日常を取り戻せ

ゆとそま

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第一章 発覚

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 まず、前書きで触れたように、白血病の治療法や病状は人によって様々であると感じた。
 なので、まずは僕という人間を簡単に紹介したいと思う。僕の自己紹介をしたところで、何かの参考になるとか、そういった事はないけれども、このような人間でも白血病に罹患するということをまずは知っていただきたい。
 つまり、何が言いたいのかと言うと、誰でも罹患する可能性があり、治療法や病状は、人それぞれ違うという事だ。

 僕は神奈川県横須賀市に生まれた。家族構成は、両親に兄が一人。僕は次男で末っ子だ。
 さて、神奈川県といえば、やはり横浜市を思い浮かべるだろうか。その横浜市の南側に位置するのが、横須賀市だ。
 横須賀市は海があり、山はないが草原はあり、森のような場所もある。その一方で、公園や商業施設、飲食店なども数多くあり、生活するのにはとても便利な自治体だと思う。
 とりわけ僕が子供の頃に住んでいた久里浜という地域は、少し歩けば商店街や小さな商業施設、そして駅があった。さらに家の目の前にはそこそこ規模の大きな公園があり、幼少期は遊具で遊び、小学生になったら友人と遊び、中学生になったら友人とサッカーや野球をした。また、中学時代では野球部に所属していたので、よくその公園で壁を目掛けて投球をしたり、父親に付き合ってもらって投球練習をした。結局、ピッチャーとしてどころか、野球部に所属してても試合に出れないぐらい下手くそだったので、披露する機会はなかったが、楽しかった。
 久里浜には中学時代まで住んでいたのだが、思い出として記憶に凄く残っているのは、父と、そして兄とよく遊んだことだ。小学生の頃、兄と一緒に近所のサッカークラブに入った。父の仕事が休みの日には、一緒に練習をした。子供ながらに、父の放つ嫌味な一言に腹を立てたりしていたが、帰りには駄菓子屋で肉まんを買ってくれて、よく食べて帰ったのを覚えている。
 兄とは駐車場でよく遊んだ。駐車場??と思うかもしれないが、文字通り駐車場である。当時住んでいた家は、古い木造のアパートで、3棟が連なる形で建設されていた。そして、その目の前に、アパートと繋がる形で月極の駐車場があった。広さは車三十台分ぐらいだろうか。そこそこ広い。なので、我々ガキ共にとってはかっこうの遊び場であり、鬼ごっこやかくれんぼ、ドロ刑はもちろんのこと、サッカーや野球などの球技、極めつけはキックベースという暴挙にまで及んだ。当然、サッカーボールは時には車に直撃し、時にはフェンスを超えてアパートに激突し、あらゆる「当たってはいけない箇所」に直撃した。今考えても、よくあんな恐ろしい遊びをしていたな、と思う。子供の考える事は恐ろしい。もちろん、母親に怒られていた事は言うまでもない。
 友達ともたくさん遊んだし、家族で旅行や色んな場所に遊びに行ったが、僕の記憶に強く残っているのはこの二つだ。
 忘れてはいけないのがもう一つ。僕は小学生の頃、獣医になりたかった。そのきっかけを与えてくれたのが、アバートに住み着いた猫だった。元々は二匹住み着いていたのだが、一匹はいつの間にか姿をくらました。残ったもう一匹が、野良猫なのによく懐いてくれて本当に可愛かった。名前も「ニャータ」と付けた。茶色と黒と黄金色がごちゃまぜになった毛色をしていて、綺麗な顔をした猫だった。ニャータは、ベランダや玄関のドアのすぐ外でよく寝ていた。今でも不思議だが、全然逃げないのだ。学校から帰ってきたり、外出先から帰ってきたりした時、よく家の前で出迎えてくれた。そうなると、こちらの愛情もより一層強くなる。父親も母親も猫を好きではあったが、やはり野良猫故に、家に入れるのは反対していた。それが次第に玄関まで、廊下まで、部屋の一歩手前までと、どんどん出世していった。さすがに部屋まで入ってきたら怒られていたが、これまた不思議なことに、一度怒られると学習するのか、それ以降は部屋の前でピタッと止まるのだ。そして、ゴロゴロとくつろぎ始める。野良猫でありながら、もう立派な家族の一員だった。
 そんなニャータが、ある日突然姿を消した。呼んでも呼んでも姿を見せず、僕は物凄くショックを受けた。家族内でも「ニャータはどこに行っちゃったんだろう」と日々話ていた。数ケ月か数年か、どのくらいの期間姿を消したかは忘れてしまったが、これまた突然に姿を現した。しかも、赤ちゃんの子猫を四匹も連れて戻ってきたのだ。これには家族で歓喜した。そして、出産のために姿を消したのだと、安堵した。その子猫達が、また最高に人懐っこく、本当に愛らしかった。僕の自転車のかごやサドルでよく昼寝をしていた。その姿は映画のようにほのぼのとしたワンシーンで、まるで作られた世界のような光景だった。今でもあの光景は目に焼き付いている。
 そして、また事件が起きた。その最高に愛らしい子猫達4匹が、ある日突然姿を消したのだ。それも四匹同時にだ。ニャータは子猫達を探していたのか、毎日のように切ない鳴き声をあげていた。それを聞いているのが本当に辛くて、この頃から獣医という目標が、頭の片隅に生まれた。結局、その子猫達が戻ってくる事はなかった。母親は、当時隣の棟に住んでいた住民が保健所に連絡したのではないか、と推測していた。確かに、四匹いっぺんに、というのがすごく不自然なので、その可能性は否定できない。しかし、あくまで推測の範囲でしかないため何もできる事はなかった。ニャータは引き続き住み着いていたので、また元の暮らしに戻っただけだが、とても寂しく悲しかったのを覚えている。
 野生動物と共生し、小学生の頃はサッカーとミニバスケットボールをやった。そして中学生からは野球をやっていた。食べる事が大好きで、スポーツをやっていたにも関わらす太っていた。中学生で体重は八十キロ近くまであったと記憶している。
 それが中学生までの僕だ。

 高校生になると、まずは引っ越しをした。久里浜という地域から平成町という地域に移った。久里浜も好きだったが、平成町も良い町だ。海があり、商業施設もたくさんある。僕の青春がぎっしりと詰まった町だ。
 引っ越しをした事により、家もかなりグレードアップした。これまでのアパートは、四人で川の字になり寝ていたのだが、それで部屋は満ぱんになっていた。というか、寝室とかリビングとかがないのだ。それがマンションに引っ越し、リビングがあり、和室があり、何より自分の部屋がある。これには非常に喜びを感じたのを覚えている。
 さて、僕の高校生活だが、太っていた事もあり、野球は辞めてしまった。とてもじゃないけどついていけないと感じたからだ。ただ何もしない、というのは何かいけないような事のような気がして、色々とやってみた。まずはバレーボールだ。なぜバレーボールかというと、球技が好きだったことと、たまたま友人がバレー部に所属していたからだ。でも、たった三カ月で辞めてしまった。理由は単純で、つまらないからだ。次に、演劇部に入ってみた。今考えても突拍子もない事をしたと自分でも思う。特に演技に魅了されていたわけでもない。これも、入った理由は友人が所属していたから、というだけだ。そして三カ月が経った頃、辞めるきっかけが起こった。それは、おでんの具材になりきりましょう、というトレーニングだった。僕はいきなり大根になれ、と言われ、大根になったのだが、正直、大根ってなに?という感じだった。しかし、周りを見るとなりきっている。正確にはなりきってるかどうかなんてわからないが、なりきろうとなりふり構わず演じている。それはそれは異様な光景で、恥もへったくれもない、全てを捨てさった人達の姿だった。とてもじゃないが、僕には無理だった。と、いうことで、演劇部もわずか三カ月で退部する事になった。
 そうなると残された道はアルバイトだ。まぁアルバイトに明け暮れる高校生活も悪くはない。最初に勤めた有名フライドチキン店はすぐに辞めてしまったが、次に勤めた焼肉屋では、かなり長続きした。そして、この焼肉屋で一つの転機が訪れる。焼肉屋に勤め始めた当初は、体重が八十キロ近くあった。それが、みるみる痩せていった。理由は、勤務時間が夕方から夜間にかけてなので、夕食を食べる時間がなかった。食べるとしたら家に帰ってからになるのだが、ずっと焼肉屋の厨房で皿洗いをしており、色んな食べ残しやその匂いを嗅いでるうちに、食欲がどんどんなくなっていき、アルバイトがある日は夕食を食べなくなったからだ。焼肉屋でのアルバイトは、一年近く続けていたのだが、辞める頃には、六十五キロ程度まで痩せていた。痩せる事ができたのと同タイミングで、父の勧めでテニスを始めた。地元横須賀で活動している社会人サークルであり、父の知り合いが代表を務めているクラブだった。これに当初は想像してなかったぐらいにのめり込んだ。基本的には土曜日に活動していたのだが、夕方以降も行っている日があったので、積極的に顔を出して練習に明け暮れた。
 こうしてまた、スポーツ漬けの毎日を取り戻した。結局、テニスは結婚をして横須賀市から引っ越すまで続けた。

