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シーズンⅠ-8 紗栄子の憂鬱
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同じく、二〇〇七年二月。
東北最大都市の刻文市玄関口の刻文駅から歩いても五分の場所。
市街中心部にそびえ立つ東北最大にして日本でも有数の地方銀行である刻文銀行本店十四階建てビルの七階にある頭取室。
刻文銀行頭取の刻文正和《こくぶんまさかず》は、本店営業部係長をしている息子の正臣《まさおみ》、経営企画部にいる昨年三十歳で嫁いだ娘の内田紗栄子《うちださえこ》、そして大友茂雄《おおともしげお》副頭取と頭取室のソファで向かい合っていた。
刻文正和頭取は大友副頭取の言葉に眉をひそめていた。
「副頭取、民自党はその方向で間違いないんだね」
「はい。東京支店で民自党に張り付かせている人間からの報告ですので間違いはありません」
刻文正和が大友副頭取から受けた報告は、州都を北部市にする方向に決まったというものだった。
政府・民自党総裁の竹田慎一郎《たけだしんいちろう》が昨年、総理になった時に道州制《どうしゅうせい》の議論が一気に進んだことが背景にある。
道州制で想定される九つの地域。
九つの地域でそれぞれがトップバンクとして君臨している九銀行は、この先、どこかの時点で九つが揃って同時に提携するための下準備に秘かに入っていた。
道州制では県が消え、北海道と八つの州が誕生する。
いくつかある案の中でこれが最良と傾いていた。
東北では、津刈、安西、北部の北東北三県と刻文、茂上、星那の南東北三県に別れる案もあったが最終的には東北州として一つになる案が採用されていた。
津刈の宗家は銀行、安西の宗家は新聞社、北部の宗家は学園。
刻文、茂上、星那の宗家はすべて銀行だ。
道州制では財源は道州に移譲される。
政府が担うのは外交と国防がその中心になり、日本民族としての教育も政府が担う。
先進各国で採用が多い連邦制と決定的に違うのは、道州制では統治権が政府にある点であり、その源泉は国会にある。
我が国の道州制が狙うのは、地方の活性化が第一義となる。
そのため州都が経済規模最大都市になるとは限らない。
むしろならないと考えた方が自然と言える。
それが刻文銀行を含む九つの銀行の結論だった。
東北州の経済拠点は間違いなく刻文市だが、州都の案は北部市がその有力候補の一つに入っていた。
それが確定した。
その報告をたった今、大友副頭取から受けたのだ。
北部の県庁所在地である北部市が州都に決まった。
「頭取、東北州誕生時の州都北部市におよそ経済とはほど遠い北部宗家が中心にいるのは納得できません」
長男の正臣が、真っ向から反対してきた。
「私たち刻文宗家が銀行なんだから黙って刻文市を州都にしてもよさそうなものだけど。何も学園が宗家の街に持っていかなくても、柏崎先生はなにをしておられたのかしら」
妹の紗栄子が言うのはもっともだが、本質から外れている。
刻文銀行頭取の正和は内々でおこなわれている九行頭取会合で道州制がもたらす地方活性化の意味も意義も理解し、その実現はこの国を豊かにすると信じている。
そのためにも州都は経済規模最大都市とは別にする案は最良なのだ。
それを知っているから刻文出身の代議士柏崎も動いていない。
「紗栄子よく聞きなさい。州都は経済最大都市じゃないほうが地方活性化ができる、このことは決定事項に等しいと我々九行はすでに結論づけている」
正和は、一呼吸置いて続けた。
「問題はそこじゃない。東北州の経済規模はデンマークやオーストリアより上だというのに、その州都におよそ経済活動とは相容れない学園が君臨していることは、東北州の未来の足枷になる」
大友副頭取が、あとはわたくしが説明しますと、話を継いでくれた。
「紗栄子様、頭取のおっしゃる通りです。北部市が州都に決まった場合の対策はずいぶん前から頭取と話し合いをもっております。正臣様と紗栄子様にはまだお伝えしておりませぬが、頭取のお考えは北部宗家を名目上の宗家に棚上げして北部銀行に実権を握らせると言うことなのです」
普段の大友は二人を様付けで呼ぶことは、もちろんしない。
この場だからであるのは皆知っている。
正和は大友の説明に息をのんでいる二人の子供を見渡した。
しばらく時間を置き、そして告げた。
「いまから言うことをよく聞いて欲しい。私は刻文宗家の当主として王道をいくつもりだ」
