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ダイラ 旧アルバ アドリス城
着々と進められていた会談の準備も整い、翌日の朝には、デンズウィックからエレノア女王が到着した。
彼女は、かつて父親がそうしたように大勢の従者を引き連れてくるようなことはしなかった。楽団も、猟犬の群れもなし。だが彼女が乗る馬車や供ものたちの鎧や仕着せは、いずれも壮麗だった。エレノア女王については、すでに『締まり屋』の女王などという評判が立っている。無駄金を使わず、教会を次々に取り潰した金を懐に貯め込んでいる……と思われているからだ。かつて辣腕を振るった宰相のオールモンドは、己が推進した改革から得た利益を横領した廉で処刑された。それからというもの、女王は金の出入りに特に厳しく目を光らせるようになった、と。
実際は、オールモンドという男は、エレノア女王そのひとが魔道具をつかって纏っていた仮の姿だった。だがその事実は、ごくごく一部のものたちにしか明かされていない。
それにしても、『締まり屋』というあだ名はずいぶん手厳しい。クヴァルドにしてみれば、彼女は金を使うべき場所を心得ているだけのように見えた。己の威信を印象づけるために、金を惜しむべきではない事柄をちゃんと押さえている。
クヴァルド自身は、近頃ようやく上等な衣装を身に纏うようになったものの、まだ慣れてはいない。従者に揃いの仕着せなど着せなくとも、各々が好むものを着ればいいのにと思う。長い旅路を馬車で移動するくらいなら、馬上の人であるほうを選びたい。そうした振る舞いはエイルの王権の威信を損なうと頭では理解しているのだが。
俺は、王らしく振る舞うためのコツを彼女に学ぶべきなのだろう。
城の正面で、オロッカの家臣が勢揃いして女王を迎えた。
彼女は優雅な微笑みを浮かべて馬車から降り立ち、オロッカたちからの挨拶を受け取った。
それから、クヴァルドの姿を見つけると、何かを探すように周囲に視線を走らせた。そして何事もなかったかのように、クヴァルドに手を差し出した。
「フィラン王」
クヴァルドはその手を取って、形式張った辞儀をした。
「エレノア女王」
俺は彼女と同等の立場であると、常に意識しておかなければ。王族が居合わせる場で、何よりも先に忘れそうになるのがそのことだった。
自分はエイルの王で、エイルはダイラの属国ではない。クヴァルドが徒にへりくだれば、それはエイルを、そこに暮らす民を貶めることになるのだ。
女王が休息を求めなかったので、準備ができ次第会談が執り行われる運びとなった。
「此度のご決断、アルバの民はさぞ喜ぶでしょう」
城の中へと進みながら、クヴァルドは言った。
「わたくしもそう思います」エレノアは頷いた。「この国をひとつの果樹にたとえるなら、ファーナムは害虫でした」
「では、オロッカは働き蜂?」
エレノアは小さく笑った。「蝶よりは手強い。それは確かですね」
会談に出席しているのは、クヴァルド、エレノア、オロッカの兄弟、そして、〈大いなる功業〉の傘下に入った〈フーラの砦〉と〈亡霊〉の司令官。
北部叛乱軍の中では二番目に大きな勢力だった〈赤き手〉は、あくまでアルバの独立にこだわったため離反した。〈アラニ〉も彼らの側についた。ダイラの敵は、依然として存在し続けている。
敵、か。
クヴァルドは、部屋で見つけた『警戒せよ』という書き置きについて考えた、あのあと従士たちにも尋ねてみたが、彼らが知っていることは何もなかった。つまり、片時も部屋の前を離れなかった見張りの目を潜ってまで、部屋に書き置きを残した者がいたのだ。
一体誰があんな警告を? そして、何故?
広間では、クヴァルドはエレノアに最も近い席についた。居並ぶ者を注意深く観察してはみるが、おかしな様子はない。敵意を抱えている者がいれば、においでそれと気づけるはずだが、何も見出せなかった。
会談が始まってしまうと、わずかな感情の揺らぎを感じ取るのも難しくなってしまった。会談のはじめに、エレノアが宣言したからだ。
「我が国は、信仰の自由を掲げます」
その一言で、城の広間は騒然となった。もちろん、クヴァルドも驚いた。
「ダイラ全土で、でございますか? アルバだけでなく?」
「さようです」エレノアは落ち着いていた。「まずはアルバから。他の地域でも、順次そのように定めます」
アルバにはもともと、定められた宗教というものが存在していなかった。生業や家系の伝統に従って、自由な神を信仰していた。ダイラに併合されて間もなく、そうした自由は奪われた。それは、その後百年に亘ってアルバが味わう苦しみのうちの一つに過ぎなかった。
エレノア女王の決定がもつ意味は大きい。だがオロッカは、それにすぐさま飛びついて腹を晒すような真似はしなかった。
「恐れながら陛下、それはダイラにとって賢明なご判断と言えますでしょうか。ベイルズの猛反発を、どのようにいなすおつもりなのでしょう」オロッカは言った。「確かに、アルバの民にとっては僥倖です。しかし、我々を手懐けるために目の前に吊された餌のようにも思えてなりません」
「無論、考慮の上です」
ベイルズには、およそ九百年前にダラニア島を占領したフェルジ王国──いまのフェリジアの末裔がおおく暮らしている。陽神教の盾を自認するフェリジアとの繋がりは未だ強く、ベイルズ諸侯はみな熱心な陽神教徒だ。
「アルバを先住民の国とするなら、ベイルズは侵略者の国。そしてダイラは、その二つの血が混ざり合うものたちが築いた国でした」
エレノアは会談の席を見回して、言った。
「わたしはいずれか一方を優遇したりはしないが、制限することもない。ベイルズの神官たちが既得権益を失えば、確かに痛手となるでしょう」エレノアは微笑を浮かべた。「ですが……それだけのこと」
やがてダイラは、内政にまで口を出してくる陽神教の影響下から、完全に自由になる。
明言はされなかったが、女王の狙いは明白だった。
「それだけのことと仰るが、アドリエンヌはベイルズ諸侯らの後ろ盾を得て再び立つでしょう」クヴァルドは言った。「リカルドが王座につけば、この国はふたたび陽神教国になります。ベイルズがそれを求めないはずがない」
女王は頷いた。
「ええ、その通り。フェリジア公家の血筋であるトラモント家の娘は、広大な所領を持つゴドフリーの息子と婚約したとか。先の叛乱で滅んだコールリッジに続く者たちがふたたび戦力を集めていますし、他の諸侯たちも同様に金と力を蓄え、結びつきを強めています」女王は淡々と言った。「内戦が起こるでしょう。いままであったいかなる内戦より熾烈なものになります」
それは、みなが感じていることだった。つぎにどこかで戦争が勃発したら、その戦場には夥しい数の大砲が持ち込まれる。マイデンで勝利したのは北部叛乱軍だが、大砲によって城壁が破られたという事実は曲げられない。マイデンには〈アラニ〉の魔法使いが大勢詰めていたにもかかわらず、だ。これはひとつの結論を導き出した。
強力な兵器を用いれば、貴金の力を借りずともナドカを倒せる。
大砲は、それをさらに小型化して運用するという着想をも人びとに与えてしまった。よく訓練され、高価な装備を纏った重装騎士や、経験を積んだナドカの兵士たちが、多少戦場慣れした程度の平民が扱う大砲によって命を落としている。剣と盾と鎧はじきに姿を消す。そして戦争は、今までとは比べものにならないほど苛烈で、陰惨なものになる。
実に皮肉だ。生きるための場所を求めたナドカによってこの世に生み出された代物が、ナドカを打ち負かす手立てとなってしまうとは。
もっといいことのために使うはずだった──あの時、ダンネルはそう言っていた。自ら生み出した炎薬で、マチェットフォードを焼き尽くそうとする直前に。
もっといいことのために。
だが、その機会は訪れてはいない。
「ベイルズは必ず敵になる。南に顔を向けているときに、背中にまで目を光らせるのは一苦労です」エレノアは言い、たおやかに微笑んだ。
「だから、自由をちらつかせて我々を懐柔しようとなさるのですか? ベイルズとの戦に駆り出すために?」ダンカン・オロッカが言った。「肉を投げれば尻尾を振る野良犬だとでもお思いか」
オロッカは、次期総督となることがほぼ決まっている。だからといって、女王におもねるような態度をとれば、アルバの民からの信頼を失う。彼自身が舐めてきた苦渋を思えば、それこそ簡単に尾を振るような真似はできないだろう。
女王も、反論を期待していたようだった。
