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31 私たちのため
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「おや……寝不足ですか、お嬢様」
「そうなの」
山口の言う通り、私は昨日、よく眠れなかった。
「お勉強もほどほどになさってくださいね」
山口には、前にもそんなことを言われた気がする。今回も私は、特に勉強をしていたわけではない。
無理にでも、婚約の継続を望むのか。
それとも、このまま破棄するのか。
2択の答えを出さなければならない。そこまでわかったのは、良かった。
ただ、どちらを選ぶか決めるのは、難しいのだ。
そもそも、すぐ決まるものなら、とっくにどちらかを選んでいる。
「いってらっしゃいませ」
「行ってくるわ」
いつもの仕草を交わして、私は車を降りる。
射し込む朝日が、妙に眩しく感じる。頭はどこか鈍くて、確実に、寝不足だ。
頭がはっきりしないせいで、足取りも重い。しかも昨日は、それだけ考えた挙句に何の成果もなかったのだから、尚更だ。
「おはよう、アリサさん」
「おはよう、藤乃さん」
教室に入ると、近くにいるアリサに声をかける。彼女の笑顔は、朝から華やかだ。
私はきっと、くすんだ表情をしているに違いない。自分なりに笑顔で挨拶をして、自席に向かった。
「おはよう! 早苗さん、今日も可愛い髪型ね」
「そうかな? ありがとう、あなたもね」
始業が近付き、早苗と海斗が登校してくる。
その視線が、ちらりとこちらを向いた。瞬間、私の頭に、昨日のやりとりが一気に駆け巡る。
今日こそ、慧に話さなくちゃ。
私は思った。
早苗からの驚くべき申し出について、トラブルのせいで、私はまだ慧に伝えることすらできていないのだ。
授業が始まり、昼休みが過ぎ。
放課後を心待ちにしているとき、日中の時間は、驚くほどのんびり過ぎていった。1時間1時間が、妙に長く感じる。
「ご存知の方もいると思いますが、本校では夏休み明けに、文化祭があります」
午後のホームルーム。アリサが前に立ち、皆に説明をしている。
高等部では、夏休み明けの文化祭に向け、休み中に集まって準備をするらしい。
「夏休みはずっと休みじゃないんだ」
誰かの驚いたような呟きに、私も内心、同意する。
言われてみれば、兄は高等部の頃、夏休みもよく学園に出向いていた。生徒会長としての活動が忙しいのだと思っていたけれど、なるほど、違ったらしい。
「クラスで行う企画を、決めなければなりません。参考に、昨年のものをお配りしますね」
配られた資料には、昨年度の企画が一覧になっている。
「えー、楽しそう」
「お化け屋敷だって」
「浴衣喫茶? とかもある。何でもありなのね」
「飲食店が楽だろ」
資料を眺めながら、皆口々に感想を述べる。その表情は、楽しげだ。
学外活動といい、文化祭といい、こうした行事を控えた時のクラスの雰囲気は、わくわくが満ちている。
「次のホームルームのときに案を募るので、考えておいてください」
アリサがはっきりとそう締めくくり、漸く、長かった1日が終わった。
図書室に向かう道のりも、いつもと同じなのに、いつもより長く感じる。
こんなに慧に会いたいなんて、自分でもびっくりだ。
扉を開けると、いつもの重たい、埃っぽい図書室の空気。この重たい空気は嫌な感じではなく、むしろ、心が一気に落ち着く。
「藤乃さん。こんにちは」
慧はいつもの様子で、カウンターで作業をしていた。
1日しか空いていないのだから、その様子が、大きく変わるはずもない。
それなのに、いつもと同じであることに安心し、懐かしいと感じる。
私はカウンターの傍に荷物を置き、慧の隣の、定位置に並ぶ。
「慧先輩。昨日は、来られなくてすみませんでした」
「いや……心配はしたけど、謝らなくていいんだよ。藤乃さんにも、予定があるんだから」