これから話すのは大友以外の誰も知らない話だ。
「王道を押し進め未来の足枷になる北部学園を取り除く。そのために、刻文学園に東北六家の学園すべてを統合させるつもりだ」
正臣と紗栄子の表情が動かなくなったのが分かる。
相当な衝撃なのだろう。
「知っての通り刻文学園の規模は抜きん出ている。学園の配下にある大学、短大、高校、中学、幼稚園のどれをとっても東北六家の他の学園とは規模が違う」
「・・・・・・」
「少子化の流れは地方都市の疲弊に繋がる、経営統合することでそれぞれの学園は今のままの名前で財務活動から切り離されて特色のある独自性を出せる」
二人ともまだ表情が固まったままだが正和はそのまま続けた。
「その独自性が東北州の未来を支える人材を今より輩出できるはずだ。北部学園にもそこに専念してもらう」
やっと紗栄子の表情が動いたが、兄の正臣の方は固まったままだ。
「お父様。北部宗家という肩書だけ残して実体は北部銀行に握らせて我々がそのバックにつく。そして、北部学園を刻文学園の傘下に入れて学園経営に専念させるという認識でよろしいでしょうか」
紗栄子が確認を求めてきた。
「そうだ」
「学園が宗家の北部がこれまで君臨してこれたのには歴史的なもの以外に何か秘密があるんでしょうか。そもそも東北六家に新聞社と学園の宗家があること自体、ずっと不思議でした」
紗栄子が食いついてきた。
「新聞社が宗家の安西の秘密と言うか力の源泉は分かっている。安西にはもう一つ右竹《うたけ》家という宗家が存在する。安西と右竹で宗家が入れ替わるのは東北六家でも周知の事実なのは二人とも知ってるだろう。但し、ずっと入れ替わっていないが。何故だか分かるか?」
「右竹家が何を家業にしているのかも分かりません。教えてください、お父さま」
「正臣はどうだ」
「申し訳ありません。悔しいですが右竹については何一つ知りません」
「そうか。入れ替わらないのは右竹家がそれを望んでいるからだ。右竹の表向きの家業は人材派遣業で社名はTUT人材派遣株式会社、優良企業だ。警察と自衛隊のOBをその地で数多く抱えている。さらにTUT経済研究所、ここに寄付金と言う名目で資金を集めている。最大の収入源は産廃らしい。らしいと言ったのは、我々もそこまで詳細には掴めていないからだ。安西の支配者は実質的にずっと右竹家だった可能性すらある」
「右竹は金で転ばない家のようですね。扱いにくそう」
「紗栄子の言う通りだ、産業廃棄物までやっているとなると莫大な資金を持っているとみて間違いない。この右竹家がどこで何を仕掛けているのかが分からないという恐ろしさもある。一方の北部だが北部宗家は学園経営しかやっていないはずだ。規模的に見ても刻文に盾突くことは無いのでどこに北部の秘密が隠されているのかは何も知らない、というか調べたことはない。そんな状況だが、今回は東北の未来のために力づくでもやるつもりだ」
正和はもう一呼吸置いて続けた。
「これをやり遂げるには十年以上はかかると見ている。刻文学園理事長、刻文忠興《こくぶんただおき》の後継者に当たる刻文聖也《こくぶんせいや》、まだ弱冠二十一歳だが、彼を神輿として担いで進めていくつもりだ、本人はまだ知らない話だが」
正臣も紗栄子も大きく頷いている。
「もう一つは、中野家と手を結ぶつもりだ」
「中野家ですか」
紗栄子がオウム返してきたが、二人の顔を見ていると中野家と聞いてもすぐには思い浮かばないようだ。
「刻文に居ると見えないが、北部での中野家の地位は非常に高い、なにより反北部として名が通っている。しかも現在の中野家当主の中野壮一は北部銀行の取締役で実権を握らせるには最良の人物だと言える。我々刻文銀行がその後ろ盾になる。中野壮一だけでなくそれ以降の北部銀行頭取も中野家が管理できる人物にさせ我々が後見人になる。それが東北州の経済発展には欠かせない。どうだ」
前のめりになって聞いていた正臣が、すかざず応えた。
「頭取、いやお父さん。私が当主になる頃にはそれを引き継ぐと思っていいのでしょうか」
「ばか者が。道州制をよく調べてみろ、国会で決議されたら、はいそうですか、と簡単に移行できるものじゃない。第一、国を挙げた議論が先だし今そういう風向きになっているがまだまだこれからだ。十年以上かかる未来の話をしているが、そのすべてを私が頭取としてやりきり、東北州が誕生して落ち着きを見てからお前に譲る。歴史に残る一大事業を今の九行体制でやり抜く、九つの銀行は同志なのだ。わかったか」
