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番外編2
小さなお客様
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「おい、マリナ。エステルはどこ行った?」
マリナは夜の定期便であるリネン類をエステルの部屋へ運ぶ途中で、小さなお客様に声をかけられた。
この小さなお客様は、一週間前からクレトの邸に滞在している。いま五歳だという少年の名はイアン。イアンの母であるロレッタも一週間前から邸に滞在しており、今現在親子ともども一階の客間で寝泊まりしている。
エステルの所在を聞かれたマリナが、「たぶんお部屋にいらっしゃるかと思いますが……」と答えると、イアンは「そっか、ありがと」と礼を言うや、だだだっと廊下を駆けて行った。
この光景はロレッタ、イアン親子が滞在するようになってから毎夜繰り返されているので、マリナも慣れっこになった。小さな後姿を見送りながら、ロレッタ親子が邸を去るのはいつになることやらと心配でもある。
ロレッタはクレトの帝都時代からの知り合いらしい。
もとは帝国に仕える貴族の娘で公爵家に嫁ぎ、イアンをもうけたそうだ。が、この程夫が亡くなり寡婦となった。
本来なら、寡婦となろうとイアンは公爵家当主の一人息子であり、嫁ぎ先の貴族の跡取りに変わりはない。当主が早くに亡くなり、その幼い子が当主となって後を継ぐことは別段珍しいことではない。
けれどここでその公爵家で御家騒動が勃発した。亡くなった当主の弟が、我こそは当主に相応しいと主張し、調停が行われたのだ。その結果、これまでの功績などが認められ、幼いイアンではなく、弟が当主の座を継ぐことが決まった。
功績が認められ、と表向きにはそう言っているが、裏にはおそらく弟の手回しした金が回り、自分に有利な判定が下されるよう裏工作が行われたことだろう。マリナはこの話を聞いた時すぐにそう思った。公正な裁きなど、なかなか存在しないのが現実だ。
家督争いに負けたイアンの取るべき道は二つだった。
ロレッタの実家に戻るか、当主となった弟の庇護下に入りそのまま家に残るか。
けれどイアンの母であるロレッタはそのどちらも選ばず、貴族位を捨ててイアンとともに家を出た。
初めは実家の伝手などを頼り、帝都でほそぼそと生活していたようだ。手先の器用なロレッタは、ドレスの繕いやタキシードの直しなどの仕事を請け負い、収入を得ていた。それで食べていくのに困ることはなかったが、幼いイアンを育てていくのには他にもお金がかかる。十分な給金があるとは言えなかった。
そこで昔なじみのクレトを頼り、ロレッタはイアンと共にこの港町へやって来た。
小さなボストンバッグと身一つでこの邸へやって来たロレッタとイアンを、初めに出迎えたのはマリナだった。
ロレッタは子を産んだ寡婦とはいえ、まだ妙齢の美しい女性だった。彼女の緑の瞳は、エステルお嬢様の紫紺の瞳には及ばないが同じくらい透明感に溢れ、澄んでいた。
マリナがクレトを呼びに行こうとすると、ブラスがロレッタの姿を見て驚き、慌てて応接間にロレッタとイアンを通した。
その後、クレトもすぐに応接間に入り、長い時間ロレッタとクレトは話しあっていた。
途中で退屈したイアンが出てきて、「そこのお前、遊ぼう」と袖を引かれたほどだ。
「僕、お名前は?」とマリナが聞くと、「イアンだ」と答えた。堂々たるもので、この小さな体に流れる高貴な血をマリナは感じ取ったくらいだ。こちらもマリナだと名乗ると、「ではマリナ、遊ぶぞ」となんだか偉そうだ。
けれど遊んでやるとやっぱり子供で、海賊船ごっこで船長役となったイアンを、マリナが海上保安局員として取り締まろうとすると、待ったがかけられた。
「おい、マリナ。僕はいい海賊だぞ。捕まるのはおかしい」
「ですがイアン様。海賊は海賊です。帝国の海上保安局が見逃すとは思えません」
「……いいんだってば。僕は正義の味方なんだぞ」
「さようでございましたか」
小さな子の言うことだ。では、とマリナはイアンにやられたふりをして階段下へと退散した。
その時になってようやく外出していたエステルが帰宅した。
階段下でやられた風に小さくなっているマリナに首を傾げ、イアンの緑の瞳と目が合うと「どなた?」と問う。
問われたイアンは急に居住まいを正し、「イアンです」と名乗った。
マリナに名乗ったときとずいぶん態度が違う。
マリナが思うに、イアンはエステルに小さいながらも何か惹かれるものを感じたのだろう。さっきまでの偉そうな態度から急に背筋を正し、小さな紳士になった。
けれどマリナとしては今はそんなことはどうでもよかった。
ここから応接間の扉は目と鼻の先だ。
クレトがロレッタと共に応接間から二人で出てくるのをエステルお嬢様が目撃したら、どうお思いになるだろうとそのことばかりが気がかりだった。
この時はまだロレッタの素性も知らなかったので、イアンと遊びながらもマリナの中で様々な想像が膨らんでいた。ブラスの慌てた様子や、クレトの対応を見ていると、とても親しい間柄のようにマリナには見えた。
それにこの小さな男の子。どことなくクレト様に似ているような……。
まさかお子様がいたとか……?
いや、クレト様に限ってそのようなことはあるまい。クレト様にはエステルお嬢様という恋人がいるのだ。
……でも、彼女はクレト様の昔の恋人で、実はお二人の間にお子様がいて、今になって復縁を迫ってきた……。
ありえない話ではない。
だとすればエステルお嬢様のお気持ちはどうなるのだろう……。
最悪の事態まで想像していたマリナは、そのあとすぐに応接間から顔を出しエステルを出迎えたクレトから事情を聞き、ほっと胸を撫でおろしたのだった。
マリナは夜の定期便であるリネン類をエステルの部屋へ運ぶ途中で、小さなお客様に声をかけられた。
この小さなお客様は、一週間前からクレトの邸に滞在している。いま五歳だという少年の名はイアン。イアンの母であるロレッタも一週間前から邸に滞在しており、今現在親子ともども一階の客間で寝泊まりしている。
エステルの所在を聞かれたマリナが、「たぶんお部屋にいらっしゃるかと思いますが……」と答えると、イアンは「そっか、ありがと」と礼を言うや、だだだっと廊下を駆けて行った。
この光景はロレッタ、イアン親子が滞在するようになってから毎夜繰り返されているので、マリナも慣れっこになった。小さな後姿を見送りながら、ロレッタ親子が邸を去るのはいつになることやらと心配でもある。
ロレッタはクレトの帝都時代からの知り合いらしい。
もとは帝国に仕える貴族の娘で公爵家に嫁ぎ、イアンをもうけたそうだ。が、この程夫が亡くなり寡婦となった。
本来なら、寡婦となろうとイアンは公爵家当主の一人息子であり、嫁ぎ先の貴族の跡取りに変わりはない。当主が早くに亡くなり、その幼い子が当主となって後を継ぐことは別段珍しいことではない。
けれどここでその公爵家で御家騒動が勃発した。亡くなった当主の弟が、我こそは当主に相応しいと主張し、調停が行われたのだ。その結果、これまでの功績などが認められ、幼いイアンではなく、弟が当主の座を継ぐことが決まった。
功績が認められ、と表向きにはそう言っているが、裏にはおそらく弟の手回しした金が回り、自分に有利な判定が下されるよう裏工作が行われたことだろう。マリナはこの話を聞いた時すぐにそう思った。公正な裁きなど、なかなか存在しないのが現実だ。
家督争いに負けたイアンの取るべき道は二つだった。
