、図書室で過ごす時間。
その全てが、慧との出会いをきっかけに生まれたもの。
ゲームの「私」と現実の私の決定的な違いを作った慧は、大きな存在だ。
「いいえ……山口の言う通り。最近、私、毎日が楽しいわ」
慧のおかげで。
山口は目を細め、「左様ですか」と微笑んだ。
「あ、おはよう、藤乃さん」
「アリサさん。……おはよう」
教室に入るなり声をかけられ、たじろいでしまう。アリサは、ただ挨拶をしただけのようで、にこっとすると私から視線を逸らした。
不思議だわ。
今まで、挨拶を交わす相手だって、いなかったのに。
「おはよう、藤乃さん」
「泉さん、おはよう」
不思議な気持ちを抱えたまま、すれ違いざまに、泉とも挨拶を交わす。
自分の席につき、鞄から荷物を取り出す。いつものルーティンだけれど、どこか心は穏やかだ。
話せる相手ができて初めて、私は思いの外、教室で肩身の狭い思いをしていたのだとわかった。
今はこうしていても、ずいぶんと肩が楽だ。
授業を落ち着いて受け、昼は屋上で食べる。
空に浮かぶ雲は、ずいぶんとふかふかしてきた。空は、抜けるような青。季節は春から、夏に移ろっている。
教室に戻り、午後の授業の予習をしていると、不意に廊下がざわめいた。教室に海斗たちが戻ってきたときのような、妙に浮ついた類のざわめきだ。
誰か来たのかな。
そんなことを思いながら、教科書の字を追う。その紙面に、急に影がかぶさった。
「……?」
「やあ、藤乃ちゃん」
見覚えのある顔。最近見たのは、ゲームの中で。
「……生徒会長さんじゃないですか」
どう呼んだらいいのか迷った挙句、そう口に出す。兄と一緒に生徒会に所属していた彼とは、中等部時代、何度か会話したことがある。
高等部に入ってからは、まともに話したことはなかったので、どんな調子で話したらいいのか、よくわからない。
「やめてよ、なにその、生徒会長さんって。他人行儀な」
一方彼は、ずいぶんと、くだけた調子で話しかけてくる。
「寂しいなあ。昔みたいに、樹くんって呼んでよ」
「いや……それは、さすがに。私も、高等部に入ったので」
「なにそれ、関係ないよね」
去る気のない彼は、私の側の机に寄りかかり、くしゃっとした笑みを浮かべた。
笑うと彼は、目がくしゃっと細くなる。その甘い笑顔が、なんとも猫に似て愛らしいのだ。その可愛らしさと、頭のキレのギャップで、彼は昔から、絶大な人気を誇っている。
生徒会長、神崎樹。ふわっとした癖っ毛と、その切れ長の目から、「猫王子」と一部から呼ばれている。
そんな彼は、例のゲームの、攻略対象のひとりである。
「それより、どうしたんですか?」
「え? 藤乃ちゃんさ、桂一先輩……お兄さんから、何も聞いてない?」
「兄から……?」
心当たりは何もない。私が首を横に振ると、樹は「そうなのかあ」とあからさまに肩を落とした。
「おれのところに、連絡が入ったんだよね。桂一先輩、今年の学外活動の様子を見たいって……このクラスの」
「ええ?」
兄が学外活動に同行するなんて、そんな話、ひと言も聞いていない。
「どういうことですか?」
「急な話だから、事情を聞きに来たんだけど、知らないんだね」
「……すみません。兄のわがままで」
兄のわがままが、樹を振り回す形になってしまったようだ。謝ると、樹は「いいんだ」と言って笑った。
「卒業生が行事を見にくること自体は、よくあるんだよ。伝統を守るためにね。ただ、急な話だったから」
「……すみません」
樹のフォローに、かえって胸が痛くなる。
「いいんだって。当日はおれも行くから、学級会長に言っといて」
会長が来るんだ。
私が思ったその瞬間、教室の喧騒がすっ、と一瞬引いた。皆、樹の言葉を聞いていたのだ。