「わたくしはあなた方のことを、信頼に足る友だと考えています。犬ではなく」エレノアはきっぱりと言った。
「対等ではない友、ですか」オロッカの静かな眼差しが、エレノアをじっと見つめた。「アルバは依然、ダイラの支配下に置かれるのでしょう。それは対等ではない」
「たとえ立場が対等ではなくても、友は友。手を取り合ってゆくことはできるはず」エレノアはその眼差しを受け止めながら、なおも軽やかに言った。「背の高い者が枝の林檎をもぎ、背の低い者が地面の木の実を探る。恩を受けた者は、彼らにできうる最良の力で友への借りを返すでしょう。そこに主従や利害の関係を持ち込むよりも、まず重んじられるべきは真心であると、わたくしは考えます。ダンカン・オロッカ」
エレノアは、重厚な長卓に身を乗り出した。そうすると、手弱女のようだった彼女が、無畏の威勢を備えた君主と見えた。揺るがぬ瞳で未来を見据える、先導者としての王に。
「わたくしは、あなたがたに真心を差し出す。あなた方はそれを受け取り、ダイラに真心を返すのです」エレノアはきっぱりと言った。「ダイラとアルバがひとつに成ることを期待してはいません。ですが、友にはなれる。わたくしが差し出す手を、あなたが握りさえすれば」
オロッカの顔を見れば、彼が女王の言葉に心を動かされたのはわかった。だが、彼は言った。
「独立を望むものは、再びあなたに反旗を翻すでしょう」
「しかし、新たな総督の元で豊かに生きる者らが、彼らに共感を抱くことはない」エレノアは断言した。「民とはそういうものです。恵まれた暮らしを享受するうちは、肥えた羊のようにおとなしい。彼らを飢えさせ、牙持つ獣にしてしまわぬためにも、善い選択を下さねば」
「どう豊かになれるというのです。アルバの富は、ファーナムが吸い尽くしてしまった」
「マイデンの埋蔵金のような夢物語を、いまここで約束することはできません」エレノアは、目に笑みを湛えて言った。「ですがわたくしは、アルバの自治権を認めます。アルバに議会を設立し、ダイラの議会にも参加する議員を選出してもらいましょう。ダイラの行く末を決める時にはあなたの助言も等しく求め、その言い分に耳を傾ける。アルバが豊かになる方法は、これから共に探っていくのです」
広間の小さな窓から、光が差し込む。
それは降り続く雪の最中に、気まぐれのように現れた晴れ間から零れる光だった。
その場におりた沈黙は、おそらく、このアルバという国が受け入れる変化を前にした、最後の静寂の時だったのだろう。みなが固唾を呑んで、ダンカン・オロッカを見つめていた。
「あなたの父祖たちが我々に与えた苦しみを、あなたが贖いきれるとは思いません」彼は言った。「しかし、あなたは未来を──平穏な未来を約束してくださるのですね」
エレノアは頷いた。
「あなたが平穏な未来を約束してくださるのなら、わたしも同じものを返します」
オロッカの顔に、微笑が浮かぶ。「友として?」
「友として」エレノアは言った。
列席した人びとの口から、ため息が漏れた。皆の表情が和らぎ、笑顔が浮かんだ。それは、冬の間中、硬く強ばっていた蕾がようやく綻ぶ瞬間を見るようだった。
「此度の条約締結に際し、アルバ人、および〈アラニ〉の捕虜を解放します。前者はオロッカ殿へ引き渡しましょう。そして後者は──フィラン王、どうか彼らをエイルに受け入れていただきたいのです」
クヴァルドは頷いた。
「〈アラニ〉への忠誠を捨て、エイルでの暮らしに平和を見出すと誓うのであれば、喜んで彼らを受け入れる」
エレノアはにっこりと微笑んだ。
「素晴らしい」彼女は言った。「今日は歴史に記されるべき日となりました。ダイラが真の平和に向かって歩き出したのですから」
かつて男ばかりが次々と生まれたダイラの王家に、春をもたらした姫君がいた。彼女の存在は、まるで兵舎に現れた花園だと言われた。頑なな心を解きほぐすエレノアの微笑みには、たしかにそんな力がある。だが春とは雪解けの季節であるとともに、地中の種を無慈悲に揺さぶり起こす季節でもある。彼女の軽快な足音は、抗う者を許さぬほどの圧倒的な変化をもたらすだろう。それは、冷たい土の中に眠っていたい者にとっては、このうえなく残酷なことだ。
しかしその残酷さがなければ、この世界は永遠に冬のただ中で立ち止まったままなのだ。
「それでは、我らの友情の証しに」エレノアは言い、控えていた家臣に目配せをした。
すると、広間の奥から、重厚な箱を掲げた、鎧姿の従士が姿を現した。
従士は長卓の前に用意された、小さな机の上にそれを置いた。
箱の中身は指輪だった。金細工の結び目に、ダイラを表す金剛石、アルバを表す紫水晶、そしてエイルを表す翠玉の、三色の宝石があしらわれた意匠のものだ。
裕福な者がもう一方を助ける──か。クヴァルドは内心で独りごちた。
「感謝いたします、女王陛下」オロッカが言った。「願わくばこの宝石のように、我らの誓いが不変のものとなりますことを」
クヴァルドも、礼を言おうと口を開いた。
その時──声が聞こえた。
『警戒せよ』
クヴァルドは、我知らず立ちあがっていた。空耳──ではない。小さな声だが、確かに聞こえた。だが、いったいどこから?
居並ぶ人びとが、困惑した表情で互いを見交わしている。声の出どころがわからない。匂いもない。まるで、空気が語ったかのようだ。
「フィラン陛下?」
オロッカが声をかけてきている。だが、答える余裕はなかった。
広間のいたるところに視線を走らせるクヴァルドの目の前で、宝物を運んできた従士は、相変わらず微動だにせず跪いていた。
その男の鎧の隙間から、微かに立ち上る焦りの匂い。
この匂いには、覚えがある。己の信念に殉ずる覚悟を決めた者が放つ、決死の匂い──あの日、式典の最中に嗅いだのと同じだ。
クヴァルドは長卓を乗り越え、ほんの一瞬の間に男との距離を詰めた。
「フィラン王!?」
男の焦りの匂いが濃くなる。間違いない。警戒すべきは、この男だ。
クヴァルドは男の胸ぐらを掴んで、そのまま地面に押し倒した。
「貴様──!」
男の頭から、兜が落ちる。
同時に、城の衛士たちがクヴァルドを止めようと進み出たが、エレノアが片手をあげてそれを制した。
クヴァルドは男の鎧の襟を掴んだ。エレノアにもよく見えるよう、その男の体を突き出す。
「この者はあなたの臣下か?」
予想外の事態にあっても、彼女はほとんど狼狽していなかった。エレノアは男の顔をじっくりと見て、首を横に振った。「いいえ」
広間をざわめきが満たす。
「わたくしの護衛隊長が、その箱を運んでくるはずでした。だが、この男は彼ではない」
「その箱に、なにかあるのか?」オロッカが言う。「布の下をみせてくれ」
一人の兵士が進み出て、指輪が入っていた箱に敷き詰められていた布を剥ぎ取った。
広間のざわめきは、悲鳴に変わった。
そこには、クヴァルドが思った通りのものが詰め込まれていた。硝子の管に入った、二色の薬液。ダンネルが用いたのと同じ──ヴェルギルを奪ったのと同じ、炎薬だ。
オロッカとエレノア女王の前に、すかさず護衛が立って彼らを守る。列席していた者たちは慌ただしく席を離れた。
「みな、この広間を出るんだ。早く!」オロッカが声を上げる。
会談に出席していた者たちは、炎薬の入った箱から少しでも遠ざかろうと、壁に張り付くように出口を目指した。
オロッカとエレノアも、護衛に取り囲まれて広間を出て行くところだ。クヴァルドも、男の襟首を掴んだまま彼らに続こうと足を踏み出した。
そのとき、背後から首を掴まれ、もの凄い力で引き倒された。クヴァルドの拘束から逃れた男は、重い鎧をがちゃがちゃと鳴らしながら、広間の外へ逃げていった。
すぐさま体制を整え、抗わなくてはと考える。だが、行動に移す間はなかった。起き上がろうと床に着いた左手を、焼け付くような痛みが貫いていた。
「ぐ……!」
この痛み、間違えようがない。ナドカの肉体を容赦なく灼く銀の大釘が、クヴァルドの左手を寄木細工の床に縫い止めていた。
「な……!」
部屋を出て行こうとしていたエレノアとオロッカが立ち止まる。驚きに硬直する一瞬の後、オロッカが腰に手を伸ばす。だが、和平交渉の席についていた彼の腰には武器はなかった。
「王を放しなさい!」エレノアが声を上げる。
そんな言葉など意に介さず、刺客は言った。
「動くな、野良犬」
いまなら、はっきりと感じ取れる。怒りのにおい。憎しみと、覚悟のにおい。死の匂い。
刺客の顔を見るために頭を巡らそうとすると、首の後ろに剣を突きつけられた。クヴァルドは、その刃に宿った力を感じた。銀の刀身。
〈燈火の手〉が潜んでいたのか?
