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第一章 運命的な出会い

4 ジャカルタの夜

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 あゆみの後ろについて、まみは荷物受け取りのためにターンテーブルへ近づいて行った。

 今回は引っ越しのために、船便や航空便でたくさんの荷物をすでに送ってあるものの、すぐに使いたいものや、子どものおやつなど、日用品を中心にいろいろな物を箱詰めして機内荷物として飛行機に乗せていた。荷物の重量制限もあるので、本当に取捨選択して選んだのだが、やっぱりたくさんになってしまって、スーツケースも段ボールもパンパンだった。だから、まみもあゆみと共に、それらをタクシーまで運ばなくてはならない。

「どうぞ。」

 とインドネシア人の男性がつたない日本語で荷物用のカートを差し出してきたので、まみは受け取ろうとした。しかし、まみは両手が瑛斗と晴斗でふさがってしまっていて、そのカートを押すことができなかった。

 すると、

「OK!」

 とニコッと笑い、そのままカートを押しながら、まみの行く方に付いてきてくれた。

 まみは、

(空港側のサービスって日本よりも行き届いているんだ。子連れの人間に優しい国なんて、とても素敵!)

 と嬉しくなった。

「Thank you」

 まみもニコッと笑って返した。


 一方の将生は、晴斗をまみに抱っこしてもらっている分、動きが制限されずに自由に動けた。その感謝の意味も込めて、将生はまみとあゆみの手荷物運びを手伝おうと思っていた。

 遠くにあるカートを二つほど取りに行って、ターンテーブルへ戻ろうと思ったその時、まみがインドネシア人らしき男のポーターに笑顔を返している様子が見られた。

 カートを押しながら、まみの荷物はどれか?と聞いているようだ。

(マジか!!)

 さっきインドネシアはお金がものをいうという体験をしたばかりのまみが、さっそくまた別の人間にカモにされようとしている。

 もちろん、誠実なポーターさんも存在するだろう。でも、ここの相場を知らないまみは、高いお金をとられてしまう可能性が高い。

 もしかしたら、ポーターにお金を払うことすらわかっていないかもしれない。

 将生は急いでまみの傍まで行くと、インドネシア語でポーターに話しかけた。

「荷物を運ぶのを手伝ってくれてありがとう。」

 じゃっかん、冒頭に「俺の女の」と付いていてもおかしくないくらい、独占欲を露わにしたつもりだ。

 ・・・もちろん、演技であって、本当の独占欲ではない・・・、もちろん!

 ポーターは、女と子どもだけの旅行だと思っていたのに、旦那と思われる人間が現れたことに、すこしバツの悪そうな顔をしたが、すぐに笑顔に切り替え、挨拶を返してきた。

 将生はそこで一旦みんなを立ち止まらせて、まみに確認することにする。

「矢野さん、荷物はたくさんありますか?もし僕一人で運べる量なら、僕一人で駐車場まで運びます。でも、数が多いようならポーターの彼を雇って手伝ってもらった方が良いかもしれません。」

 その質問に対して、まみはなぜ止められたのか、わからないなりに、答えることにする。

「えぇと・・・けっこうたくさんあるんです。来るときはヒロ君に運ぶのを手伝ってもらったんですが、考えてみれば、ここからタクシーまで私と姉の二人で運ぶには多すぎたかもしれません。段ボールで6箱、大きいスーツケース2つがあるんですけど・・・。」

 思い出すように荷物について話し始めたが、途中ではっとして

「お金かかるんですか?」

 と将生に聞き返した。

 将生は、やっぱりお金がかかることに気づいてなかったのか、と思いながら

「はい、かかります。でも、そんなに高いお金ではないですよ。ここの相場はわかっているので、・・・だいたい一箱に付き100円くらいでしょうか。全部で8個の大荷物があるなら、彼に手伝ってもらった方が良いですね。ちなみに、僕も大きなスーツケースを一つ預けていますので。」

