千年廻りー短編集ー

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留馬の秘め事

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 「留馬るま!久しぶりじゃのう!」

 元服して間もない、亡き前刑部卿ぎょうぶきょうの息子、流亜るあが廊下を走って私の許へ来た。

 「流亜殿、このところお訪ねできず申し訳ございませぬ、立て込んでいましたゆえ」

 私は、まだ背が自分の胸元にも及ばない流亜殿を見た。 この子を見ると未だに胸の内がざわつく。

 「暫く見ぬうちに、また大きくなられましたね」

 「そうか?この調子なら留馬に追い付けるかの?」

 「えぇ、きっと」

 私に似たのなら、きっと。

ーーー…

 遣り場のない数多の想い。愛した人との唯一の子であるという遣る瀬なさ。自分が父親であることを言えない虚しさ。私を可愛がってくれた前刑部卿を裏切った罪悪感。

 愛しき我が子が前刑部卿の子として育てられていく様を見ているのは辛かった。自分が父親だと名乗り出ようと思った時は何度あっただろうか。 

 前刑部卿を父と呼ぶその光景は、悔しさや妬ましさを私の心に刻み付けた。しかしそれは全て自分への罰なのだと今では思っている。

 毎夜、私は数多の女子を抱いている。女子はみな等しく可愛く愛おしい。しかしどうにも一人の女に夢中になることが出来ない。美女と名高い女子も、博識な女子も、何処か味気無く満たされない。

 それが祟り今では「留馬は一夜の男」と噂されるようにまでなった。しかし、そういう噂が広まることに不快や嫌悪感を抱いたことはない。寧ろ好都合とさえ思う。私も女子も、一夜限りの間柄だと割り切れるから。

 私が「一夜の男」になる前は、ただ一人の女子に全てを捧げていた。 それが、前刑部卿の正室だった。まだ私が十八の時だ。

 「留馬様はやっぱり美しくなられたわね」

 「えぇ、幼子の頃からこの子はきっと、と思っておりましたが、まさかここまで眉目秀麗な殿方になられるとは」

 女房が元服した私を見て口々に褒めちぎった。何と言うこともなく、私は口角を上げるだけだ。私は常にそうして全てを交わしてきていた。 元服を、よく世話になっていた刑部卿に報告しようと私は彼の邸宅に出向いた。

 それが全ての始まりだった。

 刑部卿の屋敷の廊下を歩いていると、遠くの縁側に一人の女子が顔も隠さずに座って桜の花を愛でていた。
 格別に美しいわけではなかったが、私は目を離すことができなかった。それはきっと、彼女から溢れ出す儚さや憂いから来る色香のせいだったのだろう。 彼女は私が見ていることに気付くと慌てて袖で顔を覆い部屋に入ってしまった。

 それは刹那の出来事だった。しかし私は何故か感じたのだ、彼女はひどく寂しいのだと。我ながら傲慢だとは思うが、私は彼女を慰めねばならないという使命感に駆られた。

 その日を境に、私の頭から彼女の姿が離れず、居ても立ってもいられなくなり、刑部卿が居ない隙を見計らって夜屋敷に忍び込んだ。
 月が丁度雲に隠れていた時だったから、彼女は一瞬私を刑部卿だと思ったが、すぐに私だと気付くと目を見開き硬直し、慌てて周りの女房に助けを求めようと口を開いたところを私は手で塞いだ。

「安心してください、乱暴するつもりはないのです」

「あ、貴方はあの時の…!いったい何なんですか?」

 彼女は不信の眼差しで私を見つめた。突然忍び込んできたのだ、無理もない。

「貴女に逢いたくて」

「なっ…大人をからかうものではありません!」

 彼女は私に背を向けてしまった。確かに彼女は二十八で、十八の私にしてみれば大人だった。 しかし、私に背を向ける前、頬を染めていたのを私は見逃さなかった。私は彼女を後ろから抱きしめた。彼女は驚嘆し、私の腕から抜け出してしまった。

 「な、何をなさるのです!乱暴はなさらぬと!何より私は…刑部卿の正室にございます」

 そう言う彼女は物事の分別を弁えた大人の顔をしてみせた。突然私と彼女の間に深い溝が生まれた気がしたが、若気の至りだった私は怯むことなく彼女に詰め寄った。

 「存じ上げております。しかし貴女はとても寂しそうだ」

 「なっ…」

 「私はただ、貴女を慰めたいのです。ただ、貴女の寂しさを埋めたいのです」

 私は動揺する彼女の麗しき漆黒の髪を優しく撫でた。最初は怪訝そうにしていた彼女だったが、諦めたように抵抗をやめ、そしてゆっくりと話し出した。

 「あの刹那に貴方は私の心の内を見抜いていたというのですね…恐ろしい。私は正室であるのに、あの方に全く愛されておらぬのです。今宵もあの方は他の女子の許へ行ってしまわれた。子を授かればまた変わってくるのやもしれませぬが、今の私はあの方に必要ないのです…」