「いらっしゃるんですか?」
「うん。誰かが案内しないといけないでしょ。最近、桂一先輩にも会えてないからさ。寂しいし、おれが行くよ」
兄のわがままで、休日に、生徒会長が出てくることになるなんて。
謝りの言葉ももう出なくて、私は俯く。
「なに、藤乃ちゃん、気にしてる? いいんだよ、気にしないで」
「……ありがとうございます」
申し訳なくて、御礼を絞り出す。樹はまたくしゃっと笑って、寄りかかっていた机から離れた。
「あ、でも呼び方は気にして。生徒会長さんじゃなくて、昔みたいに、樹くんって呼んでよ」
「昔って……初等部の頃ですよね」
彼を、そんな親しげに呼ぶことはできない。先ほどから教室は静かで、私たちの会話に注目が集まっているのがわかる。
海斗同様、樹も、かなりの人気者なのだ。
樹は「参ったなあ」とその癖毛をくしゃり、無造作に乱す。
「でも、会長さんは、さすがによしてよ。俺、夏休みが明けたら、会長の任期も終わるんだから」
樹は今、高等部の3年に属している。私の2つ上、慧の1つ上だ。
会長の任期は、年度半ばからの1年間。そろそろ終わる、という訳である。
「……なら、神崎先輩で」
「やだ。せめて、樹先輩って呼んで」
「……樹先輩」
私が呼ぶと、樹は嬉しそうに目を細めた。その表情の作り方が、やっぱり、猫的だ。
「じゃあ、言っといて、藤乃ちゃん」
「わかりました」
樹は片手を挙げ、ウインクを残して教室を出る。
「やあ、海斗くんたち」
「あれ、樹さん」
廊下に出たところで、戻ってきた海斗たちと会ったようだ。海斗と早苗、樹の声だけが聞こえてくる。
「どうされたんですか?」
「いや、ちょっとね」
海斗は生徒会の手伝いをしているし、海斗に誘われた早苗も同様だ。だから、樹とふたりは、親しいのだろう。
何やら盛り上がっている廊下の会話を聞き流しながら、私は辺りを見回した。
教室内に漂う、微妙な空気。間違いなくその原因は、先ほどの私と樹の会話だ。
高等部1年の、ごく普通の学外活動に、前生徒会長と、現生徒会長が来てしまう。とんでもない来賓に、どう対応していいのかわからないのだ。
ちょうど、教室に入ってきたアリサと目が合った。
「……あ」
「ん? 藤乃さん、どうしたの?」
私が何か言う前に、察してこちらへ来てくれる。こうした気配りが、彼女の人望の所以だ。
私はひと息つき、「樹先輩……生徒会長が、今度の学外活動を、見に来るって」と申し出る。
周囲からの視線を感じる。ここまでの流れを見ていた人たちが、アリサの反応に注目しているのだ。
アリサの表情は、一瞬硬直し、「ん?」と独り言のように声を上げる。そして、目を丸くし、「え?」と言った。
「あと、私の兄も」
「藤乃さんのお兄さん……って、桂一会長よね? 来る? 学外活動に?」
混乱している彼女は、額に指を押し当てて俯いた。
「そう……」
「そもそもの話は、私の兄から出たみたいで……」
樹から聞いた話を順を追って話すうち、アリサは顔を上げ、頷きながら聞き始めた。
「……ということで、兄の案内のために、樹先輩が来るそうよ」
「なるほどね」
冷静さを取り戻し、アリサは「決まったなら仕方がないか」と締めくくった。
「ちょうど良かったわ、藤乃さんに買い出しを手伝ってもらうことになってて。一応、不備がないか見てくれると助かるもの」
「力になれるかはわからないけれど」
「大丈夫よ」
アリサが笑うと、唇の間から、綺麗に並んだ歯が覗く。爽やかな笑顔が、心強い。
「ありがとう」
「こちらこそ。今週末は、よろしくね」
買い出しの予定は、今週末。アリサと改めて予定を確認し終えたところで、昼休みは終わった。
