5 / 53
第一章
なぜか準備万端
しおりを挟む
「ともかくも我が邸へ」とクレトの勧めるままに、用意してくれたタオルで大方の泥汚れはぬぐい取り馬車に揺られること小一時間ほど。
王都からは離れた港町の一画に、クレトの邸はあった。
「すごい邸ね……」
門からエントランスまでも馬車でしばらく揺られ、見上げたクレトの邸にぽかんと口を開けた。
オレンジ色の瓦が載った白亜の素敵な建物だ。庭には噴水があり、花のアーチを抜けて玄関を入ると、中は吹き抜けのホール。向こう側には海が一望できる。
「……素敵なお邸ですね…」
マリナも玄関を一歩入ったところで立ち止まり、ぽかんと口を開いている。気持ちはわかる。この国ではそれなりの地位にある父アルモンテ公爵の所有する屋敷よりも立派なのだから。
「日が沈む頃にあのベンチに座るといいですよ。夕日がとてもきれいなんです」
クレトはホールを抜けた先に広がるテラスを指さした。
「今でも十分きれいだわ」
エステルはどこまでも広がる海を見つめた。この十八年間、狭い王都で暮らしてきて、自分の屋敷と王宮以外には行ったことがなかった。当然海を見るのも初めてだ。いつも暮らしたあの場所から、ほんの少し馬車に揺られるだけでこんな世界が広がっているなんて。
「素敵ね……」
海の水面が太陽光にきらきら反射している。海はここから見る限り果てはなく、たくさんの船が行き交っていた。
「さぁさぁ。ともかく部屋へ案内しますよ。ああ、もちろん、マリナさんもご一緒にどうぞ」
クレトに促され、案内された一室は、これまた海の臨める部屋で、開け放たれたテラスの窓からは嗅いだことのない風の香りがしていた。
「着替えやタオルは部屋にあるものを何でも使ってください。もちろん、マリナさんも使ってくださって結構ですよ。支度が整ったら食事にしましょう。ホールの突き当たりに食堂があるのでそちらに来てください」
クレトはそれだけ言うと部屋にエステルとマリナを残して退出していった。
エステルは自分が泥だらけであることもすっかり忘れ、テラスに駆け出ると胸いっぱいに風を吸い込んだ。
「ねぇねぇ、マリナ。海風って不思議な香りがするのね」
「それは潮風ですわ、お嬢様。海辺ではそのような風が吹くのですよ」
「そうなの? 知らなかったわ。それに海ってとっても広いのね。地図では見たことがあったけれど、こんなにどこまでも広がっているなんて、想像もしなかったわ」
「さぁさ、お嬢様。海を眺めるのはそれくらいにして、まずはその泥を落としませんと」
「ええ、今行くわ」
エステルはテラスから部屋に戻り、部屋に備え付けられた浴室で泥汚れを落とした。用意されていたタオルはふわふわのふかふかで、それを顔に押し当てるととてもいい香りがした。とりあえずバスローブを羽織り、部屋からまた海を眺めていると、同じく泥汚れを落としたマリナが戻ってきて、「あの…‥」と戸惑ったように小首を傾げた。
「どうかしたの?」
クローゼットを開いたマリナが、中に並ぶ服を見て「おかしいんです」と言う。
「何が?」
「クレト様は独り身でいらっしゃいましたよね」
「わたしの知る限りではそうだわ」
「でもほら、見て下さい」
マリナに促され、クローゼットの中を見てみると、ちょうどエステルが着れそうなドレスや、丈の長いワンピース、ブラウスにスカート、靴まで揃っている。更にクローゼットの端には、マリナがいつも着ているような詰め襟の丈の長いワンピースまである。もちろん、それに合う靴も。
「ずいぶんと準備がいいのね、クレトってば」
王太子妃選の落選は今日の朝決まったことだけれど、そこから準備をしてくれていたのだろうか。
「そうではございませんよ、お嬢様」
「というと?」
「きっとクレト様には、誰かいい方がいらっしゃるんですよ。日常的に泊まりに来られるような方が。だから女物の衣服の用意があるんですよ」
「ふーん」
エステルは改めてざっとワードローブを見渡した。趣味は悪くない。どちらかというとエステルと好みは限りなく近い。
マリナの言う通り、クレトにそういう女性がいるのなら、勝手に衣服を使われて嫌な気がしないだろうか。
「ねぇマリナ。別の女が勝手に自分の服を着ていたら、いい気はしないわよね」
「それはそうでございますよ。クレト様はご自由にとおっしゃいましたけれど、男の方はそういうことに鈍感なものですわ。どういたしましょう、お嬢様」
「うーん」
エステルは腕を組んで唸った。勝手に着るのは申し訳ないが、さりとてエステルもマリナも着替えがない。元のドレスはもう泥だらけで洗っても落としきれないだろうし、乾くまでも時間がかかる。
その間ずっとこのバスローブ姿というわけにもいかない。
「やっぱりお借りしましょう、マリナ」
エステルは意を決してブラウスとスカートを手に取った。クレトのお相手の方には申し訳ないけれど、他に手段がないのだからここは仕方がない。
ブラウスに袖を通すと、さらりと気持ちのいい生地だ。スカートの丈も腰回りのサイズもぴったりで、靴のサイズまで合っている。
「まぁお似合いですわ、お嬢様」
膝丈のスカートは履いたことがなかったけれど、海風を受けて軽やかに揺れる裾が楽しい。マリナも丈の長いワンピースを借りて着ると、これもサイズがぴったりだ。
考えてみればエステルもマリナも、標準的な背丈だ。たいていの服は合うのだろう。
クレトのお相手が、同じような体型の方でよかった。
王都からは離れた港町の一画に、クレトの邸はあった。
「すごい邸ね……」
門からエントランスまでも馬車でしばらく揺られ、見上げたクレトの邸にぽかんと口を開けた。
オレンジ色の瓦が載った白亜の素敵な建物だ。庭には噴水があり、花のアーチを抜けて玄関を入ると、中は吹き抜けのホール。向こう側には海が一望できる。
「……素敵なお邸ですね…」
マリナも玄関を一歩入ったところで立ち止まり、ぽかんと口を開いている。気持ちはわかる。この国ではそれなりの地位にある父アルモンテ公爵の所有する屋敷よりも立派なのだから。
「日が沈む頃にあのベンチに座るといいですよ。夕日がとてもきれいなんです」
クレトはホールを抜けた先に広がるテラスを指さした。
「今でも十分きれいだわ」
エステルはどこまでも広がる海を見つめた。この十八年間、狭い王都で暮らしてきて、自分の屋敷と王宮以外には行ったことがなかった。当然海を見るのも初めてだ。いつも暮らしたあの場所から、ほんの少し馬車に揺られるだけでこんな世界が広がっているなんて。
「素敵ね……」
海の水面が太陽光にきらきら反射している。海はここから見る限り果てはなく、たくさんの船が行き交っていた。
「さぁさぁ。ともかく部屋へ案内しますよ。ああ、もちろん、マリナさんもご一緒にどうぞ」
クレトに促され、案内された一室は、これまた海の臨める部屋で、開け放たれたテラスの窓からは嗅いだことのない風の香りがしていた。
「着替えやタオルは部屋にあるものを何でも使ってください。もちろん、マリナさんも使ってくださって結構ですよ。支度が整ったら食事にしましょう。ホールの突き当たりに食堂があるのでそちらに来てください」
クレトはそれだけ言うと部屋にエステルとマリナを残して退出していった。
エステルは自分が泥だらけであることもすっかり忘れ、テラスに駆け出ると胸いっぱいに風を吸い込んだ。
「ねぇねぇ、マリナ。海風って不思議な香りがするのね」
「それは潮風ですわ、お嬢様。海辺ではそのような風が吹くのですよ」
「そうなの? 知らなかったわ。それに海ってとっても広いのね。地図では見たことがあったけれど、こんなにどこまでも広がっているなんて、想像もしなかったわ」
「さぁさ、お嬢様。海を眺めるのはそれくらいにして、まずはその泥を落としませんと」
「ええ、今行くわ」
