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第一章 運命的な出会い

8 シャワーにご注意

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 「ただいま~」

 鍵を開けて、裏口から家に入ると、まみは新居のリビングにそっと足を踏み入れる。まだ暗いままなのは、重そうな遮光カーテンが全部屋で力を発揮しているからだろう。
 まずはカーテンを開けてみることにした。中央のカーテンの切れ目に手を入れて、両手で端の布をつかんで左右に引っ張り開けてみる。

「シャァッ」

といい音がして、左右にカーテンが開くと、同時にジャカルタの白くて強烈な日差しが部屋に入ってきた。おもわず目を閉じる。
 遮光カーテンの奥に、薄くて白いレースのカーテンがあるにもかかわらず、光は強い。そっと薄目を開けてからレースもめくって外を見ると、青空は見えないのに、日差しだけが強く白く入ってくる。そして、それなりの高さだからだろう、ジャカルタの街が見下ろせた。

 昨日見たこのマンションの近代的な美しさとは違い、少しごみごみとした、トタン屋根の小さな家が固まっている様子が目に入ってくる。

 まみのマンションの隣に大きなマンションがあるため、視界が遮られて、たくさんは見えないが、灰色の道路、自分よりも色の濃い人々が歩く様子、その人たちが着るカラフルな服、遠くにうっすら見える高層ビルの群れ・・・。

 ああ、これが今日から私が毎日見ることになる景色なんだなぁ。と少し心が揺れた。

 少しだけしか開いてなかったカーテンを、レースだけ残して、それぞれ両端まで引っ張り、カーテン留めでくくっていると、カーテン留めの後ろに、カーテン用の細いロープが出てきた。
 これを上下に引っ張ることで、カーテンを開閉させる仕組みなのだろう。本来の使い方をせず、力技で開けてしまったことに、少し罪悪感を感じるが、まぁ、次回から気を付けよう、と切り替える。
 
 それよりもおねえちゃんと瑛斗だ。

 リビングはだいぶ明るくなったが、他の部屋はまだまだ薄暗い。思った通り、リビングの隣の部屋で、あゆみと瑛斗はくっついて寝ていた。

「お姉ちゃーん、瑛斗ぉ~、朝だよ~。」

 二人が寝ていた部屋のカーテンを、今度はロープを使いながら開けることに成功したまみは、良い気分のまま、二人を起こした。

「・・・ん~・・・今何時ぃ~・・・?」

 あゆみが寝ぼけながらまみに聞く。瑛斗はピクリともしない。

「8時だよ。今日は買い物に行こうって言ってたじゃない?伊藤さんが日本人がよく利用しているお店に案内してくれるって。」

 あゆみはまだ目を閉じたまま答える。

「・・それはありがたい・・・・。」

 いっこうに起きる気配のない二人に、まみは苦笑しながらも、

「じゃぁ、二時間後、10時くらいに出発しようか。」

 と提案する。きっとこのままぐずぐず30分はベッドから起きないだろうし、起きても1時間半あれば、出かける準備はできるだろう。

「・・・んー。・・そうしよ・・・。」

 わかっているのかいないのか、わからないあゆみの返事を聞き、先に自分もシャワーを浴びよう、と見切りをつけて、まみは洗面道具をしまったはずのスーツケースをさぐりに行った。

 10分後、さっとシャワーを浴びて、新しくTシャツとGパンに着替えたまみは、いっこうに起きそうにないあゆみにもう一声をかけながら、朝食の準備をする。とは言え、まだ買い出しに行っていないため、昨日成田空港で購入したパンを食べるだけだ。そして、そんな時のために用意しておいたインスタントのスープもスーツケースから取り出す。
 しかし、食器もやかんもすぐには見つからないことに気づいた。
 まずはやかんを、と探しながら、これは、思った以上に出発まで時間がかかりそうだ、と思う。そして、ふと将生のことを思い出した。
 まだまだあゆみ達は起きないようだし、少なくとも10時までは出発しないことを将生に伝えておいた方が良いだろう。

