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1日目
しおりを挟む大学生になって初めての夏休み。
夏はどこに行っても人が多くて嫌になる。人混みが苦手な僕は、夏のほとんどをバイトにあて、貯まったお金を使い、夏休み最後3日間で海を見に行く事にした。
東京駅に着いてから目的の場所を決め、ふらりと電車に乗る。電車の中で民宿の予約を取り、何度か電車を乗り替えた。何時間電車に揺られただろう。目的の駅に着いた頃には、太陽は西に傾きかけていた。とりあえず、僕は荷物を置きに、宿に一旦寄ることにする。
出迎えてくれた民宿の女将さんに海を見に来たと言うと、地元の人しか知らない浜辺を教えてくれた。
「夕食は6時ですので、ごゆっくり」
ニコニコと僕を送り出してくれた愛想の良い女将さんに会釈をし、書いてもらった簡単な地図を頼りに歩き始める。本当に何もない田舎町。カナカナカナカナと夏の終わりを惜しむようなヒグラシの鳴き声に紛れ、子供達が元気に遊んでいる声が遠くから聞こえる。
周りを見ながらのんびり歩き、辿り着いた浜辺はとても穏やかな時が流れていて、僕はひと目で気に入った。
波の音が心地良い。
誰もいない砂浜に座り、ぼんやり海を見ていた僕の視界にフワリと風に乗った白い何かが横切る。反射的に右手を伸ばしてキャッチしたのは、青いリボンがついた真っ白い帽子だった。
どこから飛ばされてきたのだろうかと顔を上げると、今時珍しい長い黒髪の女の子が立っている。
目が合った君と僕の時間が止まった。それは、ほんの10秒……いや、1秒にも満たないかもしれない。そんな刹那。海の風が僕たちを出逢わせた瞬間だった。
高校生くらいだろうか……肌は雪のように白く、体は枝のように細く、今にも消えてしまいそうな、どこか儚げな女の子。白いワンピースも相まって、本当に人なのか……? そんな失礼な考えが頭に浮かんだ。
「ありがとう。その帽子、私のなの」
思わず、じっと見つめてしまった無遠慮な僕に少し困惑した彼女の声。我に返った僕は慌てて帽子を渡す。
「あ、ごめん」
ほっそりとしたしなやかな手で彼女は帽子を受け取ると、顔を柔らかく綻ばせた。
「東京から来たの?」
「うん、まぁ」
「そっかなって思った。だって、この町の人とぜんぜん雰囲気違うんだもん」
都会より田舎の方が落ち着く僕としては、一目で東京からきたと当てられてしまうのは、なんだか悔しくも感じる。
「そんなに違うかな」
「うん、違う。あのね、私も東京からきたの」
あまりにも彼女が屈託なく笑うものだから、僕は少し気後れしてしまった。
年頃の女の子が、初対面の男にこんなに親しげに話しかけてもいいのか? しかも人けもない場所だし。もう少し警戒心を持った方がいいんじゃないかな。
「あのさ……女の子が知らない男にあんまり話しかけない方がいいと思う……」
余計なお世話と思いつつも、この無邪気さが心配でボソボソと伝えた。本当に余計なお世話なんだけれど。
彼女は僕の言葉を聞き、きょとんと僕を見た後、ぷぅと頬を膨らませた。
「私だって、ちゃんと選んで声を掛けてるわ。現にあなたは知らない男の人だけど、私の事心配してくれたじゃない」
「そりゃ……まぁ……」
「私、人を見る目はあるんだから」
両手を腰に当て、得意げに話す姿が子供っぽく見え、僕は苦笑してしまう。すると、彼女は真顔になり、でも……と話を続けた。
「心配してくれたんだよね。ありがとう。これからは気を付けるわ」
「うん。そうした方がいい」
「で、もう私達は知り合いよね?」
いたずらっ子のように黒目をくりくりとさせ、僕にニッと笑いかける。そして、帽子をかぶりながら、僕をまじまじと見ては小首を傾げた。
「わざわざ東京から人がいない海にきたの? 変わってるわね。……あ、私も人の事、言えないわ」
大人しそうな見た目とは裏腹にハキハキとした物言いにびっくりしつつも、アハハハと口を開けて笑う彼女が可愛く見えて、僕の胸がドクンと跳ねた。
「……人混み、嫌いだからさ。夏の終わりの閑散とした海って好きなんだ」
僕は視線を逸らし、質問に答える。
「私も!」
同志を見つけた喜びなのか彼女は身を乗り出し、僕の腕をガシッと掴んだ。興奮した様子で頬を上気させ、目を輝かせる。
「シーズンが去った海なんて何が面白いの?って皆は言うけど、この雰囲気が好きなの! すっごくわかる!」
嬉しそうな彼女の澄んだ瞳は宝石に勝るとも劣らない美しさで、僕は身体にビリッと電気が走ったような衝撃を受けた。
雪のように儚げで消えそうだ……なんて思ったけど、とんでもない。
コロコロ変わる豊かな表情、煌めく瞳、輝く笑顔。どこをとっても、生命力が溢れてる。なんていきいきしているんだ。
一目惚れなんてあり得ないと、小説や漫画を笑っていた僕だったけど……
今、まさに僕は一目惚れをしたのかも……しれない。
「ねぇ、名前は?」
「慎一、江夏慎一。君は?」
「ゆき……ゆきっていうの」
「ゆき? 空から降ってくる?」
「ううん、えっとね……」
隣に座った彼女は右手の人差し指を使い、浜の真砂に幸せと書いた。せの文字だけササッと払って消し、ふふっと笑う。