エステルはテラスから部屋に戻り、部屋に備え付けられた浴室で泥汚れを落とした。用意されていたタオルはふわふわのふかふかで、それを顔に押し当てるととてもいい香りがした。とりあえずバスローブを羽織り、部屋からまた海を眺めていると、同じく泥汚れを落としたマリナが戻ってきて、「あの…‥」と戸惑ったように小首を傾げた。
「どうかしたの?」
クローゼットを開いたマリナが、中に並ぶ服を見て「おかしいんです」と言う。
「何が?」
「クレト様は独り身でいらっしゃいましたよね」
「わたしの知る限りではそうだわ」
「でもほら、見て下さい」
マリナに促され、クローゼットの中を見てみると、ちょうどエステルが着れそうなドレスや、丈の長いワンピース、ブラウスにスカート、靴まで揃っている。更にクローゼットの端には、マリナがいつも着ているような詰め襟の丈の長いワンピースまである。もちろん、それに合う靴も。
「ずいぶんと準備がいいのね、クレトってば」
王太子妃選の落選は今日の朝決まったことだけれど、そこから準備をしてくれていたのだろうか。
「そうではございませんよ、お嬢様」
「というと?」
「きっとクレト様には、誰かいい方がいらっしゃるんですよ。日常的に泊まりに来られるような方が。だから女物の衣服の用意があるんですよ」
「ふーん」
エステルは改めてざっとワードローブを見渡した。趣味は悪くない。どちらかというとエステルと好みは限りなく近い。
マリナの言う通り、クレトにそういう女性がいるのなら、勝手に衣服を使われて嫌な気がしないだろうか。
「ねぇマリナ。別の女が勝手に自分の服を着ていたら、いい気はしないわよね」
「それはそうでございますよ。クレト様はご自由にとおっしゃいましたけれど、男の方はそういうことに鈍感なものですわ。どういたしましょう、お嬢様」
「うーん」
エステルは腕を組んで唸った。勝手に着るのは申し訳ないが、さりとてエステルもマリナも着替えがない。元のドレスはもう泥だらけで洗っても落としきれないだろうし、乾くまでも時間がかかる。
その間ずっとこのバスローブ姿というわけにもいかない。
「やっぱりお借りしましょう、マリナ」
エステルは意を決してブラウスとスカートを手に取った。クレトのお相手の方には申し訳ないけれど、他に手段がないのだからここは仕方がない。
ブラウスに袖を通すと、さらりと気持ちのいい生地だ。スカートの丈も腰回りのサイズもぴったりで、靴のサイズまで合っている。
「まぁお似合いですわ、お嬢様」
膝丈のスカートは履いたことがなかったけれど、海風を受けて軽やかに揺れる裾が楽しい。マリナも丈の長いワンピースを借りて着ると、これもサイズがぴったりだ。
考えてみればエステルもマリナも、標準的な背丈だ。たいていの服は合うのだろう。
クレトのお相手が、同じような体型の方でよかった。
121
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
【完結】聖女を害した公爵令嬢の私は国外追放をされ宿屋で住み込み女中をしております。え、偽聖女だった? ごめんなさい知りません。
藍生蕗
恋愛
かれこれ五年ほど前、公爵令嬢だった私───オリランダは、王太子の婚約者と実家の娘の立場の両方を聖女であるメイルティン様に奪われた事を許せずに、彼女を害してしまいました。しかしそれが王太子と実家から不興を買い、私は国外追放をされてしまいます。
そうして私は自らの罪と向き合い、平民となり宿屋で住み込み女中として過ごしていたのですが……
偽聖女だった? 更にどうして偽聖女の償いを今更私がしなければならないのでしょうか? とりあえず今幸せなので帰って下さい。
※ 設定は甘めです
※ 他のサイトにも投稿しています
初夜に前世を思い出した悪役令嬢は復讐方法を探します。
豆狸
恋愛
「すまない、間違えたんだ」
「はあ?」
初夜の床で新妻の名前を元カノ、しかも新妻の異母妹、しかも新妻と婚約破棄をする原因となった略奪者の名前と間違えた?