「何者だ!」
刺客は答えなかった。
だが、男の顔を見たオロッカの表情が強ばった
「貴様──何故……!」
「これでようやく、思い知らせてやることができる」
祈るような声。がさついている。聞き覚えはない。だが、匂いは違う。ずいぶん昔に、その匂いを嗅いだ覚えがある。
正体を暴いたのはオロッカだった。
「馬鹿な真似をするな、コナル・モルニ……!」
「コナル?」クヴァルドは振り向いた。
ああ、そうだ。
一度だけ、マルヴィナの屋敷で彼を見た。印象に残らない顔だった。だが、たとえ人相を覚えていたとしても、いまの彼をみて思い出せたかどうか。マルヴィナに仕える家令だった男は、いま、全身から毒々しいほどの憎悪を滾らせ、クヴァルドの命を手中に握っていた。鬼気迫る表情。深く刻まれた皺。見開かれた目は血走っている。まるでおどろおどろしい仮面のようだった。
城の衛兵が弩を手にコナルを取り囲んでいる。だが、エレノアは攻撃の命令を下せずにいた。いま射てば、クヴァルドにも当たりかねない。
「女王エレノア、そしてダンカン・ミドゥン──裏切り者が勢揃いしているな。ここであの炎薬をぶちまければ、さぞ清々するだろう」コナルはほくそ笑んだ「妙な気を起こさせたくなければ、そこでおとなしくこの犬が死ぬのを見ていろ」
これでようやく思い知らせてやることができると、コナルは言った。
彼の主、マルヴィナ・ムーンヴェイルを討ったとき、コナルはその場にいなかった。だが、彼女と対峙したのが、ヒルダ・フィンガルとクヴァルドだったことは数多くの歌に歌われている。
最初から、狙いは俺だった。
シルリク。
ああ、シルリク。
彼は、俺を庇って死んだのだ。
「王を、放しなさい」護衛の制止を振り切って、エレノアが言う。「そなたはかつてわたくしの命を奪おうとし、しくじった。わたしはここにいます。剣を突きつける相手を間違えていますよ」
「間違うものか」コナルは苦々しげに吐き捨てた。「お前など、もはや眼中にない。こいつの命が手に入るなら」
「お前が焚きつけた凶行によって、多くの命が失われた。にもかかわらず、フィラン王はお前の民に慈悲を与えた。〈アラニ〉の狂気と袂を分かつものを、エイルに受け入れたのだ」オロッカがいった。「その慈悲を、お前が奪おうというのか!」
「わたしの民だと? 笑わせるな、オロッカ。お前とてわたしの正体には勘づいていたくせに」コナルは言った。「わたしは化け物ではない。人間だ!」
クヴァルドは、頭を殴られたような目眩を覚えた。
人間。
ヴェルギルを奪ったものがエイルに向ける憎しみ──それを理解するのも、自分の務めだと思っていた。狂気の末の凶行だと決めつけるのではなく、彼らの動機を理解しなくては、また同じ事が起こる。
コナル・モルニの、〈アラニ〉の憤りは、彼らを一つに結びつけていた『エイルへの帰還』という目的を阻まれたことにあるのだと思っていた。だが、そうではなかった。〈アラニ〉は人間に率いられていたのだ。ナドカを化け物と呼ぶ、ひとりの人間の私怨。それがすべてだった。
「貴様らこそ、こんな薄汚れた犬を一国の王と認めるなど!」コナルはざらついた笑いを漏らした。「こいつは〈クラン〉の雌犬と組んで、わが主を殺めた裏切り者だ。死に損ないの吸血鬼にすり寄り、ついには王座を掠め取った!」
「そんな……つもりは──」
「エイルはわが主の悲願だった。主ただ一人が、この世の真の救世主だったのだ。あの方がエイルの霧を晴らしたあかつきには、エダルトを討ち滅ぼし、ナドカどもを従え……輝かしい御代をもたらして下さるはずだった! それを、貴様らが──」コナルの手は、怒りで微かに震えていた。「貴様のような者が、あの方が座すべきだった王座についてよいはずがないのだ!」
耳を貸してはならないと思いながらも、彼の言葉は、クヴァルドの胸の内に響いていた。
俺に、王座につく資格はない。そんなことは、自分自身が一番よくわかってる。
それでも、ここで死ぬわけにはいかない。王としてふさわしくなかろうと、俺には使命がある。
「ナドカのことなど省みないお前が、よくもそんなことを!」オロッカが言う。
「何も知らぬくせに大口を叩くな、ゴミ溜めの王よ。生き場所を失ったあの連中が大義を求めたから、わたしが与えてやっただけだ。お前がアルバの破落戸どもに戦う理由をくれてやったのと同じにな」
「私は仲間を蔑んだりはしない。お前の主人とて、お前が言う化け物のひとりだろうに」
オロッカの言葉に憤る風でもなく、コナルは言った。
「あのお方は違った。あのお方だけは、他の化け物どもとは違った」コナルは言った。「あのお方の英知がどれほど類い希なものだったか、知らぬだろう。あのお方の思慮がどれほど深かったか。そして、俺にかけてくれた情けの温かさを。あのお方こそ、俺の救世主だった。あのお方の望みは叶えられるべきだった。そうでなければならなかったのだ」
こんな状況だというのに、クヴァルドには彼の気持ちがわかった。
あれは、彼のための王座だった。本気でそう信じて、彼の治世を輝かせるために、この身を捧げたいと思っていた。
だが、いまならわかる。いまだからこそわかる。
「エイルは……誰か一人を讃えるために栄えるのではない!」
クヴァルドは言いながら、マルヴィナが人魚にしたことを──〈クラン〉の人狼たちにしたことを思った。そして、ハロルド王を意のままに操るために破壊した、ひとりの女性の心のことを。エイルの鍵を手に入れるために、マルヴィナが強いた犠牲は計り知れない。
「エイルは、奪われたものの犠牲の上に立つ国であってはならないのだ……!」
「黙れ!」
コナルは、剣の切っ先をクヴァルドの首筋に押し当てた。
痛みが肌を割る。自分の肉が焦げるにおいがした。
叫ぶものか!
そう思って歯を食いしばったものの、喉の奥から唸り声が迸るのを止めることができなかった。
抗わなくては。ここでむざむざ殺されるわけにはいかない。
「ぐ、う……!」
クヴァルドは唸り声を上げて、左手に突き刺さった大釘の頭を掴んだ。ブスブスと音を立てながら、熱が肌を焼く。だが、歯を食いしばって力を込めた。銀による火傷が、両手の肘のあたりにまで上ってきた。
「無駄な抵抗をするな」コナルは言った。「効き目はよく知っているはずだぞ」
彼のいうとおりだった。〈クラン〉の戦士として、長いこと銀の剣を振るってきたのだから。それでも、諦めるわけにはいかない。ここで屈すれば、希望は失われてしまう。シルリクが灯した希望が。
コナルは、クヴァルドの抵抗をせせら笑った。罠にかかった獣を見下ろす猟師のように無頓着に。
「あの吸血鬼には思い知らせた。だが、まだ十分ではない」コナルは言った。「お前を殺せば、今度こそ、奴は死ぬ」
今度……こそ。
今度こそ。
その言葉が、矢のようにクヴァルドの胸を射貫く。だが、考えがまとまらない。
火傷は胸に届く寸前だった。服の下で、どんどん痛みが広がってゆく。喉元が締め上げられたように苦しい。気道が腫れて、喉が塞がりかけている。
大釘がぐらつき、ついに抜けた。けれど、痛みが強烈すぎて身体を動かせない。
「愚かな」コナルがせせら笑った。
まずい、息が。
手足の先が痺れはじめ、暗闇が視界の隅から迫ってくる。それなのに、死の恐怖さえ感じないほど、コナルの言葉が頭の中で鳴り響いていた。
今度こそ……奴は死ぬ。
「確かに」
その時聞こえた声に、全員が凍り付いた。
なんだ? 彼の声が聞こえる。
クヴァルドは、薄れ往く意識の中でこう考えた。
ああ、そうか。俺を迎えに来てくれたのか、と。
「シルリク……」名前を呼んだが、声になっているかどうかもわからない。
すまなかった。お前が遺してくれた国を守れずに、俺は……こんなところで……。
だが、声はクヴァルドの悔恨には無頓着に語り続けた。
「コナル。君の推測はいいところをついている。彼を殺せば、これ以上ないほど思い知らせることができるだろう──この私にな」
その瞬間。全身が総毛立ち、感覚が一気に目覚めた。
幻では……ない、のか?
そこにいるのか? 本当に?
その声を聞き、においを捕らえるために、身体が勝手に半狼の姿になろうとする。クヴァルドはそれを何とか押しとどめて、暗闇に落ちそうになっていた意識をこじ開けた。
そして、彼を見た。
長卓の上に腰掛けて、彼がこちらを見下ろしていた。あの日、エレノアの戴冠式で着ていた、濃紺と銀の見事な装束を身に纏ったまま。床に届こうかと言うほど長い髪は輪郭を失い、無風の広間に棚引く黒い霧のように見える。肌は雪のように白く、牙は鋭く、瞳は赤い。限界まで飢えている。
飢えているという事実に、貫かれる。
彼が、ここにいる。
ここに。俺の前に。
戻ってきてくれた。
ああ……月神よ。全ての神々よ。もしこれが死に際に見る夢だというなら、どうか、お願いですから、このまま終わりにして下さい。
だが、夢でないなら──。
クヴァルドを捕らえていた剣が震える。
「ヴェルギル、死に損ないの王」コナルは唸った。「穢らわしい黒き血め! ミドゥンまで誑かして、まんまと逃げおおせたな」
コナルの声は、小さな獣の威嚇のように弱々しく聞こえた。
一方、ヴェルギルはからからと笑った。
「黒き血とは! なんとも懐かしい。この頃は面罵されることも少なくなっていたからな」そして、音もなく立ち上がった。「ああ、コナル・モルニ──哀れな男よ」
ヴェルギルは一歩ずつ、コナルに近づいていった。
「お前の主人から王座を掠め取った恥知らずのわたしにも、温情はあったのだ。報われぬ想いに殉ずる男の慰みに、こうしてしばしの間つきあってやったものを。その礼が、これなのか?」
ヴェルギルが一歩歩くごとに、すべてが、彼に引きずられて歪むようだった。空気は薄くなり、代わりに怒りが満ちていった。毒気のように。瘴気のように。
「私の連れあいに」
彼の声は、いまにも地上に落ちようとする雷の轟きだった。
「手をかけようというのなら、償いは高くつくぞ」
「償いなどするものか!」
