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第七章
第222話 息子の特権
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初めてサルサムがニルヴァーレと顔を合わせたのは家業由来の依頼を受けた際で、その頃から屋敷には家事全般を受け持っている女性が居たという。
いわば男主人に侍女がついているのは珍しいなと当時は思ったそうだが、ニルヴァーレの人となりを知るにつれサルサムは納得した。
人手不足という理由の他に、彼は身近に置く人間を限りなく厳選しており、屋敷に仕えているのはその女性のみだったのである。
――そんな彼女も『人間』ではなかったわけだが、それがわかるのは数年後の話だ。
「情人ってわけでもなさそうだし、なんで彼女一人を侍女に据えたんだって疑問はあったけどな。ビジネスパートナーにそこまで突っ込んだことを訊く気は初めからなかったから、途中から気にもならなくなった」
「えー、俺はめちゃくちゃ気になったから出会ったその日にフリーか訊いたぞ」
「こいつ……雇い主の侍女口説いたのか……」
本気で引いた様子でサルサムは口元を引き攣らせる。
バルドは「だって美人だったし……今は静夏一筋だけどな!」と微妙に斜め上のフォローをして快活に笑った。
その頃のワイバーンは黒髪に赤い目を持つ楚々としながらも怜悧な印象を受ける姿をしており、二十代の女性の姿だったという。彼女は自分について一切話さず、仕事でも口数が少ないため声を聞かない日もあった。
しかし会話をしようと思えば出来、それはワイバーンが人間の言葉を理解し話すことができるということを指していた。
彼女はてきぱきと仕事をし、対応はシビアに思えたが――どうやら庭園の紫色のバラは好きだったようで、時折愛でていたとサルサムは言う。
「それ以外は特に交流はなかったな、そっちは?」
「隙あらば口説いてたけど最初にナイフで抉るようなスーパークールな対応されてから無視されてた」
「たまに呆れながら尊敬するってわけわからない体験させてくれるよなお前」
詳しい人となりを知れるほどの情報はなかったが、なるほど、と伊織は思った。
契約の効果はあったかもしれないが、仕事に真っ直ぐで口説いてくる男に冷たく当たり、しかし花を愛でる心はあった。ワイバーンはきちんと人格のある存在だったのである。
なら、そんな者に付けるべき名とは何か。
人格を持ち、召喚されたワイバーンでありながら一個人として生きていた彼女に付けるべきもの。
「……」
伊織は揺れる湯を見つめてしばし黙り込んだ後、そこから視線をスライドさせるようにバルドを見て言った。
「――あと一つだけ訊いてもいいかな?」
***
不足品のリストアップも終わり、各々入浴の準備を始めた女性陣を傍目に、ヨルシャミはウサウミウシの両耳を摘まんでどこまで伸びるか試していた。要するに暇なのである。
しかし想像以上に伸びて驚きの声が漏れた。
「な、なんと……ウサウミウシよ、これは縄跳びできるのではないか……?」
種族としてのウサウミウシは条件を満たせば強い警戒心を抱く生物のようだ。敵と見做せば果敢に威嚇する。
しかし伊織にテイムされて以来、パーティー内で食っては寝るを繰り返していたせいだろうか。今はだらだらに隙だらけだった。耳をこれでもかと伸ばされてもまったく動じていない。
それでも未だミュゲイラにだけ威嚇するのは恐らく髪色のせいだろう。
ネコウモリに警戒心を抱いていたように、自分に似た色のものは同族もしくは同じ世界出身の生き物に見えるのかもしれない、とヨルシャミは予想する。
ひとしきり伸ばした後、ヨルシャミがぱっと手を離すと伸びた耳は一瞬で元の形状にするすると戻っていった。
