38 / 49
38 それは嫉妬らしい
しおりを挟む
「ごめんね、本当に。ちょっと、クラスの手伝いをしててさ」
「クラスのお手伝いですか?」
「そう。文化祭の準備をしていたから」
慧と並んで、廊下を歩き始める。私は、持っていた鍵を彼に手渡した。
「そうだったんですね」
「そう。俺も、今年度は後夜祭を目指さなくちゃいけないから」
慧が後夜祭を目指すのは、私のためだ。
あの場で、早苗と海斗のイベントを発生させたい、私のため。
「ありがとうございます」
そう言うと、慧は「俺たちのためだからね」と笑ってくれた。
頬に浮かぶまるいえくぼ。心が緩む。
慧と話しているときには、何よりも心が安らぐ。先ほどの樹との対比で、ますます、今の穏やかさが際立った。
「藤乃さんが鍵を取りに行ってくれて、良かったよ」
「そうですか?」
「うん。俺しかいないと、早く行って図書室を開けなきゃ、って焦るんだ。どうせ、ほとんど誰も来ないんだけど」
慧の言う通り、今日も、図書室に向かう廊下には誰もいない。慧が鍵を開け、私たちは中に入った。
照明をつけ、カーテンを開ける。明るい光が差し込み、見慣れた図書室の風景になった。
「もったいないですよね。こんなに、居心地の良い空間なのに」
「俺たちにとっては、ね。そうは思わない人ばかりなんだ」
慧はカウンターの上に、いつもの札を出す。それから、小部屋に入った。
「鍵の場所、わかりやすかった? 生徒会室、散らかっていたでしょう」
「そうなんです。さっき、図書室の鍵を取りに行ったときに……」
慧に、先ほどの樹との出来事を、かいつまんで話す。
「……ということがあったんです」
私は肩をすくませ、はあ、と小さなため息をついて見せる。
「へえ……それは、おかしいね。今まで、そんな親密な関係じゃなかったんでしょ?」
「もちろんです。そんな、あんな距離で、話したことなんて、一度もありません」
レンズの向こうの慧の目つきは、やけに鋭い。咎められている気がして、私は否定した。
「藤乃さんが呼ぶ前に、先輩は、何か言ってなかった?」
「呼ぶ前、ですか?」
樹とのやりとりを、思い返す。あのとき樹は、私に顔を寄せて。
「『でも』って、何かを言いかけていました」
慧は、顎に手を添える。軽く俯き、考え込む表情。
「……『でも、君の香りの方が好き』かな」
「え?」
「え? って、藤乃さん、気付いてないの?」
レンズ越しの瞳に、漸く感情の揺れが見える。
「気付いてないの、って……」
何を?
私の鈍く回転する頭に、先ほど慧の言った、「君の香りが好き」という台詞を思い出す。私はそれを、聞いたことがある。
「あっ、イベント! 同じですね!」
思い至れば、あれは、ゲームのイベントそのもの。
樹の台詞も、樹の行動も、ゲーム内で主人公にして見せたものと同じだ。
「藤乃さん……」
彼の声には、哀れみが滲んでいる。
「慧先輩の頭の回転が、速いんですよ! 全然、気がつきませんでした。だって、どうして私と樹先輩の間で、イベントが発生するんですか」
「うん、それが不思議だよね」
あくまでもヒロインは早苗であり、私は脇役。その立場は、入れ替わるはずがないのに、なぜ。
「実はイベントは、相手は誰でもいい……なんてこと、あると思いますか?」
「横取りできる、ね。可能性はあるよね、実際、こういうことが起きたわけだから」
私の思いつきに、慧も同意する。
「今日は途中で止めてしまったけど……私が樹先輩とのイベントを横取りしたら、もう早苗さんは、彼とのストーリーを進められないかもしれませんね」
