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37 おかしなあの人
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「ねえ、藤乃さん」
「わっ。……泉さん」
「暑いのに、外で食べてるんだね」
じりじりと照る太陽は眩しいので、最近は、日陰を選んで昼食を食べている。
土と海の混ざったような香りは、夏帆のものだ。遠くに見える海面が、きらきらと輝いている。その輝きも、夏そのものに見える。
ゆったりと呼吸をする私に、そう声をかけてきたのは、泉だった。
向日葵みたいな彼女には、夏がよく似合う。眩しい日差しの中で、笑顔が輝いていた。
「久しぶりね、一緒にお昼を食べるのは」
「そうだね。ちょっと暑いから、足が向かなくって」
言われてみれば、泉は暑くなってから、あまり顔を出していない。
そういうことだったのか。私は頷く。
「今日も暑いのに、どうしたの?」
「たまには藤乃さんと話したくって。それに……なんだか早苗さん、最近はお昼を、食堂で食べていないから。行くところがひとつなくなったの」
泉は、「クラス全員と友達になりたい」という言葉通り、昼食もいろいろな人と食べている。
仲の良い早苗が、食堂で昼食を食べなくなったから、その分私のところへ来たということらしい。
「……そう。食堂で食べていないのね」
「うん。彼は、一緒じゃないみたい。今食堂に行けば、海斗様と、ふたりでご飯が食べられるかも」
それで、泉が私のところへ来たことに合点がいく。
彼女は、私と海斗の婚約関係を知った上で、海斗と早苗が親しくしていることを、心配している。昼に早苗がどこかへ行っているから、関係修復のチャンスだ、と教えてくれているのだ。
「……ありがとう」
私のためにしてくれたことだ。礼を言うと、泉はにこっと、花の咲くような表情をする。
「なんなら、今からでも……」
「ううん、それは止めておくわ」
泉の、私への思いやりは、ありがたく受け取る。だからと言って、彼女の期待に、無理に応える必要はない。
「そう? ならいいけど。行きたくなったら行こうね」
期待に応えなくても、泉が気を悪くすることはない。学外活動のときに、私にはそれがわかった。
今回もその通りで、私の断りを、泉はさらりと流した。
「……それにしても、早苗さんは、どこに行っているのかしら」
むしろ私が気になるのは、そちらの方だ。
ゲームでは、昼休みにも選択肢があり、行く場所によってステータスが上がったりイベントが起きたりする。
海斗と一緒に昼食を食べるのは、海斗絡みのイベントを起こすためだ。では、海斗と食べていないということは。
「なんだか、生徒会室に行っているみたいよ」
それは、わかり切った答え合わせ。
不服そうな泉の言葉に、やっぱり、と思う。
彼女は、着々と樹のストーリーを進めているのだ。
「……香水とか、買ったのかしら」
「あ、藤乃さんも聞いてたのね。朝の話」
「朝の……?」
話の続きを、目で促す。泉は「うん」と受けて、話を続けた。
「言ってたじゃない。早苗さん、プレゼントの香水を買ってきたから、今日渡すんだ、って」
「今日……」
「そうよ。可愛い小袋を持って、今日のお昼は、生徒会室で食べるって」
その会話を直接耳にしたわけではない。しかし、その内容は、よく知っている。
「どうかと思うわ、わたし。複数の男性と、親密になるのって」
正義感の強い泉は、そう憤った。
「……そうねえ」
彼女の言うことは真っ当だが、その憤りに共感はできなくて、生返事になってしまう。
香水を贈るのは、今日。
ゲーム通りに、ストーリーが進んでいるではないか。
「恐ろしいことだわ」
本当に。
海斗のストーリーを進行せず、樹のストーリーばかり進めたら、早苗の思い通りに進んでしまうのかもしれない。
「いいのかなあ……何も言わなくて。藤乃さん、本当にいいの?」
「良くないわ」
私は言った。早苗の思惑を阻止したい。思考が急速に巡る。
「私ね、海斗さんのことは、もう諦めてもいいの。だけど……彼の気持ちを蔑ろにして、他の男性と親しくするのは、良くないと思うわ」
私が目指すのは、早苗と海斗のストーリーを進めること。樹と親しくなりたい、彼女の狙いを挫くこと。
「そうなんだ……藤乃さん、身を引く覚悟なのね」
「ええ」
身を引く覚悟、なんて言い方は、ずいぶん聞こえが良い。
泉を見ると、彼女は痛ましい表情をしていた。
「なのに、早苗さんは……」
「……困ったわね」
私は頬に掌を当て、考える。
視線だけ、泉に向ける。
伺うように、こちらを見ている彼女。
彼女はいつも、「行動するときは応援するよ」と言ってくれる。
利用していいんだろうか、という逡巡は、一瞬だった。
私は悪役なのだ。
「泉さん……どうしたら、早苗さんが生徒会室に行くのを、止められるかしら」
相談を持ちかけると、泉の表情は、ぱっと明るくなった。向日葵だ。その曇りない笑顔に、少し良心が痛む。
「嬉しいわ、相談してくれて!」
しかし、泉は、頼まれることを望んでいる。それなら構わないだろう、と気を取り直した。
「なら、お昼ご飯は、もっとしっかり誘ってみるね。帰りも、誘えそうな感じだったら、お出かけに誘ってみる」
「いいの? 助かるわ」
「もちろん。それにわたしも、もっと早苗さんと話したいもの。最近彼女、前にも増して付き合いが悪くって」
屈託のない笑顔。そんな風に明るく笑ってもらえると、自分の頼みは間違いではなかったのだと思える。
「ありがとう、泉さん」
「いいの。藤乃さん、強がりだから。頼ってもらえて嬉しい」
「強がり? そうかしら」
首を傾げると、泉はあはは、と声を上げて笑った。
「気づいてないんだね、藤乃さん。また困ったことがあったら、いつでも相談してね。わたし、できるだけ協力するから」
「ありがとう……!」
何と心強いことだろう。
「なら私、ちょっと生徒会室に寄ってから教室に行ってみようかしら。藤乃さん、また話しましょう!」
身を翻し、軽やかに屋上を出て行く。その花のような泉の笑顔が、本当に、頼もしく見えた。
「ねえ、早苗さん、今日はお暇?」
「今日? 生徒会の活動があるけど……」
「そう……。寂しいわ、最近、前にも増して付き合い悪い気がする」
放課後。早々に、泉が早苗に誘いをかけていた。
早苗が生徒会室に行かなければ、ストーリーは進められない。そこで生まれた時間で、私はゲームの続きを確認できる。
ありがたい。
泉の方を見ると、目が合った。泉は、目だけで微かに笑う。
「うーん……どうしようかな」
「僕は今日は行かないよ。早苗も、たまにはいいんじゃない?」
「そう?」
泉たちの会話に、海斗も加わっている。彼は彼で、気が気でないのだろう。
そんな微妙な均衡を保った会話を後にし、私は図書室へ向かう。
「……あら。空いてない」
図書室の鍵は、まだ締まっていた。
珍しい。慧が私より遅れることなんて、今までなかった。
何か用事があったのかも知れない。
私は、来た道を引き返す。
慧からは、念のためにと、図書室の開け方を教わっている。
「失礼します」
コンコン、と扉をノックする。
「はーい」
返事を受けて、入室した。
「図書室の鍵を借りに来ました」
生徒が借りられる図書室の鍵は、生徒会室で管理されている。慧にそう教わったので、私は鍵を借りに来たのだ。
