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第五章 すれ違い

3 突然の電話

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 リマウナレジデンスのメインの建物の1階は、ジムやスタジオ、レッスンバー付きの練習場などがあり、2階からは住居スペースになっている。
 あゆみとまみはそこの1階にやってきた。

 あゆみのカードキーを使って、そのジムに入ると、レセプションがあり、名簿シートを渡された。
 あゆみが、そこに、あゆみとまみの2人分、名前、自分の住む部屋番号、入室時間や選んだ教室名などを記入する。

「今度から、まみも自分で書くのよ。」

 あゆみはまみに説明しながら書く。
 
 その後、このジムで受けられる全レッスン内容のプリントを1枚取り、まみに渡す。
 
「ヨガの他にも、ピラティス、ズンバ、ボールアトラクション、楽器の演奏などさまざまなレッスンがあるみたい。興味あったら受けてみたら?」

 あゆみから渡された紙に目を通す。平日の昼間から土日まで、時間帯も講師もいろいろだ。自分の可能性が広がりそうで、ワクワクする。

 名簿に『ヨガ教室に参加』と書いたからか、レセプションに居たスタッフが、2人にハンドタオルを渡してきた。飲み物だけしか持ってきてないまみには、ありがたかったので、

「テリマカシ。」

 とお礼を伝えてみた。
 スタッフさんがニッコリしてくれたので、それだけで嬉しくなった。

 ヨガ教室の行われるスタジオは、20畳くらいのフローリングで、ある一面の壁だけ鏡張り、あとの2つの壁は板張り、もう一面は外に面していてガラス張りという部屋だった。
 
 鏡張りの壁の前だけ、10センチくらい高くなったステージがあり、そこにはすでに講師の先生が来ていた。

 毎回来ている人なのか、慣れた調子でヨガマットを敷き、講師の先生のように軽くストレッチしている人もいる。
 まみがキョロキョロしていると、あゆみが2人分のヨガマットを後ろから取ってきて、講師の先生の真ん前を陣取った。

「…初心者で、ここって、かなり強者つわものじゃないかなぁ…。」

 まみがおそるおそるあゆみに進言すると、

「何言ってるの。まみは英語もバハサもわからないんだから、先生の近くでやってるのよーく見るしかないでしょ。」

 と答える。その通りすぎて、何も言えない。

「もともと、下手だから来るんでしょ。知ってる人なんて誰も居ないんだし、気にすることないよ。」

 あゆみの前向きな言葉に、まみも納得する。

 チラッと講師の先生を見ると、ちょうどこちらを見ていたのか、バチッと視線が合う。
 そして、こちらに向かってニコッと笑ってくれた。浅黒い肌で、背の低い男性だが、爪は綺麗に塗られているし、まつ毛が美しいカーブを描いて上を向いていた。まみなどより、ずっと綺麗に化粧している。

 まみも、えへっといった笑い方で返すと、先生は声に出さず、口だけで『リラックス』と言ってくれた。優しそうな先生で、これなら1時間頑張れそうだ。

 8時ちょうどになると、先生が英語でヨガ教室を始め出す。

 たしかに、英語があまり得意ではないまみは、近くでよーく見ていないと、同じことはできそうになかった。

 だが、もともと柔軟性のあるまみは、全ての動きを難なくクリアしていく。
 先生の英語も、『吸って~』『はいて~』くらいなら、慣れや雰囲気で聞き取れるようになってきた。

 久しぶりに体をしっかり動かせることが、とても心地良く、少し痛いくらいに伸ばすのが気持ちよかった。
 隣のあゆみも気持ちよさそうだ。

 身体が外のガラス側を向いた時、外の様子が見えて、そこに瑛斗と晴斗が居るのが見えた。
 もちろん保護者として将生もいる。

 瑛斗が水遊びをしたがったようで、外のプールの中で、唯一浅いプールがある、このスタジオから見える場所にあるプールへやってきたようだ。

 瑛斗は、ジョロを使って、プリンの容器2つにひたすら水を汲み続けている。子どもは単純作業が大好きだ。同じことを何度も何度も繰り返すのだ。
 ガラスは思ったより厚いようで、外の声は全く聞こえない。でも、まみが見つけたのだから、同じ体勢をしているあゆみも気付いただろう。

