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第一章「若き龍の目覚め」
第五話「節分の誘い」
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忠光と伊丹が田沼家を訪れた次の日の事である。
龍助は西の丸に出仕し、家重に頭を下げていた。小姓の先輩達によると、龍助が城を下がらされた後、直ちに大奥に迷惑をかけた事への謝罪のため、忠光を派遣してくれたのだという。おかげで事は公にならず、龍助への処分も無かったという事だ。
もちろん、いくら口止めを頼んだとしても、吉宗への報告だけは家重にも止められない。もしも後で事が露見したならば、重大な責任問題になるし、何よりも不忠にあたるからだ。だが、前もって家重から吉宗に龍助をとりなす様な書状を送ってくれていたのだ。そのため、大奥での事件を聞いた吉宗は、穏便に済ませるよう考えたのだ。もっとも、今回の龍助の言動は元々吉宗好みであったと言う事や、紀州時代から忠誠を尽くしてくれている田沼意行の息子のやった事であるというのも影響はしている。
何にせよ、主君から恩を受けた以上それに応えない訳にはいかない。
「田沼殿にはこれまで以上に忠勤に励んで欲しいのですが、考えは改めましたか? 家重様もそこを不安に思っているのだが」
丁重に礼を述べた龍助に、家重の側に侍る忠光が少々不安そうな面持ちで言った。昨日自分が龍助に諭した内容は、間違いなく龍助に届いていると忠光は確信していた。だが、ちょっとやそっとで考えが根本的に変わるなど、まずあり得ないであろうとも思っている。
これは、忠光の説得の仕方に問題があるとか、龍助の理解力が悪いとか、そもそも間違った事を教えているとかそういう単純な話ではない。人とはそういうものなのだ。
「正直なところ、大岡様の教えを心の底から納得したわけではありません。ですが、なるべく理解していこうと思います」
龍助は正直に自分の想いを述べた。表面上取り繕い、忠光の言に感服したとか、全ては指示通りにしますとか、その様な虚言を述べる事も出来ただろう。それが処世術であることくらい龍助にも理解出来る。だが、そう言ってしまえば主君に偽りを述べる事になるし、この主君や先輩になら、正直な心底を晒しても良いのではないかと思ったからだ。
龍助の返答を聞いた家重は、扇子で自分の肩を軽く叩いた。その表情からは、何を考えているのか龍助には捉えられない。
「家重様は、気骨があってよろしいと思し召している。だが、あまり問題は起こさぬように私からは申し渡しておくぞ。自分の想いを押し通す事だけが正義ではないのだからね」
龍助の想いは家重にも忠光にも伝わった様だ。主君と先輩に恵まれた幸運をかみしめながら、龍助は家重の部屋を後にした。
とまあ、ここまでは龍助の予想の範囲であったし、叱責も覚悟していたので御の字であった。だが、この後の龍助の足取りは重い。何故なら、主君への要件が終わった以上大奥まで謝罪に行かねばならぬからだ。
「おや、田沼殿。お早い復帰ですな」
御広敷に到着した龍助を、先日お使いで訪れた時に取り次いでくれた伊賀者が、意外そうな顔で迎えた。確か、伊賀崎という名だったはずだ。
「お早いと言われましても、二日前のことですよ。しかも、処罰はされていませんので」
怪訝な顔で返答した龍助は、伊賀者達が事を大きくしなかったおかげで自分が処罰されなかった事を思いだし、「あなた方のおかげでもありますし」と礼を述べた。
「いやいや、立ち直れずに出仕をしなくなる者も多いのですよ。急病でお役目を果たせなくなったので弟や親類が代わりに出仕するとか、よくある事です。その点あなたは肝が据わっている」
「伊賀者に肝が据わっているなどと言われると、なんだかこそばゆい感じがしますよ。忍びに比べたら私など足元にも及ばないでしょう」
「さて、どうでしょうな」
伊賀崎ははぐらかす様に言うと、用件は花緒への面会かと尋ねた。
「そうです。謝罪しに来たのですが、会ってくれるでしょうか?」
