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勇者と冥王のママは暁を魔王様と
第六章・世界に二人きり6
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「イスラ、私から離れてはいけませんよ? 迷子にならないでくださいね」
「ブレイラこそ俺は大丈夫だからちゃんと前を見ろ。手を握ったままで危なくないか?」
港町の市場はたくさんの人々でごった返している。
それなのにブレイラは、行き交う人々の間を縫うようにして歩きながらイスラを何度も振り返っているのでなんだか危なっかしい。
イスラが内心心配していると、案の定ブレイラが前から歩いてきた男にぶつかりそうになった。
「ブレイラ、こっちだ」
「わあっ、すみませんッ」
イスラが寸前で引き寄せてブレイラを下がらせる。
ぶつかりそうになった男は「こちらこそ」と会釈して立ち去って行った。
「イスラ、助かりました。ありがとうございます。……恥ずかしい真似をしてしまいましたね」
恥ずかしそうにブレイラは言うとイスラの隣に戻ってくる。
名残り惜しそうにしながらもイスラの手を離して左側に立った。
だが、そんなブレイラをイスラが困ったように見る。
「ブレイラ、俺の右側にいてくれ」
「なぜですか。こちらの方が、もしもの時に都合がいいでしょう」
左腕を失っているなら、左側にいた方がイスラの役に立てると考えたのだ。
しかしイスラは首を横に振る。
「ありがとう。でも、もしもの時にブレイラを守れない」
「……守ってほしいなんて、思っていません」
「そうだけど、とりあえず右側にいてくれ。すぐに手が伸ばせるように」
「…………」
拗ねたように黙り込んだブレイラにイスラは苦笑した。ブレイラの気持ちが嬉しいのだ。でも、こればかりはイスラも譲れない。
イスラは右手でブレイラの手をそっと掴み、優しく言い聞かせる。
「ブレイラ、お願いだから」
「…………。……分かりました。あなたが、そこまで言うなら」
「ありがとう」
安堵の顔をしたイスラに、ブレイラが少しだけ面白くなさそうな顔をした。
右側に立ちながらもイスラを少し恨みがましげに見る。
「ずるいですね、私はあなたに弱いのですよ」
「嘘だ。絶対俺の方が弱い」
すかさず言い返したイスラにブレイラがムッとする。
じぃっと睨みあったが、プッ……と互いに噴き出した。
まるで子どもの睨みあいっこみたいで可笑しくなったのだ。
「これは、このままでいいですよね」
ブレイラがイスラに掴まれている手を目線の高さまで持ち上げた。そして今度はブレイラの方が握り直してぎゅっぎゅっと掴む。
「ああ、いいぞ」
「良かった。行きましょうか、イスラ」
はぐれないように手を繋いで歩きだす。
途中で珍しい食材や品物を見つけると二人でこれは何かと当て合いっこをして楽しんだ。
「あっ、いい匂いがします。おいしそうなお菓子がありますよ。エノに送っていただいた『おまんじゅう』に似ていますね」
エノとは東の大公爵夫人。東からの献上品のなかに『おまんじゅう』という東都名産のお菓子があったのだ。
贈られたおまんじゅうは上品で繊細な作りのものだったが、この街で売られているおまんじゅうは食べ歩きができるように売られている。
「イスラ、買っていきませんか? 広場で一緒に食べましょう」
「そうだな」
おまんじゅうを二つ購入する。
ほかほかの湯気が出ているおまんじゅうを紙袋に入れてもらってブレイラは嬉しそうな笑みを浮かべた。
こうして楽しみを増やし、二人はウキウキした気持ちで広場へ向かう。
だが広場に近づくにつれて物々しい雰囲気が漂いだし、厳しい顔付きをした兵士を多く見かけるようになった。
違和感を覚えながらも広場へ行くと、数えきれないほどの街の男達が集合している。それを国の兵士が取り囲んで号令を上げ、男達はきびきびとした動作で応えていた。
物々しい光景にブレイラは驚き、近くにいた老婦人に訊ねる。
「失礼ですが、ここに集まっている方々は何をしているのですか?」
「兵役です。人間界の国々から西へ軍勢が送られることになったので、この国でも王の命令で兵が集められているんです」
「西……。まさか、それはピエトリノ遺跡ですか……?」
「ご存知でしたか。遺跡で邪教が広がり、人間界の多くの国が滅びに向かっています。この国からも信仰者になった者が、国を捨てて西に向かっているそうです。王はそれを阻止する為に軍を送ることをお決めになりました」
そう言うと老婦人は物悲しげな眼差しで広場の男達を見つめた。
老婦人の言葉にイスラは動揺する。
人間界の国々は武力でナフカドレ教団を壊滅させることに決めたのだ。国々の大軍を集結させて教団本部を攻撃しようとしている。
それは連合軍となった国々が圧倒的な武力で教団に対して一方的な攻撃が行なわれるように思えた。しかし、そうじゃない。現在、教団は『勇者の左腕』という力を手に入れている。それは勇者の無尽蔵の力を放出し、大軍を迎撃するばかりか一掃することも可能なものだ。
このままでは大きな武力衝突が起こり、西の大河を赤く染めるほどの血が流れるだろう。
「私の息子も派兵が決まりました……」
老婦人が広場を見つめたまま言った。
老婦人は派兵される息子の見送りに来ていたのだ。
広場を見回すと、見送りに来ているのは老婦人だけではない。周辺にはたくさんの女性や子どもの姿があり、なかには耐え切れずに泣いている者もいた。
老婦人は広場の男達を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……勇者様はどこにいるのでしょうか。腕を失ったと聞きますが、私たち人間の王は、いったいどこに……」
誰に聞かせるでもなく老婦人が呟いた。縋るように、勇者を。
イスラは困惑する。
分からなかったのだ。
人間は悲劇の中にある時、物語のように勇者の奇跡を語り、祈るように勇者の名を口にし、縋るように勇者を求める。
今までイスラはそれに疑問を持ったことはない。
勇者として、人間の王として、人間を守ることも求めに応じることも当然だと思っていた。どんな困難な戦いにも赴き、必ず勝利を収める。それが自分の勇者としての宿命で、使命なのだと。
でも今、分からない。
人間は勇者に何を見出しているのか。何をもって全ての人間の王だと思うのか。
なぜなら、勇者には何もないのだ。王の象徴である国土も玉座もない。目に見える王の証明がない。それなのに勇者は人間の王であらねばならず、人間は悲劇の時に勇者を求める。……人間は勇者を裏切ったのに。
この老婦人だって、人智を超えた力に救済を求めたいから、それだけの身勝手な理由で勇者を求めているだけなのかもしれない。
その疑問は、イスラが今まで立っていた場所を崩落させていく。
それなのに、何もないのに、勇者として生まれた宿命がイスラを苛み続ける。剣を握れと、戦えと、すべての脅威を薙ぎ払えと。呪縛のように命じる。
命じられるままにイスラは老婦人に笑いかけようとした。大丈夫だと笑いかけ、とりあえず勇者としての役目を果たそうとした。だが。
「……勝手なものですね」
ふいにイスラの耳にブレイラの小さな声が届いた。
それは隣にいたイスラにしか聞こえないほど小さな声。
はっとしてブレイラを振り返ると、握っていた右手にぎゅっと力を込められる。
「イスラ、そろそろ行きましょう。おまんじゅうは場所を変えていただきましょうね」
ブレイラはそう言うと老婦人に挨拶をし、イスラの手を引いて足早に歩きだした。
怒りを隠し切れないブレイラの後ろ姿。早足なのはイスラを広場から遠ざけようとしているからのようだ。
ブレイラは人気のない場所までくるとイスラを振り返った。
「ブレイラ……」
イスラは驚いたように目を丸める。
