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おやすみの、その前に

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《——ウサちゃん、翻訳機のメンテナンスしたいから、オレのとこ持ってきてよ》

 まっとうな理由で呼ばれたので、疑いなく入室してしまった。ほんとうは、ふたりきりになるのを避けていたのだが……この時ばかりは、完全に油断していた。

「……ほんやくき、どうぞ……」

 南国のビーチみたいな、暖かな夜空の映像の下。いつものベッドに転がっていたロキが、上体を起こして手を伸ばした。ワイヤレスイヤフォンのような——小さな翻訳機を受け取るために開かれた、ロキのてのひら。そこに置こうとしたが、目が合ったロキの顔が、ニヤッと。いやな予感。

「——ウサちゃん、も~らいっ♪」

 つかまれた手首ごと、ベッドに引き込まれた。ぐるんっと回った視界に、夜空と——遮るように、ロキの顔が。当然のごとく唇を重ねようと落ちてきた。反射的に顔をそらし、手でロキを押し返そうとしたが……重い。身長差がありすぎる。

「ろきっ……はなして」
「ヤだ。最近のウサちゃん、忙しいって言って全然オレの相手してくんねェじゃん」
「〈あいて〉は、もうしないって……ろき、〈さわらない〉って……いってた」
「えェ~? オレ、そんな約束したっけ?」

 したよ、と断言するつもりが、(してないかも……)約束は確定していなかったような。きちんとしておくべきだった。

「ろき、こまる……はなして」
「オレは困らねェよ?」

 笑いながら首筋に吸いついてくるロキの髪が、くすぐったい——いや、笑っている場合じゃなくて。
 慣れた手つきでシャツを脱がしてくる、筋張った手に抵抗する。

「ろき、やめて」
「いいじゃん、優しくするからさ」
「よくない……」
「……ダメ?」
「だめ」
「なんで?」
「……なんで?」
「ウサギちゃんはオシゴト大好きじゃん? サクラと寝てるんだから、オレとも遊んでよ」

 ——頭が、一瞬止まった。抵抗する力も。

 サクラと寝てるんだから? 言葉を反芻はんすうしている隙に、ロキの手がシャツの中にするりと入り込んで、胸までたどり着こうとしたものだから——申し訳ないけれど、足も使って全力で押しのけてしまった。今日の服がパンツスタイルでよかったと、切実に思う。

「……ひど。オレのこと足蹴あしげにすンの?」
「……ごめん」

 急に衝撃を受けた顔をしたので、やりすぎたと思って謝罪したが……はたして私が悪いのか。悩む間もなく、離れた距離を取り戻したロキが、私の手首を強く捕らえた。本格的に押さえ込もうとしている。——冗談ではなく。

「……ろき」
「ヤだよ。もうやめる気ねェし……抵抗ナシにして」

 耳に掛かる声が、震えるようにささやいた。
 脳裏のうりで、つい先ほど聞いたティアの指摘がひらめく。

——母性を覚えた相手には、怒れなくなる。どんな悪いことをしても、ゆるしてしまう。絶対的な味方。……困ったね?

 すがるように求めてくる手を、振り払えない。すこし我慢することで、ロキの支えになるなら——それでもいいと、思ってしまうような——気持ちの揺れが、抵抗の意思をいでいく。

 ——いや、でも。

「……ろき、はなして」
「……なんで」
「わたしは、この〈しごと〉は、もうしないから」
「サクラと寝てるじゃん」
「それは、ちがう……」
「何が違うの?」
「さくらさんは、ほんとうに、ねただけ……」

 見下ろす瞳に、欲望はない。見えるのは、幼い独占欲。
 彼の欲しいものを——悟った。

「……もう、〈いそがしい〉なんて、いわないから……〈ふたりきり〉も、さけないから……やめて?」
「………………」

 押さえる手が、そっと緩まる。痛いことはしない。——それだけは、彼のなかで約束が成立しているのだと思う。
 解放をためらうように、指先だけ繋がったまま、

「……ウサちゃん、オレのことスキ?」
「………………」

 考えて、答えを返そうとした——その瞬間。

「——ロキ! ウサギに手ぇ出してんじゃねぇ!」

 身体が震えるほどの怒鳴どなり声に、すべてが吹き飛んだ。
 考えていたことや答えようとした言葉——ロキの身体も、文字どおり吹き飛んだ。

 と、思ったけれど。どうやら超常現象で吹き飛んだわけではなく、突如ドアから入ってきたセトによって、力任せに引き離され——ベッドから落とされていた。
 開けた視界で、狼みたいな鋭い眼が。
 ……怖いくらい、怒りに染まっている。

「いってェ……」

 ベッドの下から届くうめき声に、(だいじょうぶ?)声をかけられる雰囲気ふんいきではない。
 息をのんで身を縮めていると、私を見下ろしたセトが、ぐっと眉を寄せた。

 上体を起こしたロキが「怪力馬鹿……」口の中で文句を唱えてから、顔を上げて、

「何? なんの用?」
「お前……ウサギに何してんだ」
「何って——べつに? てめェに関係なくねェ?」
「あぁ? ウサギに手ぇ出さねぇって話だったろ!」
「はァ~? そんなこと約束した覚えねェんだけど?」
「言ったろ! お前は階段からも落としてるんだぞ!」
「……もうそれはいいじゃん……」
「よくねぇ! ウサギに乱暴すんな!」