 と答えた。そしてそのまま、ポーターの青年と値段交渉を行い、今話した通りの金額で彼を雇うことにした。

 将生が値段交渉をするのを傍らでハラハラしながら見守った後、ポーターが荷物を取りに離れた隙に、まみは

「すみませんっ!またまた助けていただいちゃって・・・。」

 と焦ったように将生に謝罪した。

「いえいえ。さきほども言いましたが、僕一人では運べそうもないので、ちょうど良かったですよ。」

 と将生もこたえる。

 でも、内心では(この子、危なっかしいな)と思っていたし、きっと顔にも出てしまっていたと思う。

「空港のサービスだと思いこんでしまいました。」

 少しシュンとしてまみが話す。その肩が少し落ちたような雰囲気が、将生の庇護欲をかきたて、そっと慰めようと手を伸ばしかけ・・・実際に触れる前に手をぎゅっと握りしめた。

 そんな中、少し離れたところで、自分の荷物を勝手に持っていこうとするポーターに対して、あゆみが抵抗を示しているのが見えた。

 ポーターとしては、あゆみがまみの連れだということは認識していたのだが、自分の後ろを歩いていたまみが、勝手にポーターを雇うことにしたとは思ってもみないあゆみは、さっきのイミグレ事件も相まって、かなり強固に拒否している。

「あっあっ!お姉ちゃん!」

 自分のミスに落ち込んでる暇もなく、まみは急いであゆみのところへ走っていき、将生が雇ってくれたことを説明する。

 将生の言うことなら・・・とは思うものの、あんまり納得していないのがわかる顔で、あゆみはしぶしぶ荷物から手を引いた。

 その様子に少し安心しながら、この荷物は果たしてタクシーに乗り切るのだろうか?と、まみは新たに疑問を持ち始めた。

「お姉ちゃん、これだけの荷物って、どうやって運ぶの?来るときは宅配便で空港まで運んでもらえたけど、これ全部普通のタクシーに乗り切るのかな?それとも、こちらにも宅配便ってあるのかな?」

 あゆみに問うた言葉だったのだが、意外にも後ろにいた将生が答えてくれた。

「こちらでは、あまり宅配便事業は発達していません。だいたいみんな、自分の荷物は自分で運んでいます。・・・でもこの量は確かに普通のタクシーでは厳しいかもしれませんね。」

 そこで将生がちょっと考えると、

「もし良ければ、僕の車を使いますか?日本でいうところのミニバンの迎えが来る予定なんです。それならきっと一気に全部乗り切ると思いますよ。」

 と言い出した。まみはビックリして

「ええっ!そんな、悪いですよ。普通のタクシー1台で無理なら、2台にするってこともできますし!」

 と体ごと振り向きながら言った。

「確かに、そういう方法もあるんですが・・・ちょっと言いにくいですけど、タクシーにも悪い運転手さん、結構いますよ。日本のタクシーよりはるかに安い分、面倒ごとが起きることも多いと、同僚からちらほら聞きますし。特に矢野さん、ちゃんと目的地まで騙されずに着けると思いますか?」

 最後は少し、いじわるだったかな、と将生も思うものの、イミグレの事件があってすぐのポーターに捕まったまみは、やっぱりちょっと放っておけない感じがするのだ。

 さすがに、まみもそのことに気づいているのだろう、自分は果たして日本とは勝手の違うこの国で、タクシーを無事に乗りこなすことができるのだろうか、と自問自答する。答えは・・・・「否」だ。

「うぅ・・・そう言われてしまうと・・・自信はありません。」

 最後の方は自信と比例して声がちいさくなってしまう。

「すみません、こちらとしても、出過ぎた真似かとは思うのですが、せっかくの御縁で知りえた皆さんが、こちらに来てすぐ、厄介ごとに巻き込まれるのはしのびないので・・・。」
 
 いじめすぎた感がある将生は急いでフォローする。

 その時、二人のやりとりを聞いていたあゆみが、やっと口を開いた。

「伊藤さんのご厚意をありがたくお受けしたいところなんですけど、実際問題、伊藤さんのお宅はどちらなんでしょうか。さすがにあまりにうちから遠すぎると、こちらとしても申し訳なく感じてしまうので・・・。」