「おねーちゃーん。まだまだ出発できないこと、伊藤さんに伝えてくるねー。」

 台所からあゆみによびかけると、

「んー」

という眠そうだけれど、一応返事がきたので、まみは裏口の鍵をもって、将生の家に向かうことにした。


 昨夜、将生が裏口から入った時のように、まみもブザーを鳴らしてみる。少し待つものの、誰も来ない。まさかあの後寝てるわけもないし・・・と思い、もう一度鳴らそうと思ったその時、ビチャビチャという水音と共に、鍵がカチャりと開き、

「助けてください!!!」

 と必死の形相の将生が、素っ裸の晴斗を抱いて出てきた。将生はTシャツと短パンはもちろん頭からも水を滴らしている。
 びっくりしたまみは、

「た・・・たすけ・・・?」

と聞き返すと、

「いや、正確には手伝ってください、か…?」

と将生も混乱している。
 この格好から想像するに、二人でシャワー?お風呂?に入っていたようだ。

「えっと・・・晴斗君のシャワーですか?」

 まみが聞いてみると、

「そうなんですっ!!いや、シャワーだけじゃないんですけど・・・。とにかく、手伝ってもらえませんか?」

 まみが断る隙を与えずに、抱いている晴斗をまみに押し付ける。

「一人でも頑張ってみたんですけど・・・。」

 晴斗を渡すと、将生は勝手にホッとして部屋にUターンし始める。そんな将生の後ろを、仕方なくまみは晴斗を抱えながらついていく。もちろんサンダルは脱いでから。晴斗は晴斗で、大好きな二の腕が帰ってきたことに満足して嬉しそうな奇声をあげる。

「なんとかオムツを脱がせて、シャワーさせようと思い、シャワーの温度を確認していたら、その瞬間にオシッコし始めて。あわてて晴斗に駆け寄ると、シャワーヘッドが暴れ出して・・・。」

 将生の説明で、二人がずぶ濡れな理由がわかった。

「オシッコの片付けをすべきか、晴斗をシャワーさせることが先か、自分も服を脱いだらいいのか・・。なにを優先して良いかわからない時に、チャイムが聞こえたんです。」

 もう、これは天の助けだと思って、すぐに出ようと思ったけれど、自分は濡れ鼠だし、晴斗は素っ裸だし。
 どうしようかと迷ってしまった。しかし、片付けは後ですれば良いと思い、さっき学んだ水場に晴斗を一人にしないことだけを優先して、ここに来た、と。

「・・・なるほど。それは・・お疲れ様です。」

 まみは、笑いだしそうになるのをこらえて答えた。育児あるあるの王道な事件だな、と思いながら。
 すると、急に将生がハッとして振り返り、

「すみません!!矢野さんの顔を見たら、すぐに晴斗を渡してしまって!!オシッコ・・・矢野さんの服についていたら申し訳ありませんっ。」

 と焦った様子で言い出した。まみは焦った将生の顔がすごく面白く、でもとても可哀想に思い、

「全然気にしてないですよ、大丈夫です。」

 と軽く微笑みながら答えた。そして、

「それより、晴斗君のシャワー、私がやっても良いですか?それとも、オシッコ片付ける方を手伝いましょうか?」

 とまみが尋ねる。

「えっと・・シャワーの方、お願いしても良いでしょうか?」

 少し考えてから、将生が答える。オシッコの片付けもしたことはないけれど、シャワーに入れるよりは、難易度が低そうだ。

「わかりました。えっと・・・軽く汗を流す感じでしょうか。それともしっかり洗います?子どもは夏場、特に汗をよくかくので、簡単な水浴びを日に何回かします。なので毎回しっかり洗う必要はないと思うんです。あと、もししっかり洗うとすれば、赤ちゃん用の石鹸、ありますか?」

 まみの問いかけに、そうか、石鹸も子ども用を買わないといけないな、と将生が考える。

「いや、子ども用石鹸は今日買いに行くので、今は軽く流してもらえますか?」

 将生の返答に、まみはにっこり笑って

「わかりました。では、軽くシャワーしますので、シャワー後に着ける新しいオムツと着替え、それからバスタオルの用意を、オシッコを片付ける前にお願いします。」

 話しながら歩いていたので、3人はすでにシャワー室の前にいる。
 シャワー室の前には、脱ぎ散らかした晴斗の服と、使用済みのオムツ、そしてバスマットあたりに小さな水たまりができているのがわかる。

 まみのお願いに、将生は頷くと、すぐに晴斗の準備に取り掛かった。まみのほうは、まず浴槽に向かう。この浴槽は独立しており、洗い場が無いのだが、お湯を溜めるための下向きの蛇口だけでなく、シャワーもついている。

 まみは、「お風呂=(浴槽)湯船」という発想は、日本人のものなのだなぁ、と、このお風呂を見て改めて思った。後で知るのだが、浴槽のあるお風呂場は、インドネシアの住宅では珍しい。たいていはシャワーですませてしまうようだ。お風呂大好きなまみとしては、誠に幸運だったと、後でよく幸運の女神?に感謝することになる。

 浴槽の中に、晴斗と共に入ると、晴斗を降ろし、浴槽の淵につかまり立ちをさせる。
 晴斗が初めての場所にキョロキョロしている間に、まみはシャワーを取り上げると、二つある蛇口のうち、右側にある方を回してみる。出てくる水を触って、次に左側の蛇口を回してみた。しばらくすると、さきほどより水が温かくなってきたようだ。晴斗の様子を見ながら、左右の蛇口を操って、温かいお湯になったところで晴斗に声をかけた。

 晴斗はまみに置かれた場所で、ずっとつかまり立ちをして待っており、その晴斗に足元、太もも、お尻、とお湯をかけていく。お湯が気持ちよかったのか、晴斗は嬉しそうな声を出し、にこにこしている。
 まみは晴斗の側にしゃがみこみ、晴斗を抱きかかえながら向きを変え、お尻周りをよーく洗い流すことを忘れず、満遍なくシャワーをかけた。

 晴斗はとてもごきげんで、きゃっきゃきゃっきゃと笑っている。
 まみも嬉しくなり、

「晴斗君、お風呂好きなんだね~」

と笑顔できいた。鼻歌でも歌いたい気持ちだ。

 すると、晴斗が急に体勢を変えようと動いたので、まみは驚いてシャワーを持ち替えようとしたのだけれど、それが少し遅かった。まみは体勢を崩して尻もちを着き、でも晴斗は転ばすまい!と思って抱きかかえた分、シャワーが手から離れる。そして、またしてもシャワーヘッドが暴れ出す。

 まみも頭から水をかぶることになるかと思いきや、水圧がそこまで高くなかったため、低いところで噴水のようになっている。晴斗はそんなシャワーヘッドに興味を示し、まみの腕の中から逃れてハイハイで近寄ると、嬉しそうにつかみ上げた。

「あっ!こっち向けないで・・・。」

 せっかく先ほどは水難を逃れたのに、晴斗がシャワーをまみの顔に向けたため、あっけなくまみもずぶ濡れになる。でも、晴斗としては、悪いことをした気もないので、きゃっきゃきゃっきゃと嬉しそうに笑っている。

 そんな可愛い晴斗を見ると、まみも自然に笑えて来て

「やったな~」

 と言いながらずぶ濡れの体のまま晴斗に覆いかぶさり、シャワーを取り返すと、頭から晴斗にお湯をかけた。
 
 このくらいの子は、顔に水が付くのをすごく嫌がるのを知っているまみは、顔にはかからないよう、でも頭はすっきりするくらいの量で、頭を洗い流した。晴斗はやっぱり喜んでいる。あとは、ささっと顔を洗えたらいいな、と思っているとタオルや着替えをもって、将生がこちらに向かってきた。

