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カルタニア パルヴァ
パルヴァは坂の街だ。この街では傾斜のない道というものはほとんど存在しない。どれほど狭い路地であろうと、ちょっとした通路であろうと、うっかり林檎を落としでもすれば、何処までも転がって行ってしまう。限られた敷地にひしめき合う建物はどれも背が低く、丘の斜面にしがみついているようにも見える。石畳に覆われた階段を上って振り向けば、方角によって全く異なった景色が目に映る。北を見れば鬱蒼とした森が、南には緑を継ぎ接ぎした田園がどこまでも広がっている。西を向けば青々とした海があり、北には亭々たるウテロ山が聳える。
この坂の街で唯一、傾斜のない場所がある。それが、丘の上にある教王庁の敷地だ。台地の頂きに築かれた教王庁は、いくつかの建物からなる。教王の住まいはもちろん、図書館、神官の修行を行うための棟に、執務室を有する塔。そうした建物の中で最も重要なのが万神宮だ。
もともと『万神宮』は『全ての神を祀る巨大な神殿』を意味する言葉だった。
大昔のカルタニア──当時のカルタナは、いかなる国のいかなる支配者にもまつろわぬ、神々に身を捧げた者たちの都だった。だが、陽神が最高神と定められてからは、まつろわぬ都は領土を拡げ、ついには一つの国となった。万神宮は陽神に捧げられた円形の神殿と、教王庁の施設全体のことを指すようになった。
広大な敷地にある全ての建造物は、陽神の神殿を取り囲む光輪のように配置されている。
万神宮は、陽神教の長い歴史の中で何度か再建されてきた。現存しているのは、信徒たちを受け入れる広場や、豪華絢爛な装飾に彩られた神殿を有する見事なもので、いままでで最も壮麗な造りだと言われている。
建物の中に一歩入れば、その豪奢さに目がくらみそうになる。この何百年かの間、神殿をせっせと改装してきた教王庁のお歴々が、神の家を飾り立てることに金を惜しまなかったのは間違いない。
巷には、ナドカの恐ろしさを過剰に誇張した本や、説教があふれかえっている。ナドカは巧みに正体を隠して人びとの間に潜み、血肉を啜る機会を窺っているだとか、魔女は赤子を攫って儀式の生贄にするだとか……根も葉もない流言に不安を煽られた人びとが、連日万神宮に詰めかけて祈っている。万神宮に立ち入るには認可証が必要だが、それをもたぬ者は壁の外に跪く。実際、敷地に入る者よりも外で祈る者の方が多いくらいだ。パルヴァの市壁の中に入ることさえ許されなかった旅人は、丘の麓からでも祈りを捧げた。
最高神なきあとの世で、空っぽの神殿に祈ることのむなしさをよく知るホラスでさえ、彼らの恐怖と不安を目の当たりにすると動揺してしまう。彼らは流言に突き動かされているにすぎない。だが、その恐怖は本物なのだ。彼らの祈りと同様に。
手を差し伸べることができない今の自分が、ほんの少しもどかしくもある。
かつてたった一度、ホラスは陽神そのひとと──いや、神とと言うべきか──話をした。彼は、己の教えから逸脱してゆく教会を憂えていた。この壮麗な神殿を訪う神はもう居ないのだと思うと、要石を抜かれ、今にも崩れそうな屋根の下を歩くような不安に駆られた。
その一方で、石の聖堂にこだまする聖歌の清らかな響きに相変わらず心を揺さぶられる。目の奥が熱くなる。その響きに身を任せて、至高の存在に思いを馳せ、祈りたくなる。
しっかりしろ。ぐらついている暇はない。
ホラスは、万神宮の図書室で司書を務める、とある神官からの注文の品を携えていた。カルタニアの深部へと潜るため、ホラスは神宮に仕える学侶たちの要望に応え、信頼を勝ち得た。今では、市井のものには見ることさえ許されない領域にも入れる。出入りの認可を得るまでにはかなりの時間を要したけれど、その価値は十二分にあった。話し好きの司書たちとお近づきになれなかったら、金面兵の暗躍を突き止めることもできなかったはずだ。
革の鞄に十冊の本を注意深く収め、それを背負ったまま図書室へと向かう。真っ白な大理石で統一された列柱廊を進んで、建物の入り口を潜る。貴重な書物の居場所は、最も日の当たらない東北の棟と定められている。
