【完結】致死量の愛を飲みほして【続編完結】

藤香いつき

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Chap.2 ちいさなアリス

Chap.2 Sec.8

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 ティアが向かった先はシャワールームだった。ちょうど寝室でイシャンとすれ違い、ふたりは言葉を交わしていたが、聞き取れなかった。けれど、シャワールームにたどり着いたので予想がつく。やはりシャワーに入るよう勧められていたのだ。そしてティアは、洋服の着脱が私ひとりでは困難だから、手伝うために来てくれたのではないか。

「うしろ、向いてくれる?」

 ティアが長い指先をくるりと回す。私は背中を見せた。ティアが背中に触れて、ワンピースが緩んでいくのがわかる。あっさり後ろを向いておきながらなんだが、毎回誰かに手伝ってもらう必要があるのは厄介ではないだろうか。なにか工夫できないだろうか。

 そんなことを考えていると、ティアの手が肩に触れた。布越しではなく、素肌に直接、ひんやりとした手が当たる。
 どきりとして距離をとった。振り返ると、ティアは変わらず、微笑んだまま。

「ん? 自分で脱ぎたいの? ……いいよ、どうぞ」

 ティアが両手を上げた。お手上げ、のポーズにも見える。くるりと私に背を向けた。

「見えないように後ろを向いておくね。どうせ見るんだけど……アリスちゃんの心の準備とか、あるかも知れないしね?」

 よどみなく何かを話しているが、背中だけでは分からない。ひとまずシャワールームに入ることを優先しようと思い、服を脱いで裸になった。服は床にたたんで置いておく。ティアに告げるべきか迷ったが、ドアが閉まれば入室したことは分かってもらえるだろうし、黙って閉めるボタンを押した。そういえば、これは鍵を掛けられないのだろうか。

 ドア付近のボタンを見ていると、それらしい錠前のマークがあった。トイレを使う際にも思ったが、どの電化製品も一目で用途が分かるような仕様になっているし、あたりまえの動作は自動的だ。彼らはよく話しかけているから、声でも反応するのだろう。

 ところで、これは鍵を掛けてもいいのだろうか。この錠前のマークを押せば、ドアがロックされる気がする。まさか頭上から危険な物が降ってくるとか、そういう突拍子もないボタンではないだろうし。とりあえず押してみようか。そもそもの問題で、勝手に鍵を掛けてしまってもいいのかどうか。

 悩んでいると、ドアがするりと開いた。何も押していないのに。

『え』「ん?」

 口の中だけでもれた私の声に、別の声でクエスチョンマークが重なった。目の前、まっさらな石膏像のような裸体が。びっくりして顔をあげると、ティアのすみれ色の眼が私を見ていた。目が合う。にっこりとしてドアを閉め、次いでこちらに手を伸ばし、私の目前にあった錠前のマークに触れた。

「そうだね、ここでロックできるね」

 ティアの指先が離れ、錠前の絵が緑に光る。はずれていた錠前のマークが、きちんと締まったマークに切り替わった。

「僕を入れたくなかったのかな? それなら……押すのがすこし、遅かったね」

 近づいたティアの唇が、耳許でささやいた。長い白金の髪がすぐそばで、さらさらと流れていく。なにが起こっているのか。なぜ彼が入ってきたのか。どうして裸なのか。

『あのっ……私、ひとりで洗えます』

 絞りだすように出したセリフは、答えとして正しいのだろうか。この世界では身体を洗ってあげるのが普通なのかと。そんな考えが昨日は浮かんでいたが、観察していたところ誰もが個人でシャワーを浴びていた。昨日のセトは、おそらく使い方を説明してくれたのだ。後半は(私が最大値のシャワーで攻撃してしまったあとは)放置され、結局自分で洗ったのだからその結論で間違っていないと思う。

「うん? なにか訴えてるの?」

 恥ずかしくて身体を隠そうとしたところ、両の手首を、しなやかな指に掴まれた。そのまま顔の横まで持ち上げられ、左右に開かれる。うまく抵抗できない。見た目からは分からないけれど、やはり性別が違うからか力では勝てそうにもない。

「恥ずかしがらないでよ。きみ、いちおう娼婦の設定でしょ?」

 動揺する私に、弧をえがく唇が、何かをつぶやいている。ジェスチャーがないだけで、ティアの言葉がまったく分からなくなった。
 このひとを、いま初めて、怖いと感じる。

 心に恐怖が浮かんだ瞬間、ぱっと手が離れた。笑ったまま、ティアはシャワーのボタンを押して湯を浴び始めた。水を含んだ長い髪が薄いベージュに染まっていき、その濡れた髪を耳にかけて、あっけにとられている私を横目で見下ろし、

「大丈夫だよ。セト君と同じで、一緒にシャワーを浴びるだけ。何もしないよ?」

 シャワーを指さし、掌を下に向けて払うような動作をした。くすくすと笑っている。セトの名前が入っていたから、昨日のことをからかわれたのかも知れない。いたずらにしては悪質だ。こちらとしては笑い話になるような体験でもない。

 困惑する私に、ティアは唇だけで「今はまだ、ね」言葉をつなげた。
 私の髪を指ですくい上げ、

「髪、洗ってあげようか?」

 私は、彼の顔を見たまま、ずっと反応できずにいる。反対の手で髪を洗うジェスチャーをしたから、なんとなく理解はできたけれど——けれど、彼が何を考えているのか、分からない。

 あれほど穏やかで優しい印象を受けていた人なのに。意識的に視界にいれないようにしているが、いやでも分かる。体つきは思っていたよりもしっかりしていて、私よりもはるかに力があった。雰囲気が女性的とはいえ、女性ではないのだ。そう、彼は女性ではない。そしてその事実は、私の身体を例の対価としてということ。

 微笑んだままの彼の顔が、サクラのそれと重なる。

——皆が優しくしてくれるのは、お前が、身体で代償を払うからだろう?

 呪いの言葉が、記憶からあふれて、耳鳴りのように響いている。
 眼が熱い。いっそ泣いてしまえたらいいのに、それが無意味であると知っているからか、泣くに泣けない。なんのために、私はここにいるのだろう。

「……あれ? もしかして、僕のこと……嫌いになっちゃった?」

 無邪気な声でなにかを問う、美しい青年。その芝居がかった姿に、彼のことがよりいっそう分からなくなる。

「反応してくれないと分からないよ? 黙ったままなら……イエスってことでいい?」

 せっけんの泡が排出されるところに手を伸ばしたティアが、泡を拾って私の髪をなでる。慣れたようすで、私の髪を洗い始める。硬直したままの私を見て、ふいに、ばつが悪そうに眉尻を下げた。

「……ごめん。ちょっと意地悪だったかも」

 ティアの唇からため息がもれた。途端に、不穏な空気が霧散する。訳が分からないままの私に、彼はもう一度はっきりと、

「……ごめんね?」

 それが謝罪だと分かったのは、なぜだろう。元のやわらかな雰囲気をまとって、彼は困ったように眉を八の字にしたまま、私の顔を気遣うようにのぞき込んだ。

「怒ってる? ……というより、怖がらせちゃったみたいだね……」

 苦笑するその綺麗な顔には、もう先ほどのわざとらしさはない。

「もしかして、昨日の夜……セト君、乱暴だった? ……そういえば機嫌が悪かったよね……きみが、抵抗でもしたの? ……ごめんね。僕は、セト君と違ってちゃんと優しくするから……だから、そんなに怖がらないで」

 よしよしと頭をなでてくる掌越しに、ティアの人形のような顔を見上げた。温かな湯に当たったせいか、皮膚がうっすらと色付いている。その姿が、彼は人形ではなく人間なのだと安心させてくれる。心のない人形ではない、と。

 彼のことがわからない。そんなふうに戸惑ったが、そもそも出会ってわずかな時間しか経っていない。
 ときおり空気の変わる彼は、私で遊んでいるのか、それとも試しているのか。
 ——あるいは、まったく私に関係のない理由で、身にまとう雰囲気をかえている可能性だって、ある。

「……ね、もう気づいているとは思うけど……今夜、僕が君と寝るつもりなんだ。……いい?」

 ティアの細い指が、彼と私を交互にさした。そして、そのまま私の鎖骨の中心に、そっとその指先を当てる。
 その意味を理解して、答えるために、私はようやく口を開いた。

「……はい」

 はたして、肯定しか教えてもらっていない私に、選択肢なんてあるのだろうか。
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