14 / 31
極上のしずく
13
しおりを挟む
何かごちゃごちゃ聞こえる。
「とにかく日焼け止め。日焼け止めは必ず塗って。肌の劣化は紫外線が……」
酔いが回りつつあるティアの話を片耳に、部屋にあった雑誌を勝手に拝借して開いていた。
メイクのページはすっ飛ばして、温泉特集。九州。由布院、別府、霧島……人気ランキング1位は黒川か。行ったことないな。
「——ね、聞いてる?」
「聞いてる。日焼け止めを塗りなさいって話だった」
「そうそう。レイちゃん、いつも塗ってる?」
「……まだ、夏じゃないし」
「…………紫外線は常にあるよ?」
「いや、だって……ベタベタするし……手を汚したくないし……」
「スティックタイプもあるよ?」
「………………」
「………………」
「……塗る。塗るから……ほら! 見てみて。温泉いきたい」
訴える瞳から逃れるために、話題を変えた。開いていたページを見せると、その目は丸くなった。
「……レイちゃん、温泉いきたいの?」
「……なんで意外そうな顔するのさ」
「だって君、ケチだから……」
今度は私が無言の目で訴える。
ティアは笑って目をそらした。
睨むのをやめて、薄く息を吐き出し、
「……うちの会社、福利厚生のポイントがあるんだけど、それをずっと旅行用として貯めてるの。使おうかなと思って」
「そんなのあるんだ? 貯めてたのに、使うの?」
「新婚旅行用だったから」
「………………」
「………………」
「……あ、レイちゃん。ほらほら、『なみだ』を飲んで。泣かないで失恋を乗り越えよう?」
「泣いてないよ。あと『なみだ』じゃなくて『しずく』な? 飲む資格剝奪するぞ?」
「きみってキレるとこ変じゃない?」
まったく。
日本酒に口付けて、文句ごと呑み込む。
ティアはテーブルの上に広げられた雑誌を眺めて、
「……温泉か。僕、こういう所は行ったことないな」
ぽつっと落ちた音に、私は首をかしげた。
「ないの? ティアくんって高級な温泉旅館を回ってそうだけど」
「君のなかの僕のイメージってなんなのかな……」
「謎めくセレブ」
即答すると、唇だけでくすりと笑う。
ただ、雑誌から離れた目は静かだった。
「旅行は行かないよ。外出用でもこのままの格好でも、出歩くと周りの目をひくから。旅行先なんて、とくに人が多すぎるからね」
「…………周りの目、そんな気になる?」
「うん。何してても見られるし、不審がられる。気持ちのいいものじゃないよ」
「………………」
「あと、新幹線や飛行機でいつもみたいに顔を隠してるのも疲れるし、長期移動は無理だね。この雑誌の……九州みたいに。遠い所へ行く気はないかな」
笑った形の唇は、なんでもないことのように話していた。
アルコールで染まった顔は、色が薄い。肌も髪もまつげも、すべての色素が抜けている。最初は驚いたけど(いや、性別のほうに気がいったけど)、今はだいぶ見慣れてしまった。
手にした器に、目を落とす。
さらりとした日本酒を見つめて、透きとおる輝きに何かを重ね、少しばかり考える。
目を彼へと戻して、
「……行ってみたいとは、思ってる?」
「……え?」
「九州。……顔を覆わずに行けるなら、行ってみたい?」
「うん? ……まぁ、うん? そうだね?」
「じゃあ、行こうよ」
「…………?」
彼の顔は、反応に困っているように見えた。
冗談にしてはひどい。でも、私がそんなことを言うかな……と。思っている。
「私、運転うまいんだよ」
「……そうなの?」
「学生の頃、友達と格安旅行してたから。というわけで、レンタカー借りて行こう」
「え……僕は運転できないよ……?」
「いいよ。昔から私ひとりで運転してたし、長距離も余裕。10時間こえて運転したことも全然あるから、任せて」
「や、それは悪いよ……」
「なんで? すこしも悪くないよ。運転は好きなんだよ」
「……でも、道中はよくても……旅行先で、注目を浴びたくないし……」
「見てくるひとがいたら、私が睨んであげるよ。『何見てんじゃワレぇ』ってヤカラぶっとくよ」
「えぇぇぇ……?」
「いや、今のは冗談。シンプルに『なんですか? なんで見てくるんですか?』って絡んどく」
「………………」
八の字の眉に、戸惑いが見える。
重くならないように、軽く笑った。
「無理にとは、言わないよ。でも、行きたかったら行こう。遠慮もしないでね? こんだけ家にやって来て好き放題やってる私に遠慮するなんて……馬鹿げてるよ?」
「……たしかに」
「そこは納得するんだ」
「するよね? きみ、もう自分の家だと思ってるとこあるでしょ?」
「否定できないな……」
あきれた吐息が、彼の唇からもれる。
笑い返して、日本酒に口をつけた。澄みわたる香りが、すっと喉に流れていく。
「……あとさ、旅行って格言あるじゃん。『旅は道連れ』って。周りの目も、誰かと一緒なら、平気にならないかな」
「道連れって……ちょっとひどい言い方じゃない?」
「じゃあ、『旅の恥はかき捨て』?」
「どっちもひどい」
「あはは」
こぼれた笑いは、明るくテーブルの上に響いた。
手のなかの水面がゆれて、きらりと光る。
伏せられた目。悩んでいるらしいティアの顔に、もう一言だけ、
「一緒なら、私きっと、日焼け止めもちゃんと塗るよ?」
ふっと上がった目が、私を映した。
「……それは、大事だね。レイちゃんの肌を守るためにも……行ってみようかな?」
淡く笑う顔は、まだ少し迷いを含んでいるけれど、希望も浮かんでいる。
——僕、こういう所は行ったことないな。
こぼれ落ちた、ひとしずくの本音。
救いあげたいと思ったのは、恩返しの気持ちだ。
未知の世界を見せてくれた彼に、私も何か見せてあげられたら——。
「……ところで、レイちゃん?」
「ん? なに?」
「誘ってくれて嬉しいけど……僕の性別、完全に忘れてない?」
「………………」
「……うん。きみって素で失礼だよね……?」
その唇からこぼれ落ちた吐息は、明るく軽やかだった。
「とにかく日焼け止め。日焼け止めは必ず塗って。肌の劣化は紫外線が……」
酔いが回りつつあるティアの話を片耳に、部屋にあった雑誌を勝手に拝借して開いていた。
メイクのページはすっ飛ばして、温泉特集。九州。由布院、別府、霧島……人気ランキング1位は黒川か。行ったことないな。
「——ね、聞いてる?」
「聞いてる。日焼け止めを塗りなさいって話だった」
「そうそう。レイちゃん、いつも塗ってる?」
「……まだ、夏じゃないし」
「…………紫外線は常にあるよ?」
「いや、だって……ベタベタするし……手を汚したくないし……」
「スティックタイプもあるよ?」
「………………」
「………………」
「……塗る。塗るから……ほら! 見てみて。温泉いきたい」
訴える瞳から逃れるために、話題を変えた。開いていたページを見せると、その目は丸くなった。
「……レイちゃん、温泉いきたいの?」
「……なんで意外そうな顔するのさ」
「だって君、ケチだから……」
今度は私が無言の目で訴える。
ティアは笑って目をそらした。
睨むのをやめて、薄く息を吐き出し、
「……うちの会社、福利厚生のポイントがあるんだけど、それをずっと旅行用として貯めてるの。使おうかなと思って」
「そんなのあるんだ? 貯めてたのに、使うの?」
「新婚旅行用だったから」
「………………」
「………………」
「……あ、レイちゃん。ほらほら、『なみだ』を飲んで。泣かないで失恋を乗り越えよう?」
「泣いてないよ。あと『なみだ』じゃなくて『しずく』な? 飲む資格剝奪するぞ?」
「きみってキレるとこ変じゃない?」
まったく。
日本酒に口付けて、文句ごと呑み込む。
ティアはテーブルの上に広げられた雑誌を眺めて、
「……温泉か。僕、こういう所は行ったことないな」
ぽつっと落ちた音に、私は首をかしげた。
「ないの? ティアくんって高級な温泉旅館を回ってそうだけど」
「君のなかの僕のイメージってなんなのかな……」
「謎めくセレブ」
即答すると、唇だけでくすりと笑う。
ただ、雑誌から離れた目は静かだった。
「旅行は行かないよ。外出用でもこのままの格好でも、出歩くと周りの目をひくから。旅行先なんて、とくに人が多すぎるからね」
「…………周りの目、そんな気になる?」
「うん。何してても見られるし、不審がられる。気持ちのいいものじゃないよ」
「………………」