コナルは叫び、銀の剣の切っ先を、クヴァルドの喉に押し込もうとした。
ヴェルギルが手を掲げると、黒い霧が肢のように伸び、コナルに巻き付いた。それは、クヴァルドから苦もなくコナルを引き剥がした。そして、まるでちっぽけな人形を放り投げるように容易く、空中に磔にした。
すると、エレノアの衛兵たちがすぐさま駆けつけてきた。クヴァルドは、自分を抱きかかえ、部屋の隅へと退避させようとする彼らを止めた。
「離れていろ」がさついた声でなんとか言う。
「陛下をお連れせよとの命令です!」
「俺はここにいたいんだ。君らは逃げろ。頼む」そして、言った。「エレノアなら、わかってくれる」
半ば押しやるように兵たちを逃がすと、クヴァルドは地面に頽れ、ただ傍観者のように、目の前で起こっていることを見つめた。まるで、傍観する以外の何事をも許さない力が、周囲に渦巻いているようだった。
クヴァルドは、ようやくコナルの姿を──その全身を見ることができた。
あまりパッとしない印象の男だと思っていた。命を狙われたこの期に及んでも、そう思う。立派な衣装は会談の列席者に紛れ込むための扮装だろうが、それでも、実に凡庸に見えた。数万のナドカを、自分の恨みを晴らすためだけに扇動した男には見えない。だが、彼はやってのけた。彼が発していたどす黒い憤怒と憎悪。ひとりの男に、あれほどまでの執念を宿した感情を思う。命の続くかぎり、彼は報復を諦めないだろう。ある者は、それを愛と呼ぶのかも知れない。だが、そうは認めたくない。命を食らいつくし、周りにいるものさえ犠牲にする。それは妄執だ。愛とは違う。
愛について考えたとき、自然と視線が彼に吸い寄せられた。
シルリク。
いくらか痩せて、やつれたように見える。それでも、彼を取り巻く力は圧倒的だった。この五年の月日のほぼ全ての時を費やして、彼がもう戻ってこないことを自分自身に納得させようとしていた。にもかかわらず、こうして目の前で立って、話している姿を見た瞬間、積み重ねてきたものは消え失せた。
彼がいる。
生きて、そこにいる。
混乱のうちに、ふたりの男の間を行ったり来たりしていた視線と意識が、コナルのうめき声に引き寄せられた。
彼は声を上げていた。大きな口を開けて、ほとんど叫んでいるようだった。おそらくは、永遠に続く呪詛の言葉を。だが、聞こえなかった。彼が発した言葉はすべて、ヴェルギルが纏う闇の中に吸い込まれてしまっているようだった。
「コナル・モルニよ」ヴェルギルは言った。「お前の居るべき場所は……もうずいぶん前からこの地上にはなかったのだ」
その声は、慈悲深かった。
「主人の下へゆくがいい」
コナルは、叫ぶのをやめた。
次の瞬間、なにかがぷつりと切れたような音がして、コナル・モルニは死んだ。じつにあっけなく。そして彼の身体は、糸の切れた傀儡のように床に落ちた。
広間を覆い尽くすほどに満ちていた瘴気のような息苦しさが、ゆっくりと収まってゆくのが感じられる。だが、夢から覚めた直後のように、現実感がなかった。
ヴェルギルは長いこと、床の上のコナルを見おろしていた。周囲に広がり、揺らいでいた黒い髪は徐々に収縮し……やがて完全に、以前と変わらぬ姿になった。
ヴェルギルは小さなため息をついてから、エレノアとオロッカを振り向いた。
「せっかくの会談を騒がせて申し訳なかった」そして、思い出したように付け加えた。「エレノア女王、遅まきながら──戴冠まことにおめでとう」
会談を続けることができなかったのは言うまでもない。
だが、重要な取り決めは済んでいたし、あとは指輪の進呈だけだったので、重々しさに欠ける雰囲気の中で、そそくさと済まされた。
医者を呼ぼうとするオロッカには断りを入れた。人狼の治癒力は強い。銀による傷だから多少は時間がかかるだろうが、銀の剣を扱う〈クラン〉の人狼は、若い頃から銀の刺激に慣れるための訓練をする。医者を待っている間にほとんど治ってしまうだろう。
そうでなくても、今は誰かと話せる気分ではなかった。
オロッカはクヴァルドたちを部屋に案内した。
ヴェルギルは傍らで、まるで最初からずっとそこにいたかのように微笑んでいる。
「この城は、前に見た時よりも趣味の良い設えになったな」ヴェルギルは朗らかに言った。
「恐縮です」
彼とオロッカは、どうやら旧知の仲のようだ。だが、いつの間に? 気にはなったものの、クヴァルドにそれを追求する余裕は全くなかった。銀がもたらした火傷は治りかけていたが、悪い夢の中で、為す術もなく右往左往しているような気分は収まらなかった。
「部屋の前に、わたしの従者を待機させます。ご用があれば何なりとお声がけを。今は、どうかお休みください」
オロッカ自ら、部屋の戸口に立って二人を見送った。その顔は、クヴァルドのものに劣らず蒼白で──何故だか、微かに恥じ入るようなにおいがした。
「恩に着る」ヴェルギルは言った。「わたしはともかく、君は確かにマシな格好になったな」
オロッカは何かをもごもごと答え、扉を閉めた。
そして、二人きりになった。
クヴァルドは寝台に腰掛けた。それ以上立っているのは無理だった。
「生きている」
ヴェルギルを見上げて、クヴァルドは言った。呆けたような声しか出なかった。
ヴェルギルはにっこりと微笑んだ。「そうだ」
「これは……夢なのか?」
ヴェルギルは何も言わずにクヴァルドに近づき、おずおずと、頬に触れた。
冷たい。
ああ、彼の温度だ。
クヴァルドは、手のひらに頬をすり寄せ、鼻の先で親指の付け根の膨らみをそっとなぞった。
彼の匂いだ。
月神よ、全ての神々よ。もしこれが死に際に見る夢だというなら、どうかこのまま終わりにして下さい。
だが、夢でないなら──。
「夢ではない」ヴェルギルは言った。
クヴァルドは目を開けて、目の前に立つ男を見上げた。
夢でないなら、一度だけ──一度だけ、お許し下さい。
クヴァルドは立ち上がると、右の拳を握って振りかぶり、思い切り殴った。
渾身の一撃でよろめいた勢いにまかせ、二人して寝台に寝そべった。死んで蘇った──詳しい話を聞くまでもなく、そうとしか考えられない──にもかかわらず、相変わらず頑丈な男だ。頬には腫れの一つさえない。
「わたしが思った通り、きみは良い王になった」ヴェルギルは言った。「思わず見蕩れてしまったよ」
彼はクヴァルドの髪を梳き、頬の髭をそっと撫でた。
「とてもよく似合っている」
ふたりは、寄り添ったまま話をした。
話すべき事、訊きたい事は山のようにある。だが、後でいい。いまは彼を感じていたい。
そのはずなのに、疑問を押さえておくことができない。
「お前は……どうして──」
ヴェルギルは、凄絶な赤い瞳に苦悶を浮かべた。
「あと、ほんの少しだった」彼は言った。「コナルに唆された〈アラニ〉の男が、己の身を弑して、わたしたちに思い知らせようとした。あの時……身体は千切れ、霧散した。その場で消えてなくならなかったのは、おそらく──」
彼が右手をあげた。めったなことでは傷つかないはずの吸血鬼の肌に、火傷のような痕が残っている。
「ビョルンから取り戻したわたしの腕輪だ。古い呪いがかけられていたのだろう。わたしを守って、消えてしまった」
クヴァルドは、ヴェルギルの手を握った。彼は感謝するように目を細め、その手を握り返した。
「あの日吹いていた風があとほんの少しでも強ければ、回復するのに百年を要したかもしれない」
彼は深いため息をついた。
「しかし、わたしを滅ぼそうとしたのがコナルなら、救ったのもまた彼なのだ。皮肉なことに」ヴェルギルは言った。「消え去りそうなわたしの身体を、彼がかき集め、箱の中に閉じ込めた。幾重にも重なる捕縛の魔方陣が、わたしをわたしのまま、この世に繋ぎ止めたのだ」
クヴァルドは、小さな声で呟いた。
「何故、そんなことを──」
「今日、彼がやろうとしたことをやり遂げるためだろう」ヴェルギルは言った。「彼の標的は君だった。同時に、わたしに君を失う痛みを思い知らせようとしたのだ。だから……わたしが先に死んではいけなかった」
それからヴェルギルは、多くのことを話してくれた。
コナルに囚われ、彼の憎しみを感じながら、少しずつ感覚を取り戻していったこと。そして、〈アラニ〉からミドゥン──オロッカへの贈り物として手渡され、〈大いなる功業〉の勝利に力を貸してやったことも。
「コナルはオロッカを見くびっていた」ヴェルギルは言った。「箱を開けたら死ぬと脅せば、わたしをいつまでも閉じ込めておくだろうと考えたに違いない。だが、オロッカには悲壮の覚悟があった」
クヴァルドの胸がカッと熱くなる。
「それで……あの男!」
こちらの顔色を窺うような素振り──後ろめたいような、敵意を孕んだような雰囲気の理由がわかった。
あいつがシルリクを閉じ込めていたのか。こそこそと、こんなにも長い間。
嫉妬、それから羨望──たしかに、彼から感じたのはそれだ。そんな感情を抱く権利など、あの男には微塵もないと言うのに!
「フィラン」ヴェルギルが、クヴァルドの拳にそっと手を置いた。「君の元に戻ることができなかったのは、彼のせいではない」
宥めるような声を出されて、かえって苛立ちが募る。だが、クヴァルドはため息をついて自分を抑えた。
「それだけ、回復に時間がかかったということなのだ。彼とわたしの取り決めは……公平なものだった。わたしが彼に知恵を貸し、彼はわたしが回復するまで保護するという契約だ。彼と話をすることで、支離滅裂だったわたしの意識は徐々に束ねられていった。あのまま荒野にでも捨ておかれていたなら、わたしは間違いなく、道理の通じぬ化け物に変じていた」
その可能性を考えて、クヴァルドの背筋に霜が降りる。
ヴェルギルは頷いた。
「とは言え、手を焼かせただろう。痛みがひいたとみるや、寝台から抜け出そうとする怪我人のようだったはずだから」
オロッカの話などどうでもいいと思う気持ちと相まって、言うべきではない言葉が喉元まで出かかっていた。
どうして知らせてくれなかった?
