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【臨界】
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まだ続いていると思った。
——違う。
聞こえるのはあの音じゃない。
かすれた自分の悲鳴だ。
目を開けた。
天井が見える。
私の家の天井だ。
呼吸をしようとすると、胸の奥が、ひくりと引きつる。
浅く、速く、喉が詰まったような呼吸が止まらない。頬に涙が流れていた。
布団に触れた指が、うまく動かない。
怖い。
震える手で自分の顔に触れる。
頬がある。額がある。
傷はない。血も出ていない。
戻っている。
分かっているのに体が理解してくれない。
痛みと恐怖がこびりついている。
頭に響く鈍い音。
顔の左側に走った激痛。
視界が歪み、何が起きているのか分からなくなった、あの時間。
思い出しているわけじゃない。
まだ体の中に残っているだけだ。
「朱音、早く起きなさい」
母の声がする。
「今日、卒業式なんだから」
朱音は返事ができなかった。
夕方になっても外には出なかった。
布団の中で、時間が過ぎるのを待つ。
廊下を踏む足音。
戸を開ける音、そして閉める音。
母が出かけるまで、耳を澄ませていた。
朱音は廊下に出た。
固定電話の前で立ち止まる。
壁に、黄ばんだ電話番号表が貼られている。
いちばん上に、駐在所の番号。
その下に、名字が並ぶ。
指先が、紙をなぞる。
——さ。
櫻井。
金槌の感触が脳裏に蘇る。
心臓が一拍跳ねる。
次の鼓動が、強い。
それでも、受話器を取る。
手が汗で滑った。
耳に当てると、かすかなノイズ。
数回の呼び出し音のあと、声がした。
『はい、櫻井です』
「……櫻井くん? 朱音です」
一瞬、間があった。
『朱音?』
「うん、私」
『大丈夫か。体調悪いって、母さんから——』
「言いたいことがあるの」
声は落ち着いていた。
「今日の祭りのあと、神社で会えない?」
耳元で、ノイズが響く。
『……分かった』
それだけ言って、通話は切れた。
夜。
外の空気が冷たい。
神社の方を見る。
提灯の明かりが見えた。
祭りのあとの静寂だけが残っている。
石段を上がると、鳥居の先に櫻井がいた。
「朱音」
駆け寄ってくる。
「大丈夫か。体調、悪いって聞いたけど」
「うん。もう平気」
笑ったつもりだが、早口になった。
「話ってなんだ?」
息を吸い込む。
「……奥で、話さない?」
櫻井は周囲を見回し、頷いた。
「裏、行くか。誰か来たら、面倒だし」
櫻井は社殿の脇へ向かい、開いていた木の扉を通った。
「まあ、みんなまだ、公民館だろうけど」
裏手は闇に沈んでいた。
日陰に溜まった、冷たい匂い。
黒くそびえ立つ杉の森が迫り、空気が重い。
そこに、小さな建屋のついた井戸があった。
脇で小さな灯火が揺れている。
櫻井は建屋の柱に寄り掛かった。
「で、話って?」
朱音は数歩離れたところに立つ。
逃げたい。
「……私」
声がうわずった。
「櫻井くんのことが、好き」
不意に、胸の奥がひどく静かになった。
櫻井が目を見開く。
「……え」
「好きなの」
近づく。
一歩、また一歩。
「だから……」
靴先が当たる。
吐息が白く揺れ、互いの唇を撫でる。
櫻井は戸惑ったように目を逸らし、半歩下がった。
「ちょ、ちょっと待て……」
その隙間に、朱音は踏み込んだ。
胸元。
握りしめた力をすべてナイフの刃先に込めた。
鈍い感触が掌に残る。
櫻井が息を止めたように固まり、ゆっくりと瞬きをした。
「……え?」
さっきと、同じ声。
朱音は手を離した。
櫻井の視線が胸元へ落ちる。
遅れて、赤が滲んだ。
ぽた、と。
地面に落ちる音が、やけに大きい。
目を見開いたまま、櫻井はもう一度朱音を見る。
朱音は反射的に身を引いた。
足が勝手に後ろへ動く。
逃げなきゃ。
思った。
腕を掴まれた。
「待て!」
強い。痛いほどに。