「お父さんの話を聞いていたら現実性があり落としどころも見えていたので、譲り受けた後の大変さが分かりました。いまからその準備を私もしておこうと・・・出過ぎたまねをしてしまいました」
「そうか。分かってくれればそれでよし。紗栄子はどうなんだ」
「お父様。学園統合の神輿に聖也君を担ぐのでしたら、聖也君に話をつけるのは私にやらせてください。私たち夫婦と聖也君はとても仲がいいの」
紗栄子夫婦と聖也が仲がいいとは、正和は初耳だった。
聖也と紗栄子は十歳、紗栄子の夫の内田慎之介《うちだしんのすけ》とは十五歳離れているはずだ。
学園の案件は紗栄子に任せるのもいいだろう。
宗家の人間として中心に居ることで紗栄子が活かせる。
紗栄子には経営の才がある。
何事にもそつが無くそれでいて大局観を持っている。
何かあれば紗栄子なら大事になる前に私に相談してくる。
「こんな極秘の話に慎之介さんはお門違いだろう。水商売の人なんだし」
正臣が横槍を入れてきた。
妹を気遣うなどという発想がない正臣は一事が万事この調子で先が思いやられる。
「お兄様、言い方に気をつけて下さいませ。内田家はれっきとしたビル経営者で、その規模も資産も含めて当行では最優良顧客ですから、歴史だってしっかりしてます」
そのとおりだった。
内田家が経営する内田興産が保有する中規模クラスのビル三棟の一つの中で、内田慎之介自らがクラブ経営をおこなっていた。
刻文市の夜の世界で言えば、そのクラブは上《じょう》の下《げ》に位置している。
あえて目立たないように料金設定も上クラスの中では最低価格帯にしていた。
もともと刻文銀行が使っていたいくつかある接待場所の一つなので、客層もいい。
役員達も接待とは別に行員を連れていき夜の社交を覚えさせるのに使っていた。
紗栄子はそこで店長をしていた内田慎之介に惚れたのだ。
内田慎之介がビルオーナーとは知らずにお付き合いを始めた紗栄子を、兄の正臣が揶揄しているのがありありと出ている。
正和はそんな大人げない息子の正臣を見て、紗栄子が男だったらと思わずにはいられなかった。
「聖也に話をつける役目は紗栄子に任せる。決定事項だ。慎之介君とよく相談して聖也をコントロールしてくれ」
正和は続けた。
「最後に言っておくことがある」
正和は決意のほどを自分に言い聞かせるように話した。
「我が国にある四十七都道府県という行政単位は今では文化や生活の単位として根付いている」
「・・・・・・」
「県民性という言葉がそれをよく表している。道州制は百二十年以上続くこの行政単位の再編成に他ならない」
「百二十年ですか」
紗栄子がふっと言葉を漏らした。
「県知事や県議会議員、県職員にはリストラと映る。それにより議論が立ち往生する可能性も大きい。その場合であっても学園統合は進めるつもりだ、その覚悟でいてくれ。・・・今日は、以上だ」
****
頭取室を出た内田紗栄子は、経営企画部にすぐには戻らず大きめのカフェも備えている社員食堂に向かいホットココアを注文した。
どのテーブルもこの時間は空いている。
受け取ったココアを持って一番窓際のテーブルを選んで腰掛けた。
紗栄子は足を組んで背もたれに身を任せ、頭取室での話を頭の中で再現し始めた。
再現した結果、紗栄子が活躍できる場はやはり学園統合にあると思えた。
学園統合の中枢に紗栄子がいることを父親は許すだろう。
戦略的に一番いいのは、表に刻文聖也を出して裏で操る方法だがそれは難しいというか出来ない。
刻文聖也の本質が支配者だからだ。
刻文の将来にとって貴重な存在が聖也だと紗栄子の父親は思っているはず。
紗栄子自身もそう思っている。
表の聖也は自分の意志で動く。
裏で支えるのが紗栄子の役どころになる。
紗栄子がどう学園統合の手立てを工夫するかで真価が問われることになるだろう。
十年以上かかるかも知れない。
ストレスが溜まる仕事になりそうだと思ったが、今の慎之介さんとの関係を思うと溜まったストレスの発散場所がない。
紗栄子は夫の慎之介の顔を思い浮かべたが、やはり気が重い。
気が付いたら紗栄子はココアを既に飲み干していた。
****
紗栄子は妊娠していた。
三ヵ月目に入ったことが分かり母子健康手帳をもらったので、さっきの会合が終わった後で頭取室を出る前に父親に報告しようかと一瞬考えたが止めていた。
嫁ぎ先の御両親に報告を上げるのが筋だからだ。
夫の慎之介との間にできた子供なので何の問題もなく素直に喜びたいが、妊娠した経緯は二人だけの秘密にしないと大変なことになる。