イベントは、1つ1つ積み重ねていくもの。早苗は今まで上手く積み重ねて来たようだけれど、私が奪ってしまえば、さすがにもうイベントは起こせないだろう。
素晴らしい思いつきだ。
早苗が樹のストーリーを進めているのはわかっていたのに、どうしていいのかわからず、やきもきしていたこの頃。
新たな光明が見えて、私は嬉しくなる。
「そう……だけど」
ところが、慧の言葉は、歯切れが悪い。
「いや……何でもない。これも、俺たちのためだから」
顔を逸らされると、レンズが反射して、表情が伺えなくなる。
「……慧先輩?」
「何でもないよ。そうとわかったら、続きを見ないとね」
「ええ。そうしましょう」
ゲームを起動し、樹のデータの続きを選ぶ。
ゲームの中では、樹との香水イベントが終わると、夏休みに突入する。次の大きなイベントは、樹と行く海水浴らしい。
イベント用に、効果のもっとも高い、高価な水着を選択する。場面は、海水浴場に切り替わった。
「あら……これ、すぐそこじゃないですか?」
「そうなの?」
「そうですよ。私、学外活動では、ここでビーチバレーをしました」
それは確かに、見覚えのある場所だった。
「へえ、そうだっけ。ゲームで見たはずだけど、もう覚えてないや」
興味深そうに、慧は画面を眺めている。
そんな彼に、私はコントローラーを手渡した。
「お願いします」
「任せて」
相変わらず、慧は手際良く、ミニゲームをクリアする。
真剣な眼差し、緩んだ首元、器用な手指。ただゲームをしているだけなのに、変に見入っていた自分に気付いて、私は視線を引き剥がす。
「はい、藤乃さん」
「ありがとうございます」
高得点を叩き出した慧から、コントローラーを受け取る。
『おれ、海って好きなんだよね。……あれ?』
笑顔だった樹が、下を見下ろす。
「砂の中に落ちていたものは、ですって。どれにしましょう」
画面には、【メッセージボトル】【おもちゃの指環】【綺麗なガラス玉】という選択肢が表示されている。
「どれでもいいんじゃない? きっと、全部見るんだろうから」
「そうですね。なら、メッセージボトルから」
砂に埋まっていたメッセージボトルを、樹が拾い上げる。蓋を取ると、中には手紙が入っている。
『ラブレターだね、これ。えーと、なになに……』
樹が読み上げるのは、どうやら、ラブレターらしい。片想いしていた相手が、遠くへ行ってしまった。離れてしまった想い人に、もう気持ちを伝えることはできない。だから、想いを海に流して清算する、という内容。
そしてどうか、これを拾った人は、自分の想いを伝えてください、と締め括られている。
「切ない手紙ですね」
「……そうだね。でもこの人は、幸せかもしれないよ。物理的に離れてしまったら、諦めがつく」
「どういうことです?」
「物理的な距離以外にも、相手との距離って、いろいろあるからさ」
慧は、画面を眺めているようで、もっと遠くに目が向いている。
「それは……」
「ああ、ごめん。つい。藤乃さんは気にしないで」
そう会話を切られると、それ以上質問を投げかけることができない。私は言葉を飲み、画面に視線を戻す。
『ふうん。想いを伝える、かあ。おれにはわかんないな。言いたいことを我慢するなんて、向いてないから』
樹は、主人公の顎に手を添え、軽く上向かせる。
太陽を背にし、きらきらと輝く光を背負った、眩い樹。口づけしそうな距離に顔を近づけ、ひゅっと目を細めて、白い歯を覗かせる。
『好きだよ。きみのこと』
『あたしも』
『……ふふ。わかんないなあ。本気で言ってる?』