生徒会室は、さほど広くはない。部屋の中央に大きな机があり、その上に大量の書類が積まれている。
「どうぞ……って、藤乃ちゃん?」
積まれた書類の向こうから、樹が、ひょいと顔を出した。
「こんにちは、樹先輩」
「どうしたの? 珍しいね」
目を細めて笑う樹の目の前で、書類の山が崩れかける。
「お……っと」
樹が両手を差し出す。その勢いに煽られて、かえって紙が舞い上がった。
「危ないっ」
支えようと私も手を差し出したが、相手は紙。崩れた山はそのまま、崩れ落ちる。
勢い余って、机の上に上体が乗る。対岸から、樹もこちらへ滑り込んできた。
私たちの頭の上から、紙が降り落ちてくる。
「すみません、支えられなくて」
「いや……ごめんね、見苦しいところを見せて」
横を見ると、ちょうど樹と目が合う。苦笑する彼は、やっぱり猫に似ている。
「この書類、どうしたんですか?」
「いやあ……おれ、苦手なんだよ。こういう紙物」
「へえ、そうなんですか」
起き上がると、顔に載っていた紙がばさりと落ちる。
「そう。ああ、ごめん、埃もついちゃって」
同様に上体を起こした樹が、テーブルを回ってこちらへ来る。手が伸びてきたので、私は動きを止めた。
髪についていたらしい埃を、樹が指先で摘む。そのとき、ふわ、と甘い香りがした。
「いい匂いですね」
思わず、口をついて出る。言ってから、これは早苗の匂いだ、と思った。甘く、蕩けるような、濃い匂い。
早苗はやはり、昼に香水をプレゼントしたのだ。着々と、樹のストーリーを、勧めている。
「いい匂い? ありがとう」
樹は、手の甲に鼻を近づけ、嗅ぐ仕草をする。
そうそう。ゲームでは、手の甲に香水をかけて、樹はその匂いを確かめるのだ。
思い出しながら見ていると、樹と目が合った。彼は顔から手を離す。その手が、こちらに差し伸べられる。
「え?」
ひんやりした手が、私の頬に触れた。
意味がわからなくて、動けなかった。樹の顔が近づいてきて、首元に寄せられる。
「……でも」
「樹先輩?」
何これ。
動揺に、声が震える。
「……あ、ごめん。良い匂いがしたから、つい」
悪びれない笑顔を浮かべ、樹は言った。その視線が、ふっと脇へ逸れる。
「……あーあ、この書類、片付けなきゃ」
張り詰めた糸が途切れた感じがして、私は息を吐く。心臓が、どきどきしていることに気づいた。あまりの驚きに、脈拍が上がったらしい。
「大変ですね」
「そうなんだよ。藤乃ちゃん、手伝ってくれない?」
「いえ、今日はちょっと」
生徒会の手伝いは、断ると決めている。私は直ぐに断り、代わりに図書室の鍵を取った。
「すみません、樹先輩。失礼します」
「うん。またいつでもおいでー」
床に屈んで書類を拾い上げる樹の、のんびりとした声が返ってくる。
私は、逃げるように生徒会室を出た。
そのまま、早足で廊下を進む。
なんだったの、あれは。
本当に。なんだったの。
先ほどの出来事を思い返すと、動揺が再燃する。いくら樹が変わっているとはいえ、こんな対応、今までされたことはない。
どう考えても、おかしかった。
「あれ、藤乃さん」
図書室へ向かう途中で、話しかけられる。
耳に馴染んだ声に、私は立ち止まった。
「慧先輩」
「鍵、取ってきてくれたんだね。ありがとう。ごめんね、遅くなって」
柔らかな声と、頬に浮かぶえくぼ。
安堵して、肩に入っていた緊張が、一気に抜ける。
「ほんとですよぉ……」
心の底からそう言うと、レンズ越しの慧の目が、軽く見開かれた。
「わっ。……泉さん」
「暑いのに、外で食べてるんだね」
じりじりと照る太陽は眩しいので、最近は、日陰を選んで昼食を食べている。