紗栄子の兄の正臣に知られたらそれこそ取り返しがつかなくなる。
紗栄子は兄の正臣と共に英才教育を受け、紗栄子自身は刻文女学院時代に中学と高校でオーストラリアとアメリカにホームスティに行き、大学はアメリカで経済学を学んだ。
そのアメリカで紗栄子は衝撃を受けた。
世界最強の国家にも拘《かか》わらず女性の地位が低く、女性が差別されている、女性が軽視され蔑視されていると感じた。
アメリカには、女性が突き破ることのできない『ガラスの天井』が歴然として存在している。
差別を覆い隠すためにレディーファーストという概念があることを身をもって知った。
紗栄子がアメリカに滞在した一九九五年からの四年の間で、女性の人権を守り高めるべく活動する姿で紗栄子の心を掴んだ女性がいた。
その女性は合衆国のファーストレディーだった。
一九九五年に第四回世界女性会議が北京で開催され、アメリカ合衆国のファーストレディであるヒラリー・クリントン女史が北京でおこなった演説はその後の女性の人権問題に大きく影響したと紗栄子は思っている。
ヒラリー女史は、夫の大統領職の任期が切れる直前の二〇〇〇年に上院議員に立候補し既に再選を果たしていて、来年の二〇〇八年十一月に行われるアメリカ大統領選挙の最有力候補としてガラスの天井を打ち砕く最初の女性になりそうだと話題になっていた。
紗栄子はヒラリー・クリントンの言動を克明に追いかけている。
ヒラリーウオッチャーだが、誰にも話したことはない。
紗栄子は自分が誰よりも恵まれていることを客観的に理解している。
東北最大の刻文銀行本店経営企画部に在籍しているのもその表れの一つだ。
仕事のやりがいは半端なくある。
・・・だが。
刻文宗家の後継者である兄の刻文正臣の考え方や行動を受け入れることは決してできない。
紗栄子と兄の正臣は水と油だ、生涯に亘り融和することはない。
紗栄子の中にある兄の正臣の正体は、父親以外をすべて格下として扱い軽蔑するとんでもない輩《やから》だった。
特に女性に対する言動は許せないレベルを超えている、女性をいったい何だと思っているのだろう、初めから能力がないと決めてかかっている。
兄の正臣は、紗栄子が水商売の男に惚れたバカな女だという考えを改めることは決してないだろう。
そんな兄の正臣がもし、夫の慎之介が心因性EDで妻と性交渉ができずしかも同性愛者だと知ったら何をしてくるか分からない。
噂を広めることを何とも思わないでやるだろうし、その噂には必ず嘘が含まれる。
最後には、紗栄子が何らかの形で悪者にされるはずだ。
結婚してみて夜の営みがまったく出来ないことが分かった。
紗栄子以上に慎之介が受けた衝撃は相当大きかったようだ。
紗栄子が慎之介を好きになって電撃結婚に至ったのだが、夫の方も偽装結婚などという考えはまったく持っていなかったと悲痛な表情を浮かべた後で、行為の場でうな垂れたままで動かなくなってしまい慰めるしか紗栄子にはできなかった。
夫は、夫婦生活も含め紗栄子と共に人生を歩んでいこうと決めて結婚に踏み切ったとその決断までの心の葛藤を教えてくれた。
紗栄子夫婦は話し合った末に、医者に診てもらう決断をして二人で東京に行くことにしたがそこでまた衝撃を受けることになるとは夢にも思わなかった。
診てもらった医者の質問に夫は、同性なら問題なく勃起も射精も可能で、現に今までは問題はなかったと話したのだ。
紗栄子の前では、大切な女性と向き合って愛する行為をすると思うことが引き金になって心因性EDつまり勃起不全を誘発していると医者は診断した。
二人で話し合って人工授精を決断し、その都度、周りに隠れて東京に行きなんとか六回目で受精することができた。いまは、妊娠三ヵ月目に入り東京の病院から刻文市の産婦人科を紹介されたのでやっと両家に報告するところまでたどり着くことができた。
今にして思えば、紗栄子が慎之介を好きになった第一がその中性的な顔立ちだった。
少し愁いを帯びた男性でも女性でもないような不思議な瞳というか目線と、発せられる丁寧な言葉遣いにも惹かれた。
紗栄子は自分が極めてノーマルだと思っている。
これから先も、慎之介を尊敬し心が通い合えるとも信じている。
だが、このストレスをどうしたらいいのか。
いつもならお酒に逃げて紛らわすが、出産まで禁酒の誓いを立てている。
どうすればいいのか。
紗栄子は飲み干したココアのカップを手にしたままでしばらく動けないでいた。