顔を離した樹が、頬を染めて笑う。
『本当に好かれてるのか不安になるのは、君だけだよ。おれ……おかしいな、やっぱり。君のせいだ』
その照れ笑いを最後に、イベントが終わる。
私は、静かにコントローラーを置いた。
「藤乃さん、大丈夫? 今回は最後まで見たんだね」
「はい……あの、横取りするつもりだったので」
慧が、物珍しそうに言う。
いつもは途中で目を背けるイベントを最後まで見たのは、私がそれを、再現しないといけないからだ。イベントを「横取り」することは、私が樹と、それを再現することに他ならない。
それにしても、見ていてつらかった。
見知ったふたりがあんなに顔を近づけて、想いを伝えあう光景といい。飄々とした樹の浮かべる、ありえないほどに照れた顔といい。
「ただ、ちょっと心が限界ですね」
私は胸元に手を当てる。あの甘やかなやりとりは、見ているこっちが恥ずかしくなるのだ。
「そんな状態で、藤乃さん、あのイベントをこなせるの?」
「それは」
ぐ、と俯く。慧の疑いも、もっともだ。
「……心の準備をしておいたら、きっと」
「心の準備? どうやって?」
慧の、畳み掛けるような質問。
焦りで頭が無駄に回転して、うまく考えられない。
「練習すれば……」
練習なんて、どうやってするというのか。
言ってから、思いつきなんてどうしようもないな、と思った。
「誰と?」
「誰と、って……そうですよね」
樹とヒロインのイベントを、事前に練習しておくなんて過激な頼みは、誰にもできない。強いて言うなら、慧くらいだ。
「……頼めるのは、慧先輩、くらいしか」
「いいの? どういう意味かわかっているのかな、藤乃さんは」
「きっと」
言葉が途中で途切れ、顎が上を向く。慧の指先に、押し上げられたのだ。
爽やかで甘い香りが、鼻先を過ぎる。慧の香り。何か当たったと思ったら、もう慧と鼻が触れ合うほどの距離になっていた。
「あ、あの」
「『好きだよ。君のこと』」
震える慧の声。胸に迫るものがある。私は、声が全然出なかった。喉が突然、からからに渇く。
「藤乃さん」
「……」
「藤乃さん、せりふ」
目の前に慧がいるのに、なんだかそこに、焦点が合わない。頭の中に何もない。
「藤乃さん、これは無理だよ、絶対」
慧の顔が離れ、顔の前に新鮮な風が吹く。どこかへ抜けていた魂が、私の中に返ってきた。
「……だめですか」
渇いた喉から、かすれた声がやっと出る。慧の手が私から離れ、その手で自身の顔を覆っている。
「だめ。俺も耐えられない」
そのまま、深いため息をつかれる。
「そんなに……」
いつも認めてくれる慧に、ここまで否定されるとは。少しショックを受けたものの、ちょっと立ち止まって考えれば、だめだと言われるのは当然だ。
見慣れた慧の顔ですら、接近したら、恥ずかしくて何も考えられなかった。
「……そうですよね。今のは、『私も』って言うところでした」
落ち着いて考えたら、今、慧が再現したのは、樹と主人公のイベントだ。私が練習すればできると言ったから、練習を仕掛けてくれたのである。
ところが、実際やってみたら、頭が空っぽになって、何も出てこなかった。
親しくない樹を前にしたら、なおさら、うまくいくはずがない。
「やめよう。藤乃さんのそんな顔、俺は誰にも見せたくない」
「顔ですか?」
私は頬に手を当てる。自分の手のひらが、ひんやりと感じられる。
こんなに手が冷たく感じるのは、きっと頬が熱いからだ。もしかしたら、頬が真っ赤になっているのかもしれない。
「すみません、お見苦しいものを」