「桂一先輩が、学外活動に来るって?」
「そうなんです」
図書室で早速、慧に、兄のわがままを報告する。慧は、ふっと頬を緩めた。薄く浮かぶ、まるいえくぼ。
「それなら、俺も安心だ」
「え?」
意外な反応に聞き返すと、慧は「こっちの話だよ」と流した。
「続き、しようか」
カウンターの奥へ向かおうとする慧に、「待って」と声をかける。
実は私には、考えていたことがあるのだ。
「今日は、いいです」
「いいの? どうして?」
「この間凛ちゃんが、慧先輩は家で勉強している時間が増えたって、言っていたじゃないですか」
私といる時間が長いせいで、いつもなら学園内でしていた自習を、家に持ち越している。結果として、凛と過ごす時間が減っていて、彼女は腹を立てていた。
「そういえば、言っていたね」
「夏休み前には、テストもありますし……学外活動までのストーリーは把握したので、慧先輩と、一緒に勉強できたらと思って」
この提案は、凛のためでもあり。テスト前に勉強できるのは、慧のためでも、私のためでもある。
慧は、奥の部屋のドアノブに手をかけたまま、「そっか」と相槌を打った。
「俺はどっちでもいいけど、藤乃さんが言うなら、そうしようか」
「はい!」
それに、勉強時間が圧迫されたせいで、慧の成績に支障が出たら困る。
私は鞄から書類を取り出し、慧とカウンターに並んだ。
「こうして勉強するのも、久しぶりですね」
こうして並んで勉強するのは、ゲームをし始める前以来だ。
肘の触れ合う距離。慧の、いつもの甘く爽やかな香りがする。距離の近さを感じて、胸がせまくなる。
「そうだね。わからないことがあったら、聞いて」
慧はそう言うと、自分のノートに目を落とした。
静かな図書室に、ペンの走る音、ページをめくる音が響く。
どのくらい、集中していただろうか。気持ちが途切れた私は、ふと慧の方を見る。
ノートに並んだ、清潔そうな字。
意外と大きくて、ごつごつとした手が、滑らかにペンを操る。
真剣な横顔。
慧の目が、ノートから、こちらに向いた。至近距離で、目が合う。
「……っ」
私は、息を呑む。
見つめていたことが、ばれたこと。こんなに近くで、目が合ったこと。何が原因かわからないが、妙に胸がざわめく。
「……ど、どうしたの、藤乃さん」
慧も驚いたようで、一瞬視線を揺らしてから、そう問いかけてくる。
「いや、何でも……」
「そう? ……なら、いいけど。わからないところはある?」
「いえ、今のところは……」
慧が今まで教えてくれたやり方のおかげで、授業は、だいぶ理解できるようになってきた。
私が首を横に振ると、慧は柔らかく微笑み、またノートに視線を戻す。
何で今、変にどきどきしたんだろう。
私もまたノートに目を落とし、勉強に気持ちを戻す。集中していても、さっきの変な感覚が、ふとした瞬間に頭の片隅に顔を出す。
おかしいわ。
こめかみを軽く叩き、余計な思考を追い出す。その日は、閉館時間まで、互いに静かに勉強をしていた。
隣で、それぞれの勉強をする。
長い会話がなくても、慧が「またあした」と言ってくれるだけで、私の心には温かいものが宿った。
「水着を買いに行くなんて言うから、心配でさ」
夕飯を食べ終え、私と兄、母で囲む食卓。母は兄の答えに、微妙な表情を返す。
「相手の子からしてみたら、あまり知らない男の人である、桂一くんが付いてくるのも心配だったんじゃないかしら」
母は慧のことを、「ケイ」という名前の響きから、女生徒だと思っている。勘違いから生まれる心配を、「慧は男性」と言って否定する勇気がない。
もし万が一、「男性なら出かけるのは駄目」と言われたら?
