暗い記憶が導く場所へ

蓮華空

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本編 イザヤside1

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 夜気が冷たく木々の間を通り抜けていく。すっかり闇に包まれた森は、異物を更に寄せ付けまいと、益々不気味な雰囲気を放っていた。

 イザヤと陶也は渓流のある所から元の道に戻るため、今では陰だけになった木々のトンネルをゆっくりと歩いた。

 陶也の顔色も心なしか良くなってきたので、取り敢えずイザヤはほっとした。

 暫く無言のまま歩いていたが、ふと、陶也を見ると彼もこちらを見ている。ずっと目が合ったままなので「なに?」と訊いてみると「なんでもないですよ」と返ってくる。なんなんだ?と思いながらも、イザヤが前方に向き直ると、やっぱり陶也はこちらを見てくる。暗闇だから見えにくいのかと思い、「お前、鳥目なのか?」と訊いて、陶也の目の前で手をひらひらさせてみる。すると、笑いながら「大丈夫です。しっかり見えてます」と言う。それにしても、何だか陶也がイザヤばかりをジロジロ見ているような気がして、落ち着かなくなってきた。そうこうしているうちに鬱蒼とした木々のトンネルが終わり上空を見ると、綺麗な月が浮かび上がっていた。

「おー!月が綺麗だあ」

 辺りが暗いせいか、余計に月明かりが眩しく、美しくみえた。

「な」

 と、陶也にも同意を求めたら、陶也も静かに頷いた。

 無言で煌々と光る月を見ている陶也が、水面に映る月のように輝いて見え、イザヤは放心した。

「本当に……、月が綺麗ですね」

 陶也が静かに口を開いた。何故だが陶也が朧気に輝いて見えて、イザヤは一瞬、言葉に窮した。

「う、うん」

 辛うじてイザヤも同意をしたが、今、見ていたのは月ではなく陶也だった。イザヤは、お前も綺麗だ、と言いたかったが、ゴキブリに褒められても気持ち悪いだろうと思って止めた。だから代わりに月をひたすら褒める事にした。

「本当に今日の月は綺麗だな。めちゃくちゃ綺麗だ。すごく綺麗だ。うん、綺麗」

 ーー何でこんなに綺麗なんだ?

 気を紛らわす為に言ったはずの言葉なのに、繰り返していたら、本当に今まで見た月の中で一番綺麗に見えてイザヤは首を傾げた。

 陶也はクスクスと笑い出して、「僕も、今日の月が最高に綺麗だと思います」と同意した。

「今日は月が特別に見える、何とかムーンとかいうやつかな?」

 イザヤがそう言うと陶也は益々クスクスと笑い、

「いや、別に今日はそういう特別な日ではないですよ」

と言った。

「ふーん。そうか。俺が今まで月なんかよく見てなかったからかな?」

「どうなんでしょう?でも、心が変われば同じ物を見ても以前と違うように感じる事もありますよね」 

「そうかな?俺はあんまりないんだよなあ」

 思い起こすとイザヤにはあまり心変わりというのがないような気がした。特に嫌いなものはずっと嫌いだ。未来永劫その感情だけは変わることがない。特にあの女。母親に対してだけは天地がひっくり返っても憎しみ以外あり得ない。

「イザヤさんは夏目漱石って日本の文豪をご存知ですか?」

「いや、知らない」

 自慢じゃないが、イザヤには教養のきょの字もない。

「その人がある英語を意訳した時の言葉が『月が綺麗ですね』なんです。僕は今、……すごくそんな心境なんです」

 と、言って頬を真っ赤に染めながら俯いてしまった。なんだ?そのリアクション?

「その英語ってなんだよ?」

 真っ赤になるほど恥ずかしい内容なのかと気になって訊いてみたが、陶也は

「アメリカ人なら簡単に口してる言葉だけど、日本人にはハードルが高い言葉なんです。だから、月が綺麗ですね、なんです。だから……僕には……、とてもじゃないけど、今は英語で言えません!」

 と、顔を手で隠してしまった。

 ーー何をそんなに照れているのか?

 しかし、手で顔を隠しながらも指の間からチラチラ此方の様子を伺っては頬染めている。耳まで真っ赤だ。一体どんな英語なのかと思い、「教えてくれ」と言っても陶也は、「いつか」と言うばかりで教えてはくれなかった。でも、問い詰めれば問い詰めるほど、陶也が赤くなって照れまくるから、その姿に段々と卑猥な連想が頭を占め、アメリカ人が簡単に口にして日本人が言えない言葉、即ち

「ファックか?!」

 と言ったら、物凄い剣幕で怒られた。

「お月様に失礼でしょ!」

 と言われ、元が月の話だったのをすっかり忘れていた。ーー失敗した。

「あ、あの……」

 急に陶也が可愛らしく目を潤ませて呼び掛けるので、イザヤの心臓はドキリと一瞬飛び跳ねた。

「いつか、必ずちゃんと言いますので、その時まで僕の側に居てくれませんか?」

 陶也が手にぎゅっと力を入れるのを、繋がった孫の手から感じた。

「分かった。いつかちゃんと教えてくれよな」

 そう約束をした。


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