土と海の混ざったような香りは、夏帆のものだ。遠くに見える海面が、きらきらと輝いている。その輝きも、夏そのものに見える。
ゆったりと呼吸をする私に、そう声をかけてきたのは、泉だった。
向日葵みたいな彼女には、夏がよく似合う。眩しい日差しの中で、笑顔が輝いていた。
「久しぶりね、一緒にお昼を食べるのは」
「そうだね。ちょっと暑いから、足が向かなくって」
言われてみれば、泉は暑くなってから、あまり顔を出していない。
そういうことだったのか。私は頷く。
「今日も暑いのに、どうしたの?」
「たまには藤乃さんと話したくって。それに……なんだか早苗さん、最近はお昼を、食堂で食べていないから。行くところがひとつなくなったの」
泉は、「クラス全員と友達になりたい」という言葉通り、昼食もいろいろな人と食べている。
仲の良い早苗が、食堂で昼食を食べなくなったから、その分私のところへ来たということらしい。
「……そう。食堂で食べていないのね」
「うん。彼は、一緒じゃないみたい。今食堂に行けば、海斗様と、ふたりでご飯が食べられるかも」
それで、泉が私のところへ来たことに合点がいく。
彼女は、私と海斗の婚約関係を知った上で、海斗と早苗が親しくしていることを、心配している。昼に早苗がどこかへ行っているから、関係修復のチャンスだ、と教えてくれているのだ。
「……ありがとう」
私のためにしてくれたことだ。礼を言うと、泉はにこっと、花の咲くような表情をする。
「なんなら、今からでも……」
「ううん、それは止めておくわ」
泉の、私への思いやりは、ありがたく受け取る。だからと言って、彼女の期待に、無理に応える必要はない。
「そう? ならいいけど。行きたくなったら行こうね」
期待に応えなくても、泉が気を悪くすることはない。学外活動のときに、私にはそれがわかった。
今回もその通りで、私の断りを、泉はさらりと流した。
「……それにしても、早苗さんは、どこに行っているのかしら」
むしろ私が気になるのは、そちらの方だ。
ゲームでは、昼休みにも選択肢があり、行く場所によってステータスが上がったりイベントが起きたりする。
海斗と一緒に昼食を食べるのは、海斗絡みのイベントを起こすためだ。では、海斗と食べていないということは。
「なんだか、生徒会室に行っているみたいよ」
それは、わかり切った答え合わせ。
不服そうな泉の言葉に、やっぱり、と思う。
彼女は、着々と樹のストーリーを進めているのだ。
「……香水とか、買ったのかしら」
「あ、藤乃さんも聞いてたのね。朝の話」
「朝の……?」
話の続きを、目で促す。泉は「うん」と受けて、話を続けた。
「言ってたじゃない。早苗さん、プレゼントの香水を買ってきたから、今日渡すんだ、って」
「今日……」
「そうよ。可愛い小袋を持って、今日のお昼は、生徒会室で食べるって」
その会話を直接耳にしたわけではない。しかし、その内容は、よく知っている。
「どうかと思うわ、わたし。複数の男性と、親密になるのって」
正義感の強い泉は、そう憤った。
「……そうねえ」
彼女の言うことは真っ当だが、その憤りに共感はできなくて、生返事になってしまう。
香水を贈るのは、今日。
ゲーム通りに、ストーリーが進んでいるではないか。
「恐ろしいことだわ」
本当に。
海斗のストーリーを進行せず、樹のストーリーばかり進めたら、早苗の思い通りに進んでしまうのかもしれない。
「いいのかなあ……何も言わなくて。藤乃さん、本当にいいの?」
「良くないわ」
私は言った。早苗の思惑を阻止したい。思考が急速に巡る。
「私ね、海斗さんのことは、もう諦めてもいいの。だけど……彼の気持ちを蔑ろにして、他の男性と親しくするのは、良くないと思うわ」
