【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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 旧ベイルズ マチェットフォード 
 
 暴動も、劇場への放火も、上演の差止め命令も覚悟していた。だが、主演俳優の逃亡は予期していなかった。 
 キャッスリーの新作劇『女王ヘレネー』の上演が始まったその日の夜に、暴動が起こり、劇場に放火され、上演の差止め命令が届けられた。そして極めつけと言わんばかりに、主演のジョセルが行方をくらましたのだ。 
 最初の三つに対しては、まだ打つ手もあったかも知れない。放火によって西側の壁と客席が焼け落ち、劇場の中が通行人から丸見えの状態ではあったが、火は舞台の上にまでは及ばなかった。差止め命令にしたって、その気になれば無視できる。どちらにせよ、放火も差し止めも、上演を邪魔したい者たちからの脅しに過ぎない。だが俳優が消えてしまっては、どんな手を打ったところで無意味だ。 
 逃げたジョセルの気持ちは理解できる。マチェットフォードに流布する噂を考えれば無理はない。キャッスリー自身、もしなんの制約もない身だったら間違いなくとんずらしていた。 
 焼け跡での稽古は続いていたけれど、誰ひとりとして本気で打ち込んでいる者は居なかった。誰も彼も、副座長のキャメロンさえ、気の抜けた麦酒エールのような有様だった。 
 キャッスリーは焼け残った二階の観覧席に座り、すぐ傍に落ちていた紙片を拾い上げた。それはマチェットフォードの市長を告発した落書らくしょで、似たようなものが街のいたるところに張られていた。 
『市長はフェリジアの手先!』 
 もうじき光箭軍がダイラに攻めてくるという噂は、もはや噂以上のものになっていた。マチェットフォードは商人の街で、大陸との貿易も盛んだから、皆こうした情勢に敏感だ。侵攻はいつか必ず起こる凶事として人びとの胸に刻み込まれていた。そこへ来て、この告発だ。ダイラとベイルズの対立に関しては中立の立場を取ることが多いマチェットフォードだが、いまの市長はベイルズ寄りの人間だった。そして彼は、じき攻めてくる光箭軍にマチェットフォードを明け渡すつもりらしい。 
 フェリジアの占拠を許せば、ダイラはまさにこの街から崩壊する。それを理解していない者は居ないはずだが、市民は──特に裕福な市民たちは──市長に反旗を翻したりはしなかった。エレノアが商業の発展に力を入れてくれたおかげで懐は潤った。それは確かにありがたいが、いかんせん目立ちすぎた。無血降伏する市長の決断は理にかなっているし、戦闘によって町が破壊されないのであればその方がいい、ということだろう。ダイラとベイルズのどちらにも肩入れしない彼らは、誰と手を組むことにも抵抗がない。 
 人びとは街を捨てた。戦闘による破壊は免れても、略奪の可能性は残っているからだ。余裕があるもの、賢明な者から順に街を去った。残されたのは、この街の他にゆくあてのない者か、出て行くための金さえ持っていない者たちばかりだ。 
 マクヒューから期待されていたのは、『女王ヘレネー』を観ることで心を動かされた民衆が市長に働きかけ、防戦の決断を迫る──そんな展開だった。始まりは草の根からでいい。やがて彼らの熱意は、政治的に影響力のある市民や富裕層にまで及ぶだろう、と。 
 市民がひとり、またひとりと街を去るのを眺めながら、それでもまだ勝機はあると思っていた。実際、初演の反応はまずまずだった。まだ希望はある。幕が閉じるその瞬間、キャッスリーは確かにそう思った。 
 だがそれも、主演俳優を失うまでのこと。 
 いまやすべては無駄になってしまった。 
 悔し紛れに、くしゃくしゃに丸めた紙片を千切っては、手摺りから下に捨てる。まるで雪──あるいは、灰だ。全てが燃え尽きてしまったあとの、虚しい灰。 
 すると、キャッスリーの隣に誰かが腰を下ろした。今までに何度か偵察に訪れた役人だろう。上演中止命令を突きつけたにもかかわらず、まだ稽古をしていることを知って、何か言いに来たに違いない。 
 キャッスリーはため息をついた。「ただの稽古ですよ。客を入れてなきゃ問題ないでしょう」 
 すると、その男は言った。 
「やっぱり、俺が恋しくなっただろ」 
 キャッスリーは弾かれたように顔を上げた。そして、男の顔をまじまじと見た。 
「オリヴァー?」 
 オリヴァー・トムソンは笑うでもなく、呆れるでもなく、舞台の上で続いている稽古を眺めた。 
「あの男はなんだ、酒場から引っ張ってきたのか?」 