図書室の入り口に立つ衛士に許可証を見せ、重厚な扉の向こう側に立ち入ると、薄暗い部屋の、湿った空気中に漂う古書の匂いに包まれた。
広大な図書室は無数の本棚で埋め尽くされ、壁という壁も書架に覆われている。本を傷める日光を嫌い、可能な限り狭く作られた窓には薄絹の窓帷が引かれている。部屋の中央には書き物をするための机や書見台が設置されていて、存在することを許された明かりはもっぱら、そこに集中していた。この巨大な文庫の中で、可動式の梯子にしがみついて目当ての本を探す学侶たちの姿はあまりにも小さく、まるで紙魚のように見えた。
最初の万神宮がいつ築かれたのか、正確なところは誰も知らない。あのヴェルギル──シルリク王が人間だった時よりも古い時代から、それはこの地にあった。その名が表すとおり万の神を祀る宮だったはずのものは、いつしか万の神の王として君臨する陽神を讃える神殿になった。いまでも至る所に神々の姿をみることはできる。だがそれは、醜くよじれた魔物のような存在として──神々の王、デイナに屈服させられた存在としてだ。
図書室の壁面にも、陽神と他の神々との戦いの様子が描かれていた。光輪を背負い、輝く鎧に身を包んだ陽神と対峙するのは、どれも怖ろしげな姿の者ばかりだ。
乙女と母親と老婆という三つの姿をもつ月神は、三つ頭の怪物として描かれている。その傍に蹲る、陰険な顔をした子鬼はリコヴだろう。憤怒の表情を浮かべる痩せさらばえた老人は嵐神。彼の両脇で牙の生えた口を剥き出しにしているのが、死神、戦神、血神の三姉妹。本来ならばこの部屋で崇められるのにふさわしい知神までもが、腐った果実をむさぼり食う妖女の姿をしていた。他にも、ダイラ以外の国で古くから信仰されてきた神々が軒並み、陽神の敵となっている。
陽神も、これを見て虚しい思いに駆られたのだろうか。
ホラスは壁画から目をそらし、依頼主の元へ向かった。
ピナルディ祭司は、この図書室で働く八十名の学侶の一人だ。彼はもっぱら、図書室に併設された写本室に籠もり、写本の制作や傷んだ本の修復に力を注いでいる。
写本室には外部の人間の立ち入りは許されない。ホラスは従使に取り次ぎを頼んで、部屋の前に置かれた小さな長椅子に腰を下ろした。部屋の外からでも、写本室の中に満ちた静寂と緊張感、そして、色とりどりのインクのにおいを嗅ぐことができる気がした。
程なくして、祭司本人がやってきた。
「やあやあ、待たせてすまなかったね」
彼は手についたインクを、染みだらけの布で拭いながら近づいてきた。分厚い丸眼鏡をかけた彼は、実際よりも目が小さく見えるせいでもぐらなどとあだ名されている。だが、彼が手がけた写本はいずれも正確な資料であるばかりでなく、一級の芸術品だ。教会と、そこに属する人びとへの失望に倦んだホラスが、久々に出会うことができた尊敬すべき神官だった。
「待たせてしまったのじゃないといいんだが。一ページ書き終えるまではどうしても席を立てなくて」
「どうぞお気になさらず」ホラスは微笑んだ。「ご注文の本をお届けに伺いました」
これ以上望めないほど沢山の本に囲まれて生きているにも関わらず、ピナルディは新しい本を見て顔を輝かせた。
「素晴らしい!」
彼は思わず声を上げた後、すぐ背後にある写本室に申し訳なさそうな目を向けた。写本室の静寂を乱すのは、大いなる罪なのだ。
「……ここでは話ができないな。中庭に行かないか?」
「よろこんで」ホラスは言った。
「注文した十冊、すべて入手できたのかい? こんな短期間で!」
「お得意様のご要望とあらば」
ホラスはにっこりと微笑んだ。本を手に入れるために魔女の手を借りたことまでは、正直に話す必要はない。
「素晴らしい」
ピナルディはもう一度言った。彼は中庭に設置された小さな円卓の上に布を敷くと、ひとつずつ本を並べていった。
彼が所望したのはいずれも、古くから伝わる伝説を記したものだ。むしろ、昔話や伝承と言った方がいいかも知れない。
「本当に素晴らしい」