東北最大都市の刻文市玄関口の刻文駅から歩いても五分の場所。
市街中心部にそびえ立つ東北最大にして日本でも有数の地方銀行である刻文銀行本店十四階建てビルの七階にある頭取室。
刻文銀行頭取の刻文正和《こくぶんまさかず》は、本店営業部係長をしている息子の正臣《まさおみ》、経営企画部にいる昨年三十歳で嫁いだ娘の内田紗栄子《うちださえこ》、そして大友茂雄《おおともしげお》副頭取と頭取室のソファで向かい合っていた。
刻文正和頭取は大友副頭取の言葉に眉をひそめていた。
「副頭取、民自党はその方向で間違いないんだね」
「はい。東京支店で民自党に張り付かせている人間からの報告ですので間違いはありません」
刻文正和が大友副頭取から受けた報告は、州都を北部市にする方向に決まったというものだった。
政府・民自党総裁の竹田慎一郎《たけだしんいちろう》が昨年、総理になった時に道州制《どうしゅうせい》の議論が一気に進んだことが背景にある。
道州制で想定される九つの地域。
九つの地域でそれぞれがトップバンクとして君臨している九銀行は、この先、どこかの時点で九つが揃って同時に提携するための下準備に秘かに入っていた。
道州制では県が消え、北海道と八つの州が誕生する。
いくつかある案の中でこれが最良と傾いていた。
東北では、津刈、安西、北部の北東北三県と刻文、茂上、星那の南東北三県に別れる案もあったが最終的には東北州として一つになる案が採用されていた。
津刈の宗家は銀行、安西の宗家は新聞社、北部の宗家は学園。
刻文、茂上、星那の宗家はすべて銀行だ。
道州制では財源は道州に移譲される。
政府が担うのは外交と国防がその中心になり、日本民族としての教育も政府が担う。
先進各国で採用が多い連邦制と決定的に違うのは、道州制では統治権が政府にある点であり、その源泉は国会にある。
我が国の道州制が狙うのは、地方の活性化が第一義となる。
そのため州都が経済規模最大都市になるとは限らない。
むしろならないと考えた方が自然と言える。
それが刻文銀行を含む九つの銀行の結論だった。
東北州の経済拠点は間違いなく刻文市だが、州都の案は北部市がその有力候補の一つに入っていた。
それが確定した。
その報告をたった今、大友副頭取から受けたのだ。
北部の県庁所在地である北部市が州都に決まった。
「頭取、東北州誕生時の州都北部市におよそ経済とはほど遠い北部宗家が中心にいるのは納得できません」
長男の正臣が、真っ向から反対してきた。
「私たち刻文宗家が銀行なんだから黙って刻文市を州都にしてもよさそうなものだけど。何も学園が宗家の街に持っていかなくても、柏崎先生はなにをしておられたのかしら」
妹の紗栄子が言うのはもっともだが、本質から外れている。
刻文銀行頭取の正和は内々でおこなわれている九行頭取会合で道州制がもたらす地方活性化の意味も意義も理解し、その実現はこの国を豊かにすると信じている。
そのためにも州都は経済規模最大都市とは別にする案は最良なのだ。
それを知っているから刻文出身の代議士柏崎も動いていない。
「紗栄子よく聞きなさい。州都は経済最大都市じゃないほうが地方活性化ができる、このことは決定事項に等しいと我々九行はすでに結論づけている」
正和は、一呼吸置いて続けた。
「問題はそこじゃない。東北州の経済規模はデンマークやオーストリアより上だというのに、その州都におよそ経済活動とは相容れない学園が君臨していることは、東北州の未来の足枷になる」
大友副頭取が、あとはわたくしが説明しますと、話を継いでくれた。
「紗栄子様、頭取のおっしゃる通りです。北部市が州都に決まった場合の対策はずいぶん前から頭取と話し合いをもっております。正臣様と紗栄子様にはまだお伝えしておりませぬが、頭取のお考えは北部宗家を名目上の宗家に棚上げして北部銀行に実権を握らせると言うことなのです」
普段の大友は二人を様付けで呼ぶことは、もちろんしない。
この場だからであるのは皆知っている。
正和は大友の説明に息をのんでいる二人の子供を見渡した。
しばらく時間を置き、そして告げた。
「いまから言うことをよく聞いて欲しい。私は刻文宗家の当主として王道をいくつもりだ」
これから話すのは大友以外の誰も知らない話だ。
「王道を押し進め未来の足枷になる北部学園を取り除く。そのために、刻文学園に東北六家の学園すべてを統合させるつもりだ」
正臣と紗栄子の表情が動かなくなったのが分かる。
相当な衝撃なのだろう。
「知っての通り刻文学園の規模は抜きん出ている。学園の配下にある大学、短大、高校、中学、幼稚園のどれをとっても東北六家の他の学園とは規模が違う」
「・・・・・・」
「少子化の流れは地方都市の疲弊に繋がる、経営統合することでそれぞれの学園は今のままの名前で財務活動から切り離されて特色のある独自性を出せる」
二人ともまだ表情が固まったままだが正和はそのまま続けた。
「その独自性が東北州の未来を支える人材を今より輩出できるはずだ。北部学園にもそこに専念してもらう」
やっと紗栄子の表情が動いたが、兄の正臣の方は固まったままだ。
「お父様。北部宗家という肩書だけ残して実体は北部銀行に握らせて我々がそのバックにつく。そして、北部学園を刻文学園の傘下に入れて学園経営に専念させるという認識でよろしいでしょうか」
紗栄子が確認を求めてきた。
「そうだ」
「学園が宗家の北部がこれまで君臨してこれたのには歴史的なもの以外に何か秘密があるんでしょうか。そもそも東北六家に新聞社と学園の宗家があること自体、ずっと不思議でした」
紗栄子が食いついてきた。
「新聞社が宗家の安西の秘密と言うか力の源泉は分かっている。安西にはもう一つ右竹《うたけ》家という宗家が存在する。安西と右竹で宗家が入れ替わるのは東北六家でも周知の事実なのは二人とも知ってるだろう。但し、ずっと入れ替わっていないが。何故だか分かるか?」
「右竹家が何を家業にしているのかも分かりません。教えてください、お父さま」
「正臣はどうだ」
「申し訳ありません。悔しいですが右竹については何一つ知りません」
「そうか。入れ替わらないのは右竹家がそれを望んでいるからだ。右竹の表向きの家業は人材派遣業で社名はTUT人材派遣株式会社、優良企業だ。警察と自衛隊のOBをその地で数多く抱えている。さらにTUT経済研究所、ここに寄付金と言う名目で資金を集めている。最大の収入源は産廃らしい。らしいと言ったのは、我々もそこまで詳細には掴めていないからだ。安西の支配者は実質的にずっと右竹家だった可能性すらある」
「右竹は金で転ばない家のようですね。扱いにくそう」
「紗栄子の言う通りだ、産業廃棄物までやっているとなると莫大な資金を持っているとみて間違いない。この右竹家がどこで何を仕掛けているのかが分からないという恐ろしさもある。一方の北部だが北部宗家は学園経営しかやっていないはずだ。規模的に見ても刻文に盾突くことは無いのでどこに北部の秘密が隠されているのかは何も知らない、というか調べたことはない。そんな状況だが、今回は東北の未来のために力づくでもやるつもりだ」
正和はもう一呼吸置いて続けた。
「これをやり遂げるには十年以上はかかると見ている。刻文学園理事長、刻文忠興《こくぶんただおき》の後継者に当たる刻文聖也《こくぶんせいや》、まだ弱冠二十一歳だが、彼を神輿として担いで進めていくつもりだ、本人はまだ知らない話だが」
正臣も紗栄子も大きく頷いている。
「もう一つは、中野家と手を結ぶつもりだ」
「中野家ですか」
紗栄子がオウム返してきたが、二人の顔を見ていると中野家と聞いてもすぐには思い浮かばないようだ。
「刻文に居ると見えないが、北部での中野家の地位は非常に高い、なにより反北部として名が通っている。しかも現在の中野家当主の中野壮一は北部銀行の取締役で実権を握らせるには最良の人物だと言える。我々刻文銀行がその後ろ盾になる。中野壮一だけでなくそれ以降の北部銀行頭取も中野家が管理できる人物にさせ我々が後見人になる。それが東北州の経済発展には欠かせない。どうだ」
前のめりになって聞いていた正臣が、すかざず応えた。
「頭取、いやお父さん。私が当主になる頃にはそれを引き継ぐと思っていいのでしょうか」
「ばか者が。道州制をよく調べてみろ、国会で決議されたら、はいそうですか、と簡単に移行できるものじゃない。第一、国を挙げた議論が先だし今そういう風向きになっているがまだまだこれからだ。十年以上かかる未来の話をしているが、そのすべてを私が頭取としてやりきり、東北州が誕生して落ち着きを見てからお前に譲る。歴史に残る一大事業を今の九行体制でやり抜く、九つの銀行は同志なのだ。わかったか」
「お父さんの話を聞いていたら現実性があり落としどころも見えていたので、譲り受けた後の大変さが分かりました。いまからその準備を私もしておこうと・・・出過ぎたまねをしてしまいました」
「そうか。分かってくれればそれでよし。紗栄子はどうなんだ」