 彼が言っているのは、逃げたジョセルの代わりにと慌てて雇った役者だった。台詞もろくに入っていないし、役者志望とは思えないほどオドオドしているが、それでも主演だ。 
「クソだな」トムソンは断言した。「今までに見てきたなかで一番のクソだ」 
「わかってる」キャッスリーは言った。怒る気力もなかった。 
 舞台の下では、今まさに、妖精の国に攻め入ろうとする人間の王が、妖精の女王に向かって演説をぶるところだ。観客の気持ちを女王の側に引きつけるための重要な場面で、今朝から何度も稽古を繰り返していた。 
 銀の鎧を身に纏いながらも美しく装う妖精の女王は、顎をツンとあげ、たおやかでありながらも無畏たる様子で舞台に立っている。キャッスリーは、きたる戦ではエレノア女王は銀の鎧を身につけるという情報をマクヒューから得ていた。妖精の女王の外見も、可能な限りエレノアに寄せてある。 
 ヘレネーを演じるセフトンが、凜とした声で言う。 
「これなるは月神ヘカ優渥ゆうあくちたるわが封土。なにゆえそなたらは、海の向こうの地を安堵することに心を砕こうとしないのか。剣と血によってあがなういさおしが、平和よりも重いなどということがあろうか!」 
 女王の台詞を受け、人間の王を演じる──役者歴半日の男が口を開く。 
 だが、響き渡ったのは彼の声ではなかった。 
月神ヘカの優渥も、平和も知ったことか!」 
 トムソンがキャッスリーの隣で立ち上がり、桟敷の手摺りに足をかけて、舞台を見下ろしていた。 
 ああ、これだ。 
 彼の声は、まさに圧倒的だった。 
 その響きが、抑揚が、抜け殻のようだった劇場を満たした。この場にいる全ての者が、頬を張られたように目覚めた。そして皆の視線はトムソンひとりに注がれた。 
「真白き旗に落ちた黒い染みを許せるか? 美しき都を損なう貧民窟を? 鋭い剣の切っ先がこぼれ、真珠が歪むのを、誰が望む?」 
 トムソンは手を広げ、大音声で呼ばわった。 
「我は、我が目路めじの限り、全てが我にまつろう世を来たらせるためにここに参った。そなたらは我が旗に落ちる黒き染み、美しき都の貧者よ! 我が使命は神聖にして、我が軍勢は劫尽ごうじんの大火にくものぞ! さればその鬱陶しいおめきを引っ込め、雷でも嵐でもんでくるが良い!」 
 静まりかえった劇場の中に、微かな反響がほんの一瞬わだかまって、消えた。 
 時が止まったかのような一瞬の後、トムソンは何もなかったかのように、桟敷の席に腰を下ろした。 
「オリヴァー──」 
「昨日の上演を見た」彼は言った。「ジョセルだっけ? 舞台の上でふらついてるあいつに比べりゃ、ジョセルの演技も悪かない。が、俺の方がずっといい。お前だってそのつもりであの台詞を書いたんだろ」 
 キャッスリーはうなずいた。「まあ……そうだよ」 
「だよな。だからあいつを脅してやったんだ。その役は俺に譲れって」 
「何だと!? じゃあ、ジョセルはお前のせいで──」 
 得意げな顔を殴ってやりたくて、手がムズムズしてきた。 
「でも、そうなってよかった。だろ?」 
 反論できなかった。階下を見ると、キャメロンが早速、かわいそうな役者志望の男をお払い箱にすべく交渉を始めていた。 
 喉を塞がれたように何も言えずにいるキャッスリーに、トムソンは言った。 
「モーグ、頼みがある」今までに見たことがないほど、真剣な表情だった。「俺の代わりに、手紙を一通書いてくれ」 
 キャッスリーは面食らったが、なんとか頷いた。「構わないけど……誰にだ?」 
「妹と、弟に」 
 驚いた。確かに天涯孤独の身だと聞いたことはなかったけれど、何故だかそんな風に思い込んでいたのだ。 
「もちろん」キャッスリーは言い、それからふと気付いた。「妹たちは……字が読めるのか?」 
 トムソンは首を横に振った。 
「まだ無理だ。でも、女王がつくった学校に通えば、じきに読めるようになる」彼はキャッスリーの視線に気付いて、笑った。「そんな顔するなよ」 
 悪いと呟いて、キャッスリーは俯いた。 
「どんな手を使ってでも、面白おかしく生きてやるつもりだったよ。馬鹿どもから巻き上げた金で、妹や弟にも良い思いをさせてさ。こんなに最高の使い道はないだろ。でも、この国そのものがなくなったら意味がない」トムソンは、深いため息をついた。「俺が一芝居うつことで何かが変わるなら、悪魔の役だろうが何だろうがやってやるさ」 
 キャッスリーは、「嘘じゃないんだよな」と尋ねようかと思ったが、やめた。彼の言葉の何が嘘で、何が本当か、わかるくらいには長く一緒にいた。 
「俺……今まで何度も言ってきただろ。お前を吸血鬼にはできないって」 
 トムソンは眉を上げてキャッスリーを見た。 
 確かに、いまこの場でするべき話ではないかも知れない。けれど、今言うべきだと思った。 