 と現実的な問題を出してきた。

「ああ!そうですよね。えっと、リマウナレジデンスというマンションです。藤木さん達はどちらですか?」

 将生が聞くと、あゆみがびっくりした顔で

「えっ?本当ですか?うちもそんな名前だったと思うんだけど・・・。」

 と言って、自分の手帳をひっぱりだして、確認し始めた。

「リマウナにもいくつか兄弟マンションがあるので、ちゃんと確認してください。でも、リマウナって付く名前なら、きっと近くだと思いますよ。」

 と将生はにっこり笑いながらまみに説明した。

「だいたいこちらに来た日本人、特に家族で赴任されてきた方は、子どもの通学を考えてジャカルタ市内でも南の方、リマウナ近辺に住んでいることが多いんです。単身の方はもう少し北寄りの、繁華街に近い場所が多いんですが。うちは、たまたま前任の方の後をそのまま契約期間いっぱいまで借りることになったので、リマウナなんですが。あの辺りは日本人スーパーも近いので、とても住みやすい場所だと思います。」

 さすが、半年長くジャカルタに滞在しているだけあって、将生は頼りになりそうだ。

「そうなんですね。伊藤さんには、今後もいろいろご指導いただきたいです。」

 まみが感心したように言った。

 そこで、あゆみがやっと手帳から顔をあげて

「やっぱり、うちもリマウナレジデンスって名前みたい。」

 とまみと将生に言った。

「そうですか、それでは車については問題なさそうですね。」

 将生はホッとしたようにそう言った。もしこれで、住居が離れているようなら、自分がタクシーの運転手に交渉してからまみ達を乗せようかとも考えていたけれど、自分が一緒にいられるならば、それより安心なことはない。

 何せ、まみは晴斗を大人しくさせてくれた恩人だ。恩はできるだけちゃんと返したい。・・・それだけではない気もするけど・・・。もう少しまみと一緒にいたいという下心は、今は少し封印しておきたい。

 そんなこんなで、荷物も無事に全部集まり、将生とポーターで手分けして段ボールなどをカートで運び、あゆみが将生の大きなスーツケースを1個押しながら歩く、という方法で、民族大移動が始まった。

 余談だが、ポーターを雇ったおかげで、その後の荷物検査はスムーズに済んだ。そうやってポーターにお金を落としてくれる来イ客は、多少荷物に問題があろうが、スルーしてくれる。ポーターと荷物検査官が裏でやり取りしているというか・・・。まぁ、まみがポーターを雇ったことに、プラス面もあったということだ。本人は全く気付いていなかったけれど・・・。





 空港の外に出たところで、将生が携帯を取り出し、インドネシア語で何か話し始めた。その後に車が一台来てくれたところを見ると、どうやら彼専属車の運転手さんと電話していたようだ。

 車が停まると、降りてきた運転手さんと将生が簡単な再会の挨拶をし、どんどん荷物を積み込み始めた。

 荷物を運転手さんと共に積み込みながら、将生は

「インドネシアでは、車に乗る前に、必ずトイレに行ってください。渋滞がひどい国なので、トイレに行きたくなっても、すぐには止まれないし、清潔なトイレに辿り着くのも難しいので。」

 と、まみ達にアドバイスした。

 それを聞いて、まみは嫌がる晴斗を将生に押し付け、急いでトイレに行くことにする。

 これが国際空港のトイレ!?と少し疑問に思うくらいの、ちょっと床が濡れすぎな感じがするトイレだった。

 来る前に「インドネシアでは配水管が日本と比べて狭いので、使用済みのトイレットペーパーは流さずに近くにあるゴミ箱に捨てる」と聞いていたので、まみはその通りにした。まみが個室から出ると、すぐにそばにいた清掃員らしき女性が水を撒いて綺麗にしていた。そうか、だから床が濡れているのか。とまみは納得してから晴斗のところへ小走りで戻った。

 そして、そこで、最初に会った時と同じように、晴斗に泣かれて困っている将生の様子を目にした。さっきはイミグレや手荷物受取所であんなに活躍していたのに、晴斗に泣かれるとオロオロしてしまう将生の相変わらずの様子に、自然と笑ってしまった。一体今までどうやって二人で過ごして来たんだろう。

