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第一章
唯一の頼れる友人は
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「ねぇひどいと、ひっく……思わな、い? あんまりな仕打ちだって、えっく、ずるずる(……失礼)そう思わない? わたし、間違っでる? ……うっく」
勢いで屋敷を飛び出したものの、当然それまで一人で外に出たことのないエステル。一歩外へ出た途端、路頭に迷った。頑健な門から外の通りへ出ると、土ぼこりをあげて馬車が行き交い、外套を羽織った人達が道の端を歩いていた。こんな寒空の下、デコルテのあいたドレス姿のエステルは周囲から浮いていた。通り過ぎる人達は、眉をひそめてエステルの姿を見ていく。
でもその時のエステルは家から飛び出したところでまだ勢いがあって、後ろから追ってきたマリナにも「着いてこないで」と威勢よく返し、むんずとドレスの裾をつまみ歩き出そうとしたのだが……。
前夜の雨で地面はぬかるんでいた。一歩を踏み出したところで靴のヒール部分がずぼっと土にめり込んだ。体勢を崩し、慌てて踏ん張った二歩目も地面にめり込み、エステルはあわあわと両手を振り回した挙げ句、見事に前のめりに倒れた。なんとか両手をついたので、顔面衝突は免れたが、膝がかっくんとなり、両膝も地面にめりこんだものだから、四つん這いの無様な格好で往来の視線にさらされた。
「きゃー! お嬢様!」
マリナが真っ青な顔で駆け寄ってきて助け起こしてくれようとしたが、ちょうどその時側を通った馬車の車輪が水たまりの上を通過し、エステルはバシャンと頭から泥水を被った。
巻き添えを食ったマリナまで泥だらけだ。さすがに申し訳なくなった。
「……ごめんなさい、マリナ。大丈夫?」
「お嬢様こそせっかくのドレスと御髪が台無しですわ」
「……いいのよ。わたしにはもう必要ないんだから」
それにもともと、ひらひらした実用性のない動きにくいドレスは好きではなかった。頭から泥をかぶり、四つん這いの情けない姿のエステルは、なんとか体を起こそうと泥の中から両手を抜いた。
マリナはそんなエステルの両手を取ると、助け起こしてくれながら、
「どうしましょう、どうしましょう。私としたことがお嬢様のお着替えも持たずに後を追いかけてしまいましたわ」とおろおろしながら途方に暮れたようにエステルを見下ろす。
確かに、これはドレスが好きかどうかの問題ではなく、着るものがあるかないかの問題だ。何も持たずに家を飛び出したエステルには当然着替えもなく、頼りのマリナにも準備がないとなるとエステル達はこの泥だらけの服でこれから過ごさなければならないということになる。
さすがにそれはまずい。
さりとて今ここで、わからず屋のお父様のいる屋敷へ戻るのももっと嫌だ。
「お嬢様。ここは一旦アルモンテ公爵様に謝って屋敷へ帰りましょう」
マリナがもっともな提案をしてくる。でもエステルの決意は固かった。
「いや。だってわたしは悪くないもの。正しいわたしがどうして謝らなければいけないの?」
「お嬢様ががんばってこられたことは、このマリナがよっく存じております。ですからここは、表面的にだけでも旦那様に謝って、とりあえず家を出るのに必要な準備をしてからですね―――」
「―――いやよ。そんなことするくらいならわたし、一生このままでもよくってよ」
その時、側で拍手の音が聞こえ、エステルは顔を上げた。そこには七日前お別れをした出入り商人のクレトがいた。
そのクレトは、拍手しながら長い脚でこちらに歩いてくると、泥だらけのエステルの前にしゃがみ、手を差し出した。
「エステル様らしいお言葉が聞けてこのクレト、嬉しくなりました。なんとも真っ直ぐなエステル様らしいお言葉。感激いたしました。さぁ、お手をどうぞ」
「ありがと。クレト。七日ぶりね。もう会えないかと思っていたけれど、またこうして会えて嬉しいわ。泥だらけだけれどね」
「泥だらけでもエステルお嬢様はお嬢様です。またこうしてお顔を見ることができ、大変嬉しく思います。さぁお手をどうぞ」
「それはいいわ。だってクレトまで泥だらけになってしまうもの。お父様に商談に来たのでしょう?」
泥だらけの手では父の相手ができなくなる。