巻き尺だ……という感想を抱いたところで襖が開き、温泉から戻った伊織たちが入ってくる。真っ先に静夏が笑顔で迎えた。
「おかえり、ゆっくりできただろうか」
「うん! なんかもうマジで温泉宿って感じだったから期待していいと思うぞ、母さん……!」
「ほう、それは楽しみだ」
嬉しそうな母の顔に伊織も笑顔でこくこくと頷く。
そんな様子を密かに見つめながらヨルシャミも口元を緩めた。
(シズカと接している時は少し子供っぽいのが何とも……うむ、可愛らしいな、うむ)
口には出さないが本心である。
ややはしゃいだ様子の伊織だったが、その頭にばさりとタオルが掛けられ素っ頓狂な声を上げた。タオルを被せた犯人であるバルドが笑いながらわしわしと頭を拭く。
「伊織、拭きが甘いから雫が落ちてたぞー」
「っえ!? うわ、それはありがとう……っだけどその! 拭き方がパワフルすぎな……あれ!? なのに上手い!?」
「頭拭きのバルドといえば俺のことよ!」
なんだそれ、と言いつつも大人しく拭かれている伊織を見て、ヨルシャミはウサウミウシをひと撫でしてから二人の元へ向かった。
そして自然と湧いてきた感想を口にする。
「前々から言おうと思っていたが、お前たち……まるで父子のようだな」
きょとんとした伊織はそういえば最初に会った時に父さん呼びして撹乱して逃げようとしたな……と呟いた。
なんだそれは詳しく聞かせろ、とヨルシャミが食い下がりかけたところでサルサムが小さく笑う。
「記憶喪失なだけで息子がいたかもしれないだろ、って前に言ったことがあるんだが、こいつ本人がガキっぽいわりに子供の扱いに慣れてるし本当にありえるかもしれないな」
子供の扱い、の『子供』として指された伊織は複雑げな顔をしていたが、可能性は否定しなかった。
記憶喪失ならどんな可能性でも一通りあるものだ。
故に否定はできない。そうヨルシャミも思う。
ふとバルドが無言なことに気がついてヨルシャミはそちらを見たが、表情を窺う頃にはバルドは人好きのする笑みを浮かべていた。
「いやぁ、それって静夏と夫婦みたいってことだろー? 照れるなぁ!」
「……! ハイハイ! あたしも頭拭いてやるよ、ほらイオリこっち来い!」
「う、うわー! ミュゲイラさんの拭き方ッ……マジで暴風域のそれなんだけどッ……!」
「ミュゲイラ! イオリの頭がもげる!」
あまりにもヤンチャで元気溢るる拭き方に、ヨルシャミは思わず伊織を引き寄せて保護した。
頭がもげるというのも自然と湧いてきた感想である。
そしてヨルシャミはハッとする。夢の外にしては少し接触が過度だが――今なら許されるだろう。恐らく。多分。不安だが助けないわけにもいかない。それほどまでに暴風の如き拭き方だった。
残念そうにしているミュゲイラの肩を静夏がぽんぽんと叩く。
「何を競っているのかはよくわからないが……ミュゲ、ならば後で私の頭を拭いてもらえるか?」
「はひ!? ぇあ、ももももちろんっす! いやむしろやらせてください!」
「ああ、宜しく頼む」
やったー! とまさに跳ねながらミュゲイラは他の女性陣と連れ立って廊下へと出て行き、それを見送ったヨルシャミは一息ついた。なかなかに騒がしい。
すると腕の中で伊織がぼそぼそと言った。
「ヨルシャミ、その……ワイバーンについて話したいんだ。今夜辺り夢路魔法を使ってもらってもいいかな?」
「む? 名前が決まったのか? わかった、では今夜な」
「うん、ありがとう」
激しく拭かれて普段よりもボサボサになった伊織の髪を整えつつヨルシャミは頷く。
夢路魔法はどこでも使えるが、この宿なら安心して夢の中でもリラックスできるだろう。考え事や話し合いにはうってつけだ。
そう思っているとバルドがヨルシャミたちを見てにやりと笑った。
そうだ、距離感が近い。
