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シーズンⅠ-9 家族の日常

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「ただいまぁー。いま帰ったよぅ」

 二十二時を回ったところで耕三さんが帰ってきた。

「おかえりなさい。わりと早かったわねぇ。ご苦労様でした」

 カバンを受け取るなどということはしない。

 二人の娘を育てるので手一杯なので、耕三さんはだいたいのことは自分でしてくれる。

 君子がすることと言えば、お風呂場にパジャマと下着を置いてあげることと朝のネクタイを選んであげるくらい。

 ネクタイの方は五月にはいればクールビズになるので出番はなくなる。

「お父さん、おかえりなさい。お疲れ様でした」

 涼子だ。

「あなた、お風呂から上がったらお話しがあります。涼子が頼み事があるんですって。涼子、それまで待ってなさいね」

「はぁぁい」が涼子、「ほぉぉい」が耕三さん。

 似た者親子だとつい笑いたくなってしまう。

 お風呂から上がった耕三さんに、帰宅部と四千年と高性能パソコンを話したら、なんと、二つ返事で了解がでた。

「お父さんの中国関連の本はこれからはリビングに置くことにする。新しく買ったものも読んだらすぐ置く。長い旅のお供は本が一番、パソコンは確認作業に使ったりするのも覚えるといい、それから」

「お父さん大好き・・・お母さんも」

 耕三さんが言い終わる前に涼子が感謝の意を伝えてきた。

 生みの親を忘れなかったのは偉いっ。

 耕三さんの方はほんと嬉しそうだ。

 楊貴妃もこの分だと復活ももうすぐかも知れない。

「はい、はい。よかったわねぇ。涼子は他の勉強も大学受験に向けてちゃんとするって約束してくれたし、朝美の面倒も見てくれるそうよ」

「そっか。お父さんは嬉しい。世界中が浮かれ気分だったのが少しおかしくなってきて。でも涼子が四千年の旅に出る、お父さんは元気をもらった。ありがとうな」


****


「あなた、世界がどうしたの、なんか起きたの?」

 涼子が部屋に戻ると君子は気になっていたことを聞いた。

「うん。いまのとこは大丈夫なんだけど。なにせ今の我々は新興国投信の販売で暮らしているようなもんだから。あっちこっちに目を光らせていないと、その作業をやってるんだけどちょっと弱気になっちゃった」