先日は花緒を相当怒らせてしまった。龍助と個人的に面会する義理は花緒には無く、断られてしまうかもしれない。一応、家重からのとりなしの書状もあるので、これを断れる奥女中は先ず存在はしない。だが、龍助としてはなるべくその様な手段は使いたくなかった。
「さて? 拙者は花緒殿ではないのでその心中は分かりかねますが、昨日日用品の搬入で会った時、あの朴念仁は……おっと失礼、田沼殿はどうなったのかと聞いてきましたよ。公になっていないので処罰は無いのではと答えたら、安心したように見えました」
という事は、花緒は龍助の処遇を気にしている様である。しかも、処罰を願うのではなく穏便に扱われる事を望んでいた様だ。意外な事である。
「まあ我々が話していても仕方ありません。早速、田沼殿が面会を望んでいる事を伝えておきましょう」
伊賀崎はそう言うと対面所の中に入って行った。そして、しばらくすると出て来て龍助に中に入るよう促した。
「花緒殿がお待ちですよ」
「ありがたい。それでは入らせていただきます」
早速対面所に入ろうとする龍助であったが、伊賀崎がその肩を掴んで引き留めた。
「お待ちを。謝罪という事であれば、何か詫びの品でも持参した方が良かったのでは? 先日の諍いの経緯もありますし。まあ今更なので、今日は先ず取り急ぎ謝罪に訪れただけで後日渡しに来ると言っておく事も出来ますが」
伊賀崎の忠告はもっともである。そもそも忠光からも詫びの品を持っていくように促されていた。だが、龍助は手ぶらであるように見える。
「ご心配なく。実は詫びの品は袂に入れていたのです。流石にこれ以上失敗できませんですからね」
「おお、そうでありましたか。ならば何の問題もありませんな。それでは存分にお話しください」
安堵した伊賀崎に促され、龍助は対面所に入って行った。
対面所に入った龍助を出迎えたのは、つい先日激しくやり合ったばかりの花緒である。更には、花緒以外にも同じ年頃の娘が四人控えていた。
「む? 彼女らは?」
龍助が呼び出したのは謝罪の相手である花緒だけだ。それなのに、何故他の者が同席しているのだろう。
「私達は、花緒さんがあなたと喧嘩をしない様に見張っているのです。お気になさらないでね」
同席している娘の中でも一番年かさに見える者が軽く会釈をしてそう言った。また龍助と花緒が喧嘩になった場合、今度は龍助が処罰される可能性がある。それと同様、喧嘩両成敗が武家のならいだ。大奥側も対応が悪かったと責任問題になる可能性がある。それを避けたいのだろう。ただでさえ、大奥は吉宗の倹約政策の煽りを受けている厳しい立場だ。ここで余計な口実を作る機会を与えては、単なる個人の責任では終わらない可能性を危惧しているのだろう。
「まあ良いでしょう。では単刀直入に申します。先日は御無礼いたしました。この通り謝ります。どうかお許しを」
「そこまで素直に謝られては、受け入れない訳にはいきませんね。謝罪を受け入れましょう。まだ見習いの者に、強く当たるとは何事だと父にも叱責されましたし」
目が多いと多少気になるところであるが、龍助は素直に頭を下げる。何か言い訳がましい事を口にしたら皮肉の一つでも言ってやろうか思っていた花緒であったが、これには素直に応じるよりほかない。例え父からの口添えが無かったとしても受け入れただろう。
「良かったですね。花緒さん、一度怒ると中々機嫌を直さないから、またこじれるんじゃないかって思ってましたわ」
「そうそう、心の中では仲直りしたいって思ってるくせに、素直になれないんですもの」
二人が和解したのを見て取った付き添いの娘達は、面倒な話は終わりとばかりに龍助に向かっておしゃべりを始めた。彼女らは花緒の味方として同席しているはずなのだが、これではまるで逆である。
「あ、あんたら……」
おしゃべりを始めた同僚たちを見て、花緒が眉をひそめる。どうやら彼女たちは、久しぶりに若い少年と間近に接して浮かれ気味の様である。
大奥は男子禁制の場である。僅かな例外が入る事はあるが基本的に大奥に入れるのは将軍だけである。御広敷の対面所の様に外部と接する機会はあるのだが、対面所で外部と接触するのは花緒の様な限られた役職の者だけだ。
それが今日は花緒の監視という名目で対面所で龍助と話す事が出来たのである。ある意味これは当然の事であった。
しかも、龍助はまだ元服も済んでいない眉目秀麗な少年だ。整った顔立ちの中に少年らしいあどけなさを残し、そこに生真面目さが加わっており、これが女心をくすぐっているのだろう。正直なところ、花緒も最初は龍助に好感を抱いていたのである。まあすぐに喧嘩に発展してしまったのだが。
「ところで、今日は詫びの品を持って来たのです。是非受け取って欲しい」
「あら、そうですか。一体何かしらね」
菓子を渡したくらいで賄賂だなんだと騒いでいた少年が、大した変わり様である。多少は成長したようだと花緒は龍助を見直した。人が変わるのは中々に難しい事は、大奥という人の思惑が渦巻く魔境にいると嫌でも理解出来てしまうのだ。
「しかし、付き添いの者がいるのであれば、もっと持って来るのでした。花緒殿だけに渡すのは少し心苦しいのですが、容赦していただきたい」
そう丁寧に述べた龍助は、袂から竹皮の包を取り出して花緒に差し出した。
「まあ、これは一体何かしらね。食べ物みたいですけど」
以前の喧嘩の発端は、花緒が差し出したかすていらであった。となると、龍助はそれに対する謝罪として何らかの高級な菓子を持参するのは当然の流れかもしれない。若い娘らしく、花緒は甘いものに目が無い。ほくほく顔で竹皮を開封した。
「……これは?」
竹皮の包には、丸い米の塊が二つ入っていた。饅頭や大福といったお菓子ではなく、おにぎりに見える物体だ。
「ははは、もちろん握り飯ですよ」
やはりおにぎりであった。
「ああ、中身が何かという事ですね? 片方が梅干しで、もう片方が昆布です」
もちろん花緒が聞いているのはその様な意味ではない。
「あ、申し訳ありません。どちらが梅干しかは失念しています。目印を付けておくべきでした。これは御無礼を」
もちろんそういう意味でもない。
見当違いの事ばかり言う龍助に対し、花緒はどうしてくれようと内心怒りに燃えていた。だが、ここで龍助に暴力をふるっては花緒が処罰される可能性があるし、その場合大奥全体の責任問題に発展しかねない。大奥の一員としてその様な事は避けたい。
それに、龍助に悪気が無いのは怒りによって冷静さを失いそうな花緒にも分かる。乙女に対する贈り物としておにぎりを差し出すなど普通に考えれば常識ではあり得ない。詫びどころか逆に挑発しに来たと判断されても文句は言えまい。現に付き添いの少女たちはあまりの事に氷ついている。だが、短い間ではあるが龍助と接し、その人となりは多少は理解している。
単に龍助の感覚がずれているだけなのだ。
「ありがたくいただきます」
「ええ、梅干しは紀州に残る親類が送って来たものです。紀州の梅干しは中々味わい深いですよ」
花緒の内心を知らない龍助は、またもや見当違いの事を説明し始めた。紀州の梅干しは確かに美味しいのかもしれないが、この場においてだから何だというのか。
どうしてくれよう。
花緒は頭を巡らせた。直接的な報復は出来なくとも、何か仕返ししてやらねば気が済まない。
そしてある事を思いついた。
「そうだ、もうすぐ節分ですよね。実は大奥の節分では特別に男性が招かれて豆を撒くのですよ。いつもは御留守居様がするのですが、最近どの方も調子が悪くて、別の者を代理にたてる事になったのです。確かまだ決まっていなかったので、田沼殿を推薦しておきますよ。是非お受け下さい。若い人が大奥に入れる何て、滅多にありませんよ」
留守居役はその名の通り将軍が不在の際の留守番役であり、すなわち将軍が出馬した際の本拠地を任される名誉な大役である。だが、泰平の世が続き将軍が長期間江戸を離れる様な事が少なくなると、自然と留守居役の出番も減っていく事になる。
一応大奥の取り締まりなど役柄は多岐に渡るのだが、最近は奉行などを務めた大身旗本が老後に勤める名誉職というのが幕臣達の共通認識だ。
なので、複数いる留守居役が皆体調不良でも一応理解は出来る事だ。皆老齢なので、体にがたが来ているのだ。
とはいえ、実のところ留守居役が全員大奥での豆撒きを辞退しているのは別の理由があるからなのであるが、その事は龍助の知らぬところである。
大奥に入れるというのは龍助にとってどうでも良い事であるが、これで大奥と良好な関係を築ければ主君が喜ぶであろうと思い、即座に承諾した。
その裏に潜む事を何も気づかずに。
