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39 母の懸念
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「山口は、誰かの邪魔をしたいって、思ったことはある?」
「邪魔ですか? そうですねえ、どうでしょうか」
赤信号で、車が止まる。微かなエンジン音の間に、そっと質問を差し込むと、山口は首をひねった。
「邪魔したいということは、相手が邪魔になっているということでしょうね。私はには、自分の邪魔になるようなお方は、今までいらっしゃいませんでしたから」
「そう……それは幸せね」
「卑怯なのですよ。邪魔になるということは、ぶつかるということですから。私は、ぶつかる前に遠回りして避けるような、そんな生き方をして参りました」
ハンドルを叩く、柔らかな音。山口が、優しい声で答える。
「時にはぶつかることも必要だと思ったときには、もう年老いていました。今更誰かとぶつかるような気力は、残っていないのですよ」
「山口は、まだ若いじゃない」
「お上手ですね、お嬢様は」
車が発進する。
山口は、変に詮索しないし、人にも言いふらさない。彼のそういうところが、私は気に入っている。
早苗とぶつからない立ち回りができるのなら、その方がいいのだけれど。
心の中で、ひとりごちる。
しかしそれが、どうにも難しい。
慧は何とか他の方法を探そうと言っていた。
私の目標と、早苗の目標は相反している。正面切ってぶつからない、そんな方法はあるのだろうか。
「藤乃ちゃんも、そろそろ夏休みね」
「そうなの。あと少し」
「楽しみだね、藤乃」
夕食の席には、母と兄が同席している。最近は、兄がよくいる。大学は先に夏休みに入っているから、時間の余裕があるということらしい。
兄は、冷たいコーンスープを口に運び、視線を斜め上に泳がせる。
「懐かしいなあ。高等部の夏休みは、文化祭の準備が重いから、そんなに休めないんだよね」
私も、思い出す。
高等部時代の兄は、平日も休日も、学園の行事のために出かけていることが多かった。
「お兄様は、生徒会長だったからよ。それがなければ、そこまで大変じゃないと思うわ」
「藤乃も、生徒会に入ればいいのに」
「お兄様みたいには、できないもの。……それに、生徒会室みたいに散らかったところ、得意じゃないから」
今日行った生徒会室は、乱雑に書類が積み重ねられ、ごちゃついていた。私は、ああいう場所は苦手なのだ。
図書室のように規則に則って整然としている方が、よほど落ち着く。
「ええ? 散らかってなんかいないよ」
「あら。お兄様も、意外とそういう……ゆるっとした感じも大丈夫なのね」
私は言葉を選びつつ、そう返した。
兄の自室は物が少なく、きっちりと整っている。整理整頓された環境を好んでいる兄が、あの生徒会室の状況を、良しとするとは。意外な一面だ。
「桂一くんは、散らかっているのは駄目よね? 私、辺りに物を置きっぱなしにして、よく叱られるもの」
「お母様は、だらしがないからねえ」
目を合わせて、微笑み合う兄と母。ああして笑うと、ふたりの目は、よく似ている。
「……そういえば、生徒会で思い出したけど。樹のことは僕、よく叱っていたんだよね。お母様と同じで、ものをよく辺りに置いてしまうから」
「私と気が合いそうね」
「お母様も、会ったことあるよ。ほら、生徒会の後輩で、僕の次に会長になった子」
「ああ、あの子。人懐っこい感じの子だったかしら」
兄の昔話を聞いて、私はあの生徒会室の惨状に、納得がいく。
「なら、生徒会室がああなったのは、お兄様が卒業したあとなのね」
「そんなにひどいの?」
「ええ、まあ……机には紙の束が積んであって、今日はそれが雪崩れていたわ」
「へえ?」
兄の相槌が、妙に鋭い。
あれ、怒ってる?