「ちょうど良かった!伊藤さん、晴斗君を受け取って拭いてもらえますか?」

 そう言うと、ぱぱっと晴斗の顔にお湯をかけてきれいにすると、シャワーを止め、晴斗を抱き上げながら立ち上がる。自身からぽたぽたと水が滴っていた。


 まみに指示された、タオルと着替えとオムツをやっと用意した将生は、お風呂場で、びしょびしょになっているまみを見つけてびっくりした。

 まみは晴斗の顔を洗うのに心血を注いでいたので、将生の視線には気づかなかったようだが、Tシャツがぴったりお腹やブラジャーに張り付いているのを見た瞬間、一回大きく心臓が鳴った。

 そういうことからしばらくご無沙汰な将生にとって、まみの濡れたTシャツや、Gパンから出ている濡れたふくらはぎが、思っていた以上に大きな衝撃を将生に与えた。

(やばっ・・・可愛い。)

「じゃなくて・・・。」

 頭の中の声を、実際に声を出して否定してから、惜しいけれども目を逸らす。

 そして、なんともないような顔で洗面台の上に晴斗の着替えを置いた。
 浴槽を振り返ると同時にバスタオルを大きく広げる。もちろん自分のよこしまな視線をまみから隠すため以外の何ものでもない。

 バスタオルで視界を遮られているため、なんとなくの予想で晴斗らしきところへバスタオルを広げる。でもそれでオッケー。
 まみの方が微調整してくれ、バスタオルに晴斗が入ってくる重さを感じる。

 ほっとするのも束の間、バスタオルが晴斗に使われてしまうと、視線を遮る物がなくなってしまう。しかも、晴斗がいなくなり、先ほどまで晴斗で隠れていた場所まで見えてしまう。

 まみの目は見れず、どうしても、ぴったりくっついたブラジャーへ視線がいきそうになったその時、晴斗がまだまみといたいのか、素直に将生に抱かれようとせず、まみの方へ戻ろうと体をばたつかせる。そうなると、さすがの将生も晴斗の無事が優先!と意識も視線も晴斗に向け、晴斗を抱きとることに集中する。

「たのむ、晴斗。こっちにおいで。」

 自身もまだ濡れたままの将生は、濡れた晴斗が自分にくっついても構わないため、全身を使って抱きとめると、なんとか下におろし、ワシャワシャっと晴斗を拭く。

 思ったよりお風呂が気持ちよくて満足だった晴斗は、そのままご機嫌でハイハイして去ろうとする。
 
 その晴斗の脇腹を捕まえて、そっとバスマット(おしっこの被害を受けていない物)の上に寝転ばせたのは、いつの間にか浴槽から出てきていたまみだった。洗面台の上から気づかぬうちにオムツを取っていたようで、寝転がした晴斗の下にはオムツがセットされていた。そのオムツを、ささっと晴斗に装着すると、にこっと笑って、

「気持ちよかったね、晴斗君。しばらく好きにしてよいよ。」

と声をかけた。

(か・・・神業っ!!)

 将生には到底できない早業だ。そして、何もできずにボーっとしている将生の方をくるっと向くと、

「私のせいで、この辺りを濡らしてしまってすみません!良ければ雑巾になるようなタオルを貸していただければ、さっきの晴斗君のおしっこの処理も含めて、私がやります。」

 言いながら、いつもリアナが使っているだろうお風呂用スポンジを見つけて、使い終わった浴槽を綺麗にし始めた。その様子を見ながら、将生は雷に打たれたような名案を思い付いた。


「矢野さん!!」

 急に力強く名前を呼ばれてびくっとしながら、まみは振り向く。

「はい?」

「あの、うちのベビーシッターに来てもらえませんかっ!?」

 そうだ、そうなのだ。何もインドネシア人のベビーシッターでなくとも、晴斗を見てくれる人なら日本人でも良いのだ。いや、むしろ日本人の方が好ましい。というか、矢野さんが好ましい。

 突然の提案に、不思議そうな顔をしているまみを見て、将生は断られる前に、うまく説明しなければ、と頭を働かせる。

「晴斗のベビーシッターを、今緊急に探しているんです。とはいえ、まだ全くあてになる人がいなくて困っていて。もしも矢野さんが良ければ、晴斗をみてもらえないでしょうか?」

 浴槽の掃除の手を止めて、将生の方を向いているまみに対して、気持ちの表れから、将生はどんどん身を乗り出していく。確か飛行機内で、瑛斗君の面倒をみるために来イしたと言っていたから、こちらで何か仕事に就いていたりはしないはずだ。

「ベ・・・ベビーシッター・・・。」

 まみがスポンジを持った手を持ち上げ、将生との間にバリケードを作る。

「はい。ベビーシッターです。ご存知の通り、今僕と晴斗の二人の生活になっているので、できれば住み込みでベビーシッターさんを探しているんです。」

「住み込み」の一言に、まみが警戒からか眉を顰める。

(まずった。えっと・・違う言い方・・・)

「特に僕が平日、仕事に行っている間だけでも良いんです。リアナにも頼んでいるんですが、彼女は掛け持ちで別の家での仕事があるようで、毎日ここには来られません。専任のベビーシッターさんが決まるまでの間で充分です。晴斗も矢野さんには懐いているようなので、少しの間だけでも、ダメでしょうか。」

 「ダメか」と聞かれて「ダメです」とはっきり断れる日本人はどれくらいいるのだろうか。
 特にお人好しなまみに「だめだ。」と言い切れる強さは無い。結局、困った顔をしながらも、

「えっと…専任の方が決まるまでなら…。」

 と譲歩し始める。何より、この攻められている状況を何とかしたい気持ちにもなる。
 すると、満面の笑みで将生がお礼を言う。

「ありがとうございます!すごく助かります。このままでは僕は仕事に行けなかったので…。」

「…はぁ…。お役に…立てるなら…光栄ですが…。」

 将生の勢いに押され切った感じだ。

「では、さっそく契約書を作りましょう。インドネシアでは、雇用関係を結ぶ際に必ず作るんですよ。」

 先ほどまでの攻めの姿勢を正して、将生は上機嫌でくるりと後ろを向くと、つかまり立ちして遊んでいた晴斗を後ろから抱きあげた。そして、晴斗の着替えをつかむと、

「子供部屋で着替えさせますね。」

 と後ろに声を投げ、鼻歌を歌いだしそうな雰囲気で歩き出す。まみが今後も継続的に、自分の家へ来てくれそうな展開に、胸が躍った。


 まみは、まだよく状況をつかめていないが、とりあえず水回りを片付けようとしゃがんだ時、ふと自分のブラジャーが透けていることに気が付いた。

(やだっ!人様の家で!…これ絶対伊藤さんも気づいたよね…。)

 家族以外にこんな格好を見せたことはほとんどない。ジャカルタの暖かい環境が、開放的な気分にさせたのか!?いやいや、赤ちゃんシャワーさせてたら、こっちの服を気にしてる暇なんてないしっ!
 
 誰にも何も言われていないのに、自分に対して盛大なツッコミを入れ、とりあえず片付けに専念する。
 浴槽を簡単にこすってから流し、先ほどのスポンジをうまく使って、晴斗のオシッコもだいたいきれいになった。汚れた方のバスマットは水洗いしたので、干しておけば良い気がする。

 そんな時、浴室のドアの閉まる音が聞こえた。

 当たり前だが、浴室なので、他の部屋と区別するためのドアもあるし、後で知ったが、鍵をかけることもできるらしい。でも、まみの家も、将生の家も、玄関入ってから浴槽まで、ドアを開けっぱなしにしていたので、まみはドアの存在を知らなかったのだ。びっくりしてドアの方を見ると、

「矢野さん用のバスタオルと、…僕の物で申し訳ないのですが、Tシャツ、ドアの前に置いておきますね。良かったら使ってください。」

 と、将生がドアの向こうから声をかけてくれた。

(Tシャツって…もうブラジャー透けてるの、気付かれていたのは確定…)

 顔が赤くなるのを感じながら、まみはそれでも

「あ…ありがとうございます!両方使わせていただきます!」

 と、お礼を言うのを忘れなかった。

 とりあえず上のTシャツを脱ぎ、絞ってみると、ポタポタ滴が落ちた。これは、例えインドネシアが暖かい国とは言え、そうすぐには乾きそうにない。それからそっとドアを開けて、バスタオルとTシャツを浴室に引っ張り込むと、またドアを閉めた。
 手にしたものを確認すると、借りられたのはバスタオルと将生の黒いTシャツのみで・・・この場合、ブラジャーをどうしたら良いのかが難問だった。
 ブラジャーを付けたままTシャツを着たら、またTシャツが濡れて、ブラジャーの形に透けてしまうのだろうか…。でも、ノーブラはノーブラで、乳首が透けたら恥ずかしい。

 出産経験のある、あゆみは以前、

「おっぱいは食料。赤ちゃんの食ベものなんだから、オッパイも乳首も、見られても恥ずかしい物じゃない。」

 と言い切っていた。

 しかし、22歳を少し前に過ぎたばかりの初々しいまみには、まだその心境には達せない。しかも、家族の前ならともかく、昨日知り合ったばかりの親子の前で…。

 そう考えたところで、まみはハッとする。将生は奥さんのいる男性だ。奥さん以外の女性には、関心が無いのではないだろうか。多少ブラジャーが透けたところで、奥さん以外の女性のことなら、大した事ではないはずだ。と。

 よく考えたり、既婚男性に話を聞いたりしたら、きっと真逆の返答が返ってきそうなものだが、結婚経験もなく、男心にも疎いまみとしては、そう考えても不思議はなかった。

 そのうえ、そう考えでもしないと、恥ずかしくて浴室から一生出られないだろうから、この場はその結論が出て良かったと言わざるを得ない。
 そして、まみにしてはよく考えて、バスタオルでブラジャーの水をよーーく拭いて、その上に黒い将生のTシャツを借りることにした。


「ありがとうございました。」

 まみが、浴室からそっと出て、子供部屋まで行くと、着替えの済んだ晴斗と、着替えをやり遂げ、ホッとした顔の将生がマットレスの上に座っていた。

「あ、矢野さん、晴斗のシャワーと、浴槽の片付けなど、ありがとうございました。」

 ふと目を上げて、将生がまみに感謝を伝えた。将生の様子が先ほどと変わらず、まみの透けたブラジャーのことなどなかったことのように接してくれたことに、まみこそホッとした顔をした。

 実際、将生はわざとまみの胸の辺りを見ないように気を付けていたし、それは今後まみに嫌われないためにも必要不可欠なことだろうと、逆にとても意識してのことだった。

「こちらこそ、Tシャツをありがとうございます。…あの、ここに来たのは、まだまだ姉や瑛斗が起きそうになくて、買い物への出発が遅れそうなことを伝えたかったんですけど…。」

 当初の予定を全く話す余裕もないまま、晴斗とシャワーに連れていかれたまみは、本来の使命をやっと果たせた。

「ああ!!そうでした!!すみません。用件も聞かずにすぐ晴斗の面倒をみさせてしまって!!」

 将生はその場に立ち上がって、自分の失態を詫びる。

「いえいえっ!あの、晴斗君とシャワーできたのは楽しかったので良いんです。ただ、もしかしたら姉も起き出してきているかもしれないので、一回家に帰っても良いでしょうか?」

