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番外編2
こうするしかなかった
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時は少し遡る―――。
朝から大泣きして疲れた我が子を寝かしつけたロレッタは、店舗探しのためにクレトの邸を出た。
いつもはクレトとエステルも一緒なのだが今日は二人とも他に仕事があるようで、ロレッタは一人ベルナルドの紹介してくれた物件を回るつもりでいた。
普通なら幼い子供を家に置いて外出などできないものだ。帝都で暮らしているときはそうだった。仕事をしようにもいつもイアンがくっついてきて、時には癇癪を起してせっかく仕上げた商品をぐちゃぐちゃにしてしまうこともあった。子供を持つ母親にとっては当たり前のことなのかもしれないが、これまで家事などしたことのなかったロレッタにとっては苦痛だった。一人でゆったりと過ごしたいと思っても、仕事、家事、育児とのしかかってくる。
亡き夫の家を出たことは間違いだったかもしれない。
何度思ったか知れない。
本来ならイアンが継ぐべき家を、夫の弟に奪われたことは本当に腹立たしい。イアンがまだ何もわからない幼子で向こうのいいようにことを運ばれ、ロレッタは何もできずにイアンは後継ぎとしての資格を失った。
悔しかった。その上、ロレッタとイアンの面倒は私が見ようと言ってきた夫の弟。妻も子供もいるくせに、好色そうな目で見てくるのに耐えきれなかった。
それに、すでに跡継ぎではなくなったイアンと共に夫の家に残る意味もなかった。
実家に帰ろう。ロレッタはそう思ったが、実家はすでに兄が継いでおり、その兄の妻とロレッタは以前から折り合いが悪かった。何がどうと説明はできないのだが、お互いそりが合わないというか、かみあわないというか。そんな兄嫁の支配する実家に戻ることもまた苦痛だ。
結局ロレッタは、イアンと共に二人で生きていく道を選んだ。はじめのうちは蓄えもあり、ロレッタを不憫に思った兄が仕送りをしてくれ、生活は順調だった。
けれどそのうち兄嫁が、ロレッタへの仕送りを兄に打ち切らせ、蓄えも底をついた。
イアンの面倒を見ながらの細々とした仕事だけでは生活できず、方々から金を借りた。いけないとわかっていたのに生活のためにはどうしようもなく、怪しい金貸しからもお金を借りた。返せる当てなどなかったのに。
当然借金は膨れ上がり、金貸しからは返済を迫る取り立て屋が毎日のようにやって来た。
イアンは怖がってわんわん泣くし、納期に遅れがちになるロレッタには段々と仕事も減っていき、返済の利子だけが積み重なっていった。そのうち、返済できないならば他の大陸へ奴隷として売りさばくとまで言われた。
限界だった。ロレッタは少ない荷物をまとめ、イアンを連れて夜のうちに帝都を逃げ出した。
その時真っ先に浮かんだ顔はクレトの顔だった。
クレトとはクレトが皇帝の子息としてまだ帝都にいた頃からの付き合いだった。元々ロレッタの亡き夫とクレトとが友で、すでに亡き夫との婚姻が決まっていたロレッタはその縁でクレトと知り合った。
クレトは皇帝一家に共通の柔らかい色合いの茶髪にすらりと背が高く、野心的な目をしたきれいな男性だった。
すでに亡き夫との婚姻は決まっていたのにもかかわらず、ロレッタはクレトに惹かれていく心を止められなかった。何かと理由をつけてはクレトに会い、この人の心が自分に向かないだろうかと流行のドレスを着てみたり、焼き菓子を作って渡したりもした。
今思えば、そんなロレッタのことを亡き夫はどんな思いで見ていたのだろう。
自分ではかなりがんばってアピールしたつもりだ。それなのにクレトはロレッタなど見向きもせず、ある時突然帝都から姿を消した。うわさでは船乗りになったとも、冒険家になったとも、様々な噂があったがその五年後、商人となってふらりと帝都に戻ってきた。その時にはすでにロレッタは亡き夫と結婚しており、お腹にはイアンがいた。
亡き夫に会うために邸へやって来たクレトを出迎えたロレッタは驚いた。
クレトは更に精悍さを増し、帝都時代にはどこかお坊ちゃま然としていたところが抜け落ち、より魅力的になっていた。今はレウス王国の港町で暮らしていることもその時に知った。
金貸しから逃げ出したロレッタに縋れる者は、もうクレトしかいなかった。