龍助は西の丸に出仕し、家重に頭を下げていた。小姓の先輩達によると、龍助が城を下がらされた後、直ちに大奥に迷惑をかけた事への謝罪のため、忠光を派遣してくれたのだという。おかげで事は公にならず、龍助への処分も無かったという事だ。
もちろん、いくら口止めを頼んだとしても、吉宗への報告だけは家重にも止められない。もしも後で事が露見したならば、重大な責任問題になるし、何よりも不忠にあたるからだ。だが、前もって家重から吉宗に龍助をとりなす様な書状を送ってくれていたのだ。そのため、大奥での事件を聞いた吉宗は、穏便に済ませるよう考えたのだ。もっとも、今回の龍助の言動は元々吉宗好みであったと言う事や、紀州時代から忠誠を尽くしてくれている田沼意行の息子のやった事であるというのも影響はしている。
何にせよ、主君から恩を受けた以上それに応えない訳にはいかない。
「田沼殿にはこれまで以上に忠勤に励んで欲しいのですが、考えは改めましたか? 家重様もそこを不安に思っているのだが」
丁重に礼を述べた龍助に、家重の側に侍る忠光が少々不安そうな面持ちで言った。昨日自分が龍助に諭した内容は、間違いなく龍助に届いていると忠光は確信していた。だが、ちょっとやそっとで考えが根本的に変わるなど、まずあり得ないであろうとも思っている。
これは、忠光の説得の仕方に問題があるとか、龍助の理解力が悪いとか、そもそも間違った事を教えているとかそういう単純な話ではない。人とはそういうものなのだ。
「正直なところ、大岡様の教えを心の底から納得したわけではありません。ですが、なるべく理解していこうと思います」
龍助は正直に自分の想いを述べた。表面上取り繕い、忠光の言に感服したとか、全ては指示通りにしますとか、その様な虚言を述べる事も出来ただろう。それが処世術であることくらい龍助にも理解出来る。だが、そう言ってしまえば主君に偽りを述べる事になるし、この主君や先輩になら、正直な心底を晒しても良いのではないかと思ったからだ。
龍助の返答を聞いた家重は、扇子で自分の肩を軽く叩いた。その表情からは、何を考えているのか龍助には捉えられない。
「家重様は、気骨があってよろしいと思し召している。だが、あまり問題は起こさぬように私からは申し渡しておくぞ。自分の想いを押し通す事だけが正義ではないのだからね」
龍助の想いは家重にも忠光にも伝わった様だ。主君と先輩に恵まれた幸運をかみしめながら、龍助は家重の部屋を後にした。
とまあ、ここまでは龍助の予想の範囲であったし、叱責も覚悟していたので御の字であった。だが、この後の龍助の足取りは重い。何故なら、主君への要件が終わった以上大奥まで謝罪に行かねばならぬからだ。
「おや、田沼殿。お早い復帰ですな」
御広敷に到着した龍助を、先日お使いで訪れた時に取り次いでくれた伊賀者が、意外そうな顔で迎えた。確か、伊賀崎という名だったはずだ。
「お早いと言われましても、二日前のことですよ。しかも、処罰はされていませんので」
怪訝な顔で返答した龍助は、伊賀者達が事を大きくしなかったおかげで自分が処罰されなかった事を思いだし、「あなた方のおかげでもありますし」と礼を述べた。
「いやいや、立ち直れずに出仕をしなくなる者も多いのですよ。急病でお役目を果たせなくなったので弟や親類が代わりに出仕するとか、よくある事です。その点あなたは肝が据わっている」
「伊賀者に肝が据わっているなどと言われると、なんだかこそばゆい感じがしますよ。忍びに比べたら私など足元にも及ばないでしょう」
「さて、どうでしょうな」
伊賀崎ははぐらかす様に言うと、用件は花緒への面会かと尋ねた。
「そうです。謝罪しに来たのですが、会ってくれるでしょうか?」
先日は花緒を相当怒らせてしまった。龍助と個人的に面会する義理は花緒には無く、断られてしまうかもしれない。一応、家重からのとりなしの書状もあるので、これを断れる奥女中は先ず存在はしない。だが、龍助としてはなるべくその様な手段は使いたくなかった。
「さて? 拙者は花緒殿ではないのでその心中は分かりかねますが、昨日日用品の搬入で会った時、あの朴念仁は……おっと失礼、田沼殿はどうなったのかと聞いてきましたよ。公になっていないので処罰は無いのではと答えたら、安心したように見えました」