微笑む彼の頬に、まるいえくぼ。いつもの笑顔だ。
「実は……早苗さんと、お茶をしていたんです」
「え。早苗さんって、あの、『主人公』の子だよね?」
慧が、こちらに顔を向ける。
驚きに、見開いた目。
「なんでまた、そんな子と」
「それが、ちょっとびっくりする話で……」
ここで話しても大丈夫だろうか。
室内に人がいないことを確認したくて、辺りを見回す。
「ああ、向こうで話そうか」
慧はそう言い、カウンターの奥へ向かう。
あの部屋なら、誰にも聞かれない。
私はその後に付いて、いつものゲーム部屋に入った。
備え付けの冷蔵庫から取り出したジュースを、グラスに注ぐ。慧からそれを受け取って、私はテーブルに並べた。
「……それで? 藤乃さん」
並んで座った慧に、話の続きを促される。
「ええと……一昨日、慧先輩に会った後、私はテストの順位を確認に向かったんです」
「結果は、もう見た?」
そういえば、結果の報告すら、していなかった。私は頷いて答える。
「2位でした。早苗さんを、抜かして」
「おお。おめでとう」
「慧先輩のおかげです」
放課後に、慧が勉強を教えてくれたから。
それが私の成果に繋がったのは、疑うまでもない。
そこから私は時系列を追って、早苗とのやり取りを説明する。
ジュースを飲みながら聞いていた慧は、ジュースをテーブルに置き、肘を乗せ、徐々に上体をこちらに傾ける。
「そっか、藤乃さんがストーリーと違うことをしていることに、気づかれたんだね」
「はい。そんな発想なかったから驚いた、と言っていました」
「ふうん……」
慧は、興味深そうに唸った。
私は、説明を続ける。
「それで、早苗さんを樹先輩ルートに入れるのに協力して、って。代わりに私と海斗さんとの仲を取り持つから、って」
最後に、彼女に示された提案を話した。
「そういう話を、昨日、聞いていたんです」
「面白いね、本当に物語の世界みたいだ」
「そうなんです」
前世の記憶を持ったまま、ゲーム世界に生まれ変わる。早苗の置かれた状況は、物語そのものだ。
「でも、彼女には残念だったね。藤乃さん、断ったんでしょ?」
「いえ……まだ、決めかねていて」
「何を?」
心底不思議そうな、慧の問いかけ。私が視線を返すと、眼鏡越しの彼の目は、真っ直ぐこちらを見つめた。
「海斗さんとの婚約を、無理にでも継続するのか。それとも、そのまま破棄するのか。どっちを選んだ方がいいのか、ずっと考えているんです」
兄から示された2択を説明すると、慧は、浅く息を呑んだ。
「……あ、そうなんだ」
そして、ゆっくりと相槌を打つ。
その間は、不自然だった。
「婚約は、もう無くなったんじゃないの?」
「そうなんですが……親を通していないのだから、どうにかなる余地はあるだろうと、兄が」
「……そっか。そうなんだ」
慧の視線は、向こうにあるテレビの暗い画面に注がれる。その横顔からは、どんな顔をしているのか、よくわからない。
妙に、重たい雰囲気。
どうしてだろう。
私は落ち着かなくて、胸元に手を添える。
「藤乃さんは、迷っているのかな」
「はい……両親は、彼との婚約を喜んでいるので。がっかりさせるようなことは……」
「……そっか」
父は、海斗との婚約を、心から喜んでいる。海斗の成功を、自分のことのように。
それを破棄することになった、だなんて。父は心底落胆するだろう。怒るかもしれない。父にとって、私は「海斗との婚約」があるからこそ、価値ある娘なのだ。
「うーん……藤乃さん自身は、どう思う? 彼と、婚約し続けたいって、思っていたの? もし、家の人ががっかりしないとしたら、どう?」
釈然としない表情をして、質問を重ねる慧。苛立っているような口調だ。
温厚な彼の珍しい様子に戸惑い、私は視線を揺らして、答えを探した。
私自身は、どうなのか。
もし、両親が海斗との婚約破棄を知っても、いつもと変わらず、笑ってくれるのなら?