油断したとヨルシャミは後悔したが、バルドは何も言ってこなかった――代わりに、親指をビッと立ててきたため結局ヨルシャミは後悔しながら伊織から体を離したのだった。
いわば男主人に侍女がついているのは珍しいなと当時は思ったそうだが、ニルヴァーレの人となりを知るにつれサルサムは納得した。
人手不足という理由の他に、彼は身近に置く人間を限りなく厳選しており、屋敷に仕えているのはその女性のみだったのである。
――そんな彼女も『人間』ではなかったわけだが、それがわかるのは数年後の話だ。
「情人ってわけでもなさそうだし、なんで彼女一人を侍女に据えたんだって疑問はあったけどな。ビジネスパートナーにそこまで突っ込んだことを訊く気は初めからなかったから、途中から気にもならなくなった」
「えー、俺はめちゃくちゃ気になったから出会ったその日にフリーか訊いたぞ」
「こいつ……雇い主の侍女口説いたのか……」
本気で引いた様子でサルサムは口元を引き攣らせる。
バルドは「だって美人だったし……今は静夏一筋だけどな!」と微妙に斜め上のフォローをして快活に笑った。
その頃のワイバーンは黒髪に赤い目を持つ楚々としながらも怜悧な印象を受ける姿をしており、二十代の女性の姿だったという。彼女は自分について一切話さず、仕事でも口数が少ないため声を聞かない日もあった。
しかし会話をしようと思えば出来、それはワイバーンが人間の言葉を理解し話すことができるということを指していた。
彼女はてきぱきと仕事をし、対応はシビアに思えたが――どうやら庭園の紫色のバラは好きだったようで、時折愛でていたとサルサムは言う。
「それ以外は特に交流はなかったな、そっちは?」
「隙あらば口説いてたけど最初にナイフで抉るようなスーパークールな対応されてから無視されてた」
「たまに呆れながら尊敬するってわけわからない体験させてくれるよなお前」
詳しい人となりを知れるほどの情報はなかったが、なるほど、と伊織は思った。
契約の効果はあったかもしれないが、仕事に真っ直ぐで口説いてくる男に冷たく当たり、しかし花を愛でる心はあった。ワイバーンはきちんと人格のある存在だったのである。
なら、そんな者に付けるべき名とは何か。
人格を持ち、召喚されたワイバーンでありながら一個人として生きていた彼女に付けるべきもの。
「……」
伊織は揺れる湯を見つめてしばし黙り込んだ後、そこから視線をスライドさせるようにバルドを見て言った。
「――あと一つだけ訊いてもいいかな?」
***
不足品のリストアップも終わり、各々入浴の準備を始めた女性陣を傍目に、ヨルシャミはウサウミウシの両耳を摘まんでどこまで伸びるか試していた。要するに暇なのである。
しかし想像以上に伸びて驚きの声が漏れた。
「な、なんと……ウサウミウシよ、これは縄跳びできるのではないか……?」
種族としてのウサウミウシは条件を満たせば強い警戒心を抱く生物のようだ。敵と見做せば果敢に威嚇する。
しかし伊織にテイムされて以来、パーティー内で食っては寝るを繰り返していたせいだろうか。今はだらだらに隙だらけだった。耳をこれでもかと伸ばされてもまったく動じていない。
それでも未だミュゲイラにだけ威嚇するのは恐らく髪色のせいだろう。
ネコウモリに警戒心を抱いていたように、自分に似た色のものは同族もしくは同じ世界出身の生き物に見えるのかもしれない、とヨルシャミは予想する。
ひとしきり伸ばした後、ヨルシャミがぱっと手を離すと伸びた耳は一瞬で元の形状にするすると戻っていった。
巻き尺だ……という感想を抱いたところで襖が開き、温泉から戻った伊織たちが入ってくる。真っ先に静夏が笑顔で迎えた。
「おかえり、ゆっくりできただろうか」
「うん! なんかもうマジで温泉宿って感じだったから期待していいと思うぞ、母さん……!」