 高校を卒業すると、僕は公務員になるために、専門学校へ進学した。ここでもまた、転機が訪れる。
 お酒とタバコを覚えた。
 大学と違って専門学校は色んな年代の人がいる。僕がいたクラスでは同級生は一人で、あとは皆二十歳を超えた歳上だった。そして、仲良くなった友人のほとんどが、お酒はもちろんの事、タバコを吸っていた。更に高校の時の友人も、この頃からタバコを吸い始め、更に更に、兄もタバコを吸い始めた。僕はタバコの煙や匂いが大っ嫌いだったが、ここまで環境が揃ってしまえば、僕がタバコを吸うのに時間はかからなかった。一度吸ったら最後、もうタバコ無しでは生活できない状態にすぐになった。僕は依存しやすい性格なのかもしれない。
 とりわけ、専門学校時代にはこれといった思い出はない。目標にしていた公務員にも順調になることができ、卒業も難なくできた。テニスにも相変わらず熱中していたし、友人とバイクに乗って遊ぶことを覚えた。そのぐらいの思い出である。
 しかし、やはり体の変化としては、お酒とタバコを覚えたのは大きいだろう。

 そして、就職をした。某市役所に入庁する事ができた。まずは社会人としての洗礼を存分に浴び、ストレスで胃が痛くなる、という初めての経験をした。今考えると、仕事ってやつは本当に体に悪いんだな、と思う。もちろん全ての仕事が悪いわけではないのだろうが、とりわけ自分のやりたい仕事ではない場合、ほとんどがストレスとの闘いになるのではないだろうか。
 そんなストレス生活にも慣れてきて、また友人と遊ぶようになった。お金もあるため、いわゆるアフターファイブというものを存分に楽しんだ。仕事関係者との飲み会はそれほど好きではなかったが、行ったら行ったで楽しむことはできた。何より、その飲み会での出来事を友人と語り合うのが楽しくて仕方なかった。夕方五時過ぎには仕事が終わり、家に帰って夕飯を食べ、そして友人と遊びに出かける。大抵がバイクで走り回るか、カラオケに行くか、語り合うか、だ。そして、それが平日であっても構わず遊んでいたので、毎日のように夜中の一時頃就寝していた。
 そんな生活は更にひどくなった。理由は恋人ができたからだ。恥ずかしながら、二十三歳で初の恋人であり、浮かれに浮かれまくってた。もうこうなると生活は滅茶苦茶である。恋人と会う日は終電まで会っており、恋人と会わない日は友人と会う。もはや、夜中の十二時より前に家に帰ることはなくなった。そんな毎日を送っていた。
 それとは別に僕を苦しめたのは、嫉妬と心配と不安だ。なんせ初めての恋人であり、多少ボーッとしていて危なっかしい恋人だったので、例えば飲み会でメールの返信が遅くて不安になったり、なんてことない態度が気になったり、他の男性の話をされて嫉妬したり、幸せな気持ちと同じぐらい、そういった負の感情を抱えていた。この負の感情が、思ったより体にダメージを与えていた事に気がついたのは、突然の吐き気からだ。その吐き気は猛烈で、動くことができないぐらい気持ち悪いのに、吐くことができない。なぜかその頃から吐くことに対して異常に恐怖心を抱くようになったので、尚更地獄だ。
 もちろん病院に行った。胃カメラもやった。診断はストレスによる自律神経の乱れ、であった。
 こうして僕は自律神経失調症になった。この時、二十五歳である。