「お前が、俺の運命の血だからだ」キャッスリーは言った。「お前を吸血鬼にしたら、それが消えてしまう。俺は……それが惜しくて、お前を吸血鬼にしなかったんだ」 
 トムソンは笑った。「そんなことだろうと思ったよ」 
 キャッスリーは気弱げに笑った。 
「この街は戦場になる。それはわかって来たんだろ」 
「ああ」 
「もしも本当に危なくなったら、その時は──」キャッスリーは言った。「お前を吸血鬼に変えてやる」 
「粘り強くやれば、いつか『うん』と言わせられると思ってた」トムソンはにっこりと笑った。「ありがとよ、モーグ」 
 トムソンは、少しだけ躊躇ってから、言った。 
「でも、もういいんだ」 
 キャッスリーは思わず、彼に向かって身を乗り出した。 
「どうしてだ」 
 トムソンは肩をすくめた。「さあな。なんとなく、お前の言ってることが理解できたからかもしれない。永遠に生きるなんて……」彼は言葉に迷い、何かを諦めてため息をついた。「とにかく、もういいんだ」 
 その顔に、諦念を受け入れた寂しさはなかった。ただ、心を縛る拘りから自由になったような清々しさがあった。 
 何が彼を変えたのかはわからない。キャッスリー自身にも言えることだが──思い当たる節が多すぎるのだ。いつか、腹を割って話すことが出来たらいい。何が自分を変えたのか。何が彼を変えたのか。 
 トムソンは小さく笑った。 
「吸血鬼になるより、血を売る方が金になるだろうし」 
「買い手は僕しかいないぞ」キャッスリーも思わず笑っていた。「いいよ、言い値で払う」 
「ほんとかよ」トムソンは驚いた振りをした。「それも、俺たちが生き延びたらの話だけどな」 
「ああ」 
 階下で、キャメロンが手を叩いた。 
「よぉし、お前ら準備にかかれ! 間もなく開演だ!」 
 団員のひとりが声を上げた。 
「でも、差し止め命令が! それに、劇場もこんな有様では──」 
「何のために稽古を続けてたと思ってる? 上演するために決まってるだろうが!」 
 座長は手振りで、崩れた劇場の壁の向こう側を指し示した。そこには、上演を期待して待っていた人だかりができていた。 
「しっかりしろ! お客さんがお待ちだぞ!」 
 それを見て、全員が駆け出した。トムソンさえも。 
 キャッスリーは、皆の顔に浮かんだ表情を見つめて、胸を躍らせた。 
 これこそ舞台だ。上演前の、この慌ただしさ。この活気。皆が、観客と相対する瞬間に向けて走り出す、奇妙な一体感。驚嘆させてやる。嘆息を引き出してやる。戦慄を、笑いの渦を、啜り泣きを。幕が上がった後ですべきなのは、観客を魅了することだけ。さあ、幕が上がるぞという時に、皆が固める覚悟。それらが一つに寄り合わされて、物語が生まれるのだ。 
「お前たち、準備はいいな」 
 抑えた興奮の滲む返事が、至る所から返ってくる。 
「さあ。るぞ」キャメロンは意気込み、いざ幕をあげようとした。 
 その時、街に警鐘が鳴り響いた。 
「ああ……クソッ!」座長の悪態が劇場に響く。「こんなときに……!」 
 幕の隙間から舞台をのぞき見る。劇場の外につめかけた人だかりには、早くも噂が舞い込んでいた。 
「沖に軍船がいるってよ!」 
 その瞬間、さざ波のように恐怖が伝播する。 
「光箭軍が来たのか」 
「味方は?」 
「海軍がデンズウィックの港を出たって聞いたけど──」 
「エレノア陛下は助けてくれないの?」 
「知らんのか? 女王軍は街から閉め出されて立ち往生さ。市長は何が何でも、この街を連中にくれてやるつもりなんだよ」 
 皆が口々に噂した。戦闘が、もう間もなく始まるだろう、と。 
 キャッスリーの頭の中では、警鐘のような耳鳴りが鳴り響いていた。 
 台詞はある。最高の役者も、衣装も、大道具に小道具もそろっている。あと少しなのに。このままでは、何もできずに全てが終わってしまう。市長は兵士の武装を解除させた。港の砦は空っぽ。マチェットフォードは、どうぞ占拠して下さいとばかりに無防備だ。 
 こんな時に、あの劇を見てもらわないでどうする? 
 そうだ、こんな時──こんな時だからこそ。 
 キャッスリーは立ち上がった。 
「道具方は集まってくれ。手が空いている者も、全員だ」そして、警鐘の音に負けない声で叫んだ。「崩れかけた壁は全て引き倒して、この街全部を客席にしよう!」 
 キャメロンが呆然とキャッスリーを見上げた。 
「気でもふれたか? 戦争が始まろうって時に!」 
「だからだ」キャッスリーは言った。「上演しよう。俺たちが、この街に火をつける!」 
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