「新興国って前に聞いたけど、いっぱいあって覚え切れなかったわ」

「だよね。普段の生活にもなかなか出てこないし。昔はまとめて後進国とか言ってたけど、今は先進国、新興国、発展途上国って感じ。面白い話もいっぱいあるから」

「うん。また今度にね。あの子達って耕三さんのそういうお話が大好きだし、今回の涼子が言い出したのだって耕三さんのお陰。私けっこう耕三さんが自慢かも」

 耕三さんは、照れるなぁ、とか言いながら、涼子に買い与える高性能パソコンを検索してくるって言い残して寝室兼書斎に向かって行った。

 その夜はなかなか寝付けなかった。

 耕三さんは隣で疲れ切ってもうぐっすりだ。

 あなた、ほんとうにおつかれさま。

 有佳のことを考えている。

 有佳は、工藤先生が見つけ出した私で本当に成長しようと思っているんだろうか。

 初めて会った時からそうだったがそんな気配は感じられないし、第一、有佳には謙虚さがない。

 これから有佳は過去も含め少しずつ秘密を話してくれると思う。

 それはちゃんと受け止めてあげたいと思っている。

 でも、嘘と演技で包まれた有佳の話をどこまで信用していいのか疑念のほうが先に立ってしまう。

 私は、私の秘密を誰かに打ち明けることがあるのだろうか。

 考えられない。

 有佳に打ち明けることはない。

 それは工藤先生に打ち明けるのと同じだから。

 工藤先生の存在がなかったらどうだろう、それでも打ち明けない、絶対に。

 もし打ち明けるとしたら、いちばん信頼している耕三さん以外にいない。

 耕三さんと結婚してもう十五年になるが退屈だったことはない。

 能ある鷹は爪を隠すという諺《ことわざ》があるが、それこそが宮藤耕三だ。

 人一倍努力もしている。

 博学で世界中のことをよく知っていて、君子たちのために家族用語に直して日常と関連付けて話してくれるのも楽しい。

 ・・・夜のほうも、平均的日本人像がお好みの耕三さんはどこで仕入れてくるのか時折、試してくる。

 二十歳で結婚してからのどの夜も、恥ずかしさが先立ち慣れることはない。

 耕三さんは、新鮮だと言ってくれるが、ありのままなだけだから君子にはその実感がない。

 耕三さんの口癖は、女性同士が一番美しい、だ。

 生まれ変わったら今度は女性になる、ずっと聞かされている。

 死ぬ時に三途の川を渡る手前で食事を出されるけど我慢して食べない、そうすることで生まれ変われると耕三さんは信じている。

 なんとも手前勝手な話だが今では君子も少し信じている。

 君子が告白しても耕三さんは怒らないと確信できる。

 逆に羨ましがられると思う。

 好奇心旺盛で何でも突き詰めるけど、物事にはおおざっぱで拘らず、かなり鈍感な耕三さんは君子の中では世界一の旦那様だ。

 いつも愛されていると感じれる、この先もきっと同じだ。

 耕三さんには行動力もある。

 ここに転勤が決まった時の動きの素早さときたら、感嘆符が付く。

 ご両親の家に割と近い所に建設中のデザイナーズマンションの販売業者ともう交渉を始めている。

 九ヵ月後に完成し年越し前には引っ越せるはずだ。

 もうすぐ中学三年になる涼子と小学五年になる朝美に独立した空間を作ってあげるのが耕三さんの想いだ。

 君子の中で耕三さんが高得点を叩き出したのはお金の能力だった。

 県庁所在地といえども、この地方都市で四千万円近くする新築の半分を預貯金に手を付けずに株の儲けで出せる才覚は、平均的日本人とかけ離れていると思う。

 耕三さんが初めて株を買った時のことはよく覚えている。

 君子に百万円下ろして欲しいと頼み込んできたからだが、その言い方が子供っぽくて可笑《おか》しかった。

 何を買ったかを教えてくれたので君子も初めて株価なるものを見ることにしたのだが、一か月もしないうちにどんどん上昇したのには驚き、下がったら大変だから売ったらどうかしらと言ってみた。

 耕三さんの答えは、ルールがあって売れないんだよね、僕は初めて自分で株を買ったけど証券マンには社会的責任として自分が株式を購入する際のルールの一つに売買制限がついているんでごめんね、だったけどとにかく売れないのだけは理解できた。

 なんとその株式は二年も経たずに九倍になった。

 感謝している。

 それでも、君子の秘密を耕三さんに打ち明けることも来ないのは分かっていた。

 君子が宮藤耕三と初めて知り合ったのは、君子がちょうど今の有佳と同じ十九歳の看護学生だった時だった。

 まだ、耕三さんの会社が合併する前の準大手証券だった頃で耕三さんは二番目の赴任地として安西市にいた。

 居酒屋でお互いのグループ同士が隣り合わせになったことで、覚えていないが誰かが会話をし始めたのがきっかけだった。

 その帰りに一目ぼれしたと言われて名刺をもらい付き合うことになった。

 七歳年上の耕三さんの朗らかさにきっと心を打たれたんだと思う。

 そしてわずか一年後に結婚した。

 君子の兄が既に結婚していたことでとくに反対もされずに済んだんだと、耕三さんは勝手に解釈している。

 もっとも、君子の妹に耕三さんはさんざんひやかされたし、耕三さんのご両親や二人のお兄様は相当驚かれた様子だったが。

 君子はこの街から出たいと思っていた。

 決断したのはそれが決定打だったと今でも思う。

 結婚した翌年に涼子が生まれた。

 君子も無事看護師資格を取り共稼ぎしていたが耕三さんが転勤になった。

 君子が故郷を後にした時の涼子はまだ二歳だった。

 それまで親に面倒を見てもらって働きに出ていたが、これからは自分一人でちゃんとやっていかなければならない。

 親戚もなく耕三さんだけが頼りだとしても、君子の本音はただただ嬉しかったに尽きる。

 不安よりも子育ての辛さよりも、この街から出れる嬉しさが勝っていた。

 君子の故郷は県庁所在地だったが裏日本で、空が嫌いだった。

 雪も深い。

 生まれてからここしか知らないが、世間で認知されている通り、確かに美人の産地でみんなオシャレ、肥満も見かけないのは本当だ。

 この街を研究して作られた化粧品は、日本とアジアで高級品として知れ渡る。

 開発したのは海外企業、日用品で世界最大クラスの会社だ。

 この化粧品の開発秘話は君子の中で最大の自慢だ。

 世界中から「究極の肌」を求めて君子の故郷にたどり着き、子供からお年寄りまでの女性を十五年間研究してできた化粧品。

 今は手が届かないけどいつか使ってみたい。

 手に取った時の自分を想像するだけでうっとりしてしまう。

 でも空が嫌い。

 化粧品の話は外に向かってする時の自慢だが、君子のほんとうの自慢は君子自身だった。

 人には話せない、嫌がられるだけだ。

 でも、自分が好き。

 自分の肌が顔が均整の取れたスタイルが全部好き。

 胸は大きくない。

 この小さめの胸に耕三さんが執着しているのは知っている。

 涼子を生んでからは肩まであった髪を切りショートボブにした。

 とにかく忙しいので髪を洗う時間を節約したかったからだが、ちょっと切れ長の目を持つ君子がショートにすると女っぽさが陰に隠れてしまう。

 中学から高一にかけてもショートにしていたが、そのせいで同性から告白されたことも一度や二度じゃなく経験している。

 悪い気はしなかった。

 でも全部、丁寧にお断りをした。

 最初から受け入れるのはどうかとも思えたからだ。

「友達としてなら」が君子が考えた台詞だったが、それで友達になれた人は一人も思いつかない。

 自然と疎遠になるならまだしも、告白して振られた時点で満足しているのか知るすべもないが、そこでジ・エンドの経験しかない。

 すぐに受け入れなかった自分もそうだが引き下がる方もどうかと思う。

 つくづく女は面倒くさい生き物だという思いだけが残された。




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