だがヴェルギルは、クヴァルドの顔を見ただけで、胸の内の言葉を聞いたようだった。
「君にできることは、なにもなかった──わたしに関しては」ヴェルギルは、優しく言った。「君にはエイルを託した。その重責だけでも、充分に酷だったはずだ。その上、泥人形のようになってしまったわたしの状態にまで気を揉ませるわけにはいかなかった。あの状態で海を渡ってエイルに戻るという選択肢もなかった。そこまで回復している確信を持てなかったのだ」
彼の言いたいことはわかる。そして正しい。
「それでも……」クヴァルドは、小さな声で囁いた。「それでも、なにかしてやりたかった」
ヴェルギルは微笑んだ。「わかっている」
彼は寝台の上で身じろぎをして、クヴァルドに身を寄せた。
「わかっているとも、我が心臓の鼓動」
ダイラ 旧アルバ アドリス城
着々と進められていた会談の準備も整い、翌日の朝には、デンズウィックからエレノア女王が到着した。
彼女は、かつて父親がそうしたように大勢の従者を引き連れてくるようなことはしなかった。楽団も、猟犬の群れもなし。だが彼女が乗る馬車や供ものたちの鎧や仕着せは、いずれも壮麗だった。エレノア女王については、すでに『締まり屋』の女王などという評判が立っている。無駄金を使わず、教会を次々に取り潰した金を懐に貯め込んでいる……と思われているからだ。かつて辣腕を振るった宰相のオールモンドは、己が推進した改革から得た利益を横領した廉で処刑された。それからというもの、女王は金の出入りに特に厳しく目を光らせるようになった、と。
実際は、オールモンドという男は、エレノア女王そのひとが魔道具をつかって纏っていた仮の姿だった。だがその事実は、ごくごく一部のものたちにしか明かされていない。
それにしても、『締まり屋』というあだ名はずいぶん手厳しい。クヴァルドにしてみれば、彼女は金を使うべき場所を心得ているだけのように見えた。己の威信を印象づけるために、金を惜しむべきではない事柄をちゃんと押さえている。
クヴァルド自身は、近頃ようやく上等な衣装を身に纏うようになったものの、まだ慣れてはいない。従者に揃いの仕着せなど着せなくとも、各々が好むものを着ればいいのにと思う。長い旅路を馬車で移動するくらいなら、馬上の人であるほうを選びたい。そうした振る舞いはエイルの王権の威信を損なうと頭では理解しているのだが。
俺は、王らしく振る舞うためのコツを彼女に学ぶべきなのだろう。
城の正面で、オロッカの家臣が勢揃いして女王を迎えた。
彼女は優雅な微笑みを浮かべて馬車から降り立ち、オロッカたちからの挨拶を受け取った。
それから、クヴァルドの姿を見つけると、何かを探すように周囲に視線を走らせた。そして何事もなかったかのように、クヴァルドに手を差し出した。
「フィラン王」
クヴァルドはその手を取って、形式張った辞儀をした。
「エレノア女王」
俺は彼女と同等の立場であると、常に意識しておかなければ。王族が居合わせる場で、何よりも先に忘れそうになるのがそのことだった。
自分はエイルの王で、エイルはダイラの属国ではない。クヴァルドが徒にへりくだれば、それはエイルを、そこに暮らす民を貶めることになるのだ。
女王が休息を求めなかったので、準備ができ次第会談が執り行われる運びとなった。
「此度のご決断、アルバの民はさぞ喜ぶでしょう」
城の中へと進みながら、クヴァルドは言った。
「わたくしもそう思います」エレノアは頷いた。「この国をひとつの果樹にたとえるなら、ファーナムは害虫でした」
「では、オロッカは働き蜂?」
エレノアは小さく笑った。「蝶よりは手強い。それは確かですね」
会談に出席しているのは、クヴァルド、エレノア、オロッカの兄弟、そして、〈大いなる功業〉の傘下に入った〈フーラの砦〉と〈亡霊〉の司令官。
北部叛乱軍の中では二番目に大きな勢力だった〈赤き手〉は、あくまでアルバの独立にこだわったため離反した。〈アラニ〉も彼らの側についた。ダイラの敵は、依然として存在し続けている。
敵、か。
クヴァルドは、部屋で見つけた『警戒せよ』という書き置きについて考えた、あのあと従士たちにも尋ねてみたが、彼らが知っていることは何もなかった。つまり、片時も部屋の前を離れなかった見張りの目を潜ってまで、部屋に書き置きを残した者がいたのだ。
一体誰があんな警告を? そして、何故?
広間では、クヴァルドはエレノアに最も近い席についた。居並ぶ者を注意深く観察してはみるが、おかしな様子はない。敵意を抱えている者がいれば、においでそれと気づけるはずだが、何も見出せなかった。
会談が始まってしまうと、わずかな感情の揺らぎを感じ取るのも難しくなってしまった。会談のはじめに、エレノアが宣言したからだ。
「我が国は、信仰の自由を掲げます」
その一言で、城の広間は騒然となった。もちろん、クヴァルドも驚いた。
「ダイラ全土で、でございますか? アルバだけでなく?」
「さようです」エレノアは落ち着いていた。「まずはアルバから。他の地域でも、順次そのように定めます」
アルバにはもともと、定められた宗教というものが存在していなかった。生業や家系の伝統に従って、自由な神を信仰していた。ダイラに併合されて間もなく、そうした自由は奪われた。それは、その後百年に亘ってアルバが味わう苦しみのうちの一つに過ぎなかった。
エレノア女王の決定がもつ意味は大きい。だがオロッカは、それにすぐさま飛びついて腹を晒すような真似はしなかった。
「恐れながら陛下、それはダイラにとって賢明なご判断と言えますでしょうか。ベイルズの猛反発を、どのようにいなすおつもりなのでしょう」オロッカは言った。「確かに、アルバの民にとっては僥倖です。しかし、我々を手懐けるために目の前に吊された餌のようにも思えてなりません」
「無論、考慮の上です」
ベイルズには、およそ九百年前にダラニア島を占領したフェルジ王国──いまのフェリジアの末裔がおおく暮らしている。陽神教の盾を自認するフェリジアとの繋がりは未だ強く、ベイルズ諸侯はみな熱心な陽神教徒だ。
「アルバを先住民の国とするなら、ベイルズは侵略者の国。そしてダイラは、その二つの血が混ざり合うものたちが築いた国でした」
エレノアは会談の席を見回して、言った。
「わたしはいずれか一方を優遇したりはしないが、制限することもない。ベイルズの神官たちが既得権益を失えば、確かに痛手となるでしょう」エレノアは微笑を浮かべた。「ですが……それだけのこと」
やがてダイラは、内政にまで口を出してくる陽神教の影響下から、完全に自由になる。
明言はされなかったが、女王の狙いは明白だった。
「それだけのことと仰るが、アドリエンヌはベイルズ諸侯らの後ろ盾を得て再び立つでしょう」クヴァルドは言った。「リカルドが王座につけば、この国はふたたび陽神教国になります。ベイルズがそれを求めないはずがない」
女王は頷いた。
「ええ、その通り。フェリジア公家の血筋であるトラモント家の娘は、広大な所領を持つゴドフリーの息子と婚約したとか。先の叛乱で滅んだコールリッジに続く者たちがふたたび戦力を集めていますし、他の諸侯たちも同様に金と力を蓄え、結びつきを強めています」女王は淡々と言った。「内戦が起こるでしょう。いままであったいかなる内戦より熾烈なものになります」
それは、みなが感じていることだった。つぎにどこかで戦争が勃発したら、その戦場には夥しい数の大砲が持ち込まれる。マイデンで勝利したのは北部叛乱軍だが、大砲によって城壁が破られたという事実は曲げられない。マイデンには〈アラニ〉の魔法使いが大勢詰めていたにもかかわらず、だ。これはひとつの結論を導き出した。
強力な兵器を用いれば、貴金の力を借りずともナドカを倒せる。
大砲は、それをさらに小型化して運用するという着想をも人びとに与えてしまった。よく訓練され、高価な装備を纏った重装騎士や、経験を積んだナドカの兵士たちが、多少戦場慣れした程度の平民が扱う大砲によって命を落としている。剣と盾と鎧はじきに姿を消す。そして戦争は、今までとは比べものにならないほど苛烈で、陰惨なものになる。
実に皮肉だ。生きるための場所を求めたナドカによってこの世に生み出された代物が、ナドカを打ち負かす手立てとなってしまうとは。
もっといいことのために使うはずだった──あの時、ダンネルはそう言っていた。自ら生み出した炎薬で、マチェットフォードを焼き尽くそうとする直前に。
もっといいことのために。
だが、その機会は訪れてはいない。
「ベイルズは必ず敵になる。南に顔を向けているときに、背中にまで目を光らせるのは一苦労です」エレノアは言い、たおやかに微笑んだ。
「だから、自由をちらつかせて我々を懐柔しようとなさるのですか? ベイルズとの戦に駆り出すために?」ダンカン・オロッカが言った。「肉を投げれば尻尾を振る野良犬だとでもお思いか」