「瑛斗、あの水汲み遊び、大好きなのよね~。」

 あゆみが独り言を言っているのが聞こえる。
 きっと微笑んでいるのだろう、声が優しい。
 まみも微笑んでいたら、また体勢が変わってしまって、ガラス窓の方を向く時間は終わってしまった。

 それでも、たまにガラス窓の方を向いたり、前面の鏡に映ったりするのを見ていると、楽しそうに過ごしているのがわかる。
 特に、瑛斗が水遊びするのが羨ましかったのか、晴斗がベビーカーから降りて、水に入りたがっており、将生と共にプールに入っていく様子は、とても微笑ましかった。
 
 8時55分になると、最後のストレッチも終わり、次にある9時からのレッスンのためにスタジオを空けなくてはいけなくなった。
 次の講師の先生がステージに上がり、何やら準備も始める。あゆみとまみは、ヨガマットを所定の位置に戻してから、サンダルを履いてスタジオを出る。
 軽くかいた汗を、最初に渡されたタオルで拭いて、回収ボックスに入れる。

 その後に、メインの建物の正面玄関から出て、ぐるっと北側に回ると、瑛斗と晴斗の遊んでいたプールに着く。

「あ~っママぁ~。」

 まず瑛斗があゆみに気付き、ジョロを振り回す。
 近くに居た晴斗と将生に水がかかり、将生は「わあっ」と言ってよけたが、晴斗はビシャっと頭からかかって、目をパチパチする。

 その様子がとても面白くて可愛くて、あゆみとまみは顔を見合わせて笑う。

 2人がそのままプールに近付くと、瑛斗は喜んであゆみに飛びついてきた。

「あっ!…あぁ~…。ま、どうせ洗濯するつもりだったからいっかあ。」

 あゆみの服が、瑛斗のおかげでビショビショになってしまうと、あゆみも諦めがついたようで、サンダルを脱ぎ、スパッツをまくり上げてからプールに入った。

 あゆみの膝下くらいまでの浅さなので、瑛斗や晴斗にも安全の深さだ。

 晴斗は、プール内側のふちを伝い歩きしている。将生は何かあってはいけないと、その後ろをそーっと付いて歩いている。
 その真剣さが少し笑えるくらいで、でも、晴斗を大事に想ってることが伝わってくる。

 まみは、その場でしゃがみこみ、膝に肘を乗せて両手で顎から耳あたりまで押さえる。自分が心からの笑みで2人を見守っている自信があった。なんだか幸せだ。

 そして、ふと写真を撮ってあげようと思ったのだが、飲み物以外何も持たずに家を出てきたことを思い出す。せっかく晴斗が楽しそうにしているのに、もったいない。

「伊藤さん!晴斗くんの初プール、写真撮りますよ!携帯ありますか?」

 まみが将生に呼びかけると、将生はお尻のポケットから携帯を取り出す。
 しかし、晴斗がもし転んだりした時に、そばに居ないと不安なので、まみまで渡しに行くことができない。

