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第二章 それぞれの誤解
9 自問自答
しおりを挟むまみが、晴斗のオムツを替えていると、また聞き覚えのあるブザー音が鳴った。まみにはもうわかる。裏口のブザーだ。
「あ、おねーちゃん帰って来たかな。」
近くにいる、瑛斗に向かって声をかける。瑛斗も顔を輝かせて立ち上がると、持っていた電車のオモチャを手放し、裏口の方へ駆けていく。
遅れて、将生が、椅子を引いて、裏口の方へ向かっていく音も聞こえた。
続いて、あゆみと瑛斗、それから将生が話している声がする。
オムツから少しオシッコが漏れて、晴斗のロンパースが濡れていた。なのでついでに着替えもさせる。晴斗はその間も動き出そうとするので、その動きを抑えながら、オムツも服も着替えさせるのは難儀だ。
やっと着替えさせてリビングに戻ると、なにやらうっすらと良い匂いがした。
「おねーちゃん、お帰りなさい。この匂いなぁに?」
まみが尋ねると、あゆみがにんまりしながら
「ジャーーン‼︎」
と手に持った紙袋を顔の高さまで上げて見せる。
「モスっっ!」
まみの顔が綻ぶ。
「日本のお店も頑張ってるよね。見つけて嬉しくなって、寄ってきちゃった。ちょっと早いけど、お昼にしよ。」
あゆみが台所で手を洗いながら言う。まみはもちろん、瑛斗も嬉しそうに紙袋を見つめていた。
「晴斗くんには、注文した後待ってる間に買ってきたパンはどうかな?昨日買った牛乳、ちょっとあっためてから、浸したら良いんじゃないかと思って。」
将生の家なのに、冷蔵庫から勝手に牛乳を取り出すと、片手鍋であたため始める。
「うん!良いと思う!」
まみは、さきほどオムツ替えの後に手は洗っていたが、晴斗の手を洗うついでに、洗面所へ行ってもう一度洗う。瑛斗は先にあゆみと一緒に手を洗っていたので、こちらの家にもあるローテーブルの前にちょこんと座った。
「…あれ?伊藤さんは?」
ここへきて、将生の不在にまみはやっと気付いた。
「あぁ、なんか走りたくなったからって、私と入れ違いに出て行ったよ。大人2人いる今なら、自分が自由なことしても大丈夫じゃないかって。」
あゆみが、片手鍋を操りながらまみに返す。
…なるほど。あゆみとまみの2人がいるなら、そんなに困ることはなさそうだ。
でも、雇用契約について、話していた途中じゃなかったかな…
しかし、まみはあまり深くは考えず、目の前の2人のやんちゃくん達に、いかにして安全に食べさせられるか、自分たちはいつ食べられるのか、という問題に取り組み始める。
そうして、将生不在のことは、すぐに頭から消えてしまっていた。
将生は、リマウナレジデンスのメインビル1階、専用ジム内にあるランニングマシン上を走っていた。もともと、土日はよくこのジムに来て走っている。
レジデンス周りに、走りやすい外周コースもあり、そちらを走ることもあるのだが、今は人と顔を合わせず、ストイックに走りたかったため、ランニングマシンを選んだのだ。
自分でも、逃げてきてしまった自覚はあった。そうは言っても、あの後、まみと普通に話せる気がしなかった。まずは、いろんな情報や自分の気持ちを整理したい。
いかに成人して10年近く経つ男子といえど、失恋してすぐに、冷静でスマートな対応をするなんて技術は、残念ながら持ち合わせていない。
10年…いや、20年くらい経てば、身につくのだろうか…。
…そんな気もしない。
いつだったか、読んだ本の中で『恋はいつでも、人を中学生に戻してしまう』と書いてあるのを見たことがある。例え50歳だろうと、80歳だろうと、人は恋をすると中学生の頃のように、不器用で、純真な心待ちに戻ってしまうのだそうだ。
それならば、まだ30年も生きていない自分が、こんな風に狼狽えたり、逃げてきたりしたとしても、仕方ないのではないだろうか。
そう自分を慰めた後、先程知り得た情報を整理していくことにした。
(矢野さんには、ヒロくんというラブラブな恋人がいる。)
まずこのことからして、目の前が暗くなるような、いやーな気持ちになる。『走っているから』という理由ではない息苦しささえ感じる。
特に『ラブラブ』というところが痛い。別れそうとまではいかなくとも、険悪だったり、自然消滅が狙えそうな感じならばまだ救われたのかもしれない。
しかし、現実は認めなければ。
(ヒロくんからの電話は何よりも優先しなればならない。)