さらに念を押すようにもう一度言うと、ピナルディは満面の笑みを浮かべた。「すべて、わたしの希望通りのものだ」
ホラスはほんの一瞬だけ、これが教会に取り入るための偽造工作であることを忘れて微笑んだ。
「しかし、意外でした。ピナルディ様ほどの方が、お伽噺をご研究されるとは」
すると、彼は眼鏡をくいと持ち上げた。彼が何かを説く気分になったときには、そういう仕草をするのだ。
「この伝承に共通することが何だか、わかるかい?」
ホラスは、卓の上に並べられた本を見た。
岩の切れ目を抜けて、二百年前の世界に放り出された女の話。熊に狩りを教わった若い狩人の話。森の奥で妖精の女王にもてなされた男の話……。
「不可思議な話だという事の他に?」
ホラスは降参するように笑った。話し好きの学者は得てして、この表情に弱い。
「いいかい」思った通り、彼は前に身を乗り出して話し始めた。「これらの伝承はすべて、混沌の領土の存在を描いたものなのだ。あ、混沌の領土というのは、僕が命名したのだけれどね」
「混沌の領土……ですか」今回ばかりは、無知を装う必要はなかった。神官として生きてきた人生の中でも、そんな言葉は聞いたことがない。「一体、どういうものなのです?」
「それはだね」ピナルディは、日に当たらない生活をしているせいで青白い肌を紅潮させた。「この世には、理がある。朝から夜、夜から朝へと時が巡るように。全てのものが上から下へ落ちるように。生きとし生けるものには死が訪れるように。もちろん、人にもナドカにも、例外はない」
ホラスは頷いた。
「だが、そうした理が通用しない領域が、この世にはあるのだよ。そこは未来が過去へと進み、物体が空間を飛び回り、ひとと獣の区別はなく、生も死も存在しない。これらの本は、そんな領域の存在を証明する手がかりなのだ」
「ですが……そんなものがあるとして──それは、神の摂理に反しているのではないですか」
神官がのめり込む研究としては、あまりにも……異質だ。
「もちろん」ピナルディは、朝食に卵を食べたかと尋ねられたみたいにあっさりと頷いた。「そこは、神の支配の及ばない領域だ」
思わず、ホラスは周囲を見回した。こんな話を人に聞かれたら、ピナルディは明日にでも異端の罪で裁かれてしまう。
「平気だ。誰も聞いちゃいないさ」ピナルディは肩をすくめて、持論の展開を続けた。「神々が名前を持たなかった時代、この世は混沌に満ちていた。形の定まらぬ者で溢れ、時の流れにすら法則がなかった。ちょうど、混沌の領土のようにね。だが、我らが陽神の治世が始まると、それは徐々に姿を消していった。秩序が無秩序を駆逐していったんだ」
「なるほど」ピナルディの話に、ホラスは任務も忘れてのめり込みそうになっていた。「つまり、そうした無秩序の生き残りが、混沌の領土に逃げ込んで……いまも存在し続けている?」
ピナルディは喜色満面で頷いた。「そう! そうなんだよ!」
その時、別の神官たちが中庭に出てきた。ピナルディは慌てる風もなく、本を布に包んだ。世界で最も異端に厳しい場所で、異端すれすれの持論を持ち続ける彼は、人目を惹かずに生きる方法を身につけているのだ。
彼は本を小脇に抱えて立ち上がると、ホラスに言った。
「今回も、実によく働いてくれました」彼は穏やかに言った。
「お役に立てて光栄です。祭司様」
ホラスは平民らしく深々とお辞儀をした。
神殿の中へと戻ってゆく間に、彼は小さな声でそっとホラスに告げた。
「世界で一番強大な混沌の領土は、何処にあると思う?」
ホラスは少しだけ身を引き、ピナルディの顔を見た。そこには、火花のように眩い──そしてある意味危うげな──悦びが輝いていた。
「世界で一番強大な……?」ホラスは口ごもった。
その質問を深く考え、ましてや答えることは、ホラスにはできなかった。ピナルディの背後に、見覚えのある顔を見てしまったからだ。
重厚な紅の法衣は、枢司卿の装束。だが、それを纏っているのは、紛れもなくあの青年だった。
最後に会ってから、もう何年にもなる。それでも、彼の顔を忘れられるはずはない。
償いをしろ、償いをしろと、彼に繰り返し言われた。