 仕方ないので、まみもスパッツを捲り上げると、プールに入った。将生の近くまで行き、携帯を受け取ると、ロック画面が出てきたので、指紋認証でロック解除してもらう。

 カメラを起動させ、晴斗の近くでドアップの写真や、将生の心配そうな顔も一緒に撮ったりする。

 何枚か良い写真が撮れ、まみが満足していると、急に画面が変わり、呼び出し音が鳴り始めた。
 LINE電話特有の呼び出し音に、まみが携帯を見ると、そこには

『伊藤愛子』

 の文字が浮かんでいた。

 まみの全身の血がサッと引き、急に足元の水が冷たく感じられる。
 
 将生が呼び出し音に気付き、まみに

「電話ですか?」

 と聞く。

 まみは頷きもせず、とりあえず携帯をそのまま将生に返すと、将生は画面をすぐチェックする。

「ああ!ちょうど良かった!」

 将生は嬉しそうに電話に出ると、

「晴斗、ママだぞ~。」

 と、晴斗に声をかけた。

 まみは全身がビクッと震えたのを感じる。

「晴斗~、あらぁ~?そこ、プール~?」

 将生の携帯から、聞きたくもないのに、女の人の声が聞こえてくる。

 今すぐ耳を塞ぎたい。

 そして、ここから走って逃げ出したい。

 まみは少しでもその場を離れようと、後ずさりする。

 しかし、身体が固まってしまってうまく動かず、バランスを崩してしまう。わわっと思った時には、両手を後ろにつき、尻餅をついてしまっていた。

「まみー、大丈夫?」

 あゆみが笑いながら、まみを見る。

「…あっ、あははっ。やだぁ~。」

 まみはとりあえず笑うふりをしながら、立ち上がろうとする。

 すると、ぐいっと左肘を掴まれて、スッと立つことができた。

 言わずもがな、将生である。

「大丈夫ですかっ?」

 将生が、聞きながらまみの様子を窺う。
 まみを引き上げてくれた右手に対し、携帯は左手で持っている。まみは、携帯に映る女性が見えたような気がして、左肘を思い切り振り払ってしまう。

 将生はまみのその仕草に少し驚く。

「…あっ…。」

 やりすぎた、とまみが思うその時、

「将生くん?どうしたの?」

 携帯から女性の声が聞こえる。まみはとてもいたたまれない気持ちになった。

「すっ、すみません。伊藤さんまで濡れちゃうといけないんでっ…。」

 と、取り繕うように笑いながら、両手を前にして今度こそちゃんと後ずさりする。

 どうしても将生の目は見れず、下を向いてしまう。

 まみは携帯の方を指差して

「あっ、電話、出てください。私は大丈夫なので。」

 と言うと、くるっと向きを変えて、ザバザバ水をかいて進む。

「おねーちゃん、私ずぶ濡れになっちゃったから、先に家に帰るね。」

 そう宣言してプールから上がると、チラッと後ろを見てみる。

 将生は、もう晴斗の撮影と、奥さんとの会話に夢中になって笑っている。

 ほっとするのと同時に、胸の奥がぎゅうぅっと掴まれたみたいな痛みを感じる。

(これが、正しい形だから!)

 自分に言い聞かせて、まみはプールに背を向ける。

 ボタボタと水を垂らしながら、両足を動かすことだけに集中する。将生の視線を感じた気がして、振り返ろうかとも思ったが、気のせいだろうし、目が合っても気まずいので無視して歩く。

 とりあえず、家に帰って熱いシャワーを浴びたい。

 なんとかまみ達の家がある建物のレセプションまで帰って来てから、自分がカードキーを持っていなかったことに気がつく。

(でも、今からあそこに戻るのは嫌だし、かと言ってずぶ濡れでここにいても迷惑だし…)

 まみがどうしようかと、開かないドアの前で立ち尽くしていると、いつも挨拶しているレセプションのドアマンが、まみに気付いて内側からドアを開けてくれた。

「テリマカシ!」

 とお礼を言うと、

「サマサマ~(どういたしまして)」

 と返してくれた。

 そして、ジェスチャーで、『カードキーは?』とまみの胸元を指し示す。いつもまみがカードキーを首から下げていることを知っているのだ。

 まみは、『忘れちゃって…』と言う意味で適当に家の方を指さすと、ドアマンが『OK!』と言って、レセプションにある大きな机の引き出しからトランプのような束を持ち出してきてくれた。

 そして、まみとエレベーターホールまで入ると、まみに『どのエレベーターに乗るのか?』と指で聞いてくる。まみが、Eのエレベーター前に行くと、今度は『何階か?』というようなジェスチャーをする。

 まみが指で『8』の文字を示すと、ドアマンが多くのトランプをパラパラめくり、『E8』と書いたカードを取り出す。Eのエレベーターが来て、ドアが開くと、ぐっと乗り入れて、『E8』のカードを読み取り部に当ててくれた。

 ピッと、8階のランプが点く。

 まみはビックリして立ち尽くしていたが、ドアマンが右手を差し出し、『どうぞ。』のジェスチャーをしたので、慌てて乗り込む。

 まみが乗り込んだのを確認すると、ドアマンがさっとエレベーターから降りる。そしてニッコリ笑ってくれているうちに、エレベーターのドアが閉まった。

「………。」

 これって、防犯上どうなんだろう…。とも思ったが、おかげで家に帰れそうなことにホッとする。

(とりあえず、いろんなことは、熱いシャワーを浴びてから考えよう。)

 まみはそう考えると、開いたエレベーターから自宅に入った。
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