私が目指すのは、早苗と海斗のストーリーを進めること。樹と親しくなりたい、彼女の狙いを挫くこと。
「そうなんだ……藤乃さん、身を引く覚悟なのね」
「ええ」
身を引く覚悟、なんて言い方は、ずいぶん聞こえが良い。
泉を見ると、彼女は痛ましい表情をしていた。
「なのに、早苗さんは……」
「……困ったわね」
私は頬に掌を当て、考える。
視線だけ、泉に向ける。
伺うように、こちらを見ている彼女。
彼女はいつも、「行動するときは応援するよ」と言ってくれる。
利用していいんだろうか、という逡巡は、一瞬だった。
私は悪役なのだ。
「泉さん……どうしたら、早苗さんが生徒会室に行くのを、止められるかしら」
相談を持ちかけると、泉の表情は、ぱっと明るくなった。向日葵だ。その曇りない笑顔に、少し良心が痛む。
「嬉しいわ、相談してくれて!」
しかし、泉は、頼まれることを望んでいる。それなら構わないだろう、と気を取り直した。
「なら、お昼ご飯は、もっとしっかり誘ってみるね。帰りも、誘えそうな感じだったら、お出かけに誘ってみる」
「いいの? 助かるわ」
「もちろん。それにわたしも、もっと早苗さんと話したいもの。最近彼女、前にも増して付き合いが悪くって」
屈託のない笑顔。そんな風に明るく笑ってもらえると、自分の頼みは間違いではなかったのだと思える。
「ありがとう、泉さん」
「いいの。藤乃さん、強がりだから。頼ってもらえて嬉しい」
「強がり? そうかしら」
首を傾げると、泉はあはは、と声を上げて笑った。
「気づいてないんだね、藤乃さん。また困ったことがあったら、いつでも相談してね。わたし、できるだけ協力するから」
「ありがとう……!」
何と心強いことだろう。
「なら私、ちょっと生徒会室に寄ってから教室に行ってみようかしら。藤乃さん、また話しましょう!」
身を翻し、軽やかに屋上を出て行く。その花のような泉の笑顔が、本当に、頼もしく見えた。
「ねえ、早苗さん、今日はお暇?」
「今日? 生徒会の活動があるけど……」
「そう……。寂しいわ、最近、前にも増して付き合い悪い気がする」
放課後。早々に、泉が早苗に誘いをかけていた。
早苗が生徒会室に行かなければ、ストーリーは進められない。そこで生まれた時間で、私はゲームの続きを確認できる。
ありがたい。
泉の方を見ると、目が合った。泉は、目だけで微かに笑う。
「うーん……どうしようかな」
「僕は今日は行かないよ。早苗も、たまにはいいんじゃない?」
「そう?」
泉たちの会話に、海斗も加わっている。彼は彼で、気が気でないのだろう。
そんな微妙な均衡を保った会話を後にし、私は図書室へ向かう。
「……あら。空いてない」
図書室の鍵は、まだ締まっていた。
珍しい。慧が私より遅れることなんて、今までなかった。
何か用事があったのかも知れない。
私は、来た道を引き返す。
慧からは、念のためにと、図書室の開け方を教わっている。
「失礼します」
コンコン、と扉をノックする。
「はーい」
返事を受けて、入室した。
「図書室の鍵を借りに来ました」
生徒が借りられる図書室の鍵は、生徒会室で管理されている。慧にそう教わったので、私は鍵を借りに来たのだ。
生徒会室は、さほど広くはない。部屋の中央に大きな机があり、その上に大量の書類が積まれている。
「どうぞ……って、藤乃ちゃん?」
積まれた書類の向こうから、樹が、ひょいと顔を出した。
「こんにちは、樹先輩」
「どうしたの? 珍しいね」
目を細めて笑う樹の目の前で、書類の山が崩れかける。
「お……っと」
樹が両手を差し出す。その勢いに煽られて、かえって紙が舞い上がった。
「危ないっ」