「いや……俺はいいんだ。ただ、人に見せるのはやめよう? 横取りしなくても済むような、他の方法を考えよう」
「そう言われても、他の方法なんて」
ぱっとは思いつかない。
こうしている間にも、生徒会室で、早苗と樹のストーリーが着々と進行しているのだ。それを止める方法なんて。
「考えよう、藤乃さん。夏休みまで、まだあと少しあるから。もっと考えて、どうしても無理だったら、横取りすることにしようよ」
「わかりました」
私が樹と早苗の間に割り込むのは、結局は、私たちのため。慧がやめようと言うことを、無理に押し通す道理はない。
頷くと、慧は微笑んだ。頬に浮かぶえくぼ。
「……良かった。藤乃さんが、どうしてもイベントをしたいって言ったら、どう止めようかと思った」
「今ので、無理だってわかりましたよ」
「うん。良かった。ほっとした」
すっと肩が落ちる様子から、慧もずいぶん、力が入っていたのだとわかる。
「片付けようか。時間だ」
そう言う慧の雰囲気は、すっかりいつも通りになっていて。
「はい。ありがとうございました」
私もいつも通り、穏やかな気持ちで片付けを始めるのだった。
「クラスのお手伝いですか?」
「そう。文化祭の準備をしていたから」
慧と並んで、廊下を歩き始める。私は、持っていた鍵を彼に手渡した。
「そうだったんですね」
「そう。俺も、今年度は後夜祭を目指さなくちゃいけないから」
慧が後夜祭を目指すのは、私のためだ。
あの場で、早苗と海斗のイベントを発生させたい、私のため。
「ありがとうございます」
そう言うと、慧は「俺たちのためだからね」と笑ってくれた。
頬に浮かぶまるいえくぼ。心が緩む。
慧と話しているときには、何よりも心が安らぐ。先ほどの樹との対比で、ますます、今の穏やかさが際立った。
「藤乃さんが鍵を取りに行ってくれて、良かったよ」
「そうですか?」
「うん。俺しかいないと、早く行って図書室を開けなきゃ、って焦るんだ。どうせ、ほとんど誰も来ないんだけど」
慧の言う通り、今日も、図書室に向かう廊下には誰もいない。慧が鍵を開け、私たちは中に入った。
照明をつけ、カーテンを開ける。明るい光が差し込み、見慣れた図書室の風景になった。
「もったいないですよね。こんなに、居心地の良い空間なのに」
「俺たちにとっては、ね。そうは思わない人ばかりなんだ」
慧はカウンターの上に、いつもの札を出す。それから、小部屋に入った。
「鍵の場所、わかりやすかった? 生徒会室、散らかっていたでしょう」
「そうなんです。さっき、図書室の鍵を取りに行ったときに……」
慧に、先ほどの樹との出来事を、かいつまんで話す。
「……ということがあったんです」
私は肩をすくませ、はあ、と小さなため息をついて見せる。
「へえ……それは、おかしいね。今まで、そんな親密な関係じゃなかったんでしょ?」
「もちろんです。そんな、あんな距離で、話したことなんて、一度もありません」
レンズの向こうの慧の目つきは、やけに鋭い。咎められている気がして、私は否定した。
「藤乃さんが呼ぶ前に、先輩は、何か言ってなかった?」
「呼ぶ前、ですか?」
樹とのやりとりを、思い返す。あのとき樹は、私に顔を寄せて。
「『でも』って、何かを言いかけていました」
慧は、顎に手を添える。軽く俯き、考え込む表情。
「……『でも、君の香りの方が好き』かな」
「え?」
「え? って、藤乃さん、気付いてないの?」
レンズ越しの瞳に、漸く感情の揺れが見える。
「気付いてないの、って……」
何を?