今の私にとって、彼との時間はとても大切なものなのに、困る。
「大丈夫だよ。今日はその子の妹さんも来たから、僕が相手できてちょうど良かったんだ」
たしかに、兄は凛の面倒をよく見てくれた。私と彼女が打ち解けられたのも、その前に兄が親しくなり、凛の警戒を解いていたからだと思う。
「そうなの」
「そう……なら、いいんだけど」
私が兄の言葉を肯定すると、母は、渋々といった雰囲気で頷いた。
夜になると、ベッドの中で、本を読む。実のところこれは、私の日課と化していた。
悪役令嬢ものの本はとても面白くて、知識を活用し、活躍する主人公の生み出す、爽快な展開をつい追ってしまう。
この世界がゲームと同じだ。そのことに気づいたら、尚更、主人公と自分を重ねてしまう。
私は、ゲームでは脇役だ。
だけど、ゲームの知識を得つつある今、「悪役令嬢」みたいな行動ができるかもしれない。
実際に行動するかどうかはともかく、そんな気持ちによって、物語にいっそう没入できるようになってきた。
「お嬢様、最近楽しそうですね」
「……そうかしら?」
「ええ。学園に向かわれるとき、楽しげなお顔をされていますよ」
バックミラー越しに、山口と目が合う。
彼の観察眼は鋭いので、そう言うのなら、きっとそうなのだろう。
「山口にそう見えるのなら、きっと楽しいんだわ」
「おや、違いますか? 決めつけてしまいましたかね」
山口は柔らかく笑う。指先で、ハンドルを軽く叩く。トントン、という音も、柔らかで心落ち着く。
山口の観察眼は、鋭い。自分でも気づいていない今の気持ちを、指摘されることがよくある。
彼が楽しげだと言うのなら、私は楽しいのだ。言われてみれば、たしかに。
泉という友人もできた。
会長たちと話せるようになった。
身だしなみを気をつけるようになり、整える楽しさも知った。
そして何よりも楽しいのは、放課後、図書室で過ごす時間。
その全てが、慧との出会いをきっかけに生まれたもの。
ゲームの「私」と現実の私の決定的な違いを作った慧は、大きな存在だ。
「いいえ……山口の言う通り。最近、私、毎日が楽しいわ」
慧のおかげで。
山口は目を細め、「左様ですか」と微笑んだ。
「あ、おはよう、藤乃さん」
「アリサさん。……おはよう」
教室に入るなり声をかけられ、たじろいでしまう。アリサは、ただ挨拶をしただけのようで、にこっとすると私から視線を逸らした。
不思議だわ。
今まで、挨拶を交わす相手だって、いなかったのに。
「おはよう、藤乃さん」
「泉さん、おはよう」
不思議な気持ちを抱えたまま、すれ違いざまに、泉とも挨拶を交わす。
自分の席につき、鞄から荷物を取り出す。いつものルーティンだけれど、どこか心は穏やかだ。
話せる相手ができて初めて、私は思いの外、教室で肩身の狭い思いをしていたのだとわかった。
今はこうしていても、ずいぶんと肩が楽だ。
授業を落ち着いて受け、昼は屋上で食べる。
空に浮かぶ雲は、ずいぶんとふかふかしてきた。空は、抜けるような青。季節は春から、夏に移ろっている。
教室に戻り、午後の授業の予習をしていると、不意に廊下がざわめいた。教室に海斗たちが戻ってきたときのような、妙に浮ついた類のざわめきだ。
誰か来たのかな。
そんなことを思いながら、教科書の字を追う。その紙面に、急に影がかぶさった。
「……?」
「やあ、藤乃ちゃん」
見覚えのある顔。最近見たのは、ゲームの中で。
「……生徒会長さんじゃないですか」
どう呼んだらいいのか迷った挙句、そう口に出す。兄と一緒に生徒会に所属していた彼とは、中等部時代、何度か会話したことがある。
高等部に入ってからは、まともに話したことはなかったので、どんな調子で話したらいいのか、よくわからない。
「やめてよ、なにその、生徒会長さんって。他人行儀な」
一方彼は、ずいぶんと、くだけた調子で話しかけてくる。
「寂しいなあ。昔みたいに、樹くんって呼んでよ」
「いや……それは、さすがに。私も、高等部に入ったので」
「なにそれ、関係ないよね」
去る気のない彼は、私の側の机に寄りかかり、くしゃっとした笑みを浮かべた。