支えようと私も手を差し出したが、相手は紙。崩れた山はそのまま、崩れ落ちる。
勢い余って、机の上に上体が乗る。対岸から、樹もこちらへ滑り込んできた。
私たちの頭の上から、紙が降り落ちてくる。
「すみません、支えられなくて」
「いや……ごめんね、見苦しいところを見せて」
横を見ると、ちょうど樹と目が合う。苦笑する彼は、やっぱり猫に似ている。
「この書類、どうしたんですか?」
「いやあ……おれ、苦手なんだよ。こういう紙物」
「へえ、そうなんですか」
起き上がると、顔に載っていた紙がばさりと落ちる。
「そう。ああ、ごめん、埃もついちゃって」
同様に上体を起こした樹が、テーブルを回ってこちらへ来る。手が伸びてきたので、私は動きを止めた。
髪についていたらしい埃を、樹が指先で摘む。そのとき、ふわ、と甘い香りがした。
「いい匂いですね」
思わず、口をついて出る。言ってから、これは早苗の匂いだ、と思った。甘く、蕩けるような、濃い匂い。
早苗はやはり、昼に香水をプレゼントしたのだ。着々と、樹のストーリーを、勧めている。
「いい匂い? ありがとう」
樹は、手の甲に鼻を近づけ、嗅ぐ仕草をする。
そうそう。ゲームでは、手の甲に香水をかけて、樹はその匂いを確かめるのだ。
思い出しながら見ていると、樹と目が合った。彼は顔から手を離す。その手が、こちらに差し伸べられる。
「え?」
ひんやりした手が、私の頬に触れた。
意味がわからなくて、動けなかった。樹の顔が近づいてきて、首元に寄せられる。
「……でも」
「樹先輩?」
何これ。
動揺に、声が震える。
「……あ、ごめん。良い匂いがしたから、つい」
悪びれない笑顔を浮かべ、樹は言った。その視線が、ふっと脇へ逸れる。
「……あーあ、この書類、片付けなきゃ」
張り詰めた糸が途切れた感じがして、私は息を吐く。心臓が、どきどきしていることに気づいた。あまりの驚きに、脈拍が上がったらしい。
「大変ですね」
「そうなんだよ。藤乃ちゃん、手伝ってくれない?」
「いえ、今日はちょっと」
生徒会の手伝いは、断ると決めている。私は直ぐに断り、代わりに図書室の鍵を取った。
「すみません、樹先輩。失礼します」
「うん。またいつでもおいでー」
床に屈んで書類を拾い上げる樹の、のんびりとした声が返ってくる。
私は、逃げるように生徒会室を出た。
そのまま、早足で廊下を進む。
なんだったの、あれは。
本当に。なんだったの。
先ほどの出来事を思い返すと、動揺が再燃する。いくら樹が変わっているとはいえ、こんな対応、今までされたことはない。
どう考えても、おかしかった。
「あれ、藤乃さん」
図書室へ向かう途中で、話しかけられる。
耳に馴染んだ声に、私は立ち止まった。
「慧先輩」
「鍵、取ってきてくれたんだね。ありがとう。ごめんね、遅くなって」
柔らかな声と、頬に浮かぶえくぼ。
安堵して、肩に入っていた緊張が、一気に抜ける。
「ほんとですよぉ……」
心の底からそう言うと、レンズ越しの慧の目が、軽く見開かれた。
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だからこっちに熱い眼差しを送らないで!
答えられないんです!
これは悪役令嬢(?)の侯爵令嬢があるかもしれない破滅フラグを手探りで回避しようとするお話。
または前世の記憶から臆病になっている彼女が再び大切な人を見つけるお話。
小説家になろうでも投稿してます。
こちらは全話投稿してますので、先を読みたいと思ってくださればそちらからもよろしくお願いします。
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