ハミシュ。リコヴ神の依り代。
「彼が……何故ここに?」
青年を守るように傍らを歩く二人の男は、質素な黒の法衣を身につけていた。油断のない身のこなし。神官というよりは兵士のように見える。ますます意味がわからない。
ピナルディはホラスの視線を追って、驚きの元を見つけた。「ああ、珍しいな。ここでお見かけするとは」
「ご存じなんですか?」
「一方的に、ではあるけれどね」ピナルディは微笑んだ。
どういうことなのか、仮説を組み立てることさえままならない。最も短絡的な結論は、彼がいつの間にかカルタニアに腰を落ち着け、神職としての経歴を歩もうと決めた、というものだが──ありえない。あれほどまでに陽神を憎んでいたリコヴの、その依り代が、そんなことをするはずがない。
「枢司卿にしては……ずいぶんお若い」平静を必死に装って、ホラスは言った。
「そうだとも。彼の素顔を見た者は、みんなそう言うよ」ピナルディは、中庭を横切ってゆく彼の背中を見送ってから、言った。「名前を聞いたことくらいはあるんじゃないのかな」
ホラスは眉を顰めた。「そんなに有名な方なんですか?」
ピナルディは頷いた。
「有名も何も、あなた。彼があの、エヴラルド枢司卿ですよ」
カルタニア パルヴァ
パルヴァは坂の街だ。この街では傾斜のない道というものはほとんど存在しない。どれほど狭い路地であろうと、ちょっとした通路であろうと、うっかり林檎を落としでもすれば、何処までも転がって行ってしまう。限られた敷地にひしめき合う建物はどれも背が低く、丘の斜面にしがみついているようにも見える。石畳に覆われた階段を上って振り向けば、方角によって全く異なった景色が目に映る。北を見れば鬱蒼とした森が、南には緑を継ぎ接ぎした田園がどこまでも広がっている。西を向けば青々とした海があり、北には亭々たるウテロ山が聳える。
この坂の街で唯一、傾斜のない場所がある。それが、丘の上にある教王庁の敷地だ。台地の頂きに築かれた教王庁は、いくつかの建物からなる。教王の住まいはもちろん、図書館、神官の修行を行うための棟に、執務室を有する塔。そうした建物の中で最も重要なのが万神宮だ。
もともと『万神宮』は『全ての神を祀る巨大な神殿』を意味する言葉だった。
大昔のカルタニア──当時のカルタナは、いかなる国のいかなる支配者にもまつろわぬ、神々に身を捧げた者たちの都だった。だが、陽神が最高神と定められてからは、まつろわぬ都は領土を拡げ、ついには一つの国となった。万神宮は陽神に捧げられた円形の神殿と、教王庁の施設全体のことを指すようになった。
広大な敷地にある全ての建造物は、陽神の神殿を取り囲む光輪のように配置されている。
万神宮は、陽神教の長い歴史の中で何度か再建されてきた。現存しているのは、信徒たちを受け入れる広場や、豪華絢爛な装飾に彩られた神殿を有する見事なもので、いままでで最も壮麗な造りだと言われている。
建物の中に一歩入れば、その豪奢さに目がくらみそうになる。この何百年かの間、神殿をせっせと改装してきた教王庁のお歴々が、神の家を飾り立てることに金を惜しまなかったのは間違いない。
巷には、ナドカの恐ろしさを過剰に誇張した本や、説教があふれかえっている。ナドカは巧みに正体を隠して人びとの間に潜み、血肉を啜る機会を窺っているだとか、魔女は赤子を攫って儀式の生贄にするだとか……根も葉もない流言に不安を煽られた人びとが、連日万神宮に詰めかけて祈っている。万神宮に立ち入るには認可証が必要だが、それをもたぬ者は壁の外に跪く。実際、敷地に入る者よりも外で祈る者の方が多いくらいだ。パルヴァの市壁の中に入ることさえ許されなかった旅人は、丘の麓からでも祈りを捧げた。
最高神なきあとの世で、空っぽの神殿に祈ることのむなしさをよく知るホラスでさえ、彼らの恐怖と不安を目の当たりにすると動揺してしまう。彼らは流言に突き動かされているにすぎない。だが、その恐怖は本物なのだ。彼らの祈りと同様に。
手を差し伸べることができない今の自分が、ほんの少しもどかしくもある。