「幸せの幸って漢字で幸って読むの」
僕は胸に幸という名前をゆっくり刻んだ。
「素敵な名前だね」
「でしょ? ねぇ何歳?」
「18」
「大学生?」
「うん」
「どこの大学?」
「東立大」
「わっ、すごい。頭のいいとこだ」
「それほどでも」
「大学って楽しい?」
興味津々な様子で矢継ぎ早に聞いてくる幸に、僕は苦笑しながら答える。
「うーん、どうかな。勉強するところだからね。君……えっと、幸さんは何歳?」
「私? 16」
「じゃあ、高校生だ。がっ」
「ねぇ、慎一君は旅行できたの?」
学校は?と言いかけたのと同時に幸が顔を覗き込んだ。いきなりの幸のドアップに僕は面食らい顔を背ける。
「う、うん……3日間だけ」
「私も3日間だけなんだ!」
楽しそうな彼女に、学校は?なんて野暮かな……と思い直し、僕は話題を変えた。
「幸さんは」
「幸でいいよ。年下だし」
「幸……ちゃんは」
「ゆ、き!」
女の子を呼び捨てで呼ぶ事に少し躊躇ってしまう。幸の瞳から頑として譲らない強い意志を感じ、諦めた僕は、小声で彼女の名前を口にした。
「……幸も……旅行?」
「そんなとこかな。海がね、見たかったの」
遠くを眺め、なぜか物憂げな色を瞳に覗かせる幸だったが、すぐに僕に向き直り、ヘヘと笑った。
「駄々こねちゃった」
「駄々?」
「うん、駄々」
再び憂いを帯びた空気に包まれた幸に、あれこれ聞くのはなんだか憚られ、僕も口を閉ざす。
「波の音って好き。落ち着くの」
「ああ、わかる」
しばらく続いた沈黙を破り、ボソリと呟いた幸の言葉に同意し、僕は話を続ける。
「波の音を聞くと脳からα波を出て、リラックス効果があるんだって」
「凄い! 慎一君、物知りなのね」
幸は目をまん丸くし、好奇心でいっぱいの顔をした。ちょっと聞いた程度の知識を何気なく披露しただけなのに、尊敬の眼差しで見られてしまった事に照れくさくなってしまう。
「だから波の音は落ち着くのね」
「雨音や川のせせらぎなんかもリラックス効果があるんだってて、テレビで言ってたよ」
「へぇ! たしかに落ち着くかも。でも、波の音が一番好き」
「僕も」
優しげな波の音を聞きながら、僕たちは顔を見合わせクスリと笑った。
「α波のせいかな。今日はいつもより喋ってるの」
「本当に?」
冗談めかしに言うと、幸はむぅと小さくて可愛らしい唇を尖らせ、必死に反論をする。
「本当よ! いつもはもっと暗いんだから!」
普段は暗いと威張られても……そのユニークな発想に僕は我慢できなくなり、声を上げて笑った。
「慎一君の意地悪! …………あ、見て! 天使の梯子」
斜め上の空を幸は指差す。
笑うのを止めて、幸の人差し指の先に視線を移すと、厚い雲の切れ間から放射状に伸びる太陽光の柱が現れていた。
その幻想的な光景に僕はへぇ……と感嘆の声を漏らす。
「天使の梯子。天使が舞い降りる梯子なの」
幸は白い帽子を押さえながら、無邪気に笑った。
君が僕のもとに舞い降りてきた天使なんじゃ……
そんな気障な台詞が口から出そうになり、僕は慌てて口を閉じる。
「天使の梯子を見るとね、幸せになるんだって! 慎一君、幸せになれるよ!」
「一緒に見られたから、幸も幸せになれるでしょう?」
僕の言葉にハッとした表情で俯く幸。
「幸? どうしたの?」
顔を上げ、幸は笑顔を作る。
「ううん。もう帰らなきゃ。今日、楽しかった!」
「あ、連絡先……」
僕は急いでスマホを取り出した。
「私、スマホとか持ってないの」
幸は、少し申し訳なさそうに目を伏せながら言う。
「え、今どき?」
驚いた僕が聞き返すと、幸はふわりと笑った。風で帽子のつばが揺れる。
「うん。今どき。昔は持ってたんだけどね、やめちゃったの。ほら、今ってずっと誰かと繋がってる時代でしょ。誰とでもすぐ連絡取れて、すぐ写真送れて、今どこにいるかもわかっちゃう」
「……便利だと思うけど」
「うん、でもね……私は誰とも繋がっていたくないんだ」
僕が高校生の時は、ほぼみんなスマホを持っていた。まぁ、だからと言って、持っていない子がいてもおかしくない。おかしくない……けど。
『誰とも繋がっていたくないんだ』
幸の言葉が、なぜか僕の心に引っ掛かった。
「じゃあ、明日。明日も会えない? 今日と同じくらいの時間に」
ここで縁が切れてしまうのだけは避けたくて、慌てて誘いの言葉を口にする。彼女は一瞬目を泳がせ、戸惑いを見せたが、すぐに嬉しそうに笑う。
「うん」
もし天使がいるのなら、こんな笑みを湛えるのかもと思わせるほどの綺麗な幸の微笑みだった。
「じゃあね」
「じゃあね」
僕に背を向け、リズミカルな足取りで帰る彼女の背中から白い羽が生えている幻覚が見え、僕は目をこすった。
トントントンと軽やかに歩き、そのまま羽を広げて飛び立ってしまうのではないかと僕は息を飲む。すでに遠くを歩いている彼女に思わず右手を伸ばした。
彼女がどこかに行ってしまいそうな不安が、僕の心に1滴落ちた。
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