「離してっ」
声が震える。
言葉より先に心臓が暴れる。
手を引き剥がそうとするが、離れない。
皮膚に爪が食い込んだ。
もつれる足が、石に躓いた。
膝の裏に冷たい感触。
井戸。
気づいたときには、体が傾いていた。
櫻井の体重が重なる。
掴まれたまま世界が反転する。
自分の叫びなのか櫻井の声なのか、分からない声が井戸にぶつかって返ってくる。
——落ちる。
体が水に叩きつけられた。
水音。
冷たい。
息が、奪われる。
朱音は必死に梯子に手を伸ばした。
水の中で、櫻井が咳き込んでいる。
「……行くな」
聞き流そうとした。
「行ったら……後悔する」
櫻井の声は息も絶え絶えだった。
「ああ……前も、これ言って失敗したよな……」
苦しそうな声が小さく響く。
「ごめん……何度やっても、うまくできなくて……」
振り向けない。
「けど……俺は……」
言葉が、途切れる。
「……頼むから、ここで、死んでくれ」
櫻井の手が、朱音のコートの裾を掴んだ。
「行くな……」
力は、徐々に抜けていく。
離れた手が、水の中へ落ちる音がした。
——“何度やっても”
その言葉が、恐怖よりも強く胸に残った。
梯子を掴む手が震える。
振り返ると、水面の下で櫻井の首筋が見えた。
日焼けの跡に、
首まで赤くなった顔が重なる。
——また、見てぇな。
一緒に見上げた桜の蕾。
——朱音のお守りだ。
チリンと鳴った、花鈴の音。
——寒いから、着て帰れよ。
肩に掛けられた、ジャケットの温もり。
動けない。
櫻井の顔の横で、ナイフが水中に揺れている。
ほのかな光を反射している。
朱音は、それに手を伸ばした。
逃げるべきだと、分かっている。
でも、あの言葉の意味を知らないままでは、先に進めない。
櫻井が、何を知っているのか。
なぜ、止めようとしたのか。
——“後悔する”
頭の奥で、その声が鳴る。
朱音はナイフの柄を掴んだ。
ナイフを、自分の首元へ向ける。
冷たい刃先が、皮膚に触れる。
指が震え、刃先が定まらない。
目を閉じる。
一度、息を止めて。
刃を押し込んだ。
——違う。
聞こえるのはあの音じゃない。
かすれた自分の悲鳴だ。
目を開けた。
天井が見える。
私の家の天井だ。
呼吸をしようとすると、胸の奥が、ひくりと引きつる。
浅く、速く、喉が詰まったような呼吸が止まらない。頬に涙が流れていた。
布団に触れた指が、うまく動かない。
怖い。
震える手で自分の顔に触れる。
頬がある。額がある。
傷はない。血も出ていない。
戻っている。
分かっているのに体が理解してくれない。
痛みと恐怖がこびりついている。
頭に響く鈍い音。
顔の左側に走った激痛。
視界が歪み、何が起きているのか分からなくなった、あの時間。
思い出しているわけじゃない。
まだ体の中に残っているだけだ。
「朱音、早く起きなさい」
母の声がする。
「今日、卒業式なんだから」
朱音は返事ができなかった。
夕方になっても外には出なかった。
布団の中で、時間が過ぎるのを待つ。
廊下を踏む足音。
戸を開ける音、そして閉める音。
母が出かけるまで、耳を澄ませていた。
朱音は廊下に出た。
固定電話の前で立ち止まる。
壁に、黄ばんだ電話番号表が貼られている。
いちばん上に、駐在所の番号。
その下に、名字が並ぶ。
指先が、紙をなぞる。
——さ。
櫻井。
金槌の感触が脳裏に蘇る。
心臓が一拍跳ねる。
次の鼓動が、強い。
それでも、受話器を取る。
手が汗で滑った。
耳に当てると、かすかなノイズ。
数回の呼び出し音のあと、声がした。
『はい、櫻井です』
「……櫻井くん? 朱音です」
一瞬、間があった。
『朱音?』
「うん、私」
『大丈夫か。体調悪いって、母さんから——』
「言いたいことがあるの」
声は落ち着いていた。
「今日の祭りのあと、神社で会えない?」
耳元で、ノイズが響く。
『……分かった』
それだけ言って、通話は切れた。
夜。
外の空気が冷たい。
神社の方を見る。
提灯の明かりが見えた。