「それなら、別に、婚約を続ける理由なんてないです」
「……ああ。そうなんだ、やっぱり」
乗り出していた慧の上半身が、背もたれに戻る。
「うん。そんな気がしてたよ。藤乃さんは、家族が本当に大切なんだね」
慧は、グラスに残ったジュースに口をつける。喉が大きく鳴り、ふう、と深く息を吐いた。
「お父さんの話も前に聞いたし、俺は、家族のことには口出ししたくない。決めるのは藤乃さんだよ。ただ……もし、彼と婚約するって言うなら、もう藤乃さんと、こういう風には会えなくなるから、それだけが残念だ」
「え?」
思わず問い返すと、慧も「え?」と反応する。
「……藤乃さん、どうして驚いたの?」
「どうして、慧先輩に会えなくなるんですか?」
「婚約者のいる女性と2人きりなんて、良くないよ、どう考えても。いや……今までも良くなかったんだけど、俺はてっきり、婚約は破棄されたものだと思っていたから」
……そっか。
そんなこと、考えたことがなかった。
慧と過ごす時間は、少なくとも彼が卒業するまでは、変わらないものだと。
「……そっか」
衝撃的な事実に、重たい声が喉から出る。
「……ごめん、藤乃さんがそんなにショックを受けるなんて」
「いえ……私が、浅はかでした。そうですよね、そうですよね。婚約者がいたら、こんな風には……」
そんな当然のことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
慧と、会えなくなる。
こんな風に過ごす幸せな時間が、全て、なくなる。
そんなの。
「そんなの、むり……」
「無理なの?」
「無理です。慧先輩といる時間が、今、私の何よりの幸せなのに……」
自分の声が、震えている。
不意に、慧の手のひらが、テーブルに載せたままの、私の手の甲に重なる。視線をそちらへ向けると、微笑む慧の顔が見えた。
私を安心させる、柔らかな表情。
「ありがとう。俺も、藤乃さんといる時間は幸せだよ」
「……はい」
そんな気がしていた。
私と慧は、どこか似ているから。
「こういう時間を、ずっと持ち続けていたいよね」
「私も、そう思います」
慧と過ごす時間が、学園生活の中で、1番の楽しみだから。
「藤乃さんが、どうしても家の人が怖いなら……そっちをどうにかできないのかな。藤乃さんが我慢して、好きでもない人と、したくもない婚約をするのではなくて」
「それは」
思わず否定が口をつきそうになったとき、慧とまた、目が合った。反射的な言葉を飲み込み、私は、少し考える。
「両親……いえ、父の理解を得られれば、それでいいんです」
私は、父にがっかりされることが怖い。
海斗との婚約を本当に喜んでいる父が、それを破棄されたとき、どうなってしまうのか。
父にとって、私の価値は、何もなくなってしまいそうで。
「でも、それが難しくて」
「そうみたいだね。俺は藤乃さんのお父さんを知らないから、何も言えないけど……でもさ、頑張れないのかな」
私の手を包む、慧の手のひら。力が軽く込められ、きゅ、と圧を感じる。
「俺は、藤乃さんと、もっと一緒に過ごしたいよ」
「私もです」
それは、揺らがない。
婚約を破棄するとしたら、それは、慧と過ごす時間のためだ。慧が楽しみにしている、私も楽しみにしている、2人の時間のため。
誰かのためが、自分のため。
今までずっと考えていたことが、漸く繋がった。
慧のためにすることが、私のためにもなる。それが、答えだ。
慧の手が離れた後も、手の甲は、熱を帯びていた。私はその手を、胸の前で抱くようにする。
「私、やってみます。慧先輩のために。それに、私のために」
「俺たちのために、じゃないかな」
「そうですね。……私たちの、ために」
誰かのために、でもなく。自分のために、でもなく。私たちのために。
