夏の終わり、波の音、僕は天使に恋をした

桜乃

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3日目

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「お世話になりました」
「大丈夫ですか? 随分、疲れているような……お気をつけて」

 次の日の朝。心配そうな女将さんにペコリとお辞儀をした僕は、あの浜辺にふらふらと向かう。

 昨夜は一睡もできず、枕に顔を埋め、声を殺して泣き続けた。

 せっかく出会ったのに。一目で恋に落ちたのに。あんなに楽しそうなのに。あんなに笑うのに。あんなに喋るのに。

 もうすぐ……いなくなるなんて。

 目に涙が滲む。泣いても泣いても枯れない涙に僕は自嘲気味に笑った。

 幸は僕の何百、何千倍も涙を流したに違いない。僕なんかの涙が枯れるわけない。

 浜辺に着いた僕は、昨日と同じ場所に座った。

 一昨日も昨日も今日も、なんら変わっていない景色のはずなのに、海が全然、目に入ってこない。

 何時間も僕は波の音を聞きながら、ただ海を眺め続けていた。

 ふと顔を上げると、空から天使の梯子が降りている。

 幸せになれるなんて……嘘だ。嘘じゃないか。

「やっぱり、慎一君は幸せになれるわ!」

 僕の前でにっこり笑う幸の姿に驚き、思わず立ち上がった。

「幸!! 大丈夫なの!?」
「へへ。今日はね、調子がいいの。帰る前に少しだけ我儘わがまま言っちゃった」

 左隣りにペタンと座り、僕の洋服の裾をクイッと引っ張る。

「座ろ」

 言われるがまま僕も座り、幸と同じ景色を見つめた。

「あのさ……東京に帰っても会えない?」

 幸は切なさそうな表情で首を左右に振る。

「好きな人に弱っていく自分、見られたくない。慎一君の記憶の中だけは笑顔でいたいんだ」
「じゃ、じゃあ、これ。僕の住所と電話番号。なにかあったら」

 僕が手持ちのメモ帳に住所を書き始めるのを幸は止めた。

「ごめん。それもらっちゃうと、私、甘えちゃう」
「甘えればいいよ」
「甘えちゃったら、私、今よりもっと生きたくなる。もっともっと生きて、慎一君の傍にいたくなる」

 泣きそうな幸の声が辛くて、僕はペンを持つ手を止める。

 連絡先は渡さない。それは、幸が望むことだから。幸が、それを望んでいるから。

 僕はメモ帳をぎゅっと強く握りしめた。

「ずっと好きでいさせてくれるだけで、いいの。桜貝、大切にするね。もし、慎一君が私を思い出す事があるのなら、約束して。私の笑顔だけ思い出して」

 彼女の願いに小さく頷き、もうそれ以上は言葉にできなかった。

 苦しい時、傍にいてあげられない辛さ。自分の不甲斐なさが悔しくてたまらない。でも、それ以上に僕は幸の意思を尊重したかった。

 沈黙が続く。

 規則的に聞こえる波の音。
 天使の梯子はいつの間にか消え、雲は茜色に染まっていた。
 
 永遠の別れが刻々と僕らに近づく。今、言葉を口にすると、更に時が進んでしまいそうで怖かった。ただただ苦しくて、切なくて、胸の痛みに耐えながら、僕らは黙って海を見ていた。

 彼女はそっと僕の左手に触れ、指を絡める。

 こんなに傍にいるのに。触れられるくらい傍にいるのに。

 あどけなさが残る瞳を見つめ、彼女の柔らかい頬に手を添えた。ゆっくりと顔を寄せ、彼女の唇に唇を重ねる。

「じゃあね……」

 とうとう彼女が口にしてしまった言葉に僕は目をつむり、小さく息を吐き、覚悟を決めた。

「うん、じゃあね」

 彼女は立ち上がり、僕に向かって、とびっきりの笑顔を見せる。

「じゃあね!」
「じゃあね」

 僕も穏やかな笑みで、彼女を見つめた。

「じゃあね!!」

 涙を隠そうと我慢している君の声は震えている。

「じゃあね」

 僕の声も震えている。

 僕達はお互い気づかない振りをした。

「じゃあ、ね」
「うん、じゃあ、ね」



 今、僕達の、夏が終わる。



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