祭りのあとの静寂だけが残っている。
石段を上がると、鳥居の先に櫻井がいた。
「朱音」
駆け寄ってくる。
「大丈夫か。体調、悪いって聞いたけど」
「うん。もう平気」
笑ったつもりだが、早口になった。
「話ってなんだ?」
息を吸い込む。
「……奥で、話さない?」
櫻井は周囲を見回し、頷いた。
「裏、行くか。誰か来たら、面倒だし」
櫻井は社殿の脇へ向かい、開いていた木の扉を通った。
「まあ、みんなまだ、公民館だろうけど」
裏手は闇に沈んでいた。
日陰に溜まった、冷たい匂い。
黒くそびえ立つ杉の森が迫り、空気が重い。
そこに、小さな建屋のついた井戸があった。
脇で小さな灯火が揺れている。
櫻井は建屋の柱に寄り掛かった。
「で、話って?」
朱音は数歩離れたところに立つ。
逃げたい。
「……私」
声がうわずった。
「櫻井くんのことが、好き」
不意に、胸の奥がひどく静かになった。
櫻井が目を見開く。
「……え」
「好きなの」
近づく。
一歩、また一歩。
「だから……」
靴先が当たる。
吐息が白く揺れ、互いの唇を撫でる。
櫻井は戸惑ったように目を逸らし、半歩下がった。
「ちょ、ちょっと待て……」
その隙間に、朱音は踏み込んだ。
胸元。
握りしめた力をすべてナイフの刃先に込めた。
鈍い感触が掌に残る。
櫻井が息を止めたように固まり、ゆっくりと瞬きをした。
「……え?」
さっきと、同じ声。
朱音は手を離した。
櫻井の視線が胸元へ落ちる。
遅れて、赤が滲んだ。
ぽた、と。
地面に落ちる音が、やけに大きい。
目を見開いたまま、櫻井はもう一度朱音を見る。
朱音は反射的に身を引いた。
足が勝手に後ろへ動く。
逃げなきゃ。
思った。
腕を掴まれた。
「待て!」
強い。痛いほどに。
「離してっ」
声が震える。
言葉より先に心臓が暴れる。
手を引き剥がそうとするが、離れない。
皮膚に爪が食い込んだ。
もつれる足が、石に躓いた。
膝の裏に冷たい感触。
井戸。
気づいたときには、体が傾いていた。
櫻井の体重が重なる。
掴まれたまま世界が反転する。
自分の叫びなのか櫻井の声なのか、分からない声が井戸にぶつかって返ってくる。
——落ちる。
体が水に叩きつけられた。
水音。
冷たい。
息が、奪われる。
朱音は必死に梯子に手を伸ばした。
水の中で、櫻井が咳き込んでいる。
「……行くな」
聞き流そうとした。
「行ったら……後悔する」
櫻井の声は息も絶え絶えだった。
「ああ……前も、これ言って失敗したよな……」
苦しそうな声が小さく響く。
「ごめん……何度やっても、うまくできなくて……」
振り向けない。
「けど……俺は……」
言葉が、途切れる。
「……頼むから、ここで、死んでくれ」
櫻井の手が、朱音のコートの裾を掴んだ。
「行くな……」
力は、徐々に抜けていく。
離れた手が、水の中へ落ちる音がした。
——“何度やっても”
その言葉が、恐怖よりも強く胸に残った。
梯子を掴む手が震える。
振り返ると、水面の下で櫻井の首筋が見えた。
日焼けの跡に、
首まで赤くなった顔が重なる。
——また、見てぇな。
一緒に見上げた桜の蕾。
——朱音のお守りだ。
チリンと鳴った、花鈴の音。
——寒いから、着て帰れよ。
肩に掛けられた、ジャケットの温もり。
動けない。
櫻井の顔の横で、ナイフが水中に揺れている。
ほのかな光を反射している。
朱音は、それに手を伸ばした。
逃げるべきだと、分かっている。
でも、あの言葉の意味を知らないままでは、先に進めない。
櫻井が、何を知っているのか。
なぜ、止めようとしたのか。
——“後悔する”
頭の奥で、その声が鳴る。
朱音はナイフの柄を掴んだ。
ナイフを、自分の首元へ向ける。
冷たい刃先が、皮膚に触れる。
指が震え、刃先が定まらない。
目を閉じる。
一度、息を止めて。
刃を押し込んだ。
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