嫉妬とマゾヒズム

いちば なげのぶ

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第8章 交わり

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 山手線五反田駅から徒歩で7~8分にある雑居ビル、3階にある新興企業のオフィス。
「弊社を採用いただきありがとうございます」
 名刺交換を終えた宇佐美光里がお礼を述べる、(株)トレンド32スワンの営業担当と社長の宇佐美光里が契約書を交わす為に来訪している。
「いえ、ウチが抱える最大のリスクへの対処ですので」
 マッチングアプリで急成長中の集団を率いる40代の最高経営責任者(CEO)が謙虚な姿勢で応える。
「大ヒット商品で急成長している御社だからこそレピュテーションリスクを理解されている、正しい判断だと思います」
 宇佐美光里の言葉にCEOは大きく頷いている、彼は自分の会社の最大の強みが最大の弱みでもあることを起業した時点から分かっている、一つの商品が大ヒットした企業は過去に類を見ない資金を次への成長に向けて投下する、その最中に、大ヒット商品や会社への悪評や誹謗中傷で想定外の事態が生じて会社が傾く危険に晒される場合がある、ネガティブ情報の拡散で企業価値が毀損し損失が生じる、そのリスクをレピュテーションリスクと呼ぶ。
「スワンさんと出会えたことは運が良かったと思います。ネット監視を始めたのは最近だと聞いていますが」
 CEOの関心は、今回の契約のメインになっているネット監視にあるようだ。
「必然的にそこに至っております、弊社は中小企業様の訴訟手続きをAIを使って進めておりますが投稿内容を証拠として押さえる事も増えてきていたのです、始めたのは3年前からです」
 宇佐美光里が説明を始める。
「今の時代、ほんとに何でもありですから」
 ぽつんと呟いたCEOのこの言葉の意味は深い、自社のアプリでうまくマッチングできなかった人や実際に会った後で断られた人などから悪意のある投稿が寄せられることは少なくない、逆に顧客がこのアプリで悪徳業者に釣られてしまうこともある、警察が摘発するためにCEOの会社は協力している。
「本当は監視することで訴訟に至る前に解決できた事案も多かったハズなのです」
 契約をスムーズに進めることを意識した内容を込める宇佐美光里。
「その通りだと思います」
 CEOは今までに起きたトラブルを頭に描いているのだろう。
「企業間は訴訟前に解決する方向に舵が切られています、訴訟に掛かる時間も費用もその企業自身の体力を疲労させます、顧客企業が訴訟前解決に至るためにも弊社内にネット監視部門の立ち上げが必須でした、弊社のシステムが入っていることをそれとなく相手側に知らせることでいつでも訴訟を起こせると相手に思わせるのです」
 建設的な話し合いをCEOと持ち、無事に契約を終えた宇佐美光里は担当と共に会社に戻る、まっすぐ社に戻ったのは約束が入っているからだ。
 宇佐美光里の会社は台東区池之端にある、最寄り駅は文京区根津駅。
 会社に戻った、この約束が終われば今日の業務は終了する、社長室の内鍵を掛けてスーツにパンプスからスキニーパンツにスニーカーに着替える。
「常務を呼んで」
 常務の松下博信が社長室にやって来る、彼は共同設立者でもある、宇佐美光里が大学院にいた時の先輩で二人ともディープラーニング研究室にいた、人工知能(AI)を急速に発展させる技術である深層学習(ディープラーニング)を研究、宇佐美光里が松下博信に声掛けして起業している。
 株式会社トレンド32スワンの社名の由来は、あり得ない出来事で強い衝撃を与える現象を指すブラックスワン(黒い白鳥)、そのブラックスワンが起きた時でも迅速に対応していくことを念頭に置いて「社名は優しくて可愛い感じにしたいの、ミニスワンと名付けるつもり」だと松下に話したところ頭ごなしに反対されさらに怒られて喧嘩に、二人の妥協の産物が社名なので、聞かれた場合は「小さな白鳥が時代の流れに乗って飛んでいるイメージ」と答えている、社名の由来を聞かれるケースも多くなり宇佐美光里の不満は溜まる一方だ。
 みつつ証券の公開引受部の方がお見えになりましたと、連絡が入る。
 宇佐美光里と松下博信が起業したのは10年前、二人が25歳と27歳の時だ、3年前に松下博信が中心となって開発したネット監視システムの成功で業績が急拡大し、証券各社が株式公開の話を持ち込み始めた、二人が選んだのがみつつ証券だった、公開までみつつ証券の公開引受部が面倒を見る。
「先日もお話ししましたが高円寺にある保養所、これなんとかしないと公開は難しいです。解決策は出来ましたでしょうか」
 眼鏡を掛けた40代半ばと思われる担当が二人を前にして事務的に答えを求めてくる、この担当を二人は信頼している。
「解決策は見つけました、結果として社長交代になりますが上場には問題がないでしょうか」
「えっ、どういうことでしょうか」
 宇佐美光里が座り直す。
「私が常務になり松下が社長になります」
 宇佐美光里に悲壮感はない、むしろ、気持ちに張りがあり前向きな感じさえする。

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