2択の答えは、はっきりした。
ならば、次に考えるべきことは、決まっている。
「そうなの」
山口の言う通り、私は昨日、よく眠れなかった。
「お勉強もほどほどになさってくださいね」
山口には、前にもそんなことを言われた気がする。今回も私は、特に勉強をしていたわけではない。
無理にでも、婚約の継続を望むのか。
それとも、このまま破棄するのか。
2択の答えを出さなければならない。そこまでわかったのは、良かった。
ただ、どちらを選ぶか決めるのは、難しいのだ。
そもそも、すぐ決まるものなら、とっくにどちらかを選んでいる。
「いってらっしゃいませ」
「行ってくるわ」
いつもの仕草を交わして、私は車を降りる。
射し込む朝日が、妙に眩しく感じる。頭はどこか鈍くて、確実に、寝不足だ。
頭がはっきりしないせいで、足取りも重い。しかも昨日は、それだけ考えた挙句に何の成果もなかったのだから、尚更だ。
「おはよう、アリサさん」
「おはよう、藤乃さん」
教室に入ると、近くにいるアリサに声をかける。彼女の笑顔は、朝から華やかだ。
私はきっと、くすんだ表情をしているに違いない。自分なりに笑顔で挨拶をして、自席に向かった。
「おはよう! 早苗さん、今日も可愛い髪型ね」
「そうかな? ありがとう、あなたもね」
始業が近付き、早苗と海斗が登校してくる。
その視線が、ちらりとこちらを向いた。瞬間、私の頭に、昨日のやりとりが一気に駆け巡る。
今日こそ、慧に話さなくちゃ。
私は思った。
早苗からの驚くべき申し出について、トラブルのせいで、私はまだ慧に伝えることすらできていないのだ。
授業が始まり、昼休みが過ぎ。
放課後を心待ちにしているとき、日中の時間は、驚くほどのんびり過ぎていった。1時間1時間が、妙に長く感じる。
「ご存知の方もいると思いますが、本校では夏休み明けに、文化祭があります」
午後のホームルーム。アリサが前に立ち、皆に説明をしている。
高等部では、夏休み明けの文化祭に向け、休み中に集まって準備をするらしい。
「夏休みはずっと休みじゃないんだ」
誰かの驚いたような呟きに、私も内心、同意する。
言われてみれば、兄は高等部の頃、夏休みもよく学園に出向いていた。生徒会長としての活動が忙しいのだと思っていたけれど、なるほど、違ったらしい。
「クラスで行う企画を、決めなければなりません。参考に、昨年のものをお配りしますね」
配られた資料には、昨年度の企画が一覧になっている。
「えー、楽しそう」
「お化け屋敷だって」
「浴衣喫茶? とかもある。何でもありなのね」
「飲食店が楽だろ」
資料を眺めながら、皆口々に感想を述べる。その表情は、楽しげだ。
学外活動といい、文化祭といい、こうした行事を控えた時のクラスの雰囲気は、わくわくが満ちている。
「次のホームルームのときに案を募るので、考えておいてください」
アリサがはっきりとそう締めくくり、漸く、長かった1日が終わった。
図書室に向かう道のりも、いつもと同じなのに、いつもより長く感じる。
こんなに慧に会いたいなんて、自分でもびっくりだ。
扉を開けると、いつもの重たい、埃っぽい図書室の空気。この重たい空気は嫌な感じではなく、むしろ、心が一気に落ち着く。
「藤乃さん。こんにちは」
慧はいつもの様子で、カウンターで作業をしていた。
1日しか空いていないのだから、その様子が、大きく変わるはずもない。
それなのに、いつもと同じであることに安心し、懐かしいと感じる。
私はカウンターの傍に荷物を置き、慧の隣の、定位置に並ぶ。
「慧先輩。昨日は、来られなくてすみませんでした」
「いや……心配はしたけど、謝らなくていいんだよ。藤乃さんにも、予定があるんだから」
微笑む彼の頬に、まるいえくぼ。いつもの笑顔だ。
「実は……早苗さんと、お茶をしていたんです」