「あと、新幹線や飛行機でいつもみたいに顔を隠してるのも疲れるし、長期移動は無理だね。この雑誌の……九州みたいに。遠い所へ行く気はないかな」
笑った形の唇は、なんでもないことのように話していた。
アルコールで染まった顔は、色が薄い。肌も髪もまつげも、すべての色素が抜けている。最初は驚いたけど(いや、性別のほうに気がいったけど)、今はだいぶ見慣れてしまった。
手にした器に、目を落とす。
さらりとした日本酒を見つめて、透きとおる輝きに何かを重ね、少しばかり考える。
目を彼へと戻して、
「……行ってみたいとは、思ってる?」
「……え?」
「九州。……顔を覆わずに行けるなら、行ってみたい?」
「うん? ……まぁ、うん? そうだね?」
「じゃあ、行こうよ」
「…………?」
彼の顔は、反応に困っているように見えた。
冗談にしてはひどい。でも、私がそんなことを言うかな……と。思っている。
「私、運転うまいんだよ」
「……そうなの?」
「学生の頃、友達と格安旅行してたから。というわけで、レンタカー借りて行こう」
「え……僕は運転できないよ……?」
「いいよ。昔から私ひとりで運転してたし、長距離も余裕。10時間こえて運転したことも全然あるから、任せて」
「や、それは悪いよ……」
「なんで? すこしも悪くないよ。運転は好きなんだよ」
「……でも、道中はよくても……旅行先で、注目を浴びたくないし……」
「見てくるひとがいたら、私が睨んであげるよ。『何見てんじゃワレぇ』ってヤカラぶっとくよ」
「えぇぇぇ……?」
「いや、今のは冗談。シンプルに『なんですか? なんで見てくるんですか?』って絡んどく」
「………………」
八の字の眉に、戸惑いが見える。
重くならないように、軽く笑った。
「無理にとは、言わないよ。でも、行きたかったら行こう。遠慮もしないでね? こんだけ家にやって来て好き放題やってる私に遠慮するなんて……馬鹿げてるよ?」
「……たしかに」
「そこは納得するんだ」
「するよね? きみ、もう自分の家だと思ってるとこあるでしょ?」
「否定できないな……」
あきれた吐息が、彼の唇からもれる。
笑い返して、日本酒に口をつけた。澄みわたる香りが、すっと喉に流れていく。
「……あとさ、旅行って格言あるじゃん。『旅は道連れ』って。周りの目も、誰かと一緒なら、平気にならないかな」
「道連れって……ちょっとひどい言い方じゃない?」
「じゃあ、『旅の恥はかき捨て』?」
「どっちもひどい」
「あはは」
こぼれた笑いは、明るくテーブルの上に響いた。
手のなかの水面がゆれて、きらりと光る。
伏せられた目。悩んでいるらしいティアの顔に、もう一言だけ、
「一緒なら、私きっと、日焼け止めもちゃんと塗るよ?」
ふっと上がった目が、私を映した。
「……それは、大事だね。レイちゃんの肌を守るためにも……行ってみようかな?」
淡く笑う顔は、まだ少し迷いを含んでいるけれど、希望も浮かんでいる。
——僕、こういう所は行ったことないな。
こぼれ落ちた、ひとしずくの本音。
救いあげたいと思ったのは、恩返しの気持ちだ。
未知の世界を見せてくれた彼に、私も何か見せてあげられたら——。
「……ところで、レイちゃん?」
「ん? なに?」
「誘ってくれて嬉しいけど……僕の性別、完全に忘れてない?」
「………………」
「……うん。きみって素で失礼だよね……?」
その唇からこぼれ落ちた吐息は、明るく軽やかだった。
66
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
Husband's secret (夫の秘密)
設楽理沙
ライト文芸
果たして・・
秘密などあったのだろうか!
むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ
10秒~30秒?
何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。
❦ イラストはAI生成画像 自作
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる