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第四章
クレトの野暮用
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晴れてクレトと恋人同士となったエステルは、最近何をしていても自然と顔がにやけてくる。
今日も商談の合間に不謹慎にもクレトのことを思い出し、思わず笑顔になると、それまで値下げは一切せんと断固言い張っていた気難しい商談相手の男性がなぜか折れてくれ、話がうまくまとまった。
「はたから見ている私の方が恥ずかしゅうございます」とマリナには言われたけれど、結果良ければすべてよし。
恋人同士になったからといって毎日していることに特段の変化はないのだけれど、そこにクレトがいるだけで幸せだ。
―――それでエステルお嬢様はお幸せになれるのですか?
最後の別れの日、クレトが言った言葉の意味がようやく分かった気がした。
こんなにも日常が輝きだすことがあるなんて、この幸せを初めから放棄していたなんて、なんとかつての自分は愚かだったのだろう。父と亡き母の望みを叶えられなかったことは今でも心の重しとなって残っているけれど、エステルの毎日は満たされていた。
午後からは時間の空いたクレトに誘われ外出した。クレトはショーウインドウに飾られた素敵な靴を買ってくれ、海の見えるカフェにエステルを誘うと並んで座り、他愛のないおしゃべりに花を咲かせた。
「エステル、一つ頼みがあるんだ」
話題の途切れたところでクレトが改まって切り出した。
エステルはカップをソーサーに戻すと姿勢を正した。
「なに?」
「実は今度、国に帰らなければならない用ができたんだ。その時に私の両親にエステルのことを紹介したいと思う。一緒に来てくれるかい?」
「国?」
以前不動産屋のベルナルドと話しているとき、クレトの出身国のことが話にのぼったことがあった。
ベルナルドは直接クレトに聞くといいと言っていたけれど、あの後すぐアパートメントを引き払ったり、ダナとの新しい仕事が始まったりと、聞く機会を失っていた。
「クレトはどこの国の出身なの? クレトの柔らかな色合いの茶髪はレウス国内では珍しいと思っていたの」
「バラカルドだよ」
考えてみればバラカルドの要人に知り合いがいるクレトだ。出身国だから昔からの繋がりで要人に知り合いがいるということなのかもしれない。
「クレトは十五歳の時に国を出たのでしょう? ベルナルドさんにそう聞いたわ」
「そうだね。私も君と同じだよ。広い世界を見てみたかった。だから単身国を出て、世界中を飛び回る仕事をしたいと商人の道を選んだんだ」
「……すごいわ…」
十五の頃のエステルは、ただ父の屋敷内で言われることをこなす毎日だった。なのにクレトは同じ年、単身で大海に漕ぎ出したなんて。
エステルがそう言うと、クレトはゆるく首を振った。
「そんな格好いいものではなかったよ。沢山失敗もしたし、迷惑もかけた。無一文になって食べる物にさえ困ることもあった。路上で一夜を明かしたこともあるし、商船に忍び込んで移動したこともある。でもダナやセブリアン、それにベルナルドといい仲間に恵まれたからね、私は。そのおかげでなんとかここまでやってこれたんだ」
「……はじめから成功したわけではなかったのね? ……なんだかちょっと安心したわ」
エステルから見ればクレトは完璧で、仕事で失敗するところを見たことがない。
それらが過去の失敗の積み重なりの上に築き上げたものだとすれば、エステルにも成長の可能性はまだある。いつかクレトの隣に堂々と立てるほどには成長できるかもしれない。
「おかしなことを言うね、安心したとは」
「だって、わたしまだまだ失敗ばかりで、クレトに迷惑をかけてばかりだもの。でもその失敗を積み重ねていけば、わたしもクレトにいつか追いつける可能性があるっていうことでしょう?」
「エステルは私なんかよりもずっと賢く早く成長しているよ。大丈夫。でもできればずっと頼ってもらえると私としてはそのほうが嬉しいな…」
クレトの手が伸びてきてエステルの髪のひと房を指に絡めるとすぐに離れて行った。
「ただね、国を出たといっても完全に切れたわけではないんだよ。何かとあちらはあちらで野暮用があって、私もたまに駆り出される」
「もしかしてこの間二週間ほど出かけていたのもその野暮用?」
ダナとワインの商船の手配に忙しくしていた時、クレトは二週間ほど邸を空けていた。商用だと言っていたけれど、あれもそうだったのだろうか。
エステルが聞くとクレトは頷いた。
「どうしてもと頼まれ断れなかったんだ。それでね、エステル。今度知り合いの要人の誕生パーティーがあって、ちょうど五十歳の誕生日だから盛大に祝おうということになったんだ。これからも何かと関わることもあるだろうから、一緒に参加してくれないか?」
「それはもちろん喜んで」
クレトの幼い頃を知っている人達と会えるなんて楽しみだ。
「あと、私の両親と兄弟も紹介するよ」
パーティーにはクレトの両親と兄弟も参加するそうだ。クレトの肉親に会うのは初めてだ。ご両親にもきちんとご挨拶したいとは思うけれど不安もある。
「わたしなんかがご両親に認めてもらえるかしら……」
まだまだ半人前で、気に入られる自信もない。それにパーティーと聞くだけで場慣れしていないエステルは気後れする。シュミレーションは何度もしてきたけれど、経験のなさだけはどうしてもカバーできない。
エステルが不安を滲ませると、クレトは「心配ないよ」と安心させるように笑んだ。
「そんなに気難しく考える必要はないからね。私の両親も気さくでフレンドリーな人たちだ。エステルのことは必ず受け入れてくれるから心配ないよ。気楽に参加してくれるといい」
「……そういうことなら…」
クレトからの初めてといってもいいお願いだ。
エステルは快く承諾の返事を返した。
けれど―――。
今日も商談の合間に不謹慎にもクレトのことを思い出し、思わず笑顔になると、それまで値下げは一切せんと断固言い張っていた気難しい商談相手の男性がなぜか折れてくれ、話がうまくまとまった。
「はたから見ている私の方が恥ずかしゅうございます」とマリナには言われたけれど、結果良ければすべてよし。
恋人同士になったからといって毎日していることに特段の変化はないのだけれど、そこにクレトがいるだけで幸せだ。
―――それでエステルお嬢様はお幸せになれるのですか?
最後の別れの日、クレトが言った言葉の意味がようやく分かった気がした。
こんなにも日常が輝きだすことがあるなんて、この幸せを初めから放棄していたなんて、なんとかつての自分は愚かだったのだろう。父と亡き母の望みを叶えられなかったことは今でも心の重しとなって残っているけれど、エステルの毎日は満たされていた。
午後からは時間の空いたクレトに誘われ外出した。クレトはショーウインドウに飾られた素敵な靴を買ってくれ、海の見えるカフェにエステルを誘うと並んで座り、他愛のないおしゃべりに花を咲かせた。
「エステル、一つ頼みがあるんだ」
話題の途切れたところでクレトが改まって切り出した。
エステルはカップをソーサーに戻すと姿勢を正した。
「なに?」
「実は今度、国に帰らなければならない用ができたんだ。その時に私の両親にエステルのことを紹介したいと思う。一緒に来てくれるかい?」
「国?」
以前不動産屋のベルナルドと話しているとき、クレトの出身国のことが話にのぼったことがあった。
ベルナルドは直接クレトに聞くといいと言っていたけれど、あの後すぐアパートメントを引き払ったり、ダナとの新しい仕事が始まったりと、聞く機会を失っていた。
「クレトはどこの国の出身なの? クレトの柔らかな色合いの茶髪はレウス国内では珍しいと思っていたの」
「バラカルドだよ」
考えてみればバラカルドの要人に知り合いがいるクレトだ。出身国だから昔からの繋がりで要人に知り合いがいるということなのかもしれない。
「クレトは十五歳の時に国を出たのでしょう? ベルナルドさんにそう聞いたわ」
「そうだね。私も君と同じだよ。広い世界を見てみたかった。だから単身国を出て、世界中を飛び回る仕事をしたいと商人の道を選んだんだ」
「……すごいわ…」
十五の頃のエステルは、ただ父の屋敷内で言われることをこなす毎日だった。なのにクレトは同じ年、単身で大海に漕ぎ出したなんて。
エステルがそう言うと、クレトはゆるく首を振った。
「そんな格好いいものではなかったよ。沢山失敗もしたし、迷惑もかけた。無一文になって食べる物にさえ困ることもあった。路上で一夜を明かしたこともあるし、商船に忍び込んで移動したこともある。でもダナやセブリアン、それにベルナルドといい仲間に恵まれたからね、私は。そのおかげでなんとかここまでやってこれたんだ」
「……はじめから成功したわけではなかったのね? ……なんだかちょっと安心したわ」
エステルから見ればクレトは完璧で、仕事で失敗するところを見たことがない。
それらが過去の失敗の積み重なりの上に築き上げたものだとすれば、エステルにも成長の可能性はまだある。いつかクレトの隣に堂々と立てるほどには成長できるかもしれない。
「おかしなことを言うね、安心したとは」
「だって、わたしまだまだ失敗ばかりで、クレトに迷惑をかけてばかりだもの。でもその失敗を積み重ねていけば、わたしもクレトにいつか追いつける可能性があるっていうことでしょう?」
「エステルは私なんかよりもずっと賢く早く成長しているよ。大丈夫。でもできればずっと頼ってもらえると私としてはそのほうが嬉しいな…」
クレトの手が伸びてきてエステルの髪のひと房を指に絡めるとすぐに離れて行った。
「ただね、国を出たといっても完全に切れたわけではないんだよ。何かとあちらはあちらで野暮用があって、私もたまに駆り出される」
「もしかしてこの間二週間ほど出かけていたのもその野暮用?」
ダナとワインの商船の手配に忙しくしていた時、クレトは二週間ほど邸を空けていた。商用だと言っていたけれど、あれもそうだったのだろうか。
エステルが聞くとクレトは頷いた。
「どうしてもと頼まれ断れなかったんだ。それでね、エステル。今度知り合いの要人の誕生パーティーがあって、ちょうど五十歳の誕生日だから盛大に祝おうということになったんだ。これからも何かと関わることもあるだろうから、一緒に参加してくれないか?」
「それはもちろん喜んで」
クレトの幼い頃を知っている人達と会えるなんて楽しみだ。
「あと、私の両親と兄弟も紹介するよ」
パーティーにはクレトの両親と兄弟も参加するそうだ。クレトの肉親に会うのは初めてだ。ご両親にもきちんとご挨拶したいとは思うけれど不安もある。
「わたしなんかがご両親に認めてもらえるかしら……」
まだまだ半人前で、気に入られる自信もない。それにパーティーと聞くだけで場慣れしていないエステルは気後れする。シュミレーションは何度もしてきたけれど、経験のなさだけはどうしてもカバーできない。
エステルが不安を滲ませると、クレトは「心配ないよ」と安心させるように笑んだ。
「そんなに気難しく考える必要はないからね。私の両親も気さくでフレンドリーな人たちだ。エステルのことは必ず受け入れてくれるから心配ないよ。気楽に参加してくれるといい」
「……そういうことなら…」
クレトからの初めてといってもいいお願いだ。
エステルは快く承諾の返事を返した。
けれど―――。
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