かつてたった一度、ホラスは陽神そのひとと──いや、神とと言うべきか──話をした。彼は、己の教えから逸脱してゆく教会を憂えていた。この壮麗な神殿を訪う神はもう居ないのだと思うと、要石を抜かれ、今にも崩れそうな屋根の下を歩くような不安に駆られた。
その一方で、石の聖堂にこだまする聖歌の清らかな響きに相変わらず心を揺さぶられる。目の奥が熱くなる。その響きに身を任せて、至高の存在に思いを馳せ、祈りたくなる。
しっかりしろ。ぐらついている暇はない。
ホラスは、万神宮の図書室で司書を務める、とある神官からの注文の品を携えていた。カルタニアの深部へと潜るため、ホラスは神宮に仕える学侶たちの要望に応え、信頼を勝ち得た。今では、市井のものには見ることさえ許されない領域にも入れる。出入りの認可を得るまでにはかなりの時間を要したけれど、その価値は十二分にあった。話し好きの司書たちとお近づきになれなかったら、金面兵の暗躍を突き止めることもできなかったはずだ。
革の鞄に十冊の本を注意深く収め、それを背負ったまま図書室へと向かう。真っ白な大理石で統一された列柱廊を進んで、建物の入り口を潜る。貴重な書物の居場所は、最も日の当たらない東北の棟と定められている。
図書室の入り口に立つ衛士に許可証を見せ、重厚な扉の向こう側に立ち入ると、薄暗い部屋の、湿った空気中に漂う古書の匂いに包まれた。
広大な図書室は無数の本棚で埋め尽くされ、壁という壁も書架に覆われている。本を傷める日光を嫌い、可能な限り狭く作られた窓には薄絹の窓帷が引かれている。部屋の中央には書き物をするための机や書見台が設置されていて、存在することを許された明かりはもっぱら、そこに集中していた。この巨大な文庫の中で、可動式の梯子にしがみついて目当ての本を探す学侶たちの姿はあまりにも小さく、まるで紙魚のように見えた。
最初の万神宮がいつ築かれたのか、正確なところは誰も知らない。あのヴェルギル──シルリク王が人間だった時よりも古い時代から、それはこの地にあった。その名が表すとおり万の神を祀る宮だったはずのものは、いつしか万の神の王として君臨する陽神を讃える神殿になった。いまでも至る所に神々の姿をみることはできる。だがそれは、醜くよじれた魔物のような存在として──神々の王、デイナに屈服させられた存在としてだ。
図書室の壁面にも、陽神と他の神々との戦いの様子が描かれていた。光輪を背負い、輝く鎧に身を包んだ陽神と対峙するのは、どれも怖ろしげな姿の者ばかりだ。
乙女と母親と老婆という三つの姿をもつ月神は、三つ頭の怪物として描かれている。その傍に蹲る、陰険な顔をした子鬼はリコヴだろう。憤怒の表情を浮かべる痩せさらばえた老人は嵐神。彼の両脇で牙の生えた口を剥き出しにしているのが、死神、戦神、血神の三姉妹。本来ならばこの部屋で崇められるのにふさわしい知神までもが、腐った果実をむさぼり食う妖女の姿をしていた。他にも、ダイラ以外の国で古くから信仰されてきた神々が軒並み、陽神の敵となっている。
陽神も、これを見て虚しい思いに駆られたのだろうか。
ホラスは壁画から目をそらし、依頼主の元へ向かった。
ピナルディ祭司は、この図書室で働く八十名の学侶の一人だ。彼はもっぱら、図書室に併設された写本室に籠もり、写本の制作や傷んだ本の修復に力を注いでいる。
写本室には外部の人間の立ち入りは許されない。ホラスは従使に取り次ぎを頼んで、部屋の前に置かれた小さな長椅子に腰を下ろした。部屋の外からでも、写本室の中に満ちた静寂と緊張感、そして、色とりどりのインクのにおいを嗅ぐことができる気がした。
程なくして、祭司本人がやってきた。
「やあやあ、待たせてすまなかったね」
彼は手についたインクを、染みだらけの布で拭いながら近づいてきた。分厚い丸眼鏡をかけた彼は、実際よりも目が小さく見えるせいでもぐらなどとあだ名されている。だが、彼が手がけた写本はいずれも正確な資料であるばかりでなく、一級の芸術品だ。教会と、そこに属する人びとへの失望に倦んだホラスが、久々に出会うことができた尊敬すべき神官だった。