笑うと彼は、目がくしゃっと細くなる。その甘い笑顔が、なんとも猫に似て愛らしいのだ。その可愛らしさと、頭のキレのギャップで、彼は昔から、絶大な人気を誇っている。
生徒会長、神崎樹。ふわっとした癖っ毛と、その切れ長の目から、「猫王子」と一部から呼ばれている。
そんな彼は、例のゲームの、攻略対象のひとりである。
「それより、どうしたんですか?」
「え? 藤乃ちゃんさ、桂一先輩……お兄さんから、何も聞いてない?」
「兄から……?」
心当たりは何もない。私が首を横に振ると、樹は「そうなのかあ」とあからさまに肩を落とした。
「おれのところに、連絡が入ったんだよね。桂一先輩、今年の学外活動の様子を見たいって……このクラスの」
「ええ?」
兄が学外活動に同行するなんて、そんな話、ひと言も聞いていない。
「どういうことですか?」
「急な話だから、事情を聞きに来たんだけど、知らないんだね」
「……すみません。兄のわがままで」
兄のわがままが、樹を振り回す形になってしまったようだ。謝ると、樹は「いいんだ」と言って笑った。
「卒業生が行事を見にくること自体は、よくあるんだよ。伝統を守るためにね。ただ、急な話だったから」
「……すみません」
樹のフォローに、かえって胸が痛くなる。
「いいんだって。当日はおれも行くから、学級会長に言っといて」
会長が来るんだ。
私が思ったその瞬間、教室の喧騒がすっ、と一瞬引いた。皆、樹の言葉を聞いていたのだ。
「いらっしゃるんですか?」
「うん。誰かが案内しないといけないでしょ。最近、桂一先輩にも会えてないからさ。寂しいし、おれが行くよ」
兄のわがままで、休日に、生徒会長が出てくることになるなんて。
謝りの言葉ももう出なくて、私は俯く。
「なに、藤乃ちゃん、気にしてる? いいんだよ、気にしないで」
「……ありがとうございます」
申し訳なくて、御礼を絞り出す。樹はまたくしゃっと笑って、寄りかかっていた机から離れた。
「あ、でも呼び方は気にして。生徒会長さんじゃなくて、昔みたいに、樹くんって呼んでよ」
「昔って……初等部の頃ですよね」
彼を、そんな親しげに呼ぶことはできない。先ほどから教室は静かで、私たちの会話に注目が集まっているのがわかる。
海斗同様、樹も、かなりの人気者なのだ。
樹は「参ったなあ」とその癖毛をくしゃり、無造作に乱す。
「でも、会長さんは、さすがによしてよ。俺、夏休みが明けたら、会長の任期も終わるんだから」
樹は今、高等部の3年に属している。私の2つ上、慧の1つ上だ。
会長の任期は、年度半ばからの1年間。そろそろ終わる、という訳である。
「……なら、神崎先輩で」
「やだ。せめて、樹先輩って呼んで」
「……樹先輩」
私が呼ぶと、樹は嬉しそうに目を細めた。その表情の作り方が、やっぱり、猫的だ。
「じゃあ、言っといて、藤乃ちゃん」
「わかりました」
樹は片手を挙げ、ウインクを残して教室を出る。
「やあ、海斗くんたち」
「あれ、樹さん」
廊下に出たところで、戻ってきた海斗たちと会ったようだ。海斗と早苗、樹の声だけが聞こえてくる。
「どうされたんですか?」
「いや、ちょっとね」
海斗は生徒会の手伝いをしているし、海斗に誘われた早苗も同様だ。だから、樹とふたりは、親しいのだろう。
何やら盛り上がっている廊下の会話を聞き流しながら、私は辺りを見回した。
教室内に漂う、微妙な空気。間違いなくその原因は、先ほどの私と樹の会話だ。
高等部1年の、ごく普通の学外活動に、前生徒会長と、現生徒会長が来てしまう。とんでもない来賓に、どう対応していいのかわからないのだ。
ちょうど、教室に入ってきたアリサと目が合った。
「……あ」
「ん? 藤乃さん、どうしたの?」
私が何か言う前に、察してこちらへ来てくれる。こうした気配りが、彼女の人望の所以だ。
私はひと息つき、「樹先輩……生徒会長が、今度の学外活動を、見に来るって」と申し出る。
周囲からの視線を感じる。ここまでの流れを見ていた人たちが、アリサの反応に注目しているのだ。
アリサの表情は、一瞬硬直し、「ん?」と独り言のように声を上げる。そして、目を丸くし、「え?」と言った。
「あと、私の兄も」