路銀はほとんどなかったが、乗合馬車を乗り継ぎ、なんとかクレトの暮らす港町までたどり着いた。そこからさてどのようにクレトの居場所を探せばいいのか。だめもとで乗合馬車の御者に聞いてみたらクレトの邸なら海の見える小高い丘に建つ邸宅がそうだと教えてくれた。
この街ではクレトのことを知らない者はいないだろうと笑って言われた。
荷物一つでやって来たロレッタのことを、クレトは丁重に迎えてくれた。
亡き夫の忘れ形見であるイアンにも目をかけてくれた。生活に困っていると言ったら、この港町でカフェを開く資金を貸してくれると言う。返済はゆっくりでいい、生活が安定し利益が出てから返してくれればいいと言ってくれた。
この邸を見ればクレトに莫大な財産があることは一目瞭然だ。無利子でお金を貸しても痛くもかゆくもないのだろう。ここに来たのは正解だった。
ただ、ロレッタにすでに借金があり、悪い金貸しから追われていることは言い出せなかった。
でもここは帝都からは離れた、しかも帝国とは違う領土の国内だ。
まさかこんなところまで追ってはこないだろう。
ロレッタは久しぶりに心落ち着く日々を過ごした。ここにはたくさんの使用人がいる。店舗選びやメニュー考案をしたいときには、誰彼となくイアンの面倒を見てくれる。ロレッタはクレトの邸に滞在するようになってから、イアンに煩わされることがなくなった。自分の思うように行動でき、思うように一人の時間を持てた。心に余裕ができればイアンと接するのにもいらいらしたりすることがなくなった。
このままずっとここで暮らせたら―――。
邸には部屋はたくさん余っているし、クレトの財力ならロレッタとイアンを養うくらいわけないだろう。何ならクレトがそういう気分の時に夜のお相手を務めても構わない。無理にカフェを開店して働かなくても、愛人としてここにおいてもらえないだろうか。
そのためにはやはりエステルが邪魔だ。
クレトからは、エステルのことは自分の恋人だと紹介されていた。見た目は確かにかわいい。白金に輝くふわふわとした髪、紫紺の瞳。その辺ではお目にかかれない美人だ。仕事もできる。
でもロレッタに言わせればただそれだけだ。二人の様子を見ていたら、まださほど深い関係にはなっていないようだし、自分の入り込む余地はいくらでもあるように思えた。
そんな母親の意図を察したイアンは、クレトとロレッタとを二人きりにするためにエステルを連れまわした。
ロレッタはこれ幸いと何くれとクレトの身の回りに手を出し、自分の存在を印象付けた。少しだが、クレトとエステルの関係がぎくしゃくとしだしたようで、順調だとほくそ笑んでいた。
今日は、執事のブラスや使用人たちの手前、店舗探しと言って出かけてきたけれど、クレトから当面の生活費として貸してもらったお金で、久しぶりにカフェでお茶でもしようと思っている。
イアンもいないし、ゆっくりと楽しみたい。別にイアンのことが嫌いなわけではないが、やはり一人というのがいい。
ロレッタは浮き立つ気持ちで大通りを歩いていたのだが―――。
そこからは悪夢だった。帝都で何度も家に取り立てに来た金貸しの男がいて、「よお」とロレッタに声をかけてきた。いい暮らしをしているようだなと男はにやにやしながら言い、その分だと返済は容易だろうと笑った。
待って、私にはお金はないと言い募ると、ならあのでっかい邸の主から取り立てると言われた。今夜金を取りに邸まで行くから待っていろと。
血の気が引いた。クレトには借金があることは話していない。膨大な借金を提示されたクレトはどう思うだろう。ロレッタがクレトの立場なら冗談じゃないと憤り、ロレッタを家から追い出すだろう。今後一切縁を切るだろう。
せっかく、せっかく順調だったのに。もう少しでいい暮らしが手に入るところだったのに。
どうしていつもうまく行かない。望んだものが手に入らない。
絶望的な気持ちでクレトの邸に帰宅したロレッタは、そこでイアンがエステルを物置小屋に閉じ込めるところを目撃した。そのあとすぐだ。あの男がやって来たのは。ロレッタに残された道は一つしかなかった。
ロレッタは邸の者には気づかれぬよう裏門へと男を誘導し、エステルの閉じ込められている物置小屋へといざなった。男に、この中にいる女性をあげるからそれで借金を帳消しにしてほしいと頼んだ。男は女を見てからだといい、物置小屋で泣いていたエステルを無理やり連れだし、その顔を見た男が満足げに頷いた。