振り返ったブレイラは悔しそうに唇を噛み締めて、琥珀色の瞳は静かな怒りと哀しみを宿していたのだ。
「どうしたんだ。どうしてそんな顔してるんだ」
似合わないぞとイスラが慰めようとしたが、ブレイラが今にも泣きだしそうな顔でイスラを睨む。
「あなたこそ人形のような顔をしていましたよ」
「人形?」
意味が分からずにイスラは首を傾げる。
ブレイラは拗ねたように顔を背けてしまったが、イスラの手は握ったままだ。
二人は言葉もなく立ち尽くしていた。
言葉もないなか、時々海から海鳥の鳴き声が聞こえてくる。
二人の頭上にも大型の鳥が悠々と旋回していた。
◆◆◆◆◆◆
その日の夜。私とイスラは街外れの森にあった空き家で一夜を過ごすことにしました。
街の宿で休むつもりでしたが、多くの兵士が行き交う街は物々しくて、ゆっくり休めるとは思えなかったのです。
私は空き家を簡単に掃除して寝床を整えると、イスラと一緒に横になりました。
一つのラグに寝転がって一緒に上掛け布団を被ります。
イスラが体を冷やしてしまわないように肩まで掛け直してあげました。
「イスラ、明日はどこに行きますか?」
「どこがいい? ここからなら湖が近いかな。水が透き通ってて綺麗なんだ」
「素敵ですね。湖の底まで見えるんですか?」
「ああ、湖の底を泳いでいる小さな魚の群れも見えるぞ。……あ、でもブレイラは泳げないから深いところまで行けないか」
イスラがからかうような口調で言うので、私も怒った顔をしました。
たしかに泳げませんが生意気ですね。
「いじわるを言いますね、私だって練習すれば泳げるようになりますよ。そんな事を言うなら、あなたが教えなさい」
「ハハハッ、分かった。まず浮く練習からだな」
「ふふふ、お願いしますね。私が溺れないようにちゃんと見ていてください」
「ああ、ちゃんと見てる。でも明日は湖に船を出そう。そうしたらブレイラを湖の真ん中に連れてってやれる」
「それは楽しみです。連れていってください」
「ああ、連れていく。ブレイラはきっとびっくりするぞ」
そう言ってイスラが楽しそうな笑みを浮かべました。
私も明日を想像するとワクワクした気持ちがこみあげてきます。
「明日が待ち遠しいですね、湖までここからどれくらいなんですか?」
「ここを朝に出発すれば昼過ぎには着くと思う」
「そうですか、ではそろそろ眠らなくてはいけませんね」
またイスラに布団を掛け直してあげます。
温もりがあなたを包むように、どんな時も寒い思いをしないように。
「おやすみなさい、イスラ」
そう言ってイスラの額に口付けを一つ。
よく眠れますようにと願いを込めます。それはイスラが幼い頃から変わらない願い。
私は非力だけど、せめて夜の眠りだけは守ってあげたいのです。
「ブレイラ、おやすみ」
イスラは照れ臭そうに目を細め、しばらくしてうとうとと眠っていきました。
私はそれを静かに見守ります。
可愛い寝顔です。子どもの頃より鋭さが増して、佇まいは凛として顔立ちも精悍なものになっていく。成長しているのですね。だけど、私にとっては幼い頃から変わらない可愛い寝顔です。
私の好きな顔。私はこの顔をずっと見ていたい。
今日のような、あんな顔は見たくありません。そう、囚われた人形のような顔は。
思い出すのは、昼間の広場で出会った老婦人。派兵されていく息子を見送りながら、勇者に救いを求めていました。
老婦人の悲しい気持ちは分かります。派兵された息子が無事に帰還するまで、毎夜切々と祈りながら苦しむことになるでしょう。
悲しい顔をした老婦人にイスラは同情したかもしれません。イスラは優しい子なので、兵士を見送っていた女性や子どもを哀れんだかもしれません。
でも、それでも私は決めたのです。
「イスラ……」
イスラの名を小さく呟いて、閉じた目元に口付けを落とす。
もう大丈夫です。もうなんの心配もいりません。たとえ全ての人間が勇者を求めても、私が守ってあげます。絶対渡したくありません。
