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愛、始めてみるか?
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しおりを挟む「佐織、俺を好きになって」
まるで催眠でもかけるように、瞳の美しさからこんこんと送り込まれる言霊。
はまってしまったら抜け出せなくなりそうで、なぜだか怖い。
それに抗おうとしたものの、かろうじて言葉を紡ぐのが精一杯だ。
「急に、そんなこと……」
「ああ、わかっている。言われてすぐにお前の気持ちが俺に向くとは思ってない。が、容赦なくいくから、覚悟してろよ」
「おやすみ」と言って額にあとひとつだけ口づけを落とす彼。
名残惜しさを感じたのは、彼の慈愛の笑みのせいか。それとも佐織の胸の内から湧きだす感情か。
旅館へと伸びる月闇の坂道へ消えて行く背中に、たまらない胸の苦しさを感じた。
ずっと昔に置いてきた、覆い隠さなければいけなかった燻る感情。
まだ子供だった頃の拙い恋慕と同じかと言えば、なんだか違う気がする。
もっとそれ以上の熱量が、胸を圧迫している。
ストールを抱きしめ押し消そうとするものの簡単には鎮静せず、少しでも軽くしたくて吐き出した溜め息は熱く震えた。
家に戻り懐かしい匂いがする布団の中で、もう何年も表沙汰にすることがなかったむず痒さが蘇る。
自分でもわかるほどの熱に恥ずかしさは治まらない。
思いもよらない突然の告白。
受け止めることすらままならないのに、彼のことを好きになれだなんて、言われてできるようなことじゃない。
(だって、私は社長の秘書で、社長は私の上司で……)
弁えるべき立場がある。
それなのに、月下の施しが佐織を寝付かせない。
柔らかな唇。熱い舌。
思考を奪うほどの扱きに、息苦しさが蒸し返される。
(ああっ、〝社長〟とあんなことを……っ)
忘れようと布団の中の暗闇で目を瞑るけれど、綺麗に並んだ長い睫毛がまざまざと瞼の裏に浮かぶ。
パーソナルスペースなどお構いなしの密着で、もう二人の立場はうやむやだ。
尊敬するべき人を、ひとりの男性として意識せざるを得なくなった。
(社長は本当に私のこと……?)
夢だったのだろうかと疑いをかけてみるけれど、脳裏に刻まれたあの瞳に嘘偽りはなかったと思う。
今は目の前になくとも、思い出すだけで身体に明らかな異常をきたす。
心拍の上昇は抑えられず、計ればきっと体温計の数値は振り切れてしまうだろう。
(明日、どんな顔して会えばいいの)
胸の奥から沸き上がる熱による息苦しさに布団を剥いだり、寒くて被りなおしたり。
彼からの言葉と仕打ちが睡眠を妨げ、夢か現実かわからない出来事を反芻し続けたまま、朝を迎えた。
*
チェックアウトの時間に合わせて旅館に到着した佐織は、旅館の正面玄関から出てきた彼らと鉢合わせた。
『おはよう、サオリ!』
佐織を見つけるなり、極上の笑顔の横で手を振り駆け寄るルイ。
ゆったりと昇った太陽の光に照らされキラキラと眩しい。
満面の笑みの距離間は妙で、やけに近い。
『お、おはようございます、ルイ室長』
『休日もそんなに堅苦しくしてないで、ルイって呼んでよサオリ』
若干仰け反り挨拶を返す佐織に、顔の近さに見合った親しさを求めてくるルイ。
昨夜は橘に潰されるほど飲んだはずなのに、二日酔いの様子は微塵も見当たらず爽やかだ。
そんな彼の笑顔の背後に、何やら重い靄が立ち込める。
視界いっぱいだった美しい顔面が途端に遠ざかった。
「おはよう」
昨日と同じように首根っこを掴んでルイを引き剥がした橘は、彼と入れ替わりに間近に立つ。
「お、おはよう、ございます」
今の今まで何度も繰り返し思い出していた出来事がついさっきのことのようで、羞恥のあまり目を合わせられず、お辞儀にかこつけ尻すぼみに挨拶を返した。
足元に這わせた視界で、ブラックジーンズにカジュアルな革靴を捉える。
