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 最近のフヨウは午前中の読み書きの学習を終えると、森を散策する。
 適度な運動は成長を促すということで、セインに勧められたのだ。背が低いことを気にしていたフヨウは、少しでも背が伸びればいいと思いながら森を歩く。
 セインはとても真面目な人で、栗色の髪の毛をいつもきっちりと整え、どんな時でも背筋を伸ばして立っている。ネクタイや襟が歪んでいることなど一度もないし、シャツにシワが入っていることもない。それくらい真面目な人だ。
 そして、少しばかり厳しい。食事のマナーや普段の生活態度を指導してくれるのだが、できるようになるまで何度もやり直しをさせられる。けれど、出来ないからと言って怒鳴ったり叩いたりはしないし、出来た時は褒めてくれるので、怖い人ではないとフヨウは分かっていた。
 ここでは、苦手に思っていた人との会話が上手くできる。セインだけではなく、アリスンもメガンもフヨウの拙い言葉を、根気強く聞いてくれるからだ。アラスターも焦らなくていいと言ってくれた。
 全く自分に自信のなかったフヨウだったけれど、最近は少しだけ普通に出来ているのではないかと思うようになっていた。
 
 鳥の囀りに耳を傾けながら、フヨウはレンガで舗装された歩道を歩く。
 屋敷の外にさえ出なければ、どこにいても安全だ。そう言われていた。
 すっかり気を抜いていたフヨウの肩が、突然強い力で掴まれる。

 「おい! 君、待ってくれないか! 君は一体……!」

 ぐいと無理やり体の向きを変えさせられたフヨウの目の前には、体の大きな男がいた。
 両肩を掴まれたフヨウは、恐怖にひゅっと息を飲む。助けを呼ぼうとしたけれど、喉が強張って声が出ない。頭の中で耳障りな警鐘が鳴り響き、心臓が壊れるのではないかと思うほど激しく打ち付ける。体がガクガクと震え、呼吸が乱れ息が苦しい。

 _怖い! 怖い! 怖い!_

 あの日の光景が、脳裏に蘇る。
 男たちの手がフヨウの体を抑え付けて、服を引き裂く。逃げようともがけば、容赦無く蹴られる腹や背中。痛みに呻き、動けなくなったフヨウに、男たちが次々とのしかかってくる。
 体を暴かれた時の強い恐怖が、フヨウの全身を支配した。

 「……ぁっ! や…… た、助け………」

 「フヨウ!」

 恐怖に混乱したフヨウが、意識を失いそうになる直前、ペパーミントの香りが強く漂ったかと思うと、覚えのある温もりに背後から強く抱きしめられた。フヨウは自分の体をしっかりと抱きしめている腕に、夢中で縋り付く。

 「ア、アル……、アル!」

 「大丈夫だ、フヨウ。俺がいる。もう大丈夫。落ち着いて、ゆっくり呼吸をしろ、」

 「や、やだ、も、僕、やだ……痛いのは、やだ」

 喉を引きつらせながら、ぼろぼろと涙を落とす。

 「大丈夫だ、大丈夫」

 アラスターは涙でしとどに濡れたフヨウの頰に、宥めるように唇を寄せた。アラスターに抱きしめられたことで、なんとか落ち着きを取り戻したフヨウは、膝から力が抜けてしまった。それでも、心臓はまだ激しく打っている。

 「セイン、フヨウを部屋に」

 「……フヨウさま、どうかこちらに」

 いつのまにセインが来たのか、差し出された手にまだ震える腕を伸ばせば、セインはフヨウをすっと横抱きにする。ふわっと浮き上がったような感覚の後は、記憶が曖昧だ。
 恐怖が強すぎたのか、フヨウの意識はぼんやりとしていて、気がつけば寝室のベッドに横になっていた。心配そうな顔をしたアリスンとメガンが代わる代わる様子を伺いに来る。

 「フヨウ様、お加減はいかがですか? どこかよろしくないところはございますか?」

 「何か飲み物をお持ち致しましましょうか?」

 「あ、ありがとう。大丈夫……心配かけてごめんなさい」

 「いいのですよ、フヨウ様」

 「少し、おやすみになった方がいいですわ」

 二人は部屋のカーテンを下ろすと、静かに部屋を出て行った。
 フヨウは薄暗くなった部屋で、まだ騒がしい心臓をなんとか落ち着けようと、アラスターに言われた通り、ゆっくり呼吸を繰り返しながら、そっと耳のピアスに指を触れる。

 _本当に、来てくれた……_

 ピアスをつけてもらった時に、何かあれば、どこにいてもすぐに駆けつけると言ったアラスターの言葉は本当だった。
 恐怖で声も出せなかったフヨウの危機に、アラスターはすぐに来てくれた。ジワリと嬉しさと安堵が滲む。
 それと同時に、こんなにもパニックを起こした自分に情けなくなる。相手が大きな男というだけで、頭が恐怖で一杯になって体が動かなくなってしまったのだ。
 フヨウは寝具の中で体を丸めて、強く目を閉じる。此処で暮らすようになって、ひと月が過ぎようとしている。男たちに乱暴されたのは、もう随分前の事だ。記憶の奥に追いやっていたはずなのに、さっきの男を見ただけで、あの日のことが一瞬で蘇ってきた。
 繰り返しやってくる恐ろしさに、落ち着いていたフヨウの体が再び震えだす。

 「フヨウ、大丈夫か」

 寝具の上から、そっと体を撫でられる。
 アラスターだ。フヨウを心配してきてくれたのだ。ほっと安堵の息を吐きながら、フヨウは寝具から顔を出すと体を起こした。

 「あの男に、何かされたか?」

 首を振って否と答える。何もされていない。何もされていないのに、フヨウはあんなに怯えてしまったのだ。情けなさに、じわりと涙がにじむ。少しでも普通に出来ていると思っていたけれど、やはり何も変わってはいなかった。
 一体いつまで、体の大きな男に怯え続けなければいけないのかと思うと、これから先の自分が不安になる。

 「……フヨウ、一体何が怖かったんだ?」

 「お、男の人……体の大きな……」

 「以前に何かされたのか?」

 「お……、襲われ、た……」

 「何があったか、話せるか?」

 優しい声で尋ねられ、フヨウはこれまでのことをポツリポツリと打ち明けた。
 体育倉庫に閉じ込められていたはずが、いつのまにか知らない場所にいたこと。男たちに乱暴されて、奴隷商人に引き渡されたこと。リアムが路地から連れ出してくれたこと。
 話しながら、体が震えて仕方なかった。それでも、ここで全てを打ち明けてしまえば、この怖さが少しでも薄れるような気がしたのだ。
 アラスターはフヨウの話を最後まで聞くと、よく頑張ったと言って優しく抱きしめた。あやすように背中をゆっくりと、撫で摩ってくれる。
 恐ろしさと、情けなさと、心の中がぐちゃぐちゃだった。
 それでも、フヨウはぐっと涙を飲み込もうとした。
 セインが厳しく色々なことを教えてくれるのは、フヨウがいつまでもここで守られて居ていい立場ではないからだ。施設でもそうだった。ある程度の年齢になれば、施設を出て自分で生活しなければならない。
 ここはフヨウの全く知らない世界だ。この何も知らない場所で放り出されてしまったら、また恐ろしい目にあうのではないか。そう思うと、不安で嗚咽がこみ上げる。

 「フヨウ、何も心配することはない。俺がそばにいる」

 優しい抱擁に、フヨウの涙は堪えても堪えても溢れ出た。

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