「え。早苗さんって、あの、『主人公』の子だよね?」
慧が、こちらに顔を向ける。
驚きに、見開いた目。
「なんでまた、そんな子と」
「それが、ちょっとびっくりする話で……」
ここで話しても大丈夫だろうか。
室内に人がいないことを確認したくて、辺りを見回す。
「ああ、向こうで話そうか」
慧はそう言い、カウンターの奥へ向かう。
あの部屋なら、誰にも聞かれない。
私はその後に付いて、いつものゲーム部屋に入った。
備え付けの冷蔵庫から取り出したジュースを、グラスに注ぐ。慧からそれを受け取って、私はテーブルに並べた。
「……それで? 藤乃さん」
並んで座った慧に、話の続きを促される。
「ええと……一昨日、慧先輩に会った後、私はテストの順位を確認に向かったんです」
「結果は、もう見た?」
そういえば、結果の報告すら、していなかった。私は頷いて答える。
「2位でした。早苗さんを、抜かして」
「おお。おめでとう」
「慧先輩のおかげです」
放課後に、慧が勉強を教えてくれたから。
それが私の成果に繋がったのは、疑うまでもない。
そこから私は時系列を追って、早苗とのやり取りを説明する。
ジュースを飲みながら聞いていた慧は、ジュースをテーブルに置き、肘を乗せ、徐々に上体をこちらに傾ける。
「そっか、藤乃さんがストーリーと違うことをしていることに、気づかれたんだね」
「はい。そんな発想なかったから驚いた、と言っていました」
「ふうん……」
慧は、興味深そうに唸った。
私は、説明を続ける。
「それで、早苗さんを樹先輩ルートに入れるのに協力して、って。代わりに私と海斗さんとの仲を取り持つから、って」
最後に、彼女に示された提案を話した。
「そういう話を、昨日、聞いていたんです」
「面白いね、本当に物語の世界みたいだ」
「そうなんです」
前世の記憶を持ったまま、ゲーム世界に生まれ変わる。早苗の置かれた状況は、物語そのものだ。
「でも、彼女には残念だったね。藤乃さん、断ったんでしょ?」
「いえ……まだ、決めかねていて」
「何を?」
心底不思議そうな、慧の問いかけ。私が視線を返すと、眼鏡越しの彼の目は、真っ直ぐこちらを見つめた。
「海斗さんとの婚約を、無理にでも継続するのか。それとも、そのまま破棄するのか。どっちを選んだ方がいいのか、ずっと考えているんです」
兄から示された2択を説明すると、慧は、浅く息を呑んだ。
「……あ、そうなんだ」
そして、ゆっくりと相槌を打つ。
その間は、不自然だった。
「婚約は、もう無くなったんじゃないの?」
「そうなんですが……親を通していないのだから、どうにかなる余地はあるだろうと、兄が」
「……そっか。そうなんだ」
慧の視線は、向こうにあるテレビの暗い画面に注がれる。その横顔からは、どんな顔をしているのか、よくわからない。
妙に、重たい雰囲気。
どうしてだろう。
私は落ち着かなくて、胸元に手を添える。
「藤乃さんは、迷っているのかな」
「はい……両親は、彼との婚約を喜んでいるので。がっかりさせるようなことは……」
「……そっか」
父は、海斗との婚約を、心から喜んでいる。海斗の成功を、自分のことのように。
それを破棄することになった、だなんて。父は心底落胆するだろう。怒るかもしれない。父にとって、私は「海斗との婚約」があるからこそ、価値ある娘なのだ。
「うーん……藤乃さん自身は、どう思う? 彼と、婚約し続けたいって、思っていたの? もし、家の人ががっかりしないとしたら、どう?」
釈然としない表情をして、質問を重ねる慧。苛立っているような口調だ。
温厚な彼の珍しい様子に戸惑い、私は視線を揺らして、答えを探した。
私自身は、どうなのか。
もし、両親が海斗との婚約破棄を知っても、いつもと変わらず、笑ってくれるのなら?