「ほう、それは楽しみだ」
嬉しそうな母の顔に伊織も笑顔でこくこくと頷く。
そんな様子を密かに見つめながらヨルシャミも口元を緩めた。
(シズカと接している時は少し子供っぽいのが何とも……うむ、可愛らしいな、うむ)
口には出さないが本心である。
ややはしゃいだ様子の伊織だったが、その頭にばさりとタオルが掛けられ素っ頓狂な声を上げた。タオルを被せた犯人であるバルドが笑いながらわしわしと頭を拭く。
「伊織、拭きが甘いから雫が落ちてたぞー」
「っえ!? うわ、それはありがとう……っだけどその! 拭き方がパワフルすぎな……あれ!? なのに上手い!?」
「頭拭きのバルドといえば俺のことよ!」
なんだそれ、と言いつつも大人しく拭かれている伊織を見て、ヨルシャミはウサウミウシをひと撫でしてから二人の元へ向かった。
そして自然と湧いてきた感想を口にする。
「前々から言おうと思っていたが、お前たち……まるで父子のようだな」
きょとんとした伊織はそういえば最初に会った時に父さん呼びして撹乱して逃げようとしたな……と呟いた。
なんだそれは詳しく聞かせろ、とヨルシャミが食い下がりかけたところでサルサムが小さく笑う。
「記憶喪失なだけで息子がいたかもしれないだろ、って前に言ったことがあるんだが、こいつ本人がガキっぽいわりに子供の扱いに慣れてるし本当にありえるかもしれないな」
子供の扱い、の『子供』として指された伊織は複雑げな顔をしていたが、可能性は否定しなかった。
記憶喪失ならどんな可能性でも一通りあるものだ。
故に否定はできない。そうヨルシャミも思う。
ふとバルドが無言なことに気がついてヨルシャミはそちらを見たが、表情を窺う頃にはバルドは人好きのする笑みを浮かべていた。
「いやぁ、それって静夏と夫婦みたいってことだろー? 照れるなぁ!」
「……! ハイハイ! あたしも頭拭いてやるよ、ほらイオリこっち来い!」
「う、うわー! ミュゲイラさんの拭き方ッ……マジで暴風域のそれなんだけどッ……!」
「ミュゲイラ! イオリの頭がもげる!」
あまりにもヤンチャで元気溢るる拭き方に、ヨルシャミは思わず伊織を引き寄せて保護した。
頭がもげるというのも自然と湧いてきた感想である。
そしてヨルシャミはハッとする。夢の外にしては少し接触が過度だが――今なら許されるだろう。恐らく。多分。不安だが助けないわけにもいかない。それほどまでに暴風の如き拭き方だった。
残念そうにしているミュゲイラの肩を静夏がぽんぽんと叩く。
「何を競っているのかはよくわからないが……ミュゲ、ならば後で私の頭を拭いてもらえるか?」
「はひ!? ぇあ、ももももちろんっす! いやむしろやらせてください!」
「ああ、宜しく頼む」
やったー! とまさに跳ねながらミュゲイラは他の女性陣と連れ立って廊下へと出て行き、それを見送ったヨルシャミは一息ついた。なかなかに騒がしい。
すると腕の中で伊織がぼそぼそと言った。
「ヨルシャミ、その……ワイバーンについて話したいんだ。今夜辺り夢路魔法を使ってもらってもいいかな?」
「む? 名前が決まったのか? わかった、では今夜な」
「うん、ありがとう」
激しく拭かれて普段よりもボサボサになった伊織の髪を整えつつヨルシャミは頷く。
夢路魔法はどこでも使えるが、この宿なら安心して夢の中でもリラックスできるだろう。考え事や話し合いにはうってつけだ。
そう思っているとバルドがヨルシャミたちを見てにやりと笑った。
そうだ、距離感が近い。
油断したとヨルシャミは後悔したが、バルドは何も言ってこなかった――代わりに、親指をビッと立ててきたため結局ヨルシャミは後悔しながら伊織から体を離したのだった。
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