脳に蛆でも湧いてんじゃないですかぁ?
なろう様でも公開中です。
【完結】初恋相手に失恋したので社交から距離を置いて、慎ましく観察眼を磨いていたのですが
藍生蕗
恋愛
子供の頃、一目惚れした相手から素気無い態度で振られてしまったリエラは、異性に好意を寄せる自信を無くしてしまっていた。
しかし貴族令嬢として十八歳は適齢期。
いつまでも家でくすぶっている妹へと、兄が持ち込んだお見合いに応じる事にした。しかしその相手には既に非公式ながらも恋人がいたようで、リエラは衆目の場で醜聞に巻き込まれてしまう。
※ 本編は4万字くらいのお話です
※ 他のサイトでも公開してます
※ 女性の立場が弱い世界観です。苦手な方はご注意下さい。
※ ご都合主義
※ 性格の悪い腹黒王子が出ます(不快注意!)
※ 6/19 HOTランキング7位! 10位以内初めてなので嬉しいです、ありがとうございます。゚(゚´ω`゚)゚。
→同日2位! 書いてて良かった! ありがとうございます(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
【完結】記憶にありませんが、責任は取りましょう
楽歩
恋愛
階段から落ちて三日後、アイラは目を覚ました。そして、自分の人生から十年分の記憶が消えていることを知らされる。
目の前で知らない男が号泣し、知らない子どもが「お母様!」としがみついてくる。
「状況を確認いたします。あなたは伯爵、こちらは私たちの息子。なお、私たちはまだ正式な夫婦ではない、という理解でよろしいですね?」
さらに残されていたのは鍵付き箱いっぱいの十年分の日記帳。中身は、乙女ゲームに転生したと信じ、攻略対象を順位付けして暴走していた“過去のアイラ”の黒歴史だった。
アイラは一冊の日記を最後の一行まで読み終えると、無言で日記を暖炉へ投げ入れる。
「これは、焼却処分が妥当ですわね」
だいぶ騒がしい人生の再スタートが今、始まる。
え?私、悪役令嬢だったんですか?まったく知りませんでした。
ゆずこしょう
恋愛
貴族院を歩いていると最近、遠くからひそひそ話す声が聞こえる。
ーーー「あの方が、まさか教科書を隠すなんて...」
ーーー「あの方が、ドロシー様のドレスを切り裂いたそうよ。」
ーーー「あの方が、足を引っかけたんですって。」
聞こえてくる声は今日もあの方のお話。
「あの方は今日も暇なのねぇ」そう思いながら今日も勉学、執務をこなすパトリシア・ジェード(16)
自分が噂のネタになっているなんてことは全く気付かず今日もいつも通りの生活をおくる。
婚約破棄されたので、もう誰の役にも立たないことにしました 〜静かな公爵家で、何もしない私の本当の人生が始まります〜
ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、
完璧であることを求められ続けてきた令嬢エリシア。
だがある日、彼女は一方的に婚約を破棄される。
理由は簡単だった。
「君は役に立ちすぎた」から。
すべてを失ったはずの彼女が身を寄せたのは、
“静かな公爵”と呼ばれるアルトゥール・クロイツの屋敷。
そこで待っていたのは――
期待も、役割も、努力の強要もない日々だった。
前に出なくていい。
誰かのために壊れなくていい。
何もしなくても、ここにいていい。
「第二の人生……いえ、これからが本当の人生です」
婚約破棄ざまぁのその先で描かれる、
何者にもならなくていいヒロインの再生と、
放っておく優しさに満ちた静かな溺愛。
これは、
“役に立たなくなった”令嬢が、
ようやく自分として生き始める物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる