生きる、そして生かされる

ゆとそま

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  その日は仕事がいつになく慌ただしかった。なぜなら、専門職の職員が立て続けにインフルエンザに感染したからだ。基本的に生活保護の相談者は担当制になっており、既に生活保護者として登録されている人は「担当が不在なので別の日にいらしてください。」で問題ないのだが、新規の相談者に対してはそうはいかない。職員の人数が少ないから、という理由で追い返してはクレームの嵐になるだけだ。なので、職員総出での対応となった。もちろん、具体的な相談については専門職の職員でなければ対応できないが、それまでの「繋ぎ」は事務職の職員も駆り出された。僕も例外ではなく、「相談者の方を相談室に案内して。その後は私達専門職が行くまで1人にしないように一緒に相談室で待機してて。」と指示を受け、対応せざるを得なくなった。せっかく人と接しなくて良い職場だったのに…と内心苛立ちながら、何人かの新規相談者の「繋ぎ」をした。午前中の段階で僕はもうヘロヘロだった。ただでさえ相談者は緊張していたり、精神的に不安定だったりと、まともにコミュニケーションが取れる状態ではない人が多い。そのような人達の相手など僕が勤まるわけもなく、待機中は基本的に沈黙だった。その沈黙の居心地の悪さったらない。これならまだ飲み会の方がマシに思えてくる。午後も同じ事をするのか…と思うと憂鬱で昼食も喉を通らなかった。
「次の方、こちらでお待ちくださいね。桜井さん、ご案内して。」
  さっそく来た。僕はふぅ~とため息をつき、「こちらへどうぞ」と相談室に案内した。その相談者は目が見えるか見えないかぐらい髪が長く、無精髭に白髪が混ざっている男で、午前中に対応したどの相談者よりも異質な雰囲気を放っていた。こう言っては悪いが、過去に何人か殺してる?と思わせるような不気味な雰囲気だ。これは午後1番から最大級に神経を使う沈黙になるな、と覚悟を決めて相談室に2人で入り、イスに座って待機した。何分経っただろうか。そろそろ僕の精神力も限界に近づいてきたとき、男が何かを話始めた。
「・・・なんです。」
「え?」
  まさか話をする人とは思っていなかった事と、あまりの声の小ささに何も聞き取れなかった。
「何かおっしゃりました?」
  無視をしても良かったんだが、何かされても困るしクレームになってもやっかいなので、とりあえず聞き返してみた。
「私、病気なんです。」
「はぁ、どのような病気ですか?」
  相談者が病気なのはよくある事なので、とりあえずマニュアル染みた返答をした。
「PTSDです。」
  聞いたことはある。過去のショッキングな出来事が原因で発症する精神疾患だ。
「そうですか。何か過去にお辛い事があったのですか?」
  沈黙よりはマシ、と思って特に興味はないが聞いてみた。そして、耳を疑った。
「刺されたんです。道を歩いてたら突然。」
「は?」
「ですから、刺されたんです。通り魔です。」
  一気に体に緊張が走った。刺された?通り魔?この人が?なんで?いつ?色々な疑問が頭に浮かぶ。整理ができない。明らかに頭が混乱している。
「えっと…え…えっ…えっと…」
  僕が動揺してると、男は続けた。
「こう見えても私、昔は大企業でバリバリ働いていたんです。それが3年前の出勤途中、いきなり後ろから刺されました。気がついたら地面に倒れていて、自分の血が流れてるのが見えたんです。」
  そう話ながら男は震えていた。そして、僕も震えていた。
「あ、あの…もう、お話されなくて結構ですから…」
  今度は僕の方が声が小さくなっていた。男は聞こえなかったのか、まだ話を続ける。
「なんとか生きてました。でもね、もう怖くて道を歩けないんですよ。道路に立っただけで体が震える。道行く人が全員凶悪犯に見える。こんなんじゃ出勤できませんよね。当然、会社も辞めました。それで今はなんとか外に出れるようになったのですが、必ず、1日に1回思い出す時があるんです。いつだかわかります?」
  男は初めて僕の目を見た。
「さ………さぁ?……」
僕はまたあの症状に襲われていた。声が出せたのが奇跡なぐらいだ。
「風呂に入る時ですよ。当然、風呂に入る時は裸になるじゃないですか。そうするとね、自然とお腹の傷跡に目がいくんですよ。見ます?傷跡。」
  男はそう言ってシャツを捲り上げようとした。僕は半分発狂するかのように「やめてくれ!!」と叫んだが、遅かった。男のお腹にはくっきりと大きな傷跡があり、今にも血が流れてきそうだった。僕はそれをうかつにもしっかりと見てしまい、次の瞬間、目の前が真っ暗になった。