このまま私といればイスラはもうあんな顔をすることはなくなるでしょう。傷付くこともなくなるでしょう。
だって、イスラは勇者でなくなったのですから。
「ブレイラこそ俺は大丈夫だからちゃんと前を見ろ。手を握ったままで危なくないか?」
港町の市場はたくさんの人々でごった返している。
それなのにブレイラは、行き交う人々の間を縫うようにして歩きながらイスラを何度も振り返っているのでなんだか危なっかしい。
イスラが内心心配していると、案の定ブレイラが前から歩いてきた男にぶつかりそうになった。
「ブレイラ、こっちだ」
「わあっ、すみませんッ」
イスラが寸前で引き寄せてブレイラを下がらせる。
ぶつかりそうになった男は「こちらこそ」と会釈して立ち去って行った。
「イスラ、助かりました。ありがとうございます。……恥ずかしい真似をしてしまいましたね」
恥ずかしそうにブレイラは言うとイスラの隣に戻ってくる。
名残り惜しそうにしながらもイスラの手を離して左側に立った。
だが、そんなブレイラをイスラが困ったように見る。
「ブレイラ、俺の右側にいてくれ」
「なぜですか。こちらの方が、もしもの時に都合がいいでしょう」
左腕を失っているなら、左側にいた方がイスラの役に立てると考えたのだ。
しかしイスラは首を横に振る。
「ありがとう。でも、もしもの時にブレイラを守れない」
「……守ってほしいなんて、思っていません」
「そうだけど、とりあえず右側にいてくれ。すぐに手が伸ばせるように」
「…………」
拗ねたように黙り込んだブレイラにイスラは苦笑した。ブレイラの気持ちが嬉しいのだ。でも、こればかりはイスラも譲れない。
イスラは右手でブレイラの手をそっと掴み、優しく言い聞かせる。
「ブレイラ、お願いだから」
「…………。……分かりました。あなたが、そこまで言うなら」
「ありがとう」
安堵の顔をしたイスラに、ブレイラが少しだけ面白くなさそうな顔をした。
右側に立ちながらもイスラを少し恨みがましげに見る。
「ずるいですね、私はあなたに弱いのですよ」
「嘘だ。絶対俺の方が弱い」
すかさず言い返したイスラにブレイラがムッとする。
じぃっと睨みあったが、プッ……と互いに噴き出した。
まるで子どもの睨みあいっこみたいで可笑しくなったのだ。
「これは、このままでいいですよね」
ブレイラがイスラに掴まれている手を目線の高さまで持ち上げた。そして今度はブレイラの方が握り直してぎゅっぎゅっと掴む。
「ああ、いいぞ」
「良かった。行きましょうか、イスラ」
はぐれないように手を繋いで歩きだす。
途中で珍しい食材や品物を見つけると二人でこれは何かと当て合いっこをして楽しんだ。
「あっ、いい匂いがします。おいしそうなお菓子がありますよ。エノに送っていただいた『おまんじゅう』に似ていますね」
エノとは東の大公爵夫人。東からの献上品のなかに『おまんじゅう』という東都名産のお菓子があったのだ。
贈られたおまんじゅうは上品で繊細な作りのものだったが、この街で売られているおまんじゅうは食べ歩きができるように売られている。
「イスラ、買っていきませんか? 広場で一緒に食べましょう」
「そうだな」
おまんじゅうを二つ購入する。
ほかほかの湯気が出ているおまんじゅうを紙袋に入れてもらってブレイラは嬉しそうな笑みを浮かべた。
こうして楽しみを増やし、二人はウキウキした気持ちで広場へ向かう。
だが広場に近づくにつれて物々しい雰囲気が漂いだし、厳しい顔付きをした兵士を多く見かけるようになった。
違和感を覚えながらも広場へ行くと、数えきれないほどの街の男達が集合している。それを国の兵士が取り囲んで号令を上げ、男達はきびきびとした動作で応えていた。
物々しい光景にブレイラは驚き、近くにいた老婦人に訊ねる。
「失礼ですが、ここに集まっている方々は何をしているのですか?」
「兵役です。人間界の国々から西へ軍勢が送られることになったので、この国でも王の命令で兵が集められているんです」
「西……。まさか、それはピエトリノ遺跡ですか……?」
「ご存知でしたか。遺跡で邪教が広がり、人間界の多くの国が滅びに向かっています。この国からも信仰者になった者が、国を捨てて西に向かっているそうです。王はそれを阻止する為に軍を送ることをお決めになりました」
そう言うと老婦人は物悲しげな眼差しで広場の男達を見つめた。
老婦人の言葉にイスラは動揺する。
人間界の国々は武力でナフカドレ教団を壊滅させることに決めたのだ。国々の大軍を集結させて教団本部を攻撃しようとしている。
それは連合軍となった国々が圧倒的な武力で教団に対して一方的な攻撃が行なわれるように思えた。しかし、そうじゃない。現在、教団は『勇者の左腕』という力を手に入れている。それは勇者の無尽蔵の力を放出し、大軍を迎撃するばかりか一掃することも可能なものだ。
このままでは大きな武力衝突が起こり、西の大河を赤く染めるほどの血が流れるだろう。
「私の息子も派兵が決まりました……」
老婦人が広場を見つめたまま言った。
老婦人は派兵される息子の見送りに来ていたのだ。
広場を見回すと、見送りに来ているのは老婦人だけではない。周辺にはたくさんの女性や子どもの姿があり、なかには耐え切れずに泣いている者もいた。
老婦人は広場の男達を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……勇者様はどこにいるのでしょうか。腕を失ったと聞きますが、私たち人間の王は、いったいどこに……」
誰に聞かせるでもなく老婦人が呟いた。縋るように、勇者を。
イスラは困惑する。
分からなかったのだ。
人間は悲劇の中にある時、物語のように勇者の奇跡を語り、祈るように勇者の名を口にし、縋るように勇者を求める。
今までイスラはそれに疑問を持ったことはない。
勇者として、人間の王として、人間を守ることも求めに応じることも当然だと思っていた。どんな困難な戦いにも赴き、必ず勝利を収める。それが自分の勇者としての宿命で、使命なのだと。
でも今、分からない。
人間は勇者に何を見出しているのか。何をもって全ての人間の王だと思うのか。
なぜなら、勇者には何もないのだ。王の象徴である国土も玉座もない。目に見える王の証明がない。それなのに勇者は人間の王であらねばならず、人間は悲劇の時に勇者を求める。……人間は勇者を裏切ったのに。
この老婦人だって、人智を超えた力に救済を求めたいから、それだけの身勝手な理由で勇者を求めているだけなのかもしれない。
その疑問は、イスラが今まで立っていた場所を崩落させていく。
それなのに、何もないのに、勇者として生まれた宿命がイスラを苛み続ける。剣を握れと、戦えと、すべての脅威を薙ぎ払えと。呪縛のように命じる。
命じられるままにイスラは老婦人に笑いかけようとした。大丈夫だと笑いかけ、とりあえず勇者としての役目を果たそうとした。だが。
「……勝手なものですね」
ふいにイスラの耳にブレイラの小さな声が届いた。
それは隣にいたイスラにしか聞こえないほど小さな声。
はっとしてブレイラを振り返ると、握っていた右手にぎゅっと力を込められる。
「イスラ、そろそろ行きましょう。おまんじゅうは場所を変えていただきましょうね」
ブレイラはそう言うと老婦人に挨拶をし、イスラの手を引いて足早に歩きだした。
怒りを隠し切れないブレイラの後ろ姿。早足なのはイスラを広場から遠ざけようとしているからのようだ。
ブレイラは人気のない場所までくるとイスラを振り返った。
「ブレイラ……」
イスラは驚いたように目を丸める。
振り返ったブレイラは悔しそうに唇を噛み締めて、琥珀色の瞳は静かな怒りと哀しみを宿していたのだ。
「どうしたんだ。どうしてそんな顔してるんだ」
似合わないぞとイスラが慰めようとしたが、ブレイラが今にも泣きだしそうな顔でイスラを睨む。
