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第一章
なぜか準備万端
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「ともかくも我が邸へ」とクレトの勧めるままに、用意してくれたタオルで大方の泥汚れはぬぐい取り馬車に揺られること小一時間ほど。
王都からは離れた港町の一画に、クレトの邸はあった。
「すごい邸ね……」
門からエントランスまでも馬車でしばらく揺られ、見上げたクレトの邸にぽかんと口を開けた。
オレンジ色の瓦が載った白亜の素敵な建物だ。庭には噴水があり、花のアーチを抜けて玄関を入ると、中は吹き抜けのホール。向こう側には海が一望できる。
「……素敵なお邸ですね…」
マリナも玄関を一歩入ったところで立ち止まり、ぽかんと口を開いている。気持ちはわかる。この国ではそれなりの地位にある父アルモンテ公爵の所有する屋敷よりも立派なのだから。
「日が沈む頃にあのベンチに座るといいですよ。夕日がとてもきれいなんです」
クレトはホールを抜けた先に広がるテラスを指さした。
「今でも十分きれいだわ」
エステルはどこまでも広がる海を見つめた。この十八年間、狭い王都で暮らしてきて、自分の屋敷と王宮以外には行ったことがなかった。当然海を見るのも初めてだ。いつも暮らしたあの場所から、ほんの少し馬車に揺られるだけでこんな世界が広がっているなんて。
「素敵ね……」
海の水面が太陽光にきらきら反射している。海はここから見る限り果てはなく、たくさんの船が行き交っていた。
「さぁさぁ。ともかく部屋へ案内しますよ。ああ、もちろん、マリナさんもご一緒にどうぞ」
クレトに促され、案内された一室は、これまた海の臨める部屋で、開け放たれたテラスの窓からは嗅いだことのない風の香りがしていた。
「着替えやタオルは部屋にあるものを何でも使ってください。もちろん、マリナさんも使ってくださって結構ですよ。支度が整ったら食事にしましょう。ホールの突き当たりに食堂があるのでそちらに来てください」
クレトはそれだけ言うと部屋にエステルとマリナを残して退出していった。
エステルは自分が泥だらけであることもすっかり忘れ、テラスに駆け出ると胸いっぱいに風を吸い込んだ。
「ねぇねぇ、マリナ。海風って不思議な香りがするのね」
「それは潮風ですわ、お嬢様。海辺ではそのような風が吹くのですよ」
「そうなの? 知らなかったわ。それに海ってとっても広いのね。地図では見たことがあったけれど、こんなにどこまでも広がっているなんて、想像もしなかったわ」
「さぁさ、お嬢様。海を眺めるのはそれくらいにして、まずはその泥を落としませんと」
「ええ、今行くわ」
エステルはテラスから部屋に戻り、部屋に備え付けられた浴室で泥汚れを落とした。用意されていたタオルはふわふわのふかふかで、それを顔に押し当てるととてもいい香りがした。とりあえずバスローブを羽織り、部屋からまた海を眺めていると、同じく泥汚れを落としたマリナが戻ってきて、「あの…‥」と戸惑ったように小首を傾げた。
「どうかしたの?」
クローゼットを開いたマリナが、中に並ぶ服を見て「おかしいんです」と言う。
「何が?」
「クレト様は独り身でいらっしゃいましたよね」
「わたしの知る限りではそうだわ」
「でもほら、見て下さい」
マリナに促され、クローゼットの中を見てみると、ちょうどエステルが着れそうなドレスや、丈の長いワンピース、ブラウスにスカート、靴まで揃っている。更にクローゼットの端には、マリナがいつも着ているような詰め襟の丈の長いワンピースまである。もちろん、それに合う靴も。
「ずいぶんと準備がいいのね、クレトってば」
王太子妃選の落選は今日の朝決まったことだけれど、そこから準備をしてくれていたのだろうか。
「そうではございませんよ、お嬢様」
「というと?」
「きっとクレト様には、誰かいい方がいらっしゃるんですよ。日常的に泊まりに来られるような方が。だから女物の衣服の用意があるんですよ」
「ふーん」
エステルは改めてざっとワードローブを見渡した。趣味は悪くない。どちらかというとエステルと好みは限りなく近い。
マリナの言う通り、クレトにそういう女性がいるのなら、勝手に衣服を使われて嫌な気がしないだろうか。
「ねぇマリナ。別の女が勝手に自分の服を着ていたら、いい気はしないわよね」
「それはそうでございますよ。クレト様はご自由にとおっしゃいましたけれど、男の方はそういうことに鈍感なものですわ。どういたしましょう、お嬢様」
「うーん」
エステルは腕を組んで唸った。勝手に着るのは申し訳ないが、さりとてエステルもマリナも着替えがない。元のドレスはもう泥だらけで洗っても落としきれないだろうし、乾くまでも時間がかかる。
その間ずっとこのバスローブ姿というわけにもいかない。
「やっぱりお借りしましょう、マリナ」
エステルは意を決してブラウスとスカートを手に取った。クレトのお相手の方には申し訳ないけれど、他に手段がないのだからここは仕方がない。
ブラウスに袖を通すと、さらりと気持ちのいい生地だ。スカートの丈も腰回りのサイズもぴったりで、靴のサイズまで合っている。
「まぁお似合いですわ、お嬢様」
膝丈のスカートは履いたことがなかったけれど、海風を受けて軽やかに揺れる裾が楽しい。マリナも丈の長いワンピースを借りて着ると、これもサイズがぴったりだ。