オロッカは、次期総督となることがほぼ決まっている。だからといって、女王におもねるような態度をとれば、アルバの民からの信頼を失う。彼自身が舐めてきた苦渋を思えば、それこそ簡単に尾を振るような真似はできないだろう。
女王も、反論を期待していたようだった。
「わたくしはあなた方のことを、信頼に足る友だと考えています。犬ではなく」エレノアはきっぱりと言った。
「対等ではない友、ですか」オロッカの静かな眼差しが、エレノアをじっと見つめた。「アルバは依然、ダイラの支配下に置かれるのでしょう。それは対等ではない」
「たとえ立場が対等ではなくても、友は友。手を取り合ってゆくことはできるはず」エレノアはその眼差しを受け止めながら、なおも軽やかに言った。「背の高い者が枝の林檎をもぎ、背の低い者が地面の木の実を探る。恩を受けた者は、彼らにできうる最良の力で友への借りを返すでしょう。そこに主従や利害の関係を持ち込むよりも、まず重んじられるべきは真心であると、わたくしは考えます。ダンカン・オロッカ」
エレノアは、重厚な長卓に身を乗り出した。そうすると、手弱女のようだった彼女が、無畏の威勢を備えた君主と見えた。揺るがぬ瞳で未来を見据える、先導者としての王に。
「わたくしは、あなたがたに真心を差し出す。あなた方はそれを受け取り、ダイラに真心を返すのです」エレノアはきっぱりと言った。「ダイラとアルバがひとつに成ることを期待してはいません。ですが、友にはなれる。わたくしが差し出す手を、あなたが握りさえすれば」
オロッカの顔を見れば、彼が女王の言葉に心を動かされたのはわかった。だが、彼は言った。
「独立を望むものは、再びあなたに反旗を翻すでしょう」
「しかし、新たな総督の元で豊かに生きる者らが、彼らに共感を抱くことはない」エレノアは断言した。「民とはそういうものです。恵まれた暮らしを享受するうちは、肥えた羊のようにおとなしい。彼らを飢えさせ、牙持つ獣にしてしまわぬためにも、善い選択を下さねば」
「どう豊かになれるというのです。アルバの富は、ファーナムが吸い尽くしてしまった」
「マイデンの埋蔵金のような夢物語を、いまここで約束することはできません」エレノアは、目に笑みを湛えて言った。「ですがわたくしは、アルバの自治権を認めます。アルバに議会を設立し、ダイラの議会にも参加する議員を選出してもらいましょう。ダイラの行く末を決める時にはあなたの助言も等しく求め、その言い分に耳を傾ける。アルバが豊かになる方法は、これから共に探っていくのです」
広間の小さな窓から、光が差し込む。
それは降り続く雪の最中に、気まぐれのように現れた晴れ間から零れる光だった。
その場におりた沈黙は、おそらく、このアルバという国が受け入れる変化を前にした、最後の静寂の時だったのだろう。みなが固唾を呑んで、ダンカン・オロッカを見つめていた。
「あなたの父祖たちが我々に与えた苦しみを、あなたが贖いきれるとは思いません」彼は言った。「しかし、あなたは未来を──平穏な未来を約束してくださるのですね」
エレノアは頷いた。
「あなたが平穏な未来を約束してくださるのなら、わたしも同じものを返します」
オロッカの顔に、微笑が浮かぶ。「友として?」
「友として」エレノアは言った。
列席した人びとの口から、ため息が漏れた。皆の表情が和らぎ、笑顔が浮かんだ。それは、冬の間中、硬く強ばっていた蕾がようやく綻ぶ瞬間を見るようだった。
「此度の条約締結に際し、アルバ人、および〈アラニ〉の捕虜を解放します。前者はオロッカ殿へ引き渡しましょう。そして後者は──フィラン王、どうか彼らをエイルに受け入れていただきたいのです」
クヴァルドは頷いた。
「〈アラニ〉への忠誠を捨て、エイルでの暮らしに平和を見出すと誓うのであれば、喜んで彼らを受け入れる」
エレノアはにっこりと微笑んだ。
「素晴らしい」彼女は言った。「今日は歴史に記されるべき日となりました。ダイラが真の平和に向かって歩き出したのですから」
かつて男ばかりが次々と生まれたダイラの王家に、春をもたらした姫君がいた。彼女の存在は、まるで兵舎に現れた花園だと言われた。頑なな心を解きほぐすエレノアの微笑みには、たしかにそんな力がある。だが春とは雪解けの季節であるとともに、地中の種を無慈悲に揺さぶり起こす季節でもある。彼女の軽快な足音は、抗う者を許さぬほどの圧倒的な変化をもたらすだろう。それは、冷たい土の中に眠っていたい者にとっては、このうえなく残酷なことだ。
しかしその残酷さがなければ、この世界は永遠に冬のただ中で立ち止まったままなのだ。
「それでは、我らの友情の証しに」エレノアは言い、控えていた家臣に目配せをした。
すると、広間の奥から、重厚な箱を掲げた、鎧姿の従士が姿を現した。
従士は長卓の前に用意された、小さな机の上にそれを置いた。
箱の中身は指輪だった。金細工の結び目に、ダイラを表す金剛石、アルバを表す紫水晶、そしてエイルを表す翠玉の、三色の宝石があしらわれた意匠のものだ。
裕福な者がもう一方を助ける──か。クヴァルドは内心で独りごちた。
「感謝いたします、女王陛下」オロッカが言った。「願わくばこの宝石のように、我らの誓いが不変のものとなりますことを」
クヴァルドも、礼を言おうと口を開いた。
その時──声が聞こえた。
『警戒せよ』
クヴァルドは、我知らず立ちあがっていた。空耳──ではない。小さな声だが、確かに聞こえた。だが、いったいどこから?
居並ぶ人びとが、困惑した表情で互いを見交わしている。声の出どころがわからない。匂いもない。まるで、空気が語ったかのようだ。
「フィラン陛下?」
オロッカが声をかけてきている。だが、答える余裕はなかった。
広間のいたるところに視線を走らせるクヴァルドの目の前で、宝物を運んできた従士は、相変わらず微動だにせず跪いていた。
その男の鎧の隙間から、微かに立ち上る焦りの匂い。
この匂いには、覚えがある。己の信念に殉ずる覚悟を決めた者が放つ、決死の匂い──あの日、式典の最中に嗅いだのと同じだ。
クヴァルドは長卓を乗り越え、ほんの一瞬の間に男との距離を詰めた。
「フィラン王!?」
男の焦りの匂いが濃くなる。間違いない。警戒すべきは、この男だ。
クヴァルドは男の胸ぐらを掴んで、そのまま地面に押し倒した。
「貴様──!」
男の頭から、兜が落ちる。
同時に、城の衛士たちがクヴァルドを止めようと進み出たが、エレノアが片手をあげてそれを制した。
クヴァルドは男の鎧の襟を掴んだ。エレノアにもよく見えるよう、その男の体を突き出す。
「この者はあなたの臣下か?」
予想外の事態にあっても、彼女はほとんど狼狽していなかった。エレノアは男の顔をじっくりと見て、首を横に振った。「いいえ」
広間をざわめきが満たす。
「わたくしの護衛隊長が、その箱を運んでくるはずでした。だが、この男は彼ではない」
「その箱に、なにかあるのか?」オロッカが言う。「布の下をみせてくれ」
一人の兵士が進み出て、指輪が入っていた箱に敷き詰められていた布を剥ぎ取った。
広間のざわめきは、悲鳴に変わった。
そこには、クヴァルドが思った通りのものが詰め込まれていた。硝子の管に入った、二色の薬液。ダンネルが用いたのと同じ──ヴェルギルを奪ったのと同じ、炎薬だ。
オロッカとエレノア女王の前に、すかさず護衛が立って彼らを守る。列席していた者たちは慌ただしく席を離れた。
「みな、この広間を出るんだ。早く!」オロッカが声を上げる。
会談に出席していた者たちは、炎薬の入った箱から少しでも遠ざかろうと、壁に張り付くように出口を目指した。
オロッカとエレノアも、護衛に取り囲まれて広間を出て行くところだ。クヴァルドも、男の襟首を掴んだまま彼らに続こうと足を踏み出した。
そのとき、背後から首を掴まれ、もの凄い力で引き倒された。クヴァルドの拘束から逃れた男は、重い鎧をがちゃがちゃと鳴らしながら、広間の外へ逃げていった。
すぐさま体制を整え、抗わなくてはと考える。だが、行動に移す間はなかった。起き上がろうと床に着いた左手を、焼け付くような痛みが貫いていた。
「ぐ……!」
この痛み、間違えようがない。ナドカの肉体を容赦なく灼く銀の大釘が、クヴァルドの左手を寄木細工の床に縫い止めていた。
「な……!」
部屋を出て行こうとしていたエレノアとオロッカが立ち止まる。驚きに硬直する一瞬の後、オロッカが腰に手を伸ばす。だが、和平交渉の席についていた彼の腰には武器はなかった。
「王を放しなさい!」エレノアが声を上げる。
そんな言葉など意に介さず、刺客は言った。
「動くな、野良犬」
いまなら、はっきりと感じ取れる。怒りのにおい。憎しみと、覚悟のにおい。死の匂い。
刺客の顔を見るために頭を巡らそうとすると、首の後ろに剣を突きつけられた。クヴァルドは、その刃に宿った力を感じた。銀の刀身。
〈燈火の手〉が潜んでいたのか?