 自律神経失調症になってからの体調は一進一退だった。恋人とは同棲を始めていたので、不規則な生活からはかなり開放された。だが、食欲が全然戻らず、あまり食事がとれないでいた。
 そんなある日、職場で猛烈な目眩に襲われた。ただ座っているだけなのに、ぐるぐるぐるぐる景色が回転する。たまらずトイレの個室に駆け込んだ。目眩は治まらず、ぶっ倒れそうになるのを堪えながら、吐き気とも闘う。冷や汗がダラダラ流れ、手足はキンキンに冷えていた。
 そんな状態が続いたので、さすがにまた病院に行った。そして、デパスという薬をここで貰ってしまった。
 
 薬に関しては、もちろん個人によって考え方がある。ここで書いてるのは、あくまで僕個人の感想である事を忘れないでいただきたい。
 デパスは正直言って、抜群に効いた。目眩や肩こりなどが、気がつくと消えているのだ。加えて、カイロプラクティックにも通った。そのおかげで、体調は少しずつ戻っていった。しかし、日に日にデパスの量が増えていった。この時は気にしないようにしていたが、もしかしたら何か違う治療をした方が良かったのではないか、と今でも思うときがある。

 だが、体調はそれなりに安定してきており、僕と恋人は結婚をした。この時、僕は二十七歳である。結婚式は、それはそれは楽しかったし幸せだった。しかし、途中具合が悪くなり、デパスを服用している。体調が安定しているとはいえ、デパスは肌見離さず持っている状況だ。
 そして、結婚生活が始まった。この頃から僕はデパスについて考えるようになり、ついに心療内科を受診した。
 最初に通った心療内科は表参道というちょっと遠いところにある病院だった。この病院の院長が書いた薬を使わない治療という本に惹かれて、受診する決意をした。
 結果、薬は増えた。そして、デパスを飲む量も増えた。勘違いしないでいただいたいのは、病院が悪いと言いたいわけではない。むしろ、悪いのは自分だと思う。この病院の先生は、無理にデパスを辞めるように言わなかった。どうせ飲むならありがたく飲みなさい、後ろめたさをもって飲むのは辞めなさい、というような先生だった。そして、薬が増えたのも、僕がデパスをどうしても飲んでしまうと悩んでいるときに、デパスよりも弱い効果で長時間効果が持続する薬をプラスしてくれたのだ。その言葉に甘えて、ちょっと体調が悪くなっただけでもデパスを飲むようになった。どうせ飲むなら、と、全く後ろめたさや不安などはなくなっていった。自分でも本当に馬鹿だと思うのは、飲みに行くのに少しお腹が痛かったのでデパス飲んだ時だ。さすがにあれは馬鹿だと思う。

 こうしたデパスとの闘いの一方で、結婚生活にも変化があった。子供が産まれたのだ。この時、僕は二十九歳。
 そして、同時期ぐらいに兄に誘われてバスケを始めた。ユニフォームなんかも作ったりして、それなりにちゃんとしたチームを作った。バスケを始めてからは、飲みに行く回数が格段に増えた。毎週土日のどちらかに活動していたのだが、活動後は必ず飲み会、それ以外の平日も週にニ、三回は飲みに行っていた。飲みに行くと、タバコを吸う量も増える。一回の飲み会でおおよそ一箱。それ以前に一箱近く吸っているので、飲みに行った日は二箱吸ってる事になる。よくまぁ気持ち悪くならずにいたものだ。
 こうして、土日のどちらかはバスケ、どちらかは家族と出かける、平日は仕事をして飲みに行く、といったようなハードな生活だが、素晴らしく楽しい生活が始まっていた。
 そしてその二年後、第二子が誕生する。その時、僕は三十一歳。

 一方、デパスとの闘いだが、病院を変える事にした。理由は電車に乗ってるのが辛くなったからだ。いわゆる、パニック障害というのか、広場恐怖症というのだろうか。
 電車に乗る前から「具合悪くなるのではないか」という恐怖心に支配され、実際に電車に乗ると動悸がして、呼吸がしずらくなって、気持ち悪くなってくる。こんな症状がある日突然現れたのだ。
 病院は家からも職場からも近い病院で、同じく薬に頼らない治療を謳っている病院だ。ここでは四ヶ月に一回血液検査をし、体の栄養状態などを調べて、そういった所から体調不良が起こってないかアプローチしていく病院だった。
 この頃になると、僕は1日デパスを五錠飲まないともたなかった。カイロプラクティックも通うのを辞めて、精神疾患専門の整体に通うようにしていた。
 デパスに関しては、もう癖のようになっていた。体調が特に悪くなくてもいつも飲んでる時間になると飲みたくなる。飲まないと落ち着かなくなる。もう依存してるよなー、と自分でも思うようになった。
 しかし、症状はどんどん悪化していくのだ。電車の次は車に乗れなくなった。なぜか運転していると具合が悪くなった。そして、休みの日は家でダラダラ過ごすようになった。正直、四歳と二歳だった息子二人を連れて出かけるのは大変だった。それに、僕自身がよく風邪をひくようになった。そして、一回風邪をひいたらなかなか治らない。某ウイルスが流行していたので、何度も某ウイルスを疑った。それでもバスケだけは行き続けた。心のどこかで、好きな事すらできなくなったら終わりだと思っていたのかもしれない。しかし、ある日、いつもならバスケが終わり、一度家に帰ってから飲みに行くのだが、その日は気がついたら眠ってしまっていた。こんなの初めてだった。ここのところ、ずっと体調が優れなかったし、某ウイルスという未曾有の時代を生きているので疲れてるんだな、と思ってた。
 そして、祝日に、久々に家族で動物園に行った。電車に乗るのは怖かったけど、なんとかデパスで誤魔化して、乗ることができた。子供達も久々のお出かけで嬉しそうだった。この年は某ウイルスの影響で、本当に家にいる事が多かったから、可哀想な事をした。この日は動物園でたくさん遊んで、帰りは夕暮れ時を長距離散歩した。紅葉をバックに長男の写真を撮った。特に意味はないけど、写真を撮った。その写真は夕暮れの日差しで後光が射しており、本当に綺麗な写真だった。途中、長男の好きな甘納豆を老舗有名店で購入した。最後に長男がトイレに行きたくなって、トイレを探し回った。
 
 そんな丸一日を過ごした。
 何も考えずに、何も気にする事なく過ごした最後の一日。
 僕は、この日を一生忘れないだろう。
 ニ〇ニ〇年十一月三日、文化の日。

 その日の夕方に微熱が出た。本当に大したことのない微熱だ。あと少し、関節痛もあったように記憶している。また子供の風邪でも貰ったか、と特に気にもとめてなかったが、翌日の仕事は休んだ。翌々日もまだ倦怠感と微熱が残っており、午前中だけ出勤して、午後は病院に行った。医者から「抗生剤出すけど、ちょっと気持ち悪くなっちゃうかもねー」と言われたので、家に帰って副作用で気持ち悪くなる、みたいな文言で検索をした。何気なく開いたページを読み進めて行くと、どうやら抗がん剤の話のようだった。なんだよこれ、と読んでて怖くなったが、自分が飲むのは抗生剤であって、抗がん剤ではない、と気にせず違うページへ行った。
 翌日、僕はだいぶ体調も良くなったし、金曜日ということもあって仕事に行った。この日は朝から会議で高層ビルの最上階に行かなきゃならないのが憂鬱だったが、仕方なく行った。
 会議中、着信があった。勤務時間中に着信があるなんて珍しいので、とりあえずスマホを見てみると、全く知らない番号からだった。迷惑電話かと思い無視をしていると、数秒後にまた同じ電話番号から着信が。さすがに気味悪くなってネットで調べてみると、通院している心療内科だった。なんだろう?と心当たりがなかったが、そういえば、この週の月曜日に血液検査やったなー、前回の検査で尿酸値高かったから、また高かったのかな?ぐらいにしか思ってなかった。そして、すぐにまた着信が。え、この短時間で3回も着信?ちょっとおかしいな、と嫌な予感はしていた。
 それでもとりあえず会議を終わらせて、すぐに病院に折り返した。きっとなんてことないだろう、何かの手続きの確認とかだろう、と思っていたが、なぜか嫌な予感が止まらない。電話が繋がった。事務の方が、看護士に代わります、と保留にする。看護士?事務上の手続きではないな、やはり尿酸値か?と、緊張が高まる。そして看護士が電話に出た。

「先日やった血液検査の結果で、白血球に異常が診られるので、すぐに血液内科を受診してください。」

 白血球?予想外の言葉に頭がパニックになる。白血球と聞いて、素人である僕がすぐに頭に浮かんだのは白血病だ。でも、まさか・・・と考えないようにした。
 すぐに心療内科まで血液検査の結果を取りに行き、少し離れた場所にある、血液内科が専門のクリニックに向かった。なかなか町医者で血液内科を専門に診てくれる病院は少なかった。
 病院に向かう電車の中で、検査結果をネットで検索しまくった。ことごとく、白血病の人に見られる検査結果の数値に合致する。嫌な予感が増幅する。
 病院に到着し、診察を待ってる間も生きた心地がしない。そして診察になる。
 先生は検査結果を見て、桁が一つ多いですね、と困ったように言った。
「もう一度検査してみて、数値が下がってたら様子見ましょう。上がってたら良くない病気の可能性があるから、大きな病院を紹介します。」
ということになった。

 ちなみに、心療内科での検査結果は白血球が約四万。確かに異常な数値なのは素人でもわかる。でも、少し風邪っぽい。風邪っぽいと白血球の数値上がるよな、と自分に言い聞かせる。祈るように血液検査の結果を待つ。
 そして、検査結果が出た。結果は、約六万。この数日で、白血球の数値が約二万も増えていた。
 すぐに県立のがんセンターへ紹介された。



 こうして僕は、急性骨髄性白血病、と診断された。


 この時のリアルな心情は次の章で書きたいと思う。
 
 二〇ニ〇年十一月六日。三十三歳の時。

 僕にとって、人生を変えた一日だった。

 なお、薬の事とか、タバコの事などを少し強調して書いているが、なぜ白血病になったかはわからない。
 したがって、誤解のないようにお願いしたい。
 何が言いたかったのかというと、冒頭に書いたように、このような生活をしてきた僕が、白血病に罹患した、という事をお伝えしたかっただけである。
 同じような生活をしてても、この生活より荒れた生活をしている人でも、元気な人はたくさんいるだろう。
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