  目を覚ますと、そこは病院だったという放しは色々な物語に出てくる。僕はその度に「目を覚ました瞬間によく病院だなんてわかるな」と疑問に思っていたのだが、人間の五感というのは優秀だ。僕が目を覚ますと、まずは見たことのない天井が見えた。当然それだけではここがどこだかわからないが、次に病院独特の消毒の匂いがしてくる。そして僕は色々な物語と同様にに「ここは病院か」と思った。
「お、目を覚ましたか。」
  声がする方へ目をやると、松本が座っていた。どうやら付き添ってくれてたみたいだ。
「驚いたぞ。いきなり叫び声が聞こえて相談室に行ったらお前が倒れていたんだ。一体、何があったんだ?」
  何があったんだっけ?あの相談室での出来事が思い出せない。でも、何かが引っ掛かっている。なんだっけ?僕が黙っていると松本が話始めた。
「お前が倒れていた事にも驚いたが、相談者の人も頭を抱えて震えながらしゃがみ込んでいたんだ。今その相談者に事情を聴いているところだけど、お前が何かされたんじゃないか、って心配したんだぜ?まぁ医者の話だと特に外傷はないから失神しただけだろう、と言っていたがな。ただ、胸を倒れたときにぶつけたらしい。大丈夫か?」
  そういえば胸が少しズキズキと痛む。そんな事よりどんな相談者と話していたんだっけ?なんで僕は失神したんだ?ダメだ、何も思い出せない。
「お、職場から電話だ。ちょっと話してくる。」
  そう言って松本は病室から出ていった。僕はぼんやりした頭の中で思いだそうと必死になった。今まで失神した事がないと言えば嘘になるかもしれない。自殺を試みようとする度に頭を駆け巡る温かい記憶、その瞬間はおそらく失神しているのと同じ状態だろう。なにせ、体も動かなければ周りの景色も消えてしまう。その記憶の世界に入り込んでしまうのだ。そして気が付けば号泣している。ただ、それ以前の記憶が無くなった事は1度もない。どのような方法で自殺を試みたかも鮮明に覚えているし、そうなった理由もはっきりと覚えている。今回、記憶が無くなるほどの失神をしたというのは余程の出来事があったのだろう。しかし、それ以上に気になっている事がある。それは目を覚ましたか時からずっと引っ掛かっている事だ。もしかしたらそれが失神の原因かもしれない。いや、それとはまた別で、それ以上の何かを感じる。なんだ?僕は一体何をされたんだ?そうこうしている内に松本が戻ってきた。
「相談者が事情を話してくれたみたいだ。どうやら彼はPTSDだったらしいな。3年前に通り魔に刺されたんだって?その傷跡をお前に見せた瞬間、お前は叫んで倒れたらしい。彼は彼で倒れたお前を見て、パニックになったそうだ。」
  ・・・!そうだ、思い出した。髪の長い無精髭の男と話をしていたんだ。それで通り魔事件の話を聞いていつもの症状が僕を襲ったのだ。しかし、まさかそれで失神してしまうとは。記憶は甦った。でもなぜだろう、引っ掛かっているものが取れない。まだ思い出せない事がある。
「その相談者が言ってたのはそれだけか?」
  松本に聞いてみた。
「ああ。」
「そうか・・・。」
「それにしたってお前、傷跡を見たぐらいで失神するなよ。確かに気分の良いものではないがな。今までだってそんな傷跡、散々見てきただろ?」
  松本はおどけた感じで言った。確かにそうなのだ。今回のように仕事で「繋ぎ」の役割をするのは初めてではない。その時に「自分は病気で仕事ができない。この前も大きな手術をしたんだ」とまるで病気の証拠です、と言わんばかりに手術の傷跡を見せてくる人はいる。僕はそんな人を何度か見てきた。
「そういえばお前、この前も倒れたよな?居酒屋で。確かあの時は・・・そうだ、通り魔事件の臨時ニュースが流れた時だった。何か通り魔事件と関係があるのか?」
  僕はまた少し、気分が悪くなってきた。
「ごめん松本。ちょっとその話はしないでもらえないか。」
「・・・そ、そうだな。すまん。」
  珍しいな。常にうるさい松本のような男でも、こんな神妙な顔をする時があるのか。少し気まずい空気になったが、それを振り払うかのように松本はいつものうるさい声で話始めた。
  「あー、そういえば、お前1日入院するらしいぞ?一応、ただの失神とはいえ原因がわからないから念のため検査をするらしい。その格好じゃ窮屈だろ?何か服でも買ってこようか?」
  そうか。僕は職場からそのまま搬送されたから、まだスーツのままだった。確かに窮屈ではあるが、正直、早く1人になりたかった。ただでさえこの元気な男と会話をするのは疲れるのに、今の僕の混乱状態ではとてもじゃないが対応しきれない。
「いや、1日の入院なら大丈夫だ。病院服もあるし。お前はもう職場に戻ってくれ。付き添い、ありがとな。」
  僕はそう言って横を向き、松本に背を向けた。
「そ、そうか。まぁ職場には俺の方から言っておくからゆっくり休めよ!」
  そう言って松本は病室から出ていった。僕は溜め息をつき、仰向けに戻った。さて、何から考えようか。とりあえず、頭の中を整理しないとダメだなと思った。松本の言う通り、僕と通り魔事件が何かしら関係しているのは今回の事で明らかになった。自宅での発作、居酒屋での発作、そして今回の発作。これはもう疑いようがない。問題はその理由だ。もしかして、僕も実はPTSDなのか?でも両親は交通事故で亡くなっている。他に大切な人などいないし、通り魔事件の現場を目撃した事もない。テレビでしか耳にした事がないはずだ。その程度でもPTSDになるものなのか?それから目が醒めた時からずっと引っ掛かっているもの。これはなんだ?相談者は、僕に通り魔事件の被害者だと話をして傷跡を見せただけだと言っている。でもそれだけじゃない。そのわずかなやり取りの中で、僕は何か物凄い重要な何かを感じた。それがずっと引っ掛かっているんだ。考えても考えてもわからない。気がついたら外は真っ暗になっていた。その時、看護師が病室に入ってきた。
「桜井さーん。ご気分はいかがですか?」
「ああ、はい。だいぶ落ち着きました。」
  僕は適当に返事をした。
「そろそろ夕食の時間ですが、食べられそうですか?」
「はい。お願いします。」
  正直、食欲など全く無かったが、断るのも面倒くさいのでお願いした。
「わかりました。では順番にお持ちしますね。あ、よかったらそちらに病院服がありますので、着替えてくださいね。」
  そう言って看護師は忙しそうに病室から出ていった。僕はまた、ふぅ、と溜め息をつき、シャツの匂いを嗅いだ。汗臭い。おそらく、冷や汗を大量にかいたのだろう。スーツのズボンも窮屈だし、着替えるかと思い体を起こすと、ズキッと胸が痛んだ。ああ、そういえば倒れた時にぶつけたんだっけ、と思い出した。それにしてもなかなか痛い。まさか骨折でもしてるんじゃないだろうな、と思いシャツを脱ぎ、ふと鏡を見た。
  その時だった。相談者から傷跡を見せられた時の衝撃、僕の頭に雷が落ちてきたような全身の痺れと硬直が僕を襲ってきた。それと同時に引っ掛かっていたものの謎が全て解けた。
  