「お父様。学園統合の神輿に聖也君を担ぐのでしたら、聖也君に話をつけるのは私にやらせてください。私たち夫婦と聖也君はとても仲がいいの」
紗栄子夫婦と聖也が仲がいいとは、正和は初耳だった。
聖也と紗栄子は十歳、紗栄子の夫の内田慎之介《うちだしんのすけ》とは十五歳離れているはずだ。
学園の案件は紗栄子に任せるのもいいだろう。
宗家の人間として中心に居ることで紗栄子が活かせる。
紗栄子には経営の才がある。
何事にもそつが無くそれでいて大局観を持っている。
何かあれば紗栄子なら大事になる前に私に相談してくる。
「こんな極秘の話に慎之介さんはお門違いだろう。水商売の人なんだし」
正臣が横槍を入れてきた。
妹を気遣うなどという発想がない正臣は一事が万事この調子で先が思いやられる。
「お兄様、言い方に気をつけて下さいませ。内田家はれっきとしたビル経営者で、その規模も資産も含めて当行では最優良顧客ですから、歴史だってしっかりしてます」
そのとおりだった。
内田家が経営する内田興産が保有する中規模クラスのビル三棟の一つの中で、内田慎之介自らがクラブ経営をおこなっていた。
刻文市の夜の世界で言えば、そのクラブは上《じょう》の下《げ》に位置している。
あえて目立たないように料金設定も上クラスの中では最低価格帯にしていた。
もともと刻文銀行が使っていたいくつかある接待場所の一つなので、客層もいい。
役員達も接待とは別に行員を連れていき夜の社交を覚えさせるのに使っていた。
紗栄子はそこで店長をしていた内田慎之介に惚れたのだ。
内田慎之介がビルオーナーとは知らずにお付き合いを始めた紗栄子を、兄の正臣が揶揄しているのがありありと出ている。
正和はそんな大人げない息子の正臣を見て、紗栄子が男だったらと思わずにはいられなかった。
「聖也に話をつける役目は紗栄子に任せる。決定事項だ。慎之介君とよく相談して聖也をコントロールしてくれ」
正和は続けた。
「最後に言っておくことがある」
正和は決意のほどを自分に言い聞かせるように話した。
「我が国にある四十七都道府県という行政単位は今では文化や生活の単位として根付いている」
「・・・・・・」
「県民性という言葉がそれをよく表している。道州制は百二十年以上続くこの行政単位の再編成に他ならない」
「百二十年ですか」
紗栄子がふっと言葉を漏らした。
「県知事や県議会議員、県職員にはリストラと映る。それにより議論が立ち往生する可能性も大きい。その場合であっても学園統合は進めるつもりだ、その覚悟でいてくれ。・・・今日は、以上だ」
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頭取室を出た内田紗栄子は、経営企画部にすぐには戻らず大きめのカフェも備えている社員食堂に向かいホットココアを注文した。
どのテーブルもこの時間は空いている。
受け取ったココアを持って一番窓際のテーブルを選んで腰掛けた。
紗栄子は足を組んで背もたれに身を任せ、頭取室での話を頭の中で再現し始めた。
再現した結果、紗栄子が活躍できる場はやはり学園統合にあると思えた。
学園統合の中枢に紗栄子がいることを父親は許すだろう。
戦略的に一番いいのは、表に刻文聖也を出して裏で操る方法だがそれは難しいというか出来ない。
刻文聖也の本質が支配者だからだ。
刻文の将来にとって貴重な存在が聖也だと紗栄子の父親は思っているはず。
紗栄子自身もそう思っている。
表の聖也は自分の意志で動く。
裏で支えるのが紗栄子の役どころになる。
紗栄子がどう学園統合の手立てを工夫するかで真価が問われることになるだろう。
十年以上かかるかも知れない。
ストレスが溜まる仕事になりそうだと思ったが、今の慎之介さんとの関係を思うと溜まったストレスの発散場所がない。
紗栄子は夫の慎之介の顔を思い浮かべたが、やはり気が重い。
気が付いたら紗栄子はココアを既に飲み干していた。
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紗栄子は妊娠していた。
三ヵ月目に入ったことが分かり母子健康手帳をもらったので、さっきの会合が終わった後で頭取室を出る前に父親に報告しようかと一瞬考えたが止めていた。
嫁ぎ先の御両親に報告を上げるのが筋だからだ。
夫の慎之介との間にできた子供なので何の問題もなく素直に喜びたいが、妊娠した経緯は二人だけの秘密にしないと大変なことになる。
紗栄子の兄の正臣に知られたらそれこそ取り返しがつかなくなる。