「いいだろう。おまえの借金はこの女で帳消しだ」
朝から大泣きして疲れた我が子を寝かしつけたロレッタは、店舗探しのためにクレトの邸を出た。
いつもはクレトとエステルも一緒なのだが今日は二人とも他に仕事があるようで、ロレッタは一人ベルナルドの紹介してくれた物件を回るつもりでいた。
普通なら幼い子供を家に置いて外出などできないものだ。帝都で暮らしているときはそうだった。仕事をしようにもいつもイアンがくっついてきて、時には癇癪を起してせっかく仕上げた商品をぐちゃぐちゃにしてしまうこともあった。子供を持つ母親にとっては当たり前のことなのかもしれないが、これまで家事などしたことのなかったロレッタにとっては苦痛だった。一人でゆったりと過ごしたいと思っても、仕事、家事、育児とのしかかってくる。
亡き夫の家を出たことは間違いだったかもしれない。
何度思ったか知れない。
本来ならイアンが継ぐべき家を、夫の弟に奪われたことは本当に腹立たしい。イアンがまだ何もわからない幼子で向こうのいいようにことを運ばれ、ロレッタは何もできずにイアンは後継ぎとしての資格を失った。
悔しかった。その上、ロレッタとイアンの面倒は私が見ようと言ってきた夫の弟。妻も子供もいるくせに、好色そうな目で見てくるのに耐えきれなかった。
それに、すでに跡継ぎではなくなったイアンと共に夫の家に残る意味もなかった。
実家に帰ろう。ロレッタはそう思ったが、実家はすでに兄が継いでおり、その兄の妻とロレッタは以前から折り合いが悪かった。何がどうと説明はできないのだが、お互いそりが合わないというか、かみあわないというか。そんな兄嫁の支配する実家に戻ることもまた苦痛だ。
結局ロレッタは、イアンと共に二人で生きていく道を選んだ。はじめのうちは蓄えもあり、ロレッタを不憫に思った兄が仕送りをしてくれ、生活は順調だった。
けれどそのうち兄嫁が、ロレッタへの仕送りを兄に打ち切らせ、蓄えも底をついた。
イアンの面倒を見ながらの細々とした仕事だけでは生活できず、方々から金を借りた。いけないとわかっていたのに生活のためにはどうしようもなく、怪しい金貸しからもお金を借りた。返せる当てなどなかったのに。
当然借金は膨れ上がり、金貸しからは返済を迫る取り立て屋が毎日のようにやって来た。
イアンは怖がってわんわん泣くし、納期に遅れがちになるロレッタには段々と仕事も減っていき、返済の利子だけが積み重なっていった。そのうち、返済できないならば他の大陸へ奴隷として売りさばくとまで言われた。
限界だった。ロレッタは少ない荷物をまとめ、イアンを連れて夜のうちに帝都を逃げ出した。
その時真っ先に浮かんだ顔はクレトの顔だった。
クレトとはクレトが皇帝の子息としてまだ帝都にいた頃からの付き合いだった。元々ロレッタの亡き夫とクレトとが友で、すでに亡き夫との婚姻が決まっていたロレッタはその縁でクレトと知り合った。
クレトは皇帝一家に共通の柔らかい色合いの茶髪にすらりと背が高く、野心的な目をしたきれいな男性だった。
すでに亡き夫との婚姻は決まっていたのにもかかわらず、ロレッタはクレトに惹かれていく心を止められなかった。何かと理由をつけてはクレトに会い、この人の心が自分に向かないだろうかと流行のドレスを着てみたり、焼き菓子を作って渡したりもした。
今思えば、そんなロレッタのことを亡き夫はどんな思いで見ていたのだろう。
自分ではかなりがんばってアピールしたつもりだ。それなのにクレトはロレッタなど見向きもせず、ある時突然帝都から姿を消した。うわさでは船乗りになったとも、冒険家になったとも、様々な噂があったがその五年後、商人となってふらりと帝都に戻ってきた。その時にはすでにロレッタは亡き夫と結婚しており、お腹にはイアンがいた。
亡き夫に会うために邸へやって来たクレトを出迎えたロレッタは驚いた。
クレトは更に精悍さを増し、帝都時代にはどこかお坊ちゃま然としていたところが抜け落ち、より魅力的になっていた。今はレウス王国の港町で暮らしていることもその時に知った。
金貸しから逃げ出したロレッタに縋れる者は、もうクレトしかいなかった。
路銀はほとんどなかったが、乗合馬車を乗り継ぎ、なんとかクレトの暮らす港町までたどり着いた。そこからさてどのようにクレトの居場所を探せばいいのか。だめもとで乗合馬車の御者に聞いてみたらクレトの邸なら海の見える小高い丘に建つ邸宅がそうだと教えてくれた。
この街ではクレトのことを知らない者はいないだろうと笑って言われた。
荷物一つでやって来たロレッタのことを、クレトは丁重に迎えてくれた。
亡き夫の忘れ形見であるイアンにも目をかけてくれた。生活に困っていると言ったら、この港町でカフェを開く資金を貸してくれると言う。返済はゆっくりでいい、生活が安定し利益が出てから返してくれればいいと言ってくれた。
この邸を見ればクレトに莫大な財産があることは一目瞭然だ。無利子でお金を貸しても痛くもかゆくもないのだろう。ここに来たのは正解だった。
ただ、ロレッタにすでに借金があり、悪い金貸しから追われていることは言い出せなかった。
でもここは帝都からは離れた、しかも帝国とは違う領土の国内だ。
まさかこんなところまで追ってはこないだろう。
ロレッタは久しぶりに心落ち着く日々を過ごした。ここにはたくさんの使用人がいる。店舗選びやメニュー考案をしたいときには、誰彼となくイアンの面倒を見てくれる。ロレッタはクレトの邸に滞在するようになってから、イアンに煩わされることがなくなった。自分の思うように行動でき、思うように一人の時間を持てた。心に余裕ができればイアンと接するのにもいらいらしたりすることがなくなった。
このままずっとここで暮らせたら―――。
邸には部屋はたくさん余っているし、クレトの財力ならロレッタとイアンを養うくらいわけないだろう。何ならクレトがそういう気分の時に夜のお相手を務めても構わない。無理にカフェを開店して働かなくても、愛人としてここにおいてもらえないだろうか。
そのためにはやはりエステルが邪魔だ。
クレトからは、エステルのことは自分の恋人だと紹介されていた。見た目は確かにかわいい。白金に輝くふわふわとした髪、紫紺の瞳。その辺ではお目にかかれない美人だ。仕事もできる。
でもロレッタに言わせればただそれだけだ。二人の様子を見ていたら、まださほど深い関係にはなっていないようだし、自分の入り込む余地はいくらでもあるように思えた。
そんな母親の意図を察したイアンは、クレトとロレッタとを二人きりにするためにエステルを連れまわした。
ロレッタはこれ幸いと何くれとクレトの身の回りに手を出し、自分の存在を印象付けた。少しだが、クレトとエステルの関係がぎくしゃくとしだしたようで、順調だとほくそ笑んでいた。
今日は、執事のブラスや使用人たちの手前、店舗探しと言って出かけてきたけれど、クレトから当面の生活費として貸してもらったお金で、久しぶりにカフェでお茶でもしようと思っている。
イアンもいないし、ゆっくりと楽しみたい。別にイアンのことが嫌いなわけではないが、やはり一人というのがいい。
ロレッタは浮き立つ気持ちで大通りを歩いていたのだが―――。
そこからは悪夢だった。帝都で何度も家に取り立てに来た金貸しの男がいて、「よお」とロレッタに声をかけてきた。いい暮らしをしているようだなと男はにやにやしながら言い、その分だと返済は容易だろうと笑った。
待って、私にはお金はないと言い募ると、ならあのでっかい邸の主から取り立てると言われた。今夜金を取りに邸まで行くから待っていろと。
血の気が引いた。クレトには借金があることは話していない。膨大な借金を提示されたクレトはどう思うだろう。ロレッタがクレトの立場なら冗談じゃないと憤り、ロレッタを家から追い出すだろう。今後一切縁を切るだろう。
せっかく、せっかく順調だったのに。もう少しでいい暮らしが手に入るところだったのに。
どうしていつもうまく行かない。望んだものが手に入らない。
絶望的な気持ちでクレトの邸に帰宅したロレッタは、そこでイアンがエステルを物置小屋に閉じ込めるところを目撃した。そのあとすぐだ。あの男がやって来たのは。ロレッタに残された道は一つしかなかった。
ロレッタは邸の者には気づかれぬよう裏門へと男を誘導し、エステルの閉じ込められている物置小屋へといざなった。男に、この中にいる女性をあげるからそれで借金を帳消しにしてほしいと頼んだ。男は女を見てからだといい、物置小屋で泣いていたエステルを無理やり連れだし、その顔を見た男が満足げに頷いた。
「いいだろう。おまえの借金はこの女で帳消しだ」
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