 彼女の声は次第に震え、終いには啜り泣いた。 不謹慎であるが彼女のさめざめと泣く姿は散り行く桜のように儚く美しかった。私は何も言わず彼女の髪を慈しむように撫でた。

 刑部卿は女関係がふしだらなことで有名だった。良い人柄であるだけに、誰もが玉に傷だと残念そうに嘆く。彼女は寂しかったのだろう。誰にも愛されずに悲しかったのだろう。彼女を初めて見た時に感じた儚さや憂いは、そこから来ていたのかと腑に落ちた。
 私は彼女を御帳台みちょうだいの中にゆっくり座らせた。私も彼女の前に座った。

 「明け方には戻ります。どうかそれまでの間、貴女の傍で寝てもよろしいでしょうか?」

 彼女は躊躇いながらも静かに頷いた。

 幼かった私の過ちだった。毒を持った綺麗な花に触れてしまった。
 その夜を機に、私は刑部卿が出掛ける夜を見計らっては彼女に会いに行き、彼女と一夜の恋に溺れた。結ばれない仲だとわかっていながら、刹那の恋に身を焦がした。
 最初は寂しさを埋める為に彼女は私を求めていたけど、いつしか私を愛するようになった。 私も、最初は興味本意だったが、いつしか彼女を本気で愛するようになった。
 そんな刹那に溺れるようになってから一年の月日が経とうとした頃だった。

 「…身篭ったみたい、留馬」

 月が満ち、美しい夜だった。縁側で月を眺めながら私の傍らに座る彼女は微笑み腹部を摩りながら言った。

 「本当に!?」

 私は喜びを隠せず彼女の手を握った。

 「えぇ」

 彼女は本当に嬉しそうだった。私も嬉しかった。
 だがこの時私は気付けなかった。彼女の横顔が少し憂を帯びていたことも、彼女に宿る赤子が私の子にはならないということも。それに気づいた頃には、三日月が白む大路でただ一人だった。
 わかっていたではないか、彼女は刑部卿の正室だと。そうとわかっていて逢瀬を繰り返していたのではないか。 私は忘れていたのだ、刹那の悦に浸り過ぎたのだ。

 「わかっていたことです」

 次に会った時、彼女は腹を摩りながら素っ気なくそう言った。そうだ、わかっていたことだ。それなのに、寂寥の想いが胸を締め付けて止まない。 一方彼女は大人だった…否、一夜の恋に溺れる女ではなく一人の母となっていた。彼女の眼差しはもう私ではなく腹の子に注がれていたのだ。彼女を慰めていた私はいつの間にか慰められる側になっていた。大人ぶっていた私は自分が思うよりずっと子どもだったのだ。

 己の愚かさに初めて気付いたこの夜を境に、彼女に会いに行くのを控えた。何となく会ってはいけない気がした。
それから月日が立ち、廊下を歩く空蝉のようになってしまった私の前に刑部卿が現れた。刑部卿の顔はいつになく優しげな満面の笑みを浮かべている。
 私は刑部卿に対する後ろめたさから、目を合わせることが出来ず目を伏せながらお辞儀をした。

 「子が産まれたんだ!」

 「子が…!?」

 「流亜と言うんだ!」

 「るあ…」

 刑部卿の発言に私の胸の鼓動が激しく高鳴りだした。喜びや罪悪感が頭の中を目まぐるしく回っている。視線も右往左往に揺れ、動揺が隠せない。だが、なんとか平静を装った。

 「…おめでとうございます」

 私は震える声で言った。刑部卿はそれを聞くと笑顔で去って行った。
 一人になった廊下で、私は呆然とそこに立ちすくんでいた。心の内が騒々しくざわついている。ざわついているものが何の感情かなどわからない。全ての感情が私の心を駆け巡るのだから。

 「流亜…」

 流亜。その名は、最後に彼女と会った時に私が考えた名。 私の目から無数の涙が溢れ出した。

「留馬なら何と名を付けます?」

 「流亜、かな」

 「るあ?真名は?」

 「こうです」

「良い名ね」

 あの夜交わした言葉、彼女の最後の微笑みが昨日のことのように浮かんでくる。あのもしもの話が彼女の真意そのものだと後になって気付くなど、まだ己が幼い何よりの証だ。

 幾日かして、刑部卿の屋敷に招かれた。私に流亜を見てほしいという。 私は躊躇ったが、刑部卿の招待とあらば断るわけにはいかない。私は期待と罪悪感を胸に刑部卿の屋敷に出向いた。

 「よう来た留馬!見よ見よ!」

 刑部卿はそう言うと、廊下を見た。私もつられるように廊下を見ると、子を抱いてこちらに向かって歩いてくる女が見えた。 乳母ではない。あの女子は、確かに見覚えがある。私が愛した人だ。
 胸の鼓動が急に速まる。彼女と会わないでもう一年が経とうとしているのだ、嬉しくないわけがない。
 彼女は刑部卿と私がいる部屋に着くと、私の隣に腰を下ろした。一年ぶりに会う彼女は、少し痩せたように見えた。彼女は私を見た。私が躊躇いながら目のやり場に困っていると、彼女は優しく微笑んだ。その笑顔に、共に過ごした夜が鮮明に蘇る。

 「留馬様、御覧下さい…」

 他人行儀な彼女の「留馬様」という呼び名に胸を痛ませながら、彼女の腕に抱かれた子を見た。 その子は無防備に愛くるしい顔で眠っていた。 私はその顔をまじまじと見つめた。眉は彼女に似ている。目元は私に似ている。鼻も私に似ている。口は、彼女に似ている。

 「留馬?どうした?」

 刑部卿の言葉に我に返った。気がつくと涙が私の頬を伝っていた。

 「いえ…とても可愛いお子でございます…」

 涙を直衣の裾で拭いながら言った。

 「…目元なんて、そっくりでしょう…?流亜と言うの…」

 そう言う彼女の目にも涙が溜まっていた。

 「えぇ…」

 私は搾り出したような声で言った。笑顔を作ることが辛いと思ったのは初めてだ。

 「留馬様、ありがとう」

 彼女は私を見送る時、そう言って優しく微笑んだ。「ありがとう」というたった一言に私は悟った。私という存在、そして私と過ごしたひと時へ向けられたものだということを。共に過ごした日々は偽りではなかったと、最後に彼女は伝えたかったのだと思う。私は目を合わせることなく口許に薄く笑みを浮かべ会釈してその場を後にした。少しは伝えられただろうか、私はもう大人で、貴女と過ごした日々を想い出に変えることができたということを。きっと彼女は見抜いてしまうだろう、それが私の精一杯の背伸びで、背を向けた私が涙を流していることを。


ーーー…

 それから幾月か経ち、ある噂が私の耳に入ってきた。
 刑部卿の正室が亡くなったと。

 確かにこの所の刑部卿は空蝉のように虚ろで気もそぞろだった。

 あれだけ慕っていたというのに不思議と涙は出なかった。しかしこの日を境に、振り切れたように私は数多の女子を抱くようになった。もしあの時ちゃんと泣いていたのなら、私は数多の女子をとっかえひっかえ抱かずに済んだのではないかとこの頃思う。

 私は彼女の面影を探していることに気付いていないふりをしているのだ。あれから虚しく物足りない日々。それを彩る彼女はもういない。

 そんな私の虚空の日々を埋めるのは、流亜の成長だけだ。 彼女亡き後、刑部卿に幼き流亜の遊び相手として私はよく屋敷に招待された。今にして思えば刑部卿は、流亜は私と彼女の子だと知っていたのだと思う。卿が私と流亜を頻繁に会わせていたのは優しさか悪意か、そこまでは今でもわからないが。

 流亜は表面的には刑部卿と彼女との間の最初で最後の子であるから、勿論兄弟はいない。だから私を兄のように慕っていた。それは寂しくもあり嬉しくもあった。 子の成長とは早いもので、流亜はもう十歳だ。私もあの頃大人に感じていた彼女の年をとうに越してしまった。

 そして、私のような咎人を我が子のように可愛がってくれた刑部卿は、数年前に亡くなってしまった。実の父以上に、刑部卿は私を可愛がっていた。 私も刑部卿のことを、父親のように慕っていた。尤も、幼かったからとはいえ刑部卿のことを陰で裏切った私に父親と慕うなど許されぬことだったが。

 しかし流亜は、私の刑部卿への罪悪感と裏腹に、最近さらに顔立ちが私に似てきた。 それが嬉しくも悲しくもある。

 「留馬!今度は私に歌を教えてくれまいか?」

 「歌、ですか?」

 「留馬が詠む月の歌は秀逸だからのう」

 流亜は瞳を輝かせながら言った。その眼差しは、彼女の生き写しだ。

 「いいですよ。では、流亜殿の屋敷で、夜に月を見ながら歌を詠み合いましょう。縁側に出れば、月がよく見えますゆえ…」

 そこから見える月は、桜や梅と相俟ってとても美しい。
 彼女もその月を、愛して止まなかった。

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