考えてみればエステルもマリナも、標準的な背丈だ。たいていの服は合うのだろう。
クレトのお相手が、同じような体型の方でよかった。
王都からは離れた港町の一画に、クレトの邸はあった。
「すごい邸ね……」
門からエントランスまでも馬車でしばらく揺られ、見上げたクレトの邸にぽかんと口を開けた。
オレンジ色の瓦が載った白亜の素敵な建物だ。庭には噴水があり、花のアーチを抜けて玄関を入ると、中は吹き抜けのホール。向こう側には海が一望できる。
「……素敵なお邸ですね…」
マリナも玄関を一歩入ったところで立ち止まり、ぽかんと口を開いている。気持ちはわかる。この国ではそれなりの地位にある父アルモンテ公爵の所有する屋敷よりも立派なのだから。
「日が沈む頃にあのベンチに座るといいですよ。夕日がとてもきれいなんです」
クレトはホールを抜けた先に広がるテラスを指さした。
「今でも十分きれいだわ」
エステルはどこまでも広がる海を見つめた。この十八年間、狭い王都で暮らしてきて、自分の屋敷と王宮以外には行ったことがなかった。当然海を見るのも初めてだ。いつも暮らしたあの場所から、ほんの少し馬車に揺られるだけでこんな世界が広がっているなんて。
「素敵ね……」
海の水面が太陽光にきらきら反射している。海はここから見る限り果てはなく、たくさんの船が行き交っていた。
「さぁさぁ。ともかく部屋へ案内しますよ。ああ、もちろん、マリナさんもご一緒にどうぞ」
クレトに促され、案内された一室は、これまた海の臨める部屋で、開け放たれたテラスの窓からは嗅いだことのない風の香りがしていた。
「着替えやタオルは部屋にあるものを何でも使ってください。もちろん、マリナさんも使ってくださって結構ですよ。支度が整ったら食事にしましょう。ホールの突き当たりに食堂があるのでそちらに来てください」
クレトはそれだけ言うと部屋にエステルとマリナを残して退出していった。
エステルは自分が泥だらけであることもすっかり忘れ、テラスに駆け出ると胸いっぱいに風を吸い込んだ。
「ねぇねぇ、マリナ。海風って不思議な香りがするのね」
「それは潮風ですわ、お嬢様。海辺ではそのような風が吹くのですよ」
「そうなの? 知らなかったわ。それに海ってとっても広いのね。地図では見たことがあったけれど、こんなにどこまでも広がっているなんて、想像もしなかったわ」
「さぁさ、お嬢様。海を眺めるのはそれくらいにして、まずはその泥を落としませんと」
「ええ、今行くわ」
エステルはテラスから部屋に戻り、部屋に備え付けられた浴室で泥汚れを落とした。用意されていたタオルはふわふわのふかふかで、それを顔に押し当てるととてもいい香りがした。とりあえずバスローブを羽織り、部屋からまた海を眺めていると、同じく泥汚れを落としたマリナが戻ってきて、「あの…‥」と戸惑ったように小首を傾げた。
「どうかしたの?」
クローゼットを開いたマリナが、中に並ぶ服を見て「おかしいんです」と言う。
「何が?」
「クレト様は独り身でいらっしゃいましたよね」
「わたしの知る限りではそうだわ」
「でもほら、見て下さい」
マリナに促され、クローゼットの中を見てみると、ちょうどエステルが着れそうなドレスや、丈の長いワンピース、ブラウスにスカート、靴まで揃っている。更にクローゼットの端には、マリナがいつも着ているような詰め襟の丈の長いワンピースまである。もちろん、それに合う靴も。
「ずいぶんと準備がいいのね、クレトってば」
王太子妃選の落選は今日の朝決まったことだけれど、そこから準備をしてくれていたのだろうか。
「そうではございませんよ、お嬢様」
「というと?」
「きっとクレト様には、誰かいい方がいらっしゃるんですよ。日常的に泊まりに来られるような方が。だから女物の衣服の用意があるんですよ」
「ふーん」
エステルは改めてざっとワードローブを見渡した。趣味は悪くない。どちらかというとエステルと好みは限りなく近い。
マリナの言う通り、クレトにそういう女性がいるのなら、勝手に衣服を使われて嫌な気がしないだろうか。
「ねぇマリナ。別の女が勝手に自分の服を着ていたら、いい気はしないわよね」
「それはそうでございますよ。クレト様はご自由にとおっしゃいましたけれど、男の方はそういうことに鈍感なものですわ。どういたしましょう、お嬢様」
「うーん」
エステルは腕を組んで唸った。勝手に着るのは申し訳ないが、さりとてエステルもマリナも着替えがない。元のドレスはもう泥だらけで洗っても落としきれないだろうし、乾くまでも時間がかかる。
その間ずっとこのバスローブ姿というわけにもいかない。
「やっぱりお借りしましょう、マリナ」
エステルは意を決してブラウスとスカートを手に取った。クレトのお相手の方には申し訳ないけれど、他に手段がないのだからここは仕方がない。
ブラウスに袖を通すと、さらりと気持ちのいい生地だ。スカートの丈も腰回りのサイズもぴったりで、靴のサイズまで合っている。
「まぁお似合いですわ、お嬢様」
膝丈のスカートは履いたことがなかったけれど、海風を受けて軽やかに揺れる裾が楽しい。マリナも丈の長いワンピースを借りて着ると、これもサイズがぴったりだ。
考えてみればエステルもマリナも、標準的な背丈だ。たいていの服は合うのだろう。
クレトのお相手が、同じような体型の方でよかった。
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