土曜日の今日。これからもう一件向かわなければならない所がある。社内部の人間との会食だ。
業務外だと言われたが、ある程度の節度ある服装を心掛けてきた佐織は、紺のパンツにオフホワイトニットとベージュのコート。
比べて件の彼は、ライトグレーのハイネックニットに濃グレーのコートを合わせたスタイル。
スリムなパンツで足の長さを強調し、シンプルだけれど腕に光る高級時計でしっかりと洒落た演出をする。
これに眼力のある端正な顔が乗っているのだから、どこをどう切り取ってもこれからファッション雑誌のグラビア撮影だ。
休日用の彼も抜かりなく美麗で、世の女性のすべてを振り向かせそうな男の隣に立つのはどうしてもおこがましい。
それなのに、そんな彼は佐織の何を見て好きだと言ったのか。
疑問を呈し下から舐め上げるようにその長身を辿る。
ルイとは違った美しさにうっかり目が眩む。
自分を可愛いと言ってくれた彼に、地味なファッションは幻滅されないだろうか。
出張してきて、デートというわけではないのだから、何も気にする必要はないのだけれど。
これまで気にも留めなかったことが、急に不安材料になる。
(もう少しお洒落な服を持ってくればよかった)
見惚れたり落ち込んだり忙しい佐織の視線に気づき、ほくそ笑む橘はにやりと呟いた。
「スケベ」
「は⁉ ちが……っ!」
慌てて否定するも、したり顔の美顔から赤面を背けるしかできない。
気を抜くと見惚れてしまう。
告白をされただけで彼を見る目が変わってしまった。
違う、それだけではない。人生で初めて異性の唇の柔らかさと熱を知ったからだ。
自分でも呆れるほど不埒な心情に、嘆息が漏れた。
三人のやり取りを静かに見守っていた詩織が、太陽光にきらめく白の着物姿で呼びかける。
「またのお越しを心よりお待ちしております」
見送りに粛々と頭を下げる若女将。
いつものように眩しくて仕方ないのに、嫉妬の感情は一切なかった。
後ろめたさも卑屈さも、昨日の数十分の一にも満たない程度まで萎んでいた。
理由は何だろうかと自問するのも野暮なほど、下瞼の重みが今一番の心の比重を表している。
昨夜はついぞ眠れなかった。
視線を向けるのも躊躇われるほどの強い存在感のせいで。
「ええ、ぜひまた」
詩織に向けられる橘の微笑は明らかな営業用だ。
昨夜のあの甘く蕩けそうな笑みは幻想だったと思わせられるほどの精巧な造り。
現実としてこの目で見たはずなのに、あの告白と相まって乖離する記憶に脳内はますます整理がつかない。
素知らぬ彼は一礼を残して、到着していた迎えのハイヤーへスーツケースを運んでいった。
「お姉ちゃんも、待ってるから」
頭を揺らす佐織に、詩織はわだかまりなく笑いかける。
「うん、今度のお正月には帰るようにする」
「じゃあそのときは、……社長さんも連れてきなよ」
「えっ⁉」
こそりと耳打ちする詩織に驚き、あからさまな動揺を見せてしまった。
荷物を載せていた橘とルイが、何事かと姉妹を振り向く。
しらばっくれれば済むものを、脳裏にこびりついた出来事がまんまと平静を奪った。
ニヤニヤするだけの彼女に、それが更なる恥ずかしさを煽る。
絶対に勘違いをされている。
告白はされた。しかし、正直自分でもまだあれは、夢か幻だったのではないかと疑っている出来事だ。
それに彼の真意にはまだ疑念が残る。
まさか昨夜のあれを見られたのか。
彼女の住まいは実家の横。そこからあの月夜の光景を窺い知れたのか。
赤さを通り越して、今度は青くなっていく顔に白目を剥きそうになる。
「私はいいと思うよ、橘さん。イケメンで聡明で、玉の輿」
「そ、そんなんじゃ……彼は社長で、上司で……」
何度も自分に問い質した疑問をかろうじて呈する。
はっきりと突き返せず、もうどう転んでも否定できそうにない。
しどろもどろになるだけで、親に余計なことは言わないでくれと、力ないフォローしかできないまま見送られた。
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