「ご心配は無用ですよ。今日は商談ではなくエステルお嬢様にお会いしにきたのですから。お聞きしましたよ。王太子妃選、残念なことでしたね。きっと落ち込んでおられるだろうとお慰めに来たのです」
「あら、そうなの?」
落選で落ち込んでいたエステルへかけられた初めての優しい言葉に、エステルはぐすんと鼻をすすった。そうだ。この優しさが欲しかったのだ。父が一言でも残念だったなと慰めの言葉をかけてくれたのなら、エステルはそれでよかったのだ。
エステルは差し出されたクレトの手をとった。クレトはためらいなくエステルの泥だらけの手を取ると助け起こした。意外に力が強い。別に偏見ではないけれど、商人なんて軍人に比べたら軟弱なのかしらと思っていたのに。
「失礼」
クレトは断ると身を屈め、ひょいとエステルを持ち上げた。え? きゃー。
「ちょ、ちょっとクレト……」
往来の真ん中でお姫様抱っこはさすがに恥ずかしい。なんなら泥だらけで四つん這いでいるより恥ずかしいかも。
エステルがわたわたと焦ると、クレトは
「大丈夫ですよ、エステル様はそこらへんの荷よりもずいぶんと軽い」
いや、そういうことではなくてですね……。焦るエステルに構わず、クレトはそのまま待たせていたと思われる馬車へと乗り込んだ。
「えっと……」
馬車の座席が汚れるのも構わず、クレトはエステルを降ろすと、「行ってくれ」と御者へ声をかける。マリナが慌てて乗り込んできた。
「どこへ行くの?」
エステルが当然の疑問を投げかけると、クレトはにこりと笑った。
「ご安心を。私の邸です。そのご様子では家を出られたのでしょう? アルモンテ公爵様のご気性も私は存じ上げておりますからね。きっとお怒りになられ、エステル様を勘当なされたのでしょう。このようなことになるのではと思いました」
なぜか見ていたかのようにここまでの顛末を言い当てる。どうしてと再度問えば、
「とりあえずこれからお一人で生きていかれるにしても、まずはその泥をなんとかしなければなりませんからね。エステル様が路頭に迷われる前に救出できて本当に良かったです。大丈夫ですよ。これからのことはこのクレトに全てお任せください」
「クレト……」
頼もしい言葉にエステルはたまらずわっと泣き出した。そこから王太子妃選でのあれこれを全部吐き出し、冒頭部分の泣き言へと発展した。
クレトは何度もそれは大変でしたね、お辛かったですねとエステルを慰め、話を最後まで聞いてくれた。
勢いで屋敷を飛び出したものの、当然それまで一人で外に出たことのないエステル。一歩外へ出た途端、路頭に迷った。頑健な門から外の通りへ出ると、土ぼこりをあげて馬車が行き交い、外套を羽織った人達が道の端を歩いていた。こんな寒空の下、デコルテのあいたドレス姿のエステルは周囲から浮いていた。通り過ぎる人達は、眉をひそめてエステルの姿を見ていく。
でもその時のエステルは家から飛び出したところでまだ勢いがあって、後ろから追ってきたマリナにも「着いてこないで」と威勢よく返し、むんずとドレスの裾をつまみ歩き出そうとしたのだが……。
前夜の雨で地面はぬかるんでいた。一歩を踏み出したところで靴のヒール部分がずぼっと土にめり込んだ。体勢を崩し、慌てて踏ん張った二歩目も地面にめり込み、エステルはあわあわと両手を振り回した挙げ句、見事に前のめりに倒れた。なんとか両手をついたので、顔面衝突は免れたが、膝がかっくんとなり、両膝も地面にめりこんだものだから、四つん這いの無様な格好で往来の視線にさらされた。
「きゃー! お嬢様!」
マリナが真っ青な顔で駆け寄ってきて助け起こしてくれようとしたが、ちょうどその時側を通った馬車の車輪が水たまりの上を通過し、エステルはバシャンと頭から泥水を被った。
巻き添えを食ったマリナまで泥だらけだ。さすがに申し訳なくなった。
「……ごめんなさい、マリナ。大丈夫?」
「お嬢様こそせっかくのドレスと御髪が台無しですわ」
「……いいのよ。わたしにはもう必要ないんだから」
それにもともと、ひらひらした実用性のない動きにくいドレスは好きではなかった。頭から泥をかぶり、四つん這いの情けない姿のエステルは、なんとか体を起こそうと泥の中から両手を抜いた。
マリナはそんなエステルの両手を取ると、助け起こしてくれながら、
「どうしましょう、どうしましょう。私としたことがお嬢様のお着替えも持たずに後を追いかけてしまいましたわ」とおろおろしながら途方に暮れたようにエステルを見下ろす。
確かに、これはドレスが好きかどうかの問題ではなく、着るものがあるかないかの問題だ。何も持たずに家を飛び出したエステルには当然着替えもなく、頼りのマリナにも準備がないとなるとエステル達はこの泥だらけの服でこれから過ごさなければならないということになる。
さすがにそれはまずい。
さりとて今ここで、わからず屋のお父様のいる屋敷へ戻るのももっと嫌だ。
「お嬢様。ここは一旦アルモンテ公爵様に謝って屋敷へ帰りましょう」
マリナがもっともな提案をしてくる。でもエステルの決意は固かった。
「いや。だってわたしは悪くないもの。正しいわたしがどうして謝らなければいけないの?」
「お嬢様ががんばってこられたことは、このマリナがよっく存じております。ですからここは、表面的にだけでも旦那様に謝って、とりあえず家を出るのに必要な準備をしてからですね―――」
「―――いやよ。そんなことするくらいならわたし、一生このままでもよくってよ」
その時、側で拍手の音が聞こえ、エステルは顔を上げた。そこには七日前お別れをした出入り商人のクレトがいた。
そのクレトは、拍手しながら長い脚でこちらに歩いてくると、泥だらけのエステルの前にしゃがみ、手を差し出した。
「エステル様らしいお言葉が聞けてこのクレト、嬉しくなりました。なんとも真っ直ぐなエステル様らしいお言葉。感激いたしました。さぁ、お手をどうぞ」
「ありがと。クレト。七日ぶりね。もう会えないかと思っていたけれど、またこうして会えて嬉しいわ。泥だらけだけれどね」
「泥だらけでもエステルお嬢様はお嬢様です。またこうしてお顔を見ることができ、大変嬉しく思います。さぁお手をどうぞ」
「それはいいわ。だってクレトまで泥だらけになってしまうもの。お父様に商談に来たのでしょう?」
泥だらけの手では父の相手ができなくなる。
「ご心配は無用ですよ。今日は商談ではなくエステルお嬢様にお会いしにきたのですから。お聞きしましたよ。王太子妃選、残念なことでしたね。きっと落ち込んでおられるだろうとお慰めに来たのです」
「あら、そうなの?」
落選で落ち込んでいたエステルへかけられた初めての優しい言葉に、エステルはぐすんと鼻をすすった。そうだ。この優しさが欲しかったのだ。父が一言でも残念だったなと慰めの言葉をかけてくれたのなら、エステルはそれでよかったのだ。
エステルは差し出されたクレトの手をとった。クレトはためらいなくエステルの泥だらけの手を取ると助け起こした。意外に力が強い。別に偏見ではないけれど、商人なんて軍人に比べたら軟弱なのかしらと思っていたのに。
「失礼」
クレトは断ると身を屈め、ひょいとエステルを持ち上げた。え? きゃー。
「ちょ、ちょっとクレト……」
往来の真ん中でお姫様抱っこはさすがに恥ずかしい。なんなら泥だらけで四つん這いでいるより恥ずかしいかも。
エステルがわたわたと焦ると、クレトは
「大丈夫ですよ、エステル様はそこらへんの荷よりもずいぶんと軽い」
いや、そういうことではなくてですね……。焦るエステルに構わず、クレトはそのまま待たせていたと思われる馬車へと乗り込んだ。
「えっと……」
馬車の座席が汚れるのも構わず、クレトはエステルを降ろすと、「行ってくれ」と御者へ声をかける。マリナが慌てて乗り込んできた。
「どこへ行くの?」
エステルが当然の疑問を投げかけると、クレトはにこりと笑った。
「ご安心を。私の邸です。そのご様子では家を出られたのでしょう? アルモンテ公爵様のご気性も私は存じ上げておりますからね。きっとお怒りになられ、エステル様を勘当なされたのでしょう。このようなことになるのではと思いました」
なぜか見ていたかのようにここまでの顛末を言い当てる。どうしてと再度問えば、
「とりあえずこれからお一人で生きていかれるにしても、まずはその泥をなんとかしなければなりませんからね。エステル様が路頭に迷われる前に救出できて本当に良かったです。大丈夫ですよ。これからのことはこのクレトに全てお任せください」
「クレト……」
頼もしい言葉にエステルはたまらずわっと泣き出した。そこから王太子妃選でのあれこれを全部吐き出し、冒頭部分の泣き言へと発展した。
クレトは何度もそれは大変でしたね、お辛かったですねとエステルを慰め、話を最後まで聞いてくれた。
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