「あなたこそ人形のような顔をしていましたよ」
「人形?」
意味が分からずにイスラは首を傾げる。
ブレイラは拗ねたように顔を背けてしまったが、イスラの手は握ったままだ。
二人は言葉もなく立ち尽くしていた。
言葉もないなか、時々海から海鳥の鳴き声が聞こえてくる。
二人の頭上にも大型の鳥が悠々と旋回していた。
◆◆◆◆◆◆
その日の夜。私とイスラは街外れの森にあった空き家で一夜を過ごすことにしました。
街の宿で休むつもりでしたが、多くの兵士が行き交う街は物々しくて、ゆっくり休めるとは思えなかったのです。
私は空き家を簡単に掃除して寝床を整えると、イスラと一緒に横になりました。
一つのラグに寝転がって一緒に上掛け布団を被ります。
イスラが体を冷やしてしまわないように肩まで掛け直してあげました。
「イスラ、明日はどこに行きますか?」
「どこがいい? ここからなら湖が近いかな。水が透き通ってて綺麗なんだ」
「素敵ですね。湖の底まで見えるんですか?」
「ああ、湖の底を泳いでいる小さな魚の群れも見えるぞ。……あ、でもブレイラは泳げないから深いところまで行けないか」
イスラがからかうような口調で言うので、私も怒った顔をしました。
たしかに泳げませんが生意気ですね。
「いじわるを言いますね、私だって練習すれば泳げるようになりますよ。そんな事を言うなら、あなたが教えなさい」
「ハハハッ、分かった。まず浮く練習からだな」
「ふふふ、お願いしますね。私が溺れないようにちゃんと見ていてください」
「ああ、ちゃんと見てる。でも明日は湖に船を出そう。そうしたらブレイラを湖の真ん中に連れてってやれる」
「それは楽しみです。連れていってください」
「ああ、連れていく。ブレイラはきっとびっくりするぞ」
そう言ってイスラが楽しそうな笑みを浮かべました。
私も明日を想像するとワクワクした気持ちがこみあげてきます。
「明日が待ち遠しいですね、湖までここからどれくらいなんですか?」
「ここを朝に出発すれば昼過ぎには着くと思う」
「そうですか、ではそろそろ眠らなくてはいけませんね」
またイスラに布団を掛け直してあげます。
温もりがあなたを包むように、どんな時も寒い思いをしないように。
「おやすみなさい、イスラ」
そう言ってイスラの額に口付けを一つ。
よく眠れますようにと願いを込めます。それはイスラが幼い頃から変わらない願い。
私は非力だけど、せめて夜の眠りだけは守ってあげたいのです。
「ブレイラ、おやすみ」
イスラは照れ臭そうに目を細め、しばらくしてうとうとと眠っていきました。
私はそれを静かに見守ります。
可愛い寝顔です。子どもの頃より鋭さが増して、佇まいは凛として顔立ちも精悍なものになっていく。成長しているのですね。だけど、私にとっては幼い頃から変わらない可愛い寝顔です。
私の好きな顔。私はこの顔をずっと見ていたい。
今日のような、あんな顔は見たくありません。そう、囚われた人形のような顔は。
思い出すのは、昼間の広場で出会った老婦人。派兵されていく息子を見送りながら、勇者に救いを求めていました。
老婦人の悲しい気持ちは分かります。派兵された息子が無事に帰還するまで、毎夜切々と祈りながら苦しむことになるでしょう。
悲しい顔をした老婦人にイスラは同情したかもしれません。イスラは優しい子なので、兵士を見送っていた女性や子どもを哀れんだかもしれません。
でも、それでも私は決めたのです。
「イスラ……」
イスラの名を小さく呟いて、閉じた目元に口付けを落とす。
もう大丈夫です。もうなんの心配もいりません。たとえ全ての人間が勇者を求めても、私が守ってあげます。絶対渡したくありません。
このまま私といればイスラはもうあんな顔をすることはなくなるでしょう。傷付くこともなくなるでしょう。
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