そして、
(その約束が守られなければ、まみさんの強制帰国もあり得るかもしれない)
つまり、まとめると『今後も、まみがラブラブな彼氏と電話しているところを、見るかもしれないが、その電話を阻止すると、まみは日本に帰ってしまうかもしれない』ということだ。
(…なんだこれ。自分の気持ちを自覚した後じゃあ、思ったより地獄だな)
そうせざるを得なかったとはいえ、自分が許可したことは、冷静に考えると辛い。
将生は走りながら、長く息を吐く。
しかし、何度も言うがそれが現実だ。仕方ない。
『ラブラブな』恋人がいることも知らず、勝手に可愛いとか、好きとか思ってしまった将生が悪く…はないが、浮かれポンチだったのだ。
だが‼︎
不幸中の幸いというべきか、まだ将生の好意をまみは知らない。
それならば、これまで通りに接することはできるのではないだろうか。
しかも、どうせいつかはわかったことだ。早めに知ることができて良かったではないか。
そこまで考えたところで、少し落ち着いてきた。体を動かすと、気持ちが前向きになってくるという効果もあり、あの時とっさに走りにくることを決めて良かった、とさえ思えてくる。
今の心の状態なら、まみとも普通に向かえる気がする。
まみへの気持ちがどうであろうと、晴斗の大事なベビーシッターさんであることは変わりない。シッターと雇用主という、良好な関係を築いていくことはできそうだ。
(よしっ)
右手で軽く握り拳を作る。自分の立ち位置はわかった。今後は…
(望みのない想いを、断ち切るように頑張ろう)
そう決めて、将生はランニングマシンの速度を落とし始めた。
今決めたことを達成するのがいかに難しいのか、知らないままに…。
久しぶりに食べたバーガーに、まみはとても満足していた。もともとそんなにたくさんバーガーを食べるわけではないが、このお店のフィッシュバーガーと、ポテトは年に2.3回くらいは食べる。
異国だから、味は違うのかな、とあまり期待してなかったのだが、日本で食べるのとほとんど変わらない味に、嬉しさとともに安心する。
「ジャカルタにも、2店舗はあるよ。今度はお店でできたてを食べたいね。」
と、あゆみも満足したようで、嬉しそうに話す。
他人の家なので、いつもより丁寧にテーブルを拭くが、ゴミは勝手にゴミ箱へ入れさせてもらう。
あゆみは将生用にも買ってきていたらしく、紙袋に入ったままの、バーガーとポテトが、まだ少し温かい。
「じゃあ、お昼寝…と言いたいところだけど、明るいうちに、少し外に出てみない?小さな公園に遊具があるみたいなんだよね。」
そのあゆみの提案で、外へ出ることにする。瑛斗に歯磨きをしたかったが、歯ブラシが無いので、口をゆすぐだけにとどめる。今後、まみのものも含めて、置かせてもらえるようにお願いしよう、と考える。
それをいえば、この家をもう少し赤ちゃんや子どもに適した状態にしたい。
同じマンションとはいえ、オーナーが違うと、家具もそれぞれの家で異なる。家自体の間取りは、まみと将生の家ではほとんど同じ(対称だが)なので、置かれているテーブルの数や置かれている場所は似ている。しかし、数は同じでも、家具が違うと雰囲気も変わる。
将生の家の方が、少しスタイリッシュな家具が多く、見た目を重視した分、子どもには危ない箇所もある。
例えばテーブルの角が、子どもの目の高さで、角ばっていたり、ソファの肘掛けが硬い木でできていたりするのだ。
ほんのささいなことだが、子どもには大きなことだ。
(また後で、そのことについても話し合おう。)
そう考えて、まみは他のメンバーと一緒に、外へと向かおうとした。
しかし、この家の鍵を持っていないことに気付く。
「あっ!おねーちゃん。鍵がない。」
「はっ‼︎そうだったねぇ…。でも、瑛斗がもうお外の気分になっちゃってるから…。ごめん。まみと晴斗くんは、お留守番でもいいかなぁ…。」
お外へ行く気満々の瑛斗に、いまさら『行けない』というのは、しのびない。し、もう止められない気がする。
「うん。良いよ、良いよ。私は晴斗くんとおうちにいるね。鍵を持った伊藤さんも早く帰ってくるかもしれないし。」
そう答えるまみを、『ごめんね』っという感じで拝むと、あゆみと瑛斗は外へ出て行った。
そして、その三分後、思ったよりも早く、将生が家に帰ってきたのだった。
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