という事は、花緒は龍助の処遇を気にしている様である。しかも、処罰を願うのではなく穏便に扱われる事を望んでいた様だ。意外な事である。
「まあ我々が話していても仕方ありません。早速、田沼殿が面会を望んでいる事を伝えておきましょう」
伊賀崎はそう言うと対面所の中に入って行った。そして、しばらくすると出て来て龍助に中に入るよう促した。
「花緒殿がお待ちですよ」
「ありがたい。それでは入らせていただきます」
早速対面所に入ろうとする龍助であったが、伊賀崎がその肩を掴んで引き留めた。
「お待ちを。謝罪という事であれば、何か詫びの品でも持参した方が良かったのでは? 先日の諍いの経緯もありますし。まあ今更なので、今日は先ず取り急ぎ謝罪に訪れただけで後日渡しに来ると言っておく事も出来ますが」
伊賀崎の忠告はもっともである。そもそも忠光からも詫びの品を持っていくように促されていた。だが、龍助は手ぶらであるように見える。
「ご心配なく。実は詫びの品は袂に入れていたのです。流石にこれ以上失敗できませんですからね」
「おお、そうでありましたか。ならば何の問題もありませんな。それでは存分にお話しください」
安堵した伊賀崎に促され、龍助は対面所に入って行った。
対面所に入った龍助を出迎えたのは、つい先日激しくやり合ったばかりの花緒である。更には、花緒以外にも同じ年頃の娘が四人控えていた。
「む? 彼女らは?」
龍助が呼び出したのは謝罪の相手である花緒だけだ。それなのに、何故他の者が同席しているのだろう。
「私達は、花緒さんがあなたと喧嘩をしない様に見張っているのです。お気になさらないでね」
同席している娘の中でも一番年かさに見える者が軽く会釈をしてそう言った。また龍助と花緒が喧嘩になった場合、今度は龍助が処罰される可能性がある。それと同様、喧嘩両成敗が武家のならいだ。大奥側も対応が悪かったと責任問題になる可能性がある。それを避けたいのだろう。ただでさえ、大奥は吉宗の倹約政策の煽りを受けている厳しい立場だ。ここで余計な口実を作る機会を与えては、単なる個人の責任では終わらない可能性を危惧しているのだろう。
「まあ良いでしょう。では単刀直入に申します。先日は御無礼いたしました。この通り謝ります。どうかお許しを」
「そこまで素直に謝られては、受け入れない訳にはいきませんね。謝罪を受け入れましょう。まだ見習いの者に、強く当たるとは何事だと父にも叱責されましたし」
目が多いと多少気になるところであるが、龍助は素直に頭を下げる。何か言い訳がましい事を口にしたら皮肉の一つでも言ってやろうか思っていた花緒であったが、これには素直に応じるよりほかない。例え父からの口添えが無かったとしても受け入れただろう。
「良かったですね。花緒さん、一度怒ると中々機嫌を直さないから、またこじれるんじゃないかって思ってましたわ」
「そうそう、心の中では仲直りしたいって思ってるくせに、素直になれないんですもの」
二人が和解したのを見て取った付き添いの娘達は、面倒な話は終わりとばかりに龍助に向かっておしゃべりを始めた。彼女らは花緒の味方として同席しているはずなのだが、これではまるで逆である。
「あ、あんたら……」
おしゃべりを始めた同僚たちを見て、花緒が眉をひそめる。どうやら彼女たちは、久しぶりに若い少年と間近に接して浮かれ気味の様である。
大奥は男子禁制の場である。僅かな例外が入る事はあるが基本的に大奥に入れるのは将軍だけである。御広敷の対面所の様に外部と接する機会はあるのだが、対面所で外部と接触するのは花緒の様な限られた役職の者だけだ。
それが今日は花緒の監視という名目で対面所で龍助と話す事が出来たのである。ある意味これは当然の事であった。
しかも、龍助はまだ元服も済んでいない眉目秀麗な少年だ。整った顔立ちの中に少年らしいあどけなさを残し、そこに生真面目さが加わっており、これが女心をくすぐっているのだろう。正直なところ、花緒も最初は龍助に好感を抱いていたのである。まあすぐに喧嘩に発展してしまったのだが。
「ところで、今日は詫びの品を持って来たのです。是非受け取って欲しい」
「あら、そうですか。一体何かしらね」
菓子を渡したくらいで賄賂だなんだと騒いでいた少年が、大した変わり様である。多少は成長したようだと花緒は龍助を見直した。人が変わるのは中々に難しい事は、大奥という人の思惑が渦巻く魔境にいると嫌でも理解出来てしまうのだ。
「しかし、付き添いの者がいるのであれば、もっと持って来るのでした。花緒殿だけに渡すのは少し心苦しいのですが、容赦していただきたい」
そう丁寧に述べた龍助は、袂から竹皮の包を取り出して花緒に差し出した。
「まあ、これは一体何かしらね。食べ物みたいですけど」
以前の喧嘩の発端は、花緒が差し出したかすていらであった。となると、龍助はそれに対する謝罪として何らかの高級な菓子を持参するのは当然の流れかもしれない。若い娘らしく、花緒は甘いものに目が無い。ほくほく顔で竹皮を開封した。
「……これは?」
竹皮の包には、丸い米の塊が二つ入っていた。饅頭や大福といったお菓子ではなく、おにぎりに見える物体だ。
「ははは、もちろん握り飯ですよ」
やはりおにぎりであった。
「ああ、中身が何かという事ですね? 片方が梅干しで、もう片方が昆布です」
もちろん花緒が聞いているのはその様な意味ではない。
「あ、申し訳ありません。どちらが梅干しかは失念しています。目印を付けておくべきでした。これは御無礼を」
もちろんそういう意味でもない。
見当違いの事ばかり言う龍助に対し、花緒はどうしてくれようと内心怒りに燃えていた。だが、ここで龍助に暴力をふるっては花緒が処罰される可能性があるし、その場合大奥全体の責任問題に発展しかねない。大奥の一員としてその様な事は避けたい。
それに、龍助に悪気が無いのは怒りによって冷静さを失いそうな花緒にも分かる。乙女に対する贈り物としておにぎりを差し出すなど普通に考えれば常識ではあり得ない。詫びどころか逆に挑発しに来たと判断されても文句は言えまい。現に付き添いの少女たちはあまりの事に氷ついている。だが、短い間ではあるが龍助と接し、その人となりは多少は理解している。
単に龍助の感覚がずれているだけなのだ。
「ありがたくいただきます」
「ええ、梅干しは紀州に残る親類が送って来たものです。紀州の梅干しは中々味わい深いですよ」
花緒の内心を知らない龍助は、またもや見当違いの事を説明し始めた。紀州の梅干しは確かに美味しいのかもしれないが、この場においてだから何だというのか。
どうしてくれよう。
花緒は頭を巡らせた。直接的な報復は出来なくとも、何か仕返ししてやらねば気が済まない。
そしてある事を思いついた。
「そうだ、もうすぐ節分ですよね。実は大奥の節分では特別に男性が招かれて豆を撒くのですよ。いつもは御留守居様がするのですが、最近どの方も調子が悪くて、別の者を代理にたてる事になったのです。確かまだ決まっていなかったので、田沼殿を推薦しておきますよ。是非お受け下さい。若い人が大奥に入れる何て、滅多にありませんよ」
留守居役はその名の通り将軍が不在の際の留守番役であり、すなわち将軍が出馬した際の本拠地を任される名誉な大役である。だが、泰平の世が続き将軍が長期間江戸を離れる様な事が少なくなると、自然と留守居役の出番も減っていく事になる。
一応大奥の取り締まりなど役柄は多岐に渡るのだが、最近は奉行などを務めた大身旗本が老後に勤める名誉職というのが幕臣達の共通認識だ。
なので、複数いる留守居役が皆体調不良でも一応理解は出来る事だ。皆老齢なので、体にがたが来ているのだ。
とはいえ、実のところ留守居役が全員大奥での豆撒きを辞退しているのは別の理由があるからなのであるが、その事は龍助の知らぬところである。
大奥に入れるというのは龍助にとってどうでも良い事であるが、これで大奥と良好な関係を築ければ主君が喜ぶであろうと思い、即座に承諾した。
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〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
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