紗栄子は兄の正臣と共に英才教育を受け、紗栄子自身は刻文女学院時代に中学と高校でオーストラリアとアメリカにホームスティに行き、大学はアメリカで経済学を学んだ。
そのアメリカで紗栄子は衝撃を受けた。
世界最強の国家にも拘《かか》わらず女性の地位が低く、女性が差別されている、女性が軽視され蔑視されていると感じた。
アメリカには、女性が突き破ることのできない『ガラスの天井』が歴然として存在している。
差別を覆い隠すためにレディーファーストという概念があることを身をもって知った。
紗栄子がアメリカに滞在した一九九五年からの四年の間で、女性の人権を守り高めるべく活動する姿で紗栄子の心を掴んだ女性がいた。
その女性は合衆国のファーストレディーだった。
一九九五年に第四回世界女性会議が北京で開催され、アメリカ合衆国のファーストレディであるヒラリー・クリントン女史が北京でおこなった演説はその後の女性の人権問題に大きく影響したと紗栄子は思っている。
ヒラリー女史は、夫の大統領職の任期が切れる直前の二〇〇〇年に上院議員に立候補し既に再選を果たしていて、来年の二〇〇八年十一月に行われるアメリカ大統領選挙の最有力候補としてガラスの天井を打ち砕く最初の女性になりそうだと話題になっていた。
紗栄子はヒラリー・クリントンの言動を克明に追いかけている。
ヒラリーウオッチャーだが、誰にも話したことはない。
紗栄子は自分が誰よりも恵まれていることを客観的に理解している。
東北最大の刻文銀行本店経営企画部に在籍しているのもその表れの一つだ。
仕事のやりがいは半端なくある。
・・・だが。
刻文宗家の後継者である兄の刻文正臣の考え方や行動を受け入れることは決してできない。
紗栄子と兄の正臣は水と油だ、生涯に亘り融和することはない。
紗栄子の中にある兄の正臣の正体は、父親以外をすべて格下として扱い軽蔑するとんでもない輩《やから》だった。
特に女性に対する言動は許せないレベルを超えている、女性をいったい何だと思っているのだろう、初めから能力がないと決めてかかっている。
兄の正臣は、紗栄子が水商売の男に惚れたバカな女だという考えを改めることは決してないだろう。
そんな兄の正臣がもし、夫の慎之介が心因性EDで妻と性交渉ができずしかも同性愛者だと知ったら何をしてくるか分からない。
噂を広めることを何とも思わないでやるだろうし、その噂には必ず嘘が含まれる。
最後には、紗栄子が何らかの形で悪者にされるはずだ。
結婚してみて夜の営みがまったく出来ないことが分かった。
紗栄子以上に慎之介が受けた衝撃は相当大きかったようだ。
紗栄子が慎之介を好きになって電撃結婚に至ったのだが、夫の方も偽装結婚などという考えはまったく持っていなかったと悲痛な表情を浮かべた後で、行為の場でうな垂れたままで動かなくなってしまい慰めるしか紗栄子にはできなかった。
夫は、夫婦生活も含め紗栄子と共に人生を歩んでいこうと決めて結婚に踏み切ったとその決断までの心の葛藤を教えてくれた。
紗栄子夫婦は話し合った末に、医者に診てもらう決断をして二人で東京に行くことにしたがそこでまた衝撃を受けることになるとは夢にも思わなかった。
診てもらった医者の質問に夫は、同性なら問題なく勃起も射精も可能で、現に今までは問題はなかったと話したのだ。
紗栄子の前では、大切な女性と向き合って愛する行為をすると思うことが引き金になって心因性EDつまり勃起不全を誘発していると医者は診断した。
二人で話し合って人工授精を決断し、その都度、周りに隠れて東京に行きなんとか六回目で受精することができた。いまは、妊娠三ヵ月目に入り東京の病院から刻文市の産婦人科を紹介されたのでやっと両家に報告するところまでたどり着くことができた。
今にして思えば、紗栄子が慎之介を好きになった第一がその中性的な顔立ちだった。
少し愁いを帯びた男性でも女性でもないような不思議な瞳というか目線と、発せられる丁寧な言葉遣いにも惹かれた。
紗栄子は自分が極めてノーマルだと思っている。
これから先も、慎之介を尊敬し心が通い合えるとも信じている。
だが、このストレスをどうしたらいいのか。
いつもならお酒に逃げて紛らわすが、出産まで禁酒の誓いを立てている。
どうすればいいのか。
紗栄子は飲み干したココアのカップを手にしたままでしばらく動けないでいた。
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