「何者だ!」
刺客は答えなかった。
だが、男の顔を見たオロッカの表情が強ばった
「貴様──何故……!」
「これでようやく、思い知らせてやることができる」
祈るような声。がさついている。聞き覚えはない。だが、匂いは違う。ずいぶん昔に、その匂いを嗅いだ覚えがある。
正体を暴いたのはオロッカだった。
「馬鹿な真似をするな、コナル・モルニ……!」
「コナル?」クヴァルドは振り向いた。
ああ、そうだ。
一度だけ、マルヴィナの屋敷で彼を見た。印象に残らない顔だった。だが、たとえ人相を覚えていたとしても、いまの彼をみて思い出せたかどうか。マルヴィナに仕える家令だった男は、いま、全身から毒々しいほどの憎悪を滾らせ、クヴァルドの命を手中に握っていた。鬼気迫る表情。深く刻まれた皺。見開かれた目は血走っている。まるでおどろおどろしい仮面のようだった。
城の衛兵が弩を手にコナルを取り囲んでいる。だが、エレノアは攻撃の命令を下せずにいた。いま射てば、クヴァルドにも当たりかねない。
「女王エレノア、そしてダンカン・ミドゥン──裏切り者が勢揃いしているな。ここであの炎薬をぶちまければ、さぞ清々するだろう」コナルはほくそ笑んだ「妙な気を起こさせたくなければ、そこでおとなしくこの犬が死ぬのを見ていろ」
これでようやく思い知らせてやることができると、コナルは言った。
彼の主、マルヴィナ・ムーンヴェイルを討ったとき、コナルはその場にいなかった。だが、彼女と対峙したのが、ヒルダ・フィンガルとクヴァルドだったことは数多くの歌に歌われている。
最初から、狙いは俺だった。
シルリク。
ああ、シルリク。
彼は、俺を庇って死んだのだ。
「王を、放しなさい」護衛の制止を振り切って、エレノアが言う。「そなたはかつてわたくしの命を奪おうとし、しくじった。わたしはここにいます。剣を突きつける相手を間違えていますよ」
「間違うものか」コナルは苦々しげに吐き捨てた。「お前など、もはや眼中にない。こいつの命が手に入るなら」
「お前が焚きつけた凶行によって、多くの命が失われた。にもかかわらず、フィラン王はお前の民に慈悲を与えた。〈アラニ〉の狂気と袂を分かつものを、エイルに受け入れたのだ」オロッカがいった。「その慈悲を、お前が奪おうというのか!」
「わたしの民だと? 笑わせるな、オロッカ。お前とてわたしの正体には勘づいていたくせに」コナルは言った。「わたしは化け物ではない。人間だ!」
クヴァルドは、頭を殴られたような目眩を覚えた。
人間。
ヴェルギルを奪ったものがエイルに向ける憎しみ──それを理解するのも、自分の務めだと思っていた。狂気の末の凶行だと決めつけるのではなく、彼らの動機を理解しなくては、また同じ事が起こる。
コナル・モルニの、〈アラニ〉の憤りは、彼らを一つに結びつけていた『エイルへの帰還』という目的を阻まれたことにあるのだと思っていた。だが、そうではなかった。〈アラニ〉は人間に率いられていたのだ。ナドカを化け物と呼ぶ、ひとりの人間の私怨。それがすべてだった。
「貴様らこそ、こんな薄汚れた犬を一国の王と認めるなど!」コナルはざらついた笑いを漏らした。「こいつは〈クラン〉の雌犬と組んで、わが主を殺めた裏切り者だ。死に損ないの吸血鬼にすり寄り、ついには王座を掠め取った!」
「そんな……つもりは──」
「エイルはわが主の悲願だった。主ただ一人が、この世の真の救世主だったのだ。あの方がエイルの霧を晴らしたあかつきには、エダルトを討ち滅ぼし、ナドカどもを従え……輝かしい御代をもたらして下さるはずだった! それを、貴様らが──」コナルの手は、怒りで微かに震えていた。「貴様のような者が、あの方が座すべきだった王座についてよいはずがないのだ!」
耳を貸してはならないと思いながらも、彼の言葉は、クヴァルドの胸の内に響いていた。
俺に、王座につく資格はない。そんなことは、自分自身が一番よくわかってる。
それでも、ここで死ぬわけにはいかない。王としてふさわしくなかろうと、俺には使命がある。
「ナドカのことなど省みないお前が、よくもそんなことを!」オロッカが言う。
「何も知らぬくせに大口を叩くな、ゴミ溜めの王よ。生き場所を失ったあの連中が大義を求めたから、わたしが与えてやっただけだ。お前がアルバの破落戸どもに戦う理由をくれてやったのと同じにな」
「私は仲間を蔑んだりはしない。お前の主人とて、お前が言う化け物のひとりだろうに」
オロッカの言葉に憤る風でもなく、コナルは言った。
「あのお方は違った。あのお方だけは、他の化け物どもとは違った」コナルは言った。「あのお方の英知がどれほど類い希なものだったか、知らぬだろう。あのお方の思慮がどれほど深かったか。そして、俺にかけてくれた情けの温かさを。あのお方こそ、俺の救世主だった。あのお方の望みは叶えられるべきだった。そうでなければならなかったのだ」
こんな状況だというのに、クヴァルドには彼の気持ちがわかった。
あれは、彼のための王座だった。本気でそう信じて、彼の治世を輝かせるために、この身を捧げたいと思っていた。
だが、いまならわかる。いまだからこそわかる。
「エイルは……誰か一人を讃えるために栄えるのではない!」
クヴァルドは言いながら、マルヴィナが人魚にしたことを──〈クラン〉の人狼たちにしたことを思った。そして、ハロルド王を意のままに操るために破壊した、ひとりの女性の心のことを。エイルの鍵を手に入れるために、マルヴィナが強いた犠牲は計り知れない。
「エイルは、奪われたものの犠牲の上に立つ国であってはならないのだ……!」
「黙れ!」
コナルは、剣の切っ先をクヴァルドの首筋に押し当てた。
痛みが肌を割る。自分の肉が焦げるにおいがした。
叫ぶものか!
そう思って歯を食いしばったものの、喉の奥から唸り声が迸るのを止めることができなかった。
抗わなくては。ここでむざむざ殺されるわけにはいかない。
「ぐ、う……!」
クヴァルドは唸り声を上げて、左手に突き刺さった大釘の頭を掴んだ。ブスブスと音を立てながら、熱が肌を焼く。だが、歯を食いしばって力を込めた。銀による火傷が、両手の肘のあたりにまで上ってきた。
「無駄な抵抗をするな」コナルは言った。「効き目はよく知っているはずだぞ」
彼のいうとおりだった。〈クラン〉の戦士として、長いこと銀の剣を振るってきたのだから。それでも、諦めるわけにはいかない。ここで屈すれば、希望は失われてしまう。シルリクが灯した希望が。
コナルは、クヴァルドの抵抗をせせら笑った。罠にかかった獣を見下ろす猟師のように無頓着に。
「あの吸血鬼には思い知らせた。だが、まだ十分ではない」コナルは言った。「お前を殺せば、今度こそ、奴は死ぬ」
今度……こそ。
今度こそ。
その言葉が、矢のようにクヴァルドの胸を射貫く。だが、考えがまとまらない。
火傷は胸に届く寸前だった。服の下で、どんどん痛みが広がってゆく。喉元が締め上げられたように苦しい。気道が腫れて、喉が塞がりかけている。
大釘がぐらつき、ついに抜けた。けれど、痛みが強烈すぎて身体を動かせない。
「愚かな」コナルがせせら笑った。
まずい、息が。
手足の先が痺れはじめ、暗闇が視界の隅から迫ってくる。それなのに、死の恐怖さえ感じないほど、コナルの言葉が頭の中で鳴り響いていた。
今度こそ……奴は死ぬ。
「確かに」
その時聞こえた声に、全員が凍り付いた。
なんだ? 彼の声が聞こえる。
クヴァルドは、薄れ往く意識の中でこう考えた。
ああ、そうか。俺を迎えに来てくれたのか、と。
「シルリク……」名前を呼んだが、声になっているかどうかもわからない。
すまなかった。お前が遺してくれた国を守れずに、俺は……こんなところで……。
だが、声はクヴァルドの悔恨には無頓着に語り続けた。
「コナル。君の推測はいいところをついている。彼を殺せば、これ以上ないほど思い知らせることができるだろう──この私にな」
その瞬間。全身が総毛立ち、感覚が一気に目覚めた。
幻では……ない、のか?
そこにいるのか? 本当に?
その声を聞き、においを捕らえるために、身体が勝手に半狼の姿になろうとする。クヴァルドはそれを何とか押しとどめて、暗闇に落ちそうになっていた意識をこじ開けた。
そして、彼を見た。
長卓の上に腰掛けて、彼がこちらを見下ろしていた。あの日、エレノアの戴冠式で着ていた、濃紺と銀の見事な装束を身に纏ったまま。床に届こうかと言うほど長い髪は輪郭を失い、無風の広間に棚引く黒い霧のように見える。肌は雪のように白く、牙は鋭く、瞳は赤い。限界まで飢えている。
飢えているという事実に、貫かれる。
彼が、ここにいる。
ここに。俺の前に。
戻ってきてくれた。
ああ……月神よ。全ての神々よ。もしこれが死に際に見る夢だというなら、どうか、お願いですから、このまま終わりにして下さい。
だが、夢でないなら──。
クヴァルドを捕らえていた剣が震える。
「ヴェルギル、死に損ないの王」コナルは唸った。「穢らわしい黒き血め! ミドゥンまで誑かして、まんまと逃げおおせたな」
コナルの声は、小さな獣の威嚇のように弱々しく聞こえた。
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「黒き血とは! なんとも懐かしい。この頃は面罵されることも少なくなっていたからな」そして、音もなく立ち上がった。「ああ、コナル・モルニ──哀れな男よ」
ヴェルギルは一歩ずつ、コナルに近づいていった。
「お前の主人から王座を掠め取った恥知らずのわたしにも、温情はあったのだ。報われぬ想いに殉ずる男の慰みに、こうしてしばしの間つきあってやったものを。その礼が、これなのか?」
ヴェルギルが一歩歩くごとに、すべてが、彼に引きずられて歪むようだった。空気は薄くなり、代わりに怒りが満ちていった。毒気のように。瘴気のように。
「私の連れあいに」
彼の声は、いまにも地上に落ちようとする雷の轟きだった。
「手をかけようというのなら、償いは高くつくぞ」
「償いなどするものか!」
コナルは叫び、銀の剣の切っ先を、クヴァルドの喉に押し込もうとした。
ヴェルギルが手を掲げると、黒い霧が肢のように伸び、コナルに巻き付いた。それは、クヴァルドから苦もなくコナルを引き剥がした。そして、まるでちっぽけな人形を放り投げるように容易く、空中に磔にした。
すると、エレノアの衛兵たちがすぐさま駆けつけてきた。クヴァルドは、自分を抱きかかえ、部屋の隅へと退避させようとする彼らを止めた。