「待たせてしまったのじゃないといいんだが。一ページ書き終えるまではどうしても席を立てなくて」
「どうぞお気になさらず」ホラスは微笑んだ。「ご注文の本をお届けに伺いました」
これ以上望めないほど沢山の本に囲まれて生きているにも関わらず、ピナルディは新しい本を見て顔を輝かせた。
「素晴らしい!」
彼は思わず声を上げた後、すぐ背後にある写本室に申し訳なさそうな目を向けた。写本室の静寂を乱すのは、大いなる罪なのだ。
「……ここでは話ができないな。中庭に行かないか?」
「よろこんで」ホラスは言った。
「注文した十冊、すべて入手できたのかい? こんな短期間で!」
「お得意様のご要望とあらば」
ホラスはにっこりと微笑んだ。本を手に入れるために魔女の手を借りたことまでは、正直に話す必要はない。
「素晴らしい」
ピナルディはもう一度言った。彼は中庭に設置された小さな円卓の上に布を敷くと、ひとつずつ本を並べていった。
彼が所望したのはいずれも、古くから伝わる伝説を記したものだ。むしろ、昔話や伝承と言った方がいいかも知れない。
「本当に素晴らしい」
さらに念を押すようにもう一度言うと、ピナルディは満面の笑みを浮かべた。「すべて、わたしの希望通りのものだ」
ホラスはほんの一瞬だけ、これが教会に取り入るための偽造工作であることを忘れて微笑んだ。
「しかし、意外でした。ピナルディ様ほどの方が、お伽噺をご研究されるとは」
すると、彼は眼鏡をくいと持ち上げた。彼が何かを説く気分になったときには、そういう仕草をするのだ。
「この伝承に共通することが何だか、わかるかい?」
ホラスは、卓の上に並べられた本を見た。
岩の切れ目を抜けて、二百年前の世界に放り出された女の話。熊に狩りを教わった若い狩人の話。森の奥で妖精の女王にもてなされた男の話……。
「不可思議な話だという事の他に?」
ホラスは降参するように笑った。話し好きの学者は得てして、この表情に弱い。
「いいかい」思った通り、彼は前に身を乗り出して話し始めた。「これらの伝承はすべて、混沌の領土の存在を描いたものなのだ。あ、混沌の領土というのは、僕が命名したのだけれどね」
「混沌の領土……ですか」今回ばかりは、無知を装う必要はなかった。神官として生きてきた人生の中でも、そんな言葉は聞いたことがない。「一体、どういうものなのです?」
「それはだね」ピナルディは、日に当たらない生活をしているせいで青白い肌を紅潮させた。「この世には、理がある。朝から夜、夜から朝へと時が巡るように。全てのものが上から下へ落ちるように。生きとし生けるものには死が訪れるように。もちろん、人にもナドカにも、例外はない」
ホラスは頷いた。
「だが、そうした理が通用しない領域が、この世にはあるのだよ。そこは未来が過去へと進み、物体が空間を飛び回り、ひとと獣の区別はなく、生も死も存在しない。これらの本は、そんな領域の存在を証明する手がかりなのだ」
「ですが……そんなものがあるとして──それは、神の摂理に反しているのではないですか」
神官がのめり込む研究としては、あまりにも……異質だ。
「もちろん」ピナルディは、朝食に卵を食べたかと尋ねられたみたいにあっさりと頷いた。「そこは、神の支配の及ばない領域だ」
思わず、ホラスは周囲を見回した。こんな話を人に聞かれたら、ピナルディは明日にでも異端の罪で裁かれてしまう。
「平気だ。誰も聞いちゃいないさ」ピナルディは肩をすくめて、持論の展開を続けた。「神々が名前を持たなかった時代、この世は混沌に満ちていた。形の定まらぬ者で溢れ、時の流れにすら法則がなかった。ちょうど、混沌の領土のようにね。だが、我らが陽神の治世が始まると、それは徐々に姿を消していった。秩序が無秩序を駆逐していったんだ」
「なるほど」ピナルディの話に、ホラスは任務も忘れてのめり込みそうになっていた。「つまり、そうした無秩序の生き残りが、混沌の領土に逃げ込んで……いまも存在し続けている?」
ピナルディは喜色満面で頷いた。「そう! そうなんだよ!」