私の鈍く回転する頭に、先ほど慧の言った、「君の香りが好き」という台詞を思い出す。私はそれを、聞いたことがある。
「あっ、イベント! 同じですね!」
思い至れば、あれは、ゲームのイベントそのもの。
樹の台詞も、樹の行動も、ゲーム内で主人公にして見せたものと同じだ。
「藤乃さん……」
彼の声には、哀れみが滲んでいる。
「慧先輩の頭の回転が、速いんですよ! 全然、気がつきませんでした。だって、どうして私と樹先輩の間で、イベントが発生するんですか」
「うん、それが不思議だよね」
あくまでもヒロインは早苗であり、私は脇役。その立場は、入れ替わるはずがないのに、なぜ。
「実はイベントは、相手は誰でもいい……なんてこと、あると思いますか?」
「横取りできる、ね。可能性はあるよね、実際、こういうことが起きたわけだから」
私の思いつきに、慧も同意する。
「今日は途中で止めてしまったけど……私が樹先輩とのイベントを横取りしたら、もう早苗さんは、彼とのストーリーを進められないかもしれませんね」
イベントは、1つ1つ積み重ねていくもの。早苗は今まで上手く積み重ねて来たようだけれど、私が奪ってしまえば、さすがにもうイベントは起こせないだろう。
素晴らしい思いつきだ。
早苗が樹のストーリーを進めているのはわかっていたのに、どうしていいのかわからず、やきもきしていたこの頃。
新たな光明が見えて、私は嬉しくなる。
「そう……だけど」
ところが、慧の言葉は、歯切れが悪い。
「いや……何でもない。これも、俺たちのためだから」
顔を逸らされると、レンズが反射して、表情が伺えなくなる。
「……慧先輩?」
「何でもないよ。そうとわかったら、続きを見ないとね」
「ええ。そうしましょう」
ゲームを起動し、樹のデータの続きを選ぶ。
ゲームの中では、樹との香水イベントが終わると、夏休みに突入する。次の大きなイベントは、樹と行く海水浴らしい。
イベント用に、効果のもっとも高い、高価な水着を選択する。場面は、海水浴場に切り替わった。
「あら……これ、すぐそこじゃないですか?」
「そうなの?」
「そうですよ。私、学外活動では、ここでビーチバレーをしました」
それは確かに、見覚えのある場所だった。
「へえ、そうだっけ。ゲームで見たはずだけど、もう覚えてないや」
興味深そうに、慧は画面を眺めている。
そんな彼に、私はコントローラーを手渡した。
「お願いします」
「任せて」
相変わらず、慧は手際良く、ミニゲームをクリアする。
真剣な眼差し、緩んだ首元、器用な手指。ただゲームをしているだけなのに、変に見入っていた自分に気付いて、私は視線を引き剥がす。
「はい、藤乃さん」
「ありがとうございます」
高得点を叩き出した慧から、コントローラーを受け取る。
『おれ、海って好きなんだよね。……あれ?』
笑顔だった樹が、下を見下ろす。
「砂の中に落ちていたものは、ですって。どれにしましょう」
画面には、【メッセージボトル】【おもちゃの指環】【綺麗なガラス玉】という選択肢が表示されている。
「どれでもいいんじゃない? きっと、全部見るんだろうから」
「そうですね。なら、メッセージボトルから」
砂に埋まっていたメッセージボトルを、樹が拾い上げる。蓋を取ると、中には手紙が入っている。
『ラブレターだね、これ。えーと、なになに……』
樹が読み上げるのは、どうやら、ラブレターらしい。片想いしていた相手が、遠くへ行ってしまった。離れてしまった想い人に、もう気持ちを伝えることはできない。だから、想いを海に流して清算する、という内容。
そしてどうか、これを拾った人は、自分の想いを伝えてください、と締め括られている。
「切ない手紙ですね」
「……そうだね。でもこの人は、幸せかもしれないよ。物理的に離れてしまったら、諦めがつく」
「どういうことです?」
「物理的な距離以外にも、相手との距離って、いろいろあるからさ」
慧は、画面を眺めているようで、もっと遠くに目が向いている。
「それは……」