ロレッタの実家に戻るか、当主となった弟の庇護下に入りそのまま家に残るか。
けれどイアンの母であるロレッタはそのどちらも選ばず、貴族位を捨ててイアンとともに家を出た。
初めは実家の伝手などを頼り、帝都でほそぼそと生活していたようだ。手先の器用なロレッタは、ドレスの繕いやタキシードの直しなどの仕事を請け負い、収入を得ていた。それで食べていくのに困ることはなかったが、幼いイアンを育てていくのには他にもお金がかかる。十分な給金があるとは言えなかった。
そこで昔なじみのクレトを頼り、ロレッタはイアンと共にこの港町へやって来た。
小さなボストンバッグと身一つでこの邸へやって来たロレッタとイアンを、初めに出迎えたのはマリナだった。
ロレッタは子を産んだ寡婦とはいえ、まだ妙齢の美しい女性だった。彼女の緑の瞳は、エステルお嬢様の紫紺の瞳には及ばないが同じくらい透明感に溢れ、澄んでいた。
マリナがクレトを呼びに行こうとすると、ブラスがロレッタの姿を見て驚き、慌てて応接間にロレッタとイアンを通した。
その後、クレトもすぐに応接間に入り、長い時間ロレッタとクレトは話しあっていた。
途中で退屈したイアンが出てきて、「そこのお前、遊ぼう」と袖を引かれたほどだ。
「僕、お名前は?」とマリナが聞くと、「イアンだ」と答えた。堂々たるもので、この小さな体に流れる高貴な血をマリナは感じ取ったくらいだ。こちらもマリナだと名乗ると、「ではマリナ、遊ぶぞ」となんだか偉そうだ。
けれど遊んでやるとやっぱり子供で、海賊船ごっこで船長役となったイアンを、マリナが海上保安局員として取り締まろうとすると、待ったがかけられた。
「おい、マリナ。僕はいい海賊だぞ。捕まるのはおかしい」
「ですがイアン様。海賊は海賊です。帝国の海上保安局が見逃すとは思えません」
「……いいんだってば。僕は正義の味方なんだぞ」
「さようでございましたか」
小さな子の言うことだ。では、とマリナはイアンにやられたふりをして階段下へと退散した。
その時になってようやく外出していたエステルが帰宅した。
階段下でやられた風に小さくなっているマリナに首を傾げ、イアンの緑の瞳と目が合うと「どなた?」と問う。
問われたイアンは急に居住まいを正し、「イアンです」と名乗った。
マリナに名乗ったときとずいぶん態度が違う。
マリナが思うに、イアンはエステルに小さいながらも何か惹かれるものを感じたのだろう。さっきまでの偉そうな態度から急に背筋を正し、小さな紳士になった。
けれどマリナとしては今はそんなことはどうでもよかった。
ここから応接間の扉は目と鼻の先だ。
クレトがロレッタと共に応接間から二人で出てくるのをエステルお嬢様が目撃したら、どうお思いになるだろうとそのことばかりが気がかりだった。
この時はまだロレッタの素性も知らなかったので、イアンと遊びながらもマリナの中で様々な想像が膨らんでいた。ブラスの慌てた様子や、クレトの対応を見ていると、とても親しい間柄のようにマリナには見えた。
それにこの小さな男の子。どことなくクレト様に似ているような……。
まさかお子様がいたとか……?
いや、クレト様に限ってそのようなことはあるまい。クレト様にはエステルお嬢様という恋人がいるのだ。
……でも、彼女はクレト様の昔の恋人で、実はお二人の間にお子様がいて、今になって復縁を迫ってきた……。
ありえない話ではない。
だとすればエステルお嬢様のお気持ちはどうなるのだろう……。
最悪の事態まで想像していたマリナは、そのあとすぐに応接間から顔を出しエステルを出迎えたクレトから事情を聞き、ほっと胸を撫でおろしたのだった。
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