 将生がまみの思った以上に恐縮しているのを見て、まみも慌てて両手を前にして手を振りながら答えた。

「もちろんです。今度こそ、準備ができた時に裏口のチャイムを鳴らしてください。」

 将生の返事にまみはホッとした。なにより早く着替えないと、またブラジャーが透けてきてしまうのでは、と気が気ではない。

「良かったです。では、準備ができたらまた伺いますね。」

 にこっと笑って、まみは裏口へ向かおうとした。そこへ、

「ベビーシッターの件はまた後で一緒に条件を考えていくということで良いかな?」

 と将生がまみの背中へ声をかけた。

「…そうでしたね。はい、また後でお願いします。」

 まみが半分だけ体を戻して将生に返事をする。その返事に、将生はとても安心し、

「ではまた後程。」

 と笑顔でいうと、まみに「どうぞ帰ってください」という意味を込めて裏口側へ右手のひらを差し出した。まみは、軽く会釈して、濡れた服を掴みながら、そのまま裏口から出て行った。



「…っっしゃ!!」

 まみが裏口から出て行った気配を感じてから、将生は満面の笑みでガッツポーズを作った。将生の大声に不思議そうな顔をしている晴斗の脇の下に手を入れると、そのまま高い高いの位置まで持ち上げる。

「晴斗、おまえのめんどうをみてくれる人を見つけたよ!!」

 晴斗は突然の高い高いに気を良くして、きゃきゃっと笑った。

「もちろんまだ出会ったのは、昨日の今日だから、人となりを見定めなくてはいけないけれど…。」

 大事な兄の大事にしている息子だ。自分のさじ加減だけで子どもを任せるわけにはいかない。…が、可愛くて、優しくで、家事も育児もできそうで、可愛くて…もう決めて良い気もする。

「いやいや、待て待て。とりあえず今日一日は、買い物したりなんだりと、彼女の様子をよくみておかないとな。最低でも、一週間は、様子をみないと。」

「まみの人となりを見定める」という名目の下、まみをたくさん見ていてもおかしくない状況なわけで、それは、とても将生にとって好都合だった。

 それでも、もちろん、彼女が晴斗に対して、不審な動きをするようだったら、オスとしての本能よりも、晴斗のシッターさんとしての彼女の適性を優先して、解雇することも考えてはいる。

 「晴斗を育てること」は今のところ「自分の伴侶を見つけること」よりも上位にきている。

 今の将生にとってそのことは、しごく当たり前のことなのだが、今後この二つの両立を巡って思い悩む日もくるのだろうか…。
 だが、とりあえずは、今日、今、そして朝食に何を食べさせるかが問題だ。

「晴斗、バナナって食べられるか?」

 高い高いも落ち着き、晴斗を自分の顔の高さまで持ち上げながら聞いてみる。
 晴斗に食べ物に関するアレルギーは無いと聞いてはいる。が、日本の食事とインドネシアの食事は異なる食材を使うことも多いだろう。
 できる限りここで手に入る日本食を中心に食べさせたいとは思っている。またそれと同じくらい、現地ならではの新鮮な食材も食べさせてやりたい。

「食べられる物もそうだが、すり潰したり、食べさせる形状も大事なんだよな。」

 そう独り言を言いながら、

「でも、晴斗の面倒をみながら、ご飯ってどうやって作るんだ?」

 こんな小さくて目の離せない子どもがいるのに、他のことなんてできるのだろうか。また、離れられないとはいえ、包丁やらコンロやら、危険な物がいっぱいある台所へ晴斗を連れ込むのもなんだか不安だ。
 前途多難な将生は、これだけは確信していた。

「矢野さんがもう一度来てくれるまでは、きっと自分は食にありつけない」ということを。

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