「それなら、別に、婚約を続ける理由なんてないです」
「……ああ。そうなんだ、やっぱり」
乗り出していた慧の上半身が、背もたれに戻る。
「うん。そんな気がしてたよ。藤乃さんは、家族が本当に大切なんだね」
慧は、グラスに残ったジュースに口をつける。喉が大きく鳴り、ふう、と深く息を吐いた。
「お父さんの話も前に聞いたし、俺は、家族のことには口出ししたくない。決めるのは藤乃さんだよ。ただ……もし、彼と婚約するって言うなら、もう藤乃さんと、こういう風には会えなくなるから、それだけが残念だ」
「え?」
思わず問い返すと、慧も「え?」と反応する。
「……藤乃さん、どうして驚いたの?」
「どうして、慧先輩に会えなくなるんですか?」
「婚約者のいる女性と2人きりなんて、良くないよ、どう考えても。いや……今までも良くなかったんだけど、俺はてっきり、婚約は破棄されたものだと思っていたから」
……そっか。
そんなこと、考えたことがなかった。
慧と過ごす時間は、少なくとも彼が卒業するまでは、変わらないものだと。
「……そっか」
衝撃的な事実に、重たい声が喉から出る。
「……ごめん、藤乃さんがそんなにショックを受けるなんて」
「いえ……私が、浅はかでした。そうですよね、そうですよね。婚約者がいたら、こんな風には……」
そんな当然のことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
慧と、会えなくなる。
こんな風に過ごす幸せな時間が、全て、なくなる。
そんなの。
「そんなの、むり……」
「無理なの?」
「無理です。慧先輩といる時間が、今、私の何よりの幸せなのに……」
自分の声が、震えている。
不意に、慧の手のひらが、テーブルに載せたままの、私の手の甲に重なる。視線をそちらへ向けると、微笑む慧の顔が見えた。
私を安心させる、柔らかな表情。
「ありがとう。俺も、藤乃さんといる時間は幸せだよ」
「……はい」
そんな気がしていた。
私と慧は、どこか似ているから。
「こういう時間を、ずっと持ち続けていたいよね」
「私も、そう思います」
慧と過ごす時間が、学園生活の中で、1番の楽しみだから。
「藤乃さんが、どうしても家の人が怖いなら……そっちをどうにかできないのかな。藤乃さんが我慢して、好きでもない人と、したくもない婚約をするのではなくて」
「それは」
思わず否定が口をつきそうになったとき、慧とまた、目が合った。反射的な言葉を飲み込み、私は、少し考える。
「両親……いえ、父の理解を得られれば、それでいいんです」
私は、父にがっかりされることが怖い。
海斗との婚約を本当に喜んでいる父が、それを破棄されたとき、どうなってしまうのか。
父にとって、私の価値は、何もなくなってしまいそうで。
「でも、それが難しくて」
「そうみたいだね。俺は藤乃さんのお父さんを知らないから、何も言えないけど……でもさ、頑張れないのかな」
私の手を包む、慧の手のひら。力が軽く込められ、きゅ、と圧を感じる。
「俺は、藤乃さんと、もっと一緒に過ごしたいよ」
「私もです」
それは、揺らがない。
婚約を破棄するとしたら、それは、慧と過ごす時間のためだ。慧が楽しみにしている、私も楽しみにしている、2人の時間のため。
誰かのためが、自分のため。
今までずっと考えていたことが、漸く繋がった。
慧のためにすることが、私のためにもなる。それが、答えだ。
慧の手が離れた後も、手の甲は、熱を帯びていた。私はその手を、胸の前で抱くようにする。
「私、やってみます。慧先輩のために。それに、私のために」
「俺たちのために、じゃないかな」
「そうですね。……私たちの、ために」
誰かのために、でもなく。自分のために、でもなく。私たちのために。
2択の答えは、はっきりした。
ならば、次に考えるべきことは、決まっている。
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もしかして‘’私‘’って悪役令嬢ポジションでは?整った容姿。申し分ない身分。・・・だけなら疑わなかったが、ある時ふと言われたのである。「昔のヘンリエッタは我儘だったのにこんなに立派になって」と。
振り返れば記憶が戻る前は嫌いな食べ物が出ると癇癪を起こし、着たいドレスがないと癇癪を起こし…。私めっちゃ性格悪かった!!
え?記憶戻らなかったらそのままだった=悪役令嬢!?いやいや確かに前世では転生して悪役令嬢とか流行ってたけどまさか自分が!?
でもヘンリエッタ・スタンホープなんて知らないし、私どうすればいいのー!?
と、とにかく攻略対象者候補たちには必要以上に近づかない様にしよう!
前世の記憶のせいで恋愛なんて面倒くさいし、政略結婚じゃないなら出来れば避けたい!
だからこっちに熱い眼差しを送らないで!
答えられないんです!
これは悪役令嬢(?)の侯爵令嬢があるかもしれない破滅フラグを手探りで回避しようとするお話。
または前世の記憶から臆病になっている彼女が再び大切な人を見つけるお話。
小説家になろうでも投稿してます。
こちらは全話投稿してますので、先を読みたいと思ってくださればそちらからもよろしくお願いします。
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