 ……セトが、それを言うのか。
 変なところで変な感想をいだいて……そういうことを思っている場合ではないな、と。気づいたので、怒り心頭のセトと、床に座り込んだままのロキのあいだに、ベッドから降りるようにして身を挟んだ。握ったままだった翻訳機も、耳に付け直し、

「せと……わたしは、だいじょうぶ……」
「——大丈夫? どういう意味だ? 俺が邪魔したってことか?」
「じゃま……? いえ、そういう〈いみ〉では……ないです?」
「は? なんで首かしげてんだ? どっちの意味だ?」
「(どっちの意味?)……とめてくれて、ありがとう?」
「……つまり、止めてよかったってことだな?」
「? ……はい」

 肯定すると、セトは安心したように表情をやわらげた。助けに来てくれた、らしい。解決しかけていたのだけれど……とは、言えずにいると、背後からロキの不満げな声が、

「ってかさァ~、なんで勝手に入れてンの? ドアぶち壊したわけ?」

 そういえば、ロックは?
 疑問とともにドアを見るが、壊れたようすはない。平常どおりスライドして開いたようで、問題は見えなかった。
 私たちの疑問には、セトが、「サクラさんに……開けてもらった」苦虫をみ潰したような顔で、低く答えた。

「——はァ? またサクラに頼ったわけ? ウサギにしたことゆるさねェんじゃなかった?」
「それとこれとは別だ。お前がウサギを閉じめるからだろ!」
「閉じ籠めてねェし。ウサちゃんは自分から会いに来たよなァ~?」

 立ち上がったロキが、私の肩を抱き寄せる。否定はできないが、それは……ずるいのでは。

「……ろき、ほんやくき……は?」
「なんの話?」
「………………」

 意地悪く曲がった唇を、下から責めるように小さくにらんでみる。最初からだますつもりでいたとは——たちが悪い。
 (嘘は、もうやめてね)言い聞かせようとした唇が、注意の言葉を吐くことはなかった。

「そォいやさ~、セト知ってる? ウサちゃん、昨日の夜にサ——」

 サクラと寝てたんだよなァ~。確実にそう続きそうだったので、あわてて「ろき!」口を挟んだ。
 ややこしくなりそうだから、やめてほしい。目だけで訴えるが、すでにセトの顔がいぶかしげに。

「は? なんて?」
「せと、なんでもないの。ほんとうに、なんでもない」
「……いや、なんでもなくねぇよな?」
「なんでもないの」

 強く主張するが、信じきれないセトがロキに目を向けて、「なんて?」問いかけた。ひやっと背筋に緊張が走る。
 ティアに言わせれば、サクラとセトは冷戦状態——というよりも、セトは私を巻き込んだことに対して、人一倍、責任を感じているのだろうと思う。罪悪感と、罪滅ぼしのような意思を常に感じる。無かったことには——できない、と。
 そんな彼に、余計な情報を与えたくはない。サクラとは何もなかった(そもそも私の意思がバターに負けた)のに、変に誤解を招くのは……避けたい。

 焦る私の心を知ってか、ロキは唇の端にわずかな悪意をのせて——にやり。

「なァ、ウサちゃん。キスしてくんない?」
「——は?」

 私の動揺の代わりに、セトが声をあげてくれた。いきなり何言ってんだ、そんな顔で。

「頬でい~からさ。いま、ここで」
「………………」

 かがんで顔を寄せるロキに、セトが「なんでそうなるんだよ」突っこみながらその顔を私から離そうとして、

 ——してくれたけれど、こちらの決心のほうが早かった。
 軽く背伸びして、ロキの頬にくちづけを。唇が一瞬触れるだけの、ものすごく軽いキス。ティアの指摘のせいか、母親が子供にするようなもの——と、自分に言い聞かせて。
 ……正しくは、口止めなのだけども。

 離れた先の顔は、とても満足そう。その顔に、こんなことでいいのか——?——と、思ってしまった。認識がおかしい。しかし、彼らの感覚では、頬へのキスなど軽いものだろう。
 訳の分からない行為に、セトがあきれるかと思ったが……なぜか、彼のほうは無言で固まった。いっそ「お前らは何やってんだ」くらい言ってもらえたほうが軽い空気になりそうだったのだが……反応がで、こちらも(何をしてしまったのだろう)急な恥ずかしさが。

「……わたしは、へやに、もどります」

 小声で宣言して、ロキの腕から抜け出し、ドアの方へ。少しだけ振り返ると、ひらひらっと機嫌よく手を振るロキと目があった。

「おやすみィ、ウサギちゃん♪」

 ——結局、なぜサクラの所にいたのを知っていたのか(サクラは位置情報をごまかしてくれたはずなのに……)けないままで。

(明日、訊いてみよう)
 それだけ決めて、自分の部屋へと戻っていく。今夜はゆっくり休める。大きなベッドで、隣の存在に緊張することもなく——ひとりで。
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