 ついでに、と、晴斗のオムツもまみが換えて、スッキリし、みんなで車に乗る準備が完了した。

 まみは、「そういえば」と、やっと外でインドネシアの風を感じたことに、少し感動した。夏から秋に向かっていた日本の風と違って、真夏に逆戻りしたかのような暖かい風。今は夜なので日差しを感じることはできないが、きっと赤道直下だけあって、ギラギラした太陽の光を拝めるのではないだろうか。ふと、自分の服装が重く感じて、羽織っていたカーディガンを一枚脱いでみた。少し涼しくなったのと同時に、気持ちも少し軽くなった気がした。


 まみが将生から晴斗を受け取ると、やっぱり晴斗は大人しくなった。そのことに、将生はとてもホッとした顔をした。将生は晴斗の泣く姿が耐えられないようだ。

 いつの間にか将生の車のすぐ後ろに手配されたタクシーに、将生と晴斗を抱っこしたまみが乗車した。あゆみと瑛斗は将生の車の空いた空間に乗ることができたようだ。

「マンションまでは、1時間弱でしょうか。夜なので渋滞も無いと思います。」

 将生がまみに教えてくれた。

「これは、高速道路ですか?」

 車の窓から外を見ながら、まみが尋ねる。

「そうです。スカルノハッタ空港から市内へは、この高速道路を使います。とは言え、昼間はよく渋滞することがあるので、空港利用する時には、余裕に余裕をもって家を出ないとなりません。渋滞に巻き込まれて、飛行機に乗り遅れたって話は、よく聞く話ですからね。」

 スムーズに走るタクシーの様子を見て、思っていたより、交通網は発達しているのかな、と思ったまみだったが、高速を使っていても、渋滞で飛行機に乗り遅れるという話を聞くと、そうでもないのかな、とも思う。きっと昼間と夜とでは交通の様子も違うのだろう。

 晴斗は、こんな真夜中なのに、少しも眠そうな様子を見せず、まみが抱っこしているからこそ大人しいのか、もともとあまり行動的ではないのか、短時間の付き合いでは判断ができないけれど、目をパッチリ開けて、まみの二の腕を触っている。自分の二の腕には筋肉が足りずに、プヨプヨしているのは自覚しているまみだが、こうもプヨプヨを気に入られると、ちょっと悲しい。

「うぅ・・・晴斗君、私の腕はそんなにもプヨプヨしてますかね・・・。」

 まみが晴斗に話しかけると、晴斗は嬉しそうに「だぁぁ~。」と返事をしてくれた。

 隣にいた将生が、

「どうしたんですか?」

 と話に入ってきた。

「いえ、大したことではないのですが、あまりに晴斗君が私の二の腕を気持ちよさそうにつまんでいるので・・・。運動不足なことは重々承知しているんですけど、乙女心にちょっと傷がつきます。」

 晴斗がまみの二の腕を嬉しそうにつまんでいる様子がよく見えるように、左腕を少し上げて、将生に見えやすいように体をずらしながらまみが言った。

 すると、「20歳越えて、何が乙女か!」とあゆみなら突っ込んでくれるところも、将生は普通にスルーして、

「ちょうど良さそうな引き締まり具合かと思いますがねぇ・・。」

 とフォローしてくれた。本当は触って確かめたいけれど・・・なんて将生が思っていることには、もちろん気がつかない。

「そうですかね。・・・晴斗君が喜んでくれるなら良しとしますか。もともと二の腕の柔らかさと、オッパイの柔らかさは同じって言いますもんね。晴斗君にあげられるオッパイをもっていない私には、プニプニの二の腕があって良かったのかもしれません。」

 と、まみがのんきに発言した。

「は・・・はぁ。」

 将生はなんと返して良いかわからなくなり、曖昧な返事になってしまった。

(というか、こんな真夜中、密室のタクシー車内で、オッパイなんて単語を聞くことになるなんて!)