「離れていろ」がさついた声でなんとか言う。
「陛下をお連れせよとの命令です!」
「俺はここにいたいんだ。君らは逃げろ。頼む」そして、言った。「エレノアなら、わかってくれる」
半ば押しやるように兵たちを逃がすと、クヴァルドは地面に頽れ、ただ傍観者のように、目の前で起こっていることを見つめた。まるで、傍観する以外の何事をも許さない力が、周囲に渦巻いているようだった。
クヴァルドは、ようやくコナルの姿を──その全身を見ることができた。
あまりパッとしない印象の男だと思っていた。命を狙われたこの期に及んでも、そう思う。立派な衣装は会談の列席者に紛れ込むための扮装だろうが、それでも、実に凡庸に見えた。数万のナドカを、自分の恨みを晴らすためだけに扇動した男には見えない。だが、彼はやってのけた。彼が発していたどす黒い憤怒と憎悪。ひとりの男に、あれほどまでの執念を宿した感情を思う。命の続くかぎり、彼は報復を諦めないだろう。ある者は、それを愛と呼ぶのかも知れない。だが、そうは認めたくない。命を食らいつくし、周りにいるものさえ犠牲にする。それは妄執だ。愛とは違う。
愛について考えたとき、自然と視線が彼に吸い寄せられた。
シルリク。
いくらか痩せて、やつれたように見える。それでも、彼を取り巻く力は圧倒的だった。この五年の月日のほぼ全ての時を費やして、彼がもう戻ってこないことを自分自身に納得させようとしていた。にもかかわらず、こうして目の前で立って、話している姿を見た瞬間、積み重ねてきたものは消え失せた。
彼がいる。
生きて、そこにいる。
混乱のうちに、ふたりの男の間を行ったり来たりしていた視線と意識が、コナルのうめき声に引き寄せられた。
彼は声を上げていた。大きな口を開けて、ほとんど叫んでいるようだった。おそらくは、永遠に続く呪詛の言葉を。だが、聞こえなかった。彼が発した言葉はすべて、ヴェルギルが纏う闇の中に吸い込まれてしまっているようだった。
「コナル・モルニよ」ヴェルギルは言った。「お前の居るべき場所は……もうずいぶん前からこの地上にはなかったのだ」
その声は、慈悲深かった。
「主人の下へゆくがいい」
コナルは、叫ぶのをやめた。
次の瞬間、なにかがぷつりと切れたような音がして、コナル・モルニは死んだ。じつにあっけなく。そして彼の身体は、糸の切れた傀儡のように床に落ちた。
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ヴェルギルは長いこと、床の上のコナルを見おろしていた。周囲に広がり、揺らいでいた黒い髪は徐々に収縮し……やがて完全に、以前と変わらぬ姿になった。
ヴェルギルは小さなため息をついてから、エレノアとオロッカを振り向いた。
「せっかくの会談を騒がせて申し訳なかった」そして、思い出したように付け加えた。「エレノア女王、遅まきながら──戴冠まことにおめでとう」
会談を続けることができなかったのは言うまでもない。
だが、重要な取り決めは済んでいたし、あとは指輪の進呈だけだったので、重々しさに欠ける雰囲気の中で、そそくさと済まされた。
医者を呼ぼうとするオロッカには断りを入れた。人狼の治癒力は強い。銀による傷だから多少は時間がかかるだろうが、銀の剣を扱う〈クラン〉の人狼は、若い頃から銀の刺激に慣れるための訓練をする。医者を待っている間にほとんど治ってしまうだろう。
そうでなくても、今は誰かと話せる気分ではなかった。
オロッカはクヴァルドたちを部屋に案内した。
ヴェルギルは傍らで、まるで最初からずっとそこにいたかのように微笑んでいる。
「この城は、前に見た時よりも趣味の良い設えになったな」ヴェルギルは朗らかに言った。
「恐縮です」
彼とオロッカは、どうやら旧知の仲のようだ。だが、いつの間に? 気にはなったものの、クヴァルドにそれを追求する余裕は全くなかった。銀がもたらした火傷は治りかけていたが、悪い夢の中で、為す術もなく右往左往しているような気分は収まらなかった。
「部屋の前に、わたしの従者を待機させます。ご用があれば何なりとお声がけを。今は、どうかお休みください」
オロッカ自ら、部屋の戸口に立って二人を見送った。その顔は、クヴァルドのものに劣らず蒼白で──何故だか、微かに恥じ入るようなにおいがした。
「恩に着る」ヴェルギルは言った。「わたしはともかく、君は確かにマシな格好になったな」
オロッカは何かをもごもごと答え、扉を閉めた。
そして、二人きりになった。
クヴァルドは寝台に腰掛けた。それ以上立っているのは無理だった。
「生きている」
ヴェルギルを見上げて、クヴァルドは言った。呆けたような声しか出なかった。
ヴェルギルはにっこりと微笑んだ。「そうだ」
「これは……夢なのか?」
ヴェルギルは何も言わずにクヴァルドに近づき、おずおずと、頬に触れた。
冷たい。
ああ、彼の温度だ。
クヴァルドは、手のひらに頬をすり寄せ、鼻の先で親指の付け根の膨らみをそっとなぞった。
彼の匂いだ。
月神よ、全ての神々よ。もしこれが死に際に見る夢だというなら、どうかこのまま終わりにして下さい。
だが、夢でないなら──。
「夢ではない」ヴェルギルは言った。
クヴァルドは目を開けて、目の前に立つ男を見上げた。
夢でないなら、一度だけ──一度だけ、お許し下さい。
クヴァルドは立ち上がると、右の拳を握って振りかぶり、思い切り殴った。
渾身の一撃でよろめいた勢いにまかせ、二人して寝台に寝そべった。死んで蘇った──詳しい話を聞くまでもなく、そうとしか考えられない──にもかかわらず、相変わらず頑丈な男だ。頬には腫れの一つさえない。
「わたしが思った通り、きみは良い王になった」ヴェルギルは言った。「思わず見蕩れてしまったよ」
彼はクヴァルドの髪を梳き、頬の髭をそっと撫でた。
「とてもよく似合っている」
ふたりは、寄り添ったまま話をした。
話すべき事、訊きたい事は山のようにある。だが、後でいい。いまは彼を感じていたい。
そのはずなのに、疑問を押さえておくことができない。
「お前は……どうして──」
ヴェルギルは、凄絶な赤い瞳に苦悶を浮かべた。
「あと、ほんの少しだった」彼は言った。「コナルに唆された〈アラニ〉の男が、己の身を弑して、わたしたちに思い知らせようとした。あの時……身体は千切れ、霧散した。その場で消えてなくならなかったのは、おそらく──」
彼が右手をあげた。めったなことでは傷つかないはずの吸血鬼の肌に、火傷のような痕が残っている。
「ビョルンから取り戻したわたしの腕輪だ。古い呪いがかけられていたのだろう。わたしを守って、消えてしまった」
クヴァルドは、ヴェルギルの手を握った。彼は感謝するように目を細め、その手を握り返した。
「あの日吹いていた風があとほんの少しでも強ければ、回復するのに百年を要したかもしれない」
彼は深いため息をついた。
「しかし、わたしを滅ぼそうとしたのがコナルなら、救ったのもまた彼なのだ。皮肉なことに」ヴェルギルは言った。「消え去りそうなわたしの身体を、彼がかき集め、箱の中に閉じ込めた。幾重にも重なる捕縛の魔方陣が、わたしをわたしのまま、この世に繋ぎ止めたのだ」
クヴァルドは、小さな声で呟いた。
「何故、そんなことを──」
「今日、彼がやろうとしたことをやり遂げるためだろう」ヴェルギルは言った。「彼の標的は君だった。同時に、わたしに君を失う痛みを思い知らせようとしたのだ。だから……わたしが先に死んではいけなかった」
それからヴェルギルは、多くのことを話してくれた。
コナルに囚われ、彼の憎しみを感じながら、少しずつ感覚を取り戻していったこと。そして、〈アラニ〉からミドゥン──オロッカへの贈り物として手渡され、〈大いなる功業〉の勝利に力を貸してやったことも。
「コナルはオロッカを見くびっていた」ヴェルギルは言った。「箱を開けたら死ぬと脅せば、わたしをいつまでも閉じ込めておくだろうと考えたに違いない。だが、オロッカには悲壮の覚悟があった」
クヴァルドの胸がカッと熱くなる。
「それで……あの男!」
こちらの顔色を窺うような素振り──後ろめたいような、敵意を孕んだような雰囲気の理由がわかった。
あいつがシルリクを閉じ込めていたのか。こそこそと、こんなにも長い間。
嫉妬、それから羨望──たしかに、彼から感じたのはそれだ。そんな感情を抱く権利など、あの男には微塵もないと言うのに!
「フィラン」ヴェルギルが、クヴァルドの拳にそっと手を置いた。「君の元に戻ることができなかったのは、彼のせいではない」
宥めるような声を出されて、かえって苛立ちが募る。だが、クヴァルドはため息をついて自分を抑えた。
「それだけ、回復に時間がかかったということなのだ。彼とわたしの取り決めは……公平なものだった。わたしが彼に知恵を貸し、彼はわたしが回復するまで保護するという契約だ。彼と話をすることで、支離滅裂だったわたしの意識は徐々に束ねられていった。あのまま荒野にでも捨ておかれていたなら、わたしは間違いなく、道理の通じぬ化け物に変じていた」
その可能性を考えて、クヴァルドの背筋に霜が降りる。
ヴェルギルは頷いた。
「とは言え、手を焼かせただろう。痛みがひいたとみるや、寝台から抜け出そうとする怪我人のようだったはずだから」
オロッカの話などどうでもいいと思う気持ちと相まって、言うべきではない言葉が喉元まで出かかっていた。
どうして知らせてくれなかった?
だがヴェルギルは、クヴァルドの顔を見ただけで、胸の内の言葉を聞いたようだった。
「君にできることは、なにもなかった──わたしに関しては」ヴェルギルは、優しく言った。「君にはエイルを託した。その重責だけでも、充分に酷だったはずだ。その上、泥人形のようになってしまったわたしの状態にまで気を揉ませるわけにはいかなかった。あの状態で海を渡ってエイルに戻るという選択肢もなかった。そこまで回復している確信を持てなかったのだ」
彼の言いたいことはわかる。そして正しい。
「それでも……」クヴァルドは、小さな声で囁いた。「それでも、なにかしてやりたかった」
ヴェルギルは微笑んだ。「わかっている」
彼は寝台の上で身じろぎをして、クヴァルドに身を寄せた。
「わかっているとも、我が心臓の鼓動」
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