その時、別の神官たちが中庭に出てきた。ピナルディは慌てる風もなく、本を布に包んだ。世界で最も異端に厳しい場所で、異端すれすれの持論を持ち続ける彼は、人目を惹かずに生きる方法を身につけているのだ。
彼は本を小脇に抱えて立ち上がると、ホラスに言った。
「今回も、実によく働いてくれました」彼は穏やかに言った。
「お役に立てて光栄です。祭司様」
ホラスは平民らしく深々とお辞儀をした。
神殿の中へと戻ってゆく間に、彼は小さな声でそっとホラスに告げた。
「世界で一番強大な混沌の領土は、何処にあると思う?」
ホラスは少しだけ身を引き、ピナルディの顔を見た。そこには、火花のように眩い──そしてある意味危うげな──悦びが輝いていた。
「世界で一番強大な……?」ホラスは口ごもった。
その質問を深く考え、ましてや答えることは、ホラスにはできなかった。ピナルディの背後に、見覚えのある顔を見てしまったからだ。
重厚な紅の法衣は、枢司卿の装束。だが、それを纏っているのは、紛れもなくあの青年だった。
最後に会ってから、もう何年にもなる。それでも、彼の顔を忘れられるはずはない。
償いをしろ、償いをしろと、彼に繰り返し言われた。
ハミシュ。リコヴ神の依り代。
「彼が……何故ここに?」
青年を守るように傍らを歩く二人の男は、質素な黒の法衣を身につけていた。油断のない身のこなし。神官というよりは兵士のように見える。ますます意味がわからない。
ピナルディはホラスの視線を追って、驚きの元を見つけた。「ああ、珍しいな。ここでお見かけするとは」
「ご存じなんですか?」
「一方的に、ではあるけれどね」ピナルディは微笑んだ。
どういうことなのか、仮説を組み立てることさえままならない。最も短絡的な結論は、彼がいつの間にかカルタニアに腰を落ち着け、神職としての経歴を歩もうと決めた、というものだが──ありえない。あれほどまでに陽神を憎んでいたリコヴの、その依り代が、そんなことをするはずがない。
「枢司卿にしては……ずいぶんお若い」平静を必死に装って、ホラスは言った。
「そうだとも。彼の素顔を見た者は、みんなそう言うよ」ピナルディは、中庭を横切ってゆく彼の背中を見送ってから、言った。「名前を聞いたことくらいはあるんじゃないのかな」
ホラスは眉を顰めた。「そんなに有名な方なんですか?」
ピナルディは頷いた。
「有名も何も、あなた。彼があの、エヴラルド枢司卿ですよ」
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「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
お前らの目は節穴か?BLゲーム主人公の従者になりました!
MEIKO
BL
本編完結しています。お直し中。第12回BL大賞奨励賞いただきました。
僕、エリオット・アノーは伯爵家嫡男の身分を隠して公爵家令息のジュリアス・エドモアの従者をしている。事の発端は十歳の時…家族から虐げられていた僕は、我慢の限界で田舎の領地から家を出て来た。もう二度と戻る事はないと己の身分を捨て、心機一転王都へやって来たものの、現実は厳しく死にかける僕。薄汚い格好でフラフラと彷徨っている所を救ってくれたのが完璧貴公子ジュリアスだ。だけど初めて会った時、不思議な感覚を覚える。えっ、このジュリアスって人…会ったことなかったっけ?その瞬間突然閃く!
「ここって…もしかして、BLゲームの世界じゃない?おまけに僕の最愛の推し〜ジュリアス様!」
知らぬ間にBLゲームの中の名も無き登場人物に転生してしまっていた僕は、命の恩人である坊ちゃまを幸せにしようと奔走する。そして大好きなゲームのイベントも近くで楽しんじゃうもんね〜ワックワク!
だけど何で…全然シナリオ通りじゃないんですけど。坊ちゃまってば、僕のこと大好き過ぎない?
※貴族的表現を使っていますが、別の世界です。ですのでそれにのっとっていない事がありますがご了承下さい。
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