 と将生はドギマギしてしまったのだが、相手はきっとママ友と話すように話しているだけだろう。


 平常心、平常心、僕はママ友、僕はママ友…と何度か心の中で唱えておく。

 なんだろう、育児言葉として、普通のお母さんが発してもなんとも思わないワードが、年若い未婚の女の子が発すると、途端に恥ずかしく聞こえてしまう…。それは「まみだから」なのか、「年若い女の子」に反応しているのだろうか…。

 将生が少しの間、答えの出ない迷宮に入り込んでいる隙に、車は着々とマンションへの道を進んでいく。まみにとっては初めて見るジャカルタの街。先ほどまでの畑や田んぼのような風景から、少しずつネオンが輝く建物が増え、都市と言われて納得できるような輝きを感じ始めた。

 さすがジャカルタはインドネシアという一国の首都である。思っていたよりも、都会だ。とまみは感じた。まみは別にアジアの国を田舎だと思っていたわけではなかったが、先ほどの空港のトイレといい、今まで旅行で行ったタイのように、衛生面では不安に思うことがあり、日本ほどの清潔さのない国だとは思っていた。それが、なんとなく頭の中にあったから、キラキラ輝いているジャカルタの街に、今までのイメージとは違った印象を受けたのだ。

「キラキラしてる・・・。」

 誰に言うつもりもなく、こぼれた独り言に、思考の淵から這い上がってきた将生が反応する。

「そうですね。ジャカルタも意外に建物は都会的ですよ。まぁ、中身は・・・うーん、手抜きを感じる時もありますけど・・・。なんというか、まさに発展途上の国と言いますか、勢いとしてはとてもある国で、若い人がたくさんいて、社会を盛り上げている感じがします。」

 将生の説明に、なるほど、と頷きながら、

「あ、あそこの建物、ひときわキラキラしていますね。」

 とまみが窓の外を指さした。

「あぁ、あの辺りがリマウナですよ。」

 将生が、まみの指さす方を見ながら教えてくれた。

「えぇっ!あんな煌きらびやかなところが!?」

 とまみがビックリすると、

「あの光っている建物自体は、隣のマンションですが、僕たちのマンションも、それなりに美しい外観をしています。僕も初めて見た時には、南国のリゾートホテルかと思ってビックリしました。夜も美しいライトアップをしてくれていますから、きっとお気に召すのではないでしょうか。」

 将生はにっこり笑いながら言った。その言葉に、まみは期待を込めた目で将生を見て、

「本当に!?それはすごく楽しみです。」

 と、微笑みながら答える。そして、晴斗にマグのお茶を飲ませ、自分もペットボトルのお茶を飲んだ。暑いけれどあまりのどが渇かず、水分補給を忘れてしまいそうだ、と思った。



 少しの間、晴斗君の動きが鈍いなぁ、と思っていたら、いつの間にか晴斗は目を瞑っていた。よく、指しゃぶりを始めると眠たい証拠、何ていう話を聞くけれど、晴斗の場合は親指をほとんど常にしゃぶっているので、眠さ具合には関係なさそうだ。なので、眠ったことに気づきそびれてしまった。そういえば、機内で寝たとはいえ、いつもは眠っている時間だろうし、車の揺れも眠りを誘うものかもしれない。

 まみは晴斗の顔を覗き込んだまま、無言で将生の右袖を引っ張ってこちらに注意を向けさせた。突然合図を出された将生はビックリして、まみに近づく。「どうし・・・」将生が最後まで言い終わらないうちに、まみが将生の方に顔を上げながら、晴斗が寝たことを伝えようとした。

 狭い車内の中で、お互いの顔がとても近くにあることに二人とも気付いた。

 二人ともお互いの顔を間近で見たまま、数秒・・・いやもっと短い時間かもしれないが、どちらも動けなくなってしまった。まみの息が将生の顎の辺りにかかる。将生は吸い寄せられるように、もっとまみに近づきたいと思った…その時、

「ガタンっ!」

 と車が大きく上に跳ね上がり、まみのおでこが将生の鼻に見事に命中する。

「・・・~っつ~・・・。」

 将生が鼻を右手で覆う。

「ごっごめんなさいっっ!」

 まみもおでこを押さえ、涙目になりながら、将生に謝罪する。

 将生は痛すぎて、声が出せないが、「大丈夫。」という意思表示のため、左手をひらひらと振ってみせる。「不埒なことを考えた罰だ…。」と将生は鼻を押さえながら反省する。

 運転手がインドネシア語で何か言っている。将生がなんとか絞り出した声で、「OK」と言っている様子から、何かに乗り上げてしまった不手際を謝ったようだ。

 まみもおでこが痛かったが、うずくまるほどではなく、将生の痛そうな様子にオロオロする。

「はっ・・鼻血は大丈夫ですか?」

 まみが言いながら将生を覗き込もうとするが、晴斗を抱っこしているので、うまく顔を確認できない。

「だ・・・いじょうぶだと・・・」

 自分で鼻の下辺りを触りながら、将生は自信なさげに指に血が付いていないか確認する。ぶつかったその時は、衝撃と共に何となく血の匂いがした気がしたが、鼻血が出るほどではなかったようだ。

「うん、血は出てないみたいだ。」

「それは良かったです・・・。あ、でもすみません、今は冷やす物も持ってないので・・・」

 持ち物で、何か役に立つものはないかと、まみは自分のバッグを漁るものの、瑛斗のお菓子や大きめのタオル、ゴミ袋用のスーパーの袋、大量のポケットティッシュ・・・と、特に役立ちそうな物は出てこない。

 と、まみがごそごそと変な動きをしたせいか、起きてしまったのだろう、晴斗が急に泣き出した。

「わぁ!ごめん、ごめん、ごめんね、晴斗君。」

 もう、将生のことそっちのけで、まみは晴斗に集中する。きゅっと抱っこひもの上から晴斗を抱き締め、体を前に倒したり、後ろに倒したりしながら、「ぞうさん」の歌を歌い、リズムをとって晴斗を揺する。

 車がすでに揺れているのだから、まみの揺すりが必要なのかは疑問だが、何とかして晴斗の気を逸らし、あわよくばまた眠ってくれたらいいな、というまみの願いのもと、まみのできる限りの奉仕活動である。

 体を前後に倒すだけでなく、前傾する時に腰も少し浮くので、信号でタクシーが停車しているときも、「ぞうさん」に合わせて車体が揺れる。かなりの体力勝負である。そして、そのかいあってか、晴斗はひとしきり泣いた後、右手の親指をちゅっちゅし始める。だいぶ落ち着いてきたようだ。

 その間、将生は、知らない人が見たら、何かの宗教が始まったのではないかと思われるような奇怪な動きをするまみに、いろんな意味で釘づけだった。正直、自分の痛みなんてそっちのけだった。

(世のお母さんたちは、こんな動きをして、赤ちゃんと向き合っているのか・・・。)

 まみのスゴ技を前に、驚愕というか、感動というか、とにかくとても心が動かされた。そして、自分に問う。「果たして今後、自分はこうやって脇目もふらず、晴斗のために行動できるのだろうか。」と。

・・・深く考えだしたら止まらなくなるのがわかり、その問題はどこかに置いておくことにする。 

 そんな将生の心の葛藤に気づくこともなく、しばらくすると晴斗がまた寝息をたて始め、まみも将生もホッと一安心した。

 「寝てくれましたね。」

 まみが、小声で将生に囁く。もうさっきのような二の舞にはしたくないので、声や動きは最小限だ。

 「ありがとうございます。」

 将生は、晴斗を寝かしつけてくれたことに対して、心からの感謝の意を述べた。晴斗の寝かしつけ騒ぎのおかげで、先ほどの息も詰まるような二人の空気は、すでに萎んでしまっている。そのことに、二人とも改めて触れはしなかったが、お互いに心からホッとしていた。

 その後は、二人とも晴斗が起きないように、そこに最大限に気を使って、過ごすこととなる。だから、最低限の話しかしないし、沈黙が続いても気にしない。それに、まみにとっては初めてのジャカルタの景色だ。タクシーの窓から見える景色や、人の姿に、物も言わず夢中になっていた。

(今日から、私はここで暮らしていくのかぁ。)

 あゆみから「ジャカルタに一緒に来ないか」と言われた時にはピンとこなかったけれど、実際にジャカルタの街を目で見て、空気を吸って、インドネシア人と接することで(あまり良い体験ではなかったけれど)、少しずつ実感が湧いてくる。

 (日本でいろいろ悩んでいたことを日常とすると、今は非日常だなぁ。)

 キラキラ輝くジャカルタのネオンを見ながら、まみは、これからの生活が楽しいものになりそうな、根拠のない希望を持ち始めていた。
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