  そう、あの相談者の傷跡は、僕のお腹にある傷跡と全く同じものだったのだ。

  体は震える。冷や汗も大量に出てくる。目眩と吐き気もし、今にも気を失いそうだ。ただ、この「傷跡の事実」だけが僕を失神から守ってくれている。とりあえず落ち着け、落ち着いて考えろ、と自分に言い聞かせ、呼吸を整えながら服を着替える。そしてベッドに横になり、また考え始めた。
  まず、僕の記憶をどんなに辿っても、このお腹の傷跡が残るような出来事は何一つとしない。という事は、3歳以前にできた傷跡だろう。では何の傷跡なのか。僕は中学生の時に施設の職員だった福島さんの話を思い返した。僕の両親は僕が産まれて間もなく交通事故で亡くなっている。そして、このお腹の傷跡は手術をした時のものだと。いや、違う。手術の跡とは福島さんは言っていない。それは僕が勝手に思い込んでいただけだ。そういえば、福島さんはこの傷跡については何も答えてくれていない。なぜ答えてくれなかったのか。あの時の福島さんの態度も当時は気になった。まぁそのような態度になっても仕方ない、と、すぐに忘れたが、今となってはどうも引っ掛かる。もしかしたら自分の考えすぎかもしれない。交通事故の時に何か鋭利な物が刺さったのかもしれない。でも、どうしても気になる。何かが胸の中に残っている。
  なぜ僕が生きる意味ばかり考えてしまうのか。自殺を試みる時に甦るあの記憶は何なのか。通り魔事件との関係は何なのか。
  キーワードは、通り魔事件、お腹の傷跡、福島さん、の3つに絞られた。
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