「藤乃さんのお兄さん……って、桂一会長よね? 来る? 学外活動に?」
混乱している彼女は、額に指を押し当てて俯いた。
「そう……」
「そもそもの話は、私の兄から出たみたいで……」
樹から聞いた話を順を追って話すうち、アリサは顔を上げ、頷きながら聞き始めた。
「……ということで、兄の案内のために、樹先輩が来るそうよ」
「なるほどね」
冷静さを取り戻し、アリサは「決まったなら仕方がないか」と締めくくった。
「ちょうど良かったわ、藤乃さんに買い出しを手伝ってもらうことになってて。一応、不備がないか見てくれると助かるもの」
「力になれるかはわからないけれど」
「大丈夫よ」
アリサが笑うと、唇の間から、綺麗に並んだ歯が覗く。爽やかな笑顔が、心強い。
「ありがとう」
「こちらこそ。今週末は、よろしくね」
買い出しの予定は、今週末。アリサと改めて予定を確認し終えたところで、昼休みは終わった。
「桂一先輩が、学外活動に来るって?」
「そうなんです」
図書室で早速、慧に、兄のわがままを報告する。慧は、ふっと頬を緩めた。薄く浮かぶ、まるいえくぼ。
「それなら、俺も安心だ」
「え?」
意外な反応に聞き返すと、慧は「こっちの話だよ」と流した。
「続き、しようか」
カウンターの奥へ向かおうとする慧に、「待って」と声をかける。
実は私には、考えていたことがあるのだ。
「今日は、いいです」
「いいの? どうして?」
「この間凛ちゃんが、慧先輩は家で勉強している時間が増えたって、言っていたじゃないですか」
私といる時間が長いせいで、いつもなら学園内でしていた自習を、家に持ち越している。結果として、凛と過ごす時間が減っていて、彼女は腹を立てていた。
「そういえば、言っていたね」
「夏休み前には、テストもありますし……学外活動までのストーリーは把握したので、慧先輩と、一緒に勉強できたらと思って」
この提案は、凛のためでもあり。テスト前に勉強できるのは、慧のためでも、私のためでもある。
慧は、奥の部屋のドアノブに手をかけたまま、「そっか」と相槌を打った。
「俺はどっちでもいいけど、藤乃さんが言うなら、そうしようか」
「はい!」
それに、勉強時間が圧迫されたせいで、慧の成績に支障が出たら困る。
私は鞄から書類を取り出し、慧とカウンターに並んだ。
「こうして勉強するのも、久しぶりですね」
こうして並んで勉強するのは、ゲームをし始める前以来だ。
肘の触れ合う距離。慧の、いつもの甘く爽やかな香りがする。距離の近さを感じて、胸がせまくなる。
「そうだね。わからないことがあったら、聞いて」
慧はそう言うと、自分のノートに目を落とした。
静かな図書室に、ペンの走る音、ページをめくる音が響く。
どのくらい、集中していただろうか。気持ちが途切れた私は、ふと慧の方を見る。
ノートに並んだ、清潔そうな字。
意外と大きくて、ごつごつとした手が、滑らかにペンを操る。
真剣な横顔。
慧の目が、ノートから、こちらに向いた。至近距離で、目が合う。
「……っ」
私は、息を呑む。
見つめていたことが、ばれたこと。こんなに近くで、目が合ったこと。何が原因かわからないが、妙に胸がざわめく。
「……ど、どうしたの、藤乃さん」
慧も驚いたようで、一瞬視線を揺らしてから、そう問いかけてくる。
「いや、何でも……」
「そう? ……なら、いいけど。わからないところはある?」
「いえ、今のところは……」
慧が今まで教えてくれたやり方のおかげで、授業は、だいぶ理解できるようになってきた。
私が首を横に振ると、慧は柔らかく微笑み、またノートに視線を戻す。
何で今、変にどきどきしたんだろう。
私もまたノートに目を落とし、勉強に気持ちを戻す。集中していても、さっきの変な感覚が、ふとした瞬間に頭の片隅に顔を出す。
おかしいわ。
こめかみを軽く叩き、余計な思考を追い出す。その日は、閉館時間まで、互いに静かに勉強をしていた。
隣で、それぞれの勉強をする。
長い会話がなくても、慧が「またあした」と言ってくれるだけで、私の心には温かいものが宿った。
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