「ああ、ごめん。つい。藤乃さんは気にしないで」
そう会話を切られると、それ以上質問を投げかけることができない。私は言葉を飲み、画面に視線を戻す。
『ふうん。想いを伝える、かあ。おれにはわかんないな。言いたいことを我慢するなんて、向いてないから』
樹は、主人公の顎に手を添え、軽く上向かせる。
太陽を背にし、きらきらと輝く光を背負った、眩い樹。口づけしそうな距離に顔を近づけ、ひゅっと目を細めて、白い歯を覗かせる。
『好きだよ。きみのこと』
『あたしも』
『……ふふ。わかんないなあ。本気で言ってる?』
顔を離した樹が、頬を染めて笑う。
『本当に好かれてるのか不安になるのは、君だけだよ。おれ……おかしいな、やっぱり。君のせいだ』
その照れ笑いを最後に、イベントが終わる。
私は、静かにコントローラーを置いた。
「藤乃さん、大丈夫? 今回は最後まで見たんだね」
「はい……あの、横取りするつもりだったので」
慧が、物珍しそうに言う。
いつもは途中で目を背けるイベントを最後まで見たのは、私がそれを、再現しないといけないからだ。イベントを「横取り」することは、私が樹と、それを再現することに他ならない。
それにしても、見ていてつらかった。
見知ったふたりがあんなに顔を近づけて、想いを伝えあう光景といい。飄々とした樹の浮かべる、ありえないほどに照れた顔といい。
「ただ、ちょっと心が限界ですね」
私は胸元に手を当てる。あの甘やかなやりとりは、見ているこっちが恥ずかしくなるのだ。
「そんな状態で、藤乃さん、あのイベントをこなせるの?」
「それは」
ぐ、と俯く。慧の疑いも、もっともだ。
「……心の準備をしておいたら、きっと」
「心の準備? どうやって?」
慧の、畳み掛けるような質問。
焦りで頭が無駄に回転して、うまく考えられない。
「練習すれば……」
練習なんて、どうやってするというのか。
言ってから、思いつきなんてどうしようもないな、と思った。
「誰と?」
「誰と、って……そうですよね」
樹とヒロインのイベントを、事前に練習しておくなんて過激な頼みは、誰にもできない。強いて言うなら、慧くらいだ。
「……頼めるのは、慧先輩、くらいしか」
「いいの? どういう意味かわかっているのかな、藤乃さんは」
「きっと」
言葉が途中で途切れ、顎が上を向く。慧の指先に、押し上げられたのだ。
爽やかで甘い香りが、鼻先を過ぎる。慧の香り。何か当たったと思ったら、もう慧と鼻が触れ合うほどの距離になっていた。
「あ、あの」
「『好きだよ。君のこと』」
震える慧の声。胸に迫るものがある。私は、声が全然出なかった。喉が突然、からからに渇く。
「藤乃さん」
「……」
「藤乃さん、せりふ」
目の前に慧がいるのに、なんだかそこに、焦点が合わない。頭の中に何もない。
「藤乃さん、これは無理だよ、絶対」
慧の顔が離れ、顔の前に新鮮な風が吹く。どこかへ抜けていた魂が、私の中に返ってきた。
「……だめですか」
渇いた喉から、かすれた声がやっと出る。慧の手が私から離れ、その手で自身の顔を覆っている。
「だめ。俺も耐えられない」
そのまま、深いため息をつかれる。
「そんなに……」
いつも認めてくれる慧に、ここまで否定されるとは。少しショックを受けたものの、ちょっと立ち止まって考えれば、だめだと言われるのは当然だ。
見慣れた慧の顔ですら、接近したら、恥ずかしくて何も考えられなかった。
「……そうですよね。今のは、『私も』って言うところでした」
落ち着いて考えたら、今、慧が再現したのは、樹と主人公のイベントだ。私が練習すればできると言ったから、練習を仕掛けてくれたのである。
ところが、実際やってみたら、頭が空っぽになって、何も出てこなかった。
親しくない樹を前にしたら、なおさら、うまくいくはずがない。
「やめよう。藤乃さんのそんな顔、俺は誰にも見せたくない」
「顔ですか?」
私は頬に手を当てる。自分の手のひらが、ひんやりと感じられる。
こんなに手が冷たく感じるのは、きっと頬が熱いからだ。もしかしたら、頬が真っ赤になっているのかもしれない。
「すみません、お見苦しいものを」
「いや……俺はいいんだ。ただ、人に見せるのはやめよう? 横取りしなくても済むような、他の方法を考えよう」
「そう言われても、他の方法なんて」
ぱっとは思いつかない。
こうしている間にも、生徒会室で、早苗と樹のストーリーが着々と進行しているのだ。それを止める方法なんて。
「考えよう、藤乃さん。夏休みまで、まだあと少しあるから。もっと考えて、どうしても無理だったら、横取りすることにしようよ」
「わかりました」
私が樹と早苗の間に割り込むのは、結局は、私たちのため。慧がやめようと言うことを、無理に押し通す道理はない。
頷くと、慧は微笑んだ。頬に浮かぶえくぼ。
「……良かった。藤乃さんが、どうしてもイベントをしたいって言ったら、どう止めようかと思った」
「今ので、無理だってわかりましたよ」
「うん。良かった。ほっとした」
すっと肩が落ちる様子から、慧もずいぶん、力が入っていたのだとわかる。
「片付けようか。時間だ」
そう言う慧の雰囲気は、すっかりいつも通りになっていて。
「はい。ありがとうございました」
私もいつも通り、穏やかな気持ちで片付けを始めるのだった。
21
あなたにおすすめの小説
毒を盛られて生死を彷徨い前世の記憶を取り戻しました。小説の悪役令嬢などやってられません。
克全
ファンタジー
公爵令嬢エマは、アバコーン王国の王太子チャーリーの婚約者だった。だがステュワート教団の孤児院で性技を仕込まれたイザベラに籠絡されていた。王太子達に無実の罪をなすりつけられエマは、修道院に送られた。王太子達は執拗で、本来なら侯爵一族とは認められない妾腹の叔父を操り、父親と母嫌を殺させ公爵家を乗っ取ってしまった。母の父親であるブラウン侯爵が最後まで護ろうとしてくれるも、王国とステュワート教団が協力し、イザベラが直接新種の空気感染する毒薬まで使った事で、毒殺されそうになった。だがこれをきっかけに、異世界で暴漢に腹を刺された女性、美咲の魂が憑依同居する事になった。その女性の話しでは、自分の住んでいる世界の話が、異世界では小説になって多くの人が知っているという。エマと美咲は協力して王国と教団に復讐する事にした。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
死にたがりの黒豹王子は、婚約破棄されて捨てられた令嬢を妻にしたい 【ネコ科王子の手なずけ方】
鷹凪きら
恋愛
婚約破棄されてやっと自由になれたのに、今度は王子の婚約者!?
幼馴染の侯爵から地味で華がない顔だと罵られ、伯爵令嬢スーリアは捨てられる。
彼女にとって、それは好機だった。
「お父さま、お母さま、わたし庭師になります!」
幼いころからの夢を叶え、理想の職場で、理想のスローライフを送り始めたスーリアだったが、ひとりの騎士の青年と知り合う。
身分を隠し平民として働くスーリアのもとに、彼はなぜか頻繁に会いにやってきた。
いつの間にか抱いていた恋心に翻弄されるなか、参加した夜会で出くわしてしまう。
この国の第二王子としてその場にいた、騎士の青年と――
※シリーズものですが、主人公が変わっているので単体で読めます。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
『婚約破棄された瞬間、前世の記憶が戻ってここが「推し」のいる世界だと気づきました。恋愛はもう結構ですので、推しに全力で貢ぎます。
放浪人
恋愛
「エリザベート、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーで突きつけられた婚約破棄。その瞬間、公爵令嬢エリザベートは前世の記憶を取り戻した。 ここは前世で廃課金するほど愛したソシャゲの世界。 そして、会場の隅で誰にも相手にされず佇む第三王子レオンハルトは、不遇な設定のせいで装備が買えず、序盤で死亡確定の「最愛の推し」だった!?