穏やかな表情をしている兄。兄は、負の気持ちが全く顔に出ない。それが恐ろしい。どことなく、ぴりりとした雰囲気をまとったように見える。
「今はいいけれど、生徒会長が変わったときに、その有様だとかわいそうだな。大事な書類も見つからなくなりそうだ。僕が在学中なら片付けてあげたんだけど……今の生徒会に、樹をサポートしてくれる人はいるのかな」
「ああ、早苗さんが」
兄は、早苗と会ったことがある。一度目は、水族館へ行ったとき。二度目は、学外活動のとき。
「それって、あの子? それはいいや」
早苗の名を聞くと、兄はそう言って、ばっさり切り捨てた。
兄のナイフが、白身魚を切り分ける。今日の夕食は、魚のムニエルだ。私も魚を切り、ふわっとした白身をゆっくり噛みしめる。甘い香りが、口の中でじんわりと広がった。
魚が出るのは、父がいない夕食のときだけ。父は肉が好きで、それ以外のメインが出ると、食が進まないのだ。
こんなに美味しいのに。そう思いながら、また魚を切り分ける。
「藤乃……片付けだけ、してあげられない?」
「……でも、私は、生徒会なんて」
「藤乃が生徒会の役員に入りたくないのは、もうわかっているんだ。いいんだよ。だけど生徒会室が、そんな有様なんて……」
兄の肩が、ぞぞ、と震えているように見える。余程、嫌なのだろう。学生時代にお気に入りだった場所が、ごみの山のようになっているのだから。
私も、卒業後に屋上が物置になっていたら、悲しいだろう。そう考えると、兄への同情が湧いてくる。
「いや、ごめんね、藤乃。藤乃に頼むことじゃなかった。僕が、文化祭に行くついでに様子を見て、自分で片付けるよ」
「……お兄様」
自分で何でもできる兄に、何かを頼まれるなんて珍しいことだ。そんな風に謙虚に言われると、何とかしたくなってしまう。
もし生徒会室に行って、片付けをするとなったら、どうなるだろう。
放課後に生徒会室へ寄って、書類の整頓をする。そこには樹がいて、海斗や早苗もやってくる。彼らがストーリーを進行していくのを観察しながら、私は片付けを終え、図書室に向かう。
私が生徒会室にいる間は、樹と早苗のストーリーは進まない。あるいは、その進捗を、知りやすくなる。
「私が片付けるのも、悪くないかもしれないわ」
早苗は嫌がるだろうが、彼女が嫌がることこそ、やるべきだ。
私は悪役なのだから。
「いいよ藤乃、無理しないで」
「もちろん、できる範囲で行います」
うん、そう考えれば、悪くはない。
樹と早苗の様子を見ているうちに、思いつくこともあるかもしれない。
私は、そう前向きに考えた。デザートに出てきた甘いスイカのシャーベットが、最高に冷たく、爽やかに感じられる。
「ねえ、藤乃ちゃん。何か、悩みはない?」
先にデザートを食べ終えた兄が出て行くと、母にそう聞かれる。
いつも明るい母の声のトーンが、今日は少し低い。だからこそ本気で心配されているとわかって、私は、コーヒーカップを持ち上げる手が止まった。
悩み。
そんなものは、たくさんある。
特に、両親に話していない悩みは。
「この間、藤乃ちゃんと桂一くんが、婚約の話をしていたでしょう? 海斗くんが、破棄したがってる、って」
「……ええ」
それは、少し前のことだ。私は、海斗との婚約破棄をしたいと決断し、父に話した。父には聞いてもらえず、私の方に問題があるのでは、と言われてしまったけれど。
あの時、母は父のそばにいて、私たちの話を聞いていた。そのことを、今更、誤魔化す必要もない。
「他の女の子を好きになった、って言ってるの? 本当?」
「……そうなの。それで私と、婚約破棄したい、って」
「そう言ってきたのね。だから藤乃ちゃん、最近は様子がおかしかったんだわ」
様子がおかしかっただろうか。
父に例の件を伝えたときは、そうだったかもしれない。けれど普段は、海斗とのことが察されないよう、できるだけ平常通りの振る舞いを心がけていた。
「帰りも遅いし、お化粧も始めるし……藤乃ちゃんなりに、海斗くんに好きになってもらえるよう、頑張っているんでしょう?」
ああ、そっちか。
頑張る娘を見守る、優しい母の目をしている母。帰りが遅くなったのも、お化粧を始めたのも、事実だ。しかし、動機の方は間違っている。帰りが遅いのは、慧と仲良くなったから。お化粧を始めたのは、してみたら自分の雰囲気が変わるのがわかって、楽しくなったからだ。
「違うわ、お母様」
そう否定したあと、私は迷った。
私の本心を話したら、母はどんな反応をするだろうか。
迷ったけれど、覚悟を決めた。母は父よりは、話をわかってくれるだろう。それにもう、決めたのだ。両親の反応を恐れる自分の気持ちよりも、私は、私たちのためになることを優先する。
「……私、海斗さんのことは、好きじゃないもの。好かれたいとも思っていないわ。このまま婚約破棄したいと、本当に思っているの」
「……そうなのね」
母の目が、見開かれる。目の大きい母がそうすると、瞳がこぼれ落ちそうだ。
「どうして藤乃ちゃんは、彼を好きじゃないの?」
母の優しい問いかけに、言葉がぽろぽろと口をつく。
「海斗さんは、昔から私に興味なんてなかったわ。他の友達とは笑って話していても、私には声もかけてくれない。でも私も、それで良かったの。海斗さんに見てほしいとか、笑って話したいとか、そんな気持ち、持ったことがないわ。それって、好きじゃないってことでしょう?」
けれど私は、同じ気持ちを、慧に対しては抱いている。
一緒にいると、落ち着く。認めてもらえると、嬉しい。そんな感情も、私は海斗に対しては、抱いていない。
私は海斗を好きではないのだ。海斗も、私を好きではない。なのに結ばれた婚約は、なくせるのならなくした方が、お互いのためになる。
「そうなのね」
母の優しい相槌に、安堵する。すると母は、「でもね」と続ける。
「海斗くんがわざわざ、他の女の子の話を藤乃ちゃんにするのは、藤乃ちゃんを好きだから、かもしれないわよ」
「え……そんなはずないわ」
私を敵視する海斗の行動に、好意など微塵も感じられない。否定する私を見つめる母の目は、やはり慈愛に満ちている。
「男の子には、よくあるのよ。好きな子に意地悪しちゃうの。藤乃ちゃんが大人になって、わかってあげないとね」
違うの。
「それに、彼の気持ちがわかれば、藤乃ちゃんも彼を好きになれるわよ」
違うのに。
海斗がいかに早苗に心酔していたか、母に伝えたい。あれは、「好きな子に意地悪」ではなく、早苗が好きなのだ。二人の様子を見れば誰でも、そうとわかるのに。
けれど、私がいくら話しても、今の母は信じてくれないのだろう。父と同じだ。私の言葉は、信じてもらえない。
急速な落胆が胸に広がった。同時に、決意が湧き上がる。
やはり、見せないといけないのだ。
母にも、父にも。文化祭での、早苗と海斗のイベントを。いくら二人が信じないと言っても、目の前でキスまでされたら、海斗を咎めずにはいられないはずだ。
「邪魔ですか? そうですねえ、どうでしょうか」
赤信号で、車が止まる。微かなエンジン音の間に、そっと質問を差し込むと、山口は首をひねった。
「邪魔したいということは、相手が邪魔になっているということでしょうね。私はには、自分の邪魔になるようなお方は、今までいらっしゃいませんでしたから」
「そう……それは幸せね」
「卑怯なのですよ。邪魔になるということは、ぶつかるということですから。私は、ぶつかる前に遠回りして避けるような、そんな生き方をして参りました」
ハンドルを叩く、柔らかな音。山口が、優しい声で答える。
「時にはぶつかることも必要だと思ったときには、もう年老いていました。今更誰かとぶつかるような気力は、残っていないのですよ」
「山口は、まだ若いじゃない」
「お上手ですね、お嬢様は」
車が発進する。
山口は、変に詮索しないし、人にも言いふらさない。彼のそういうところが、私は気に入っている。
早苗とぶつからない立ち回りができるのなら、その方がいいのだけれど。
心の中で、ひとりごちる。
しかしそれが、どうにも難しい。
慧は何とか他の方法を探そうと言っていた。
私の目標と、早苗の目標は相反している。正面切ってぶつからない、そんな方法はあるのだろうか。
「藤乃ちゃんも、そろそろ夏休みね」
「そうなの。あと少し」
「楽しみだね、藤乃」
夕食の席には、母と兄が同席している。最近は、兄がよくいる。大学は先に夏休みに入っているから、時間の余裕があるということらしい。
兄は、冷たいコーンスープを口に運び、視線を斜め上に泳がせる。
「懐かしいなあ。高等部の夏休みは、文化祭の準備が重いから、そんなに休めないんだよね」
私も、思い出す。
高等部時代の兄は、平日も休日も、学園の行事のために出かけていることが多かった。
「お兄様は、生徒会長だったからよ。それがなければ、そこまで大変じゃないと思うわ」
「藤乃も、生徒会に入ればいいのに」
「お兄様みたいには、できないもの。……それに、生徒会室みたいに散らかったところ、得意じゃないから」
今日行った生徒会室は、乱雑に書類が積み重ねられ、ごちゃついていた。私は、ああいう場所は苦手なのだ。
図書室のように規則に則って整然としている方が、よほど落ち着く。
「ええ? 散らかってなんかいないよ」
「あら。お兄様も、意外とそういう……ゆるっとした感じも大丈夫なのね」
私は言葉を選びつつ、そう返した。
兄の自室は物が少なく、きっちりと整っている。整理整頓された環境を好んでいる兄が、あの生徒会室の状況を、良しとするとは。意外な一面だ。
「桂一くんは、散らかっているのは駄目よね? 私、辺りに物を置きっぱなしにして、よく叱られるもの」
「お母様は、だらしがないからねえ」
目を合わせて、微笑み合う兄と母。ああして笑うと、ふたりの目は、よく似ている。
「……そういえば、生徒会で思い出したけど。樹のことは僕、よく叱っていたんだよね。お母様と同じで、ものをよく辺りに置いてしまうから」
「私と気が合いそうね」
「お母様も、会ったことあるよ。ほら、生徒会の後輩で、僕の次に会長になった子」
「ああ、あの子。人懐っこい感じの子だったかしら」
兄の昔話を聞いて、私はあの生徒会室の惨状に、納得がいく。
「なら、生徒会室がああなったのは、お兄様が卒業したあとなのね」
「そんなにひどいの?」
「ええ、まあ……机には紙の束が積んであって、今日はそれが雪崩れていたわ」
「へえ?」
兄の相槌が、妙に鋭い。
あれ、怒ってる?
穏やかな表情をしている兄。兄は、負の気持ちが全く顔に出ない。それが恐ろしい。どことなく、ぴりりとした雰囲気をまとったように見える。
「今はいいけれど、生徒会長が変わったときに、その有様だとかわいそうだな。大事な書類も見つからなくなりそうだ。僕が在学中なら片付けてあげたんだけど……今の生徒会に、樹をサポートしてくれる人はいるのかな」
「ああ、早苗さんが」
兄は、早苗と会ったことがある。一度目は、水族館へ行ったとき。二度目は、学外活動のとき。
「それって、あの子? それはいいや」
早苗の名を聞くと、兄はそう言って、ばっさり切り捨てた。
兄のナイフが、白身魚を切り分ける。今日の夕食は、魚のムニエルだ。私も魚を切り、ふわっとした白身をゆっくり噛みしめる。甘い香りが、口の中でじんわりと広がった。
魚が出るのは、父がいない夕食のときだけ。父は肉が好きで、それ以外のメインが出ると、食が進まないのだ。
こんなに美味しいのに。そう思いながら、また魚を切り分ける。
「藤乃……片付けだけ、してあげられない?」
「……でも、私は、生徒会なんて」
「藤乃が生徒会の役員に入りたくないのは、もうわかっているんだ。いいんだよ。だけど生徒会室が、そんな有様なんて……」
兄の肩が、ぞぞ、と震えているように見える。余程、嫌なのだろう。学生時代にお気に入りだった場所が、ごみの山のようになっているのだから。
私も、卒業後に屋上が物置になっていたら、悲しいだろう。そう考えると、兄への同情が湧いてくる。
「いや、ごめんね、藤乃。藤乃に頼むことじゃなかった。僕が、文化祭に行くついでに様子を見て、自分で片付けるよ」
「……お兄様」
自分で何でもできる兄に、何かを頼まれるなんて珍しいことだ。そんな風に謙虚に言われると、何とかしたくなってしまう。
もし生徒会室に行って、片付けをするとなったら、どうなるだろう。
放課後に生徒会室へ寄って、書類の整頓をする。そこには樹がいて、海斗や早苗もやってくる。彼らがストーリーを進行していくのを観察しながら、私は片付けを終え、図書室に向かう。
私が生徒会室にいる間は、樹と早苗のストーリーは進まない。あるいは、その進捗を、知りやすくなる。
「私が片付けるのも、悪くないかもしれないわ」
早苗は嫌がるだろうが、彼女が嫌がることこそ、やるべきだ。
私は悪役なのだから。
「いいよ藤乃、無理しないで」
「もちろん、できる範囲で行います」
うん、そう考えれば、悪くはない。
樹と早苗の様子を見ているうちに、思いつくこともあるかもしれない。
私は、そう前向きに考えた。デザートに出てきた甘いスイカのシャーベットが、最高に冷たく、爽やかに感じられる。
「ねえ、藤乃ちゃん。何か、悩みはない?」
先にデザートを食べ終えた兄が出て行くと、母にそう聞かれる。
いつも明るい母の声のトーンが、今日は少し低い。だからこそ本気で心配されているとわかって、私は、コーヒーカップを持ち上げる手が止まった。
悩み。
そんなものは、たくさんある。
特に、両親に話していない悩みは。
「この間、藤乃ちゃんと桂一くんが、婚約の話をしていたでしょう? 海斗くんが、破棄したがってる、って」
「……ええ」
それは、少し前のことだ。私は、海斗との婚約破棄をしたいと決断し、父に話した。父には聞いてもらえず、私の方に問題があるのでは、と言われてしまったけれど。
あの時、母は父のそばにいて、私たちの話を聞いていた。そのことを、今更、誤魔化す必要もない。
「他の女の子を好きになった、って言ってるの? 本当?」
「……そうなの。それで私と、婚約破棄したい、って」
「そう言ってきたのね。だから藤乃ちゃん、最近は様子がおかしかったんだわ」
様子がおかしかっただろうか。
父に例の件を伝えたときは、そうだったかもしれない。けれど普段は、海斗とのことが察されないよう、できるだけ平常通りの振る舞いを心がけていた。
「帰りも遅いし、お化粧も始めるし……藤乃ちゃんなりに、海斗くんに好きになってもらえるよう、頑張っているんでしょう?」
ああ、そっちか。
頑張る娘を見守る、優しい母の目をしている母。帰りが遅くなったのも、お化粧を始めたのも、事実だ。しかし、動機の方は間違っている。帰りが遅いのは、慧と仲良くなったから。お化粧を始めたのは、してみたら自分の雰囲気が変わるのがわかって、楽しくなったからだ。
「違うわ、お母様」
そう否定したあと、私は迷った。
私の本心を話したら、母はどんな反応をするだろうか。
迷ったけれど、覚悟を決めた。母は父よりは、話をわかってくれるだろう。それにもう、決めたのだ。両親の反応を恐れる自分の気持ちよりも、私は、私たちのためになることを優先する。
「……私、海斗さんのことは、好きじゃないもの。好かれたいとも思っていないわ。このまま婚約破棄したいと、本当に思っているの」
「……そうなのね」
母の目が、見開かれる。目の大きい母がそうすると、瞳がこぼれ落ちそうだ。
「どうして藤乃ちゃんは、彼を好きじゃないの?」
母の優しい問いかけに、言葉がぽろぽろと口をつく。
「海斗さんは、昔から私に興味なんてなかったわ。他の友達とは笑って話していても、私には声もかけてくれない。でも私も、それで良かったの。海斗さんに見てほしいとか、笑って話したいとか、そんな気持ち、持ったことがないわ。それって、好きじゃないってことでしょう?」
けれど私は、同じ気持ちを、慧に対しては抱いている。
一緒にいると、落ち着く。認めてもらえると、嬉しい。そんな感情も、私は海斗に対しては、抱いていない。
私は海斗を好きではないのだ。海斗も、私を好きではない。なのに結ばれた婚約は、なくせるのならなくした方が、お互いのためになる。
「そうなのね」
母の優しい相槌に、安堵する。すると母は、「でもね」と続ける。
「海斗くんがわざわざ、他の女の子の話を藤乃ちゃんにするのは、藤乃ちゃんを好きだから、かもしれないわよ」
「え……そんなはずないわ」
私を敵視する海斗の行動に、好意など微塵も感じられない。否定する私を見つめる母の目は、やはり慈愛に満ちている。
「男の子には、よくあるのよ。好きな子に意地悪しちゃうの。藤乃ちゃんが大人になって、わかってあげないとね」
違うの。
「それに、彼の気持ちがわかれば、藤乃ちゃんも彼を好きになれるわよ」
違うのに。
海斗がいかに早苗に心酔していたか、母に伝えたい。あれは、「好きな子に意地悪」ではなく、早苗が好きなのだ。二人の様子を見れば誰でも、そうとわかるのに。
けれど、私がいくら話しても、今の母は信じてくれないのだろう。父と同じだ。私の言葉は、信じてもらえない。
急速な落胆が胸に広がった。同時に、決意が湧き上がる。
やはり、見せないといけないのだ。
母にも、父にも。文化祭での、早苗と海斗のイベントを。いくら二人が信じないと言っても、目の前でキスまでされたら、海斗を咎めずにはいられないはずだ。
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または前世の記憶から臆病になっている彼女が再び大切な人を見つけるお話。
小説家になろうでも投稿してます。
こちらは全話投稿してますので、先を読みたいと思ってくださればそちらからもよろしくお願いします。
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