「恋愛? 復縁? そんなものはどうでもいいですわ。私がしたいのは、推しの生存ルートを確保するための『推し活(物理)』だけ!」
エリザベートは元婚約者から慰謝料を容赦なく毟り取り、現代知識でコスメ事業を立ち上げ、莫大な富を築く。 全ては、薄幸の推しに国宝級の最強装備を貢ぐため!
「殿下、新しい聖剣です。使い捨ててください」 「待て、これは国家予算レベルだぞ!?」
自称・ATMの悪役令嬢×不遇の隠れ最強王子。 圧倒的な「財力」と「愛」で死亡フラグをねじ伏せ、無能な元婚約者たちをざまぁしながら国を救う、爽快異世界マネー・ラブファンタジー!
「貴方の命も人生も、私が全て買い取らせていただきます!」
辺境の侯爵令嬢、婚約破棄された夜に最強薬師スキルでざまぁします。
コテット
恋愛
侯爵令嬢リーナは、王子からの婚約破棄と義妹の策略により、社交界での地位も誇りも奪われた。
だが、彼女には誰も知らない“前世の記憶”がある。現代薬剤師として培った知識と、辺境で拾った“魔草”の力。
それらを駆使して、貴族社会の裏を暴き、裏切った者たちに“真実の薬”を処方する。
ざまぁの宴の先に待つのは、異国の王子との出会い、平穏な薬草庵の日々、そして新たな愛。
これは、捨てられた令嬢が世界を変える、痛快で甘くてスカッとする逆転恋愛譚。
【完結】モブの王太子殿下に愛されてる転生悪役令嬢は、国外追放される運命のはずでした
Rohdea
恋愛
公爵令嬢であるスフィアは、8歳の時に王子兄弟と会った事で前世を思い出した。
同時に、今、生きているこの世界は前世で読んだ小説の世界なのだと気付く。
さらに自分はヒーロー(第二王子)とヒロインが結ばれる為に、
婚約破棄されて国外追放となる運命の悪役令嬢だった……
とりあえず、王家と距離を置きヒーロー(第二王子)との婚約から逃げる事にしたスフィア。
それから数年後、そろそろ逃げるのに限界を迎えつつあったスフィアの前に現れたのは、
婚約者となるはずのヒーロー(第二王子)ではなく……
※ 『記憶喪失になってから、あなたの本当の気持ちを知りました』
に出てくる主人公の友人の話です。
そちらを読んでいなくても問題ありません。
転生しましたが悪役令嬢な気がするんですけど⁉︎
水月華
恋愛
ヘンリエッタ・スタンホープは8歳の時に前世の記憶を思い出す。最初は混乱したが、じきに貴族生活に順応し始める。・・・が、ある時気づく。
もしかして‘’私‘’って悪役令嬢ポジションでは?整った容姿。申し分ない身分。・・・だけなら疑わなかったが、ある時ふと言われたのである。「昔のヘンリエッタは我儘だったのにこんなに立派になって」と。
振り返れば記憶が戻る前は嫌いな食べ物が出ると癇癪を起こし、着たいドレスがないと癇癪を起こし…。私めっちゃ性格悪かった!!
え?記憶戻らなかったらそのままだった=悪役令嬢!?いやいや確かに前世では転生して悪役令嬢とか流行ってたけどまさか自分が!?
でもヘンリエッタ・スタンホープなんて知らないし、私どうすればいいのー!?
と、とにかく攻略対象者候補たちには必要以上に近づかない様にしよう!
前世の記憶のせいで恋愛なんて面倒くさいし、政略結婚じゃないなら出来れば避けたい!
だからこっちに熱い眼差しを送らないで!
答えられないんです!
これは悪役令嬢(?)の侯爵令嬢があるかもしれない破滅フラグを手探りで回避しようとするお話。
または前世の記憶から臆病になっている彼女が再び大切な人を見つけるお話。
小説家になろうでも投稿してます。
こちらは全話投稿してますので、先を読みたいと思ってくださればそちらからもよろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる