【日月の歌語りⅣ】天地の譚詩

あかつき雨垂

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「わたしは悲しいぞ、ホラス」 
 剣に縋って身を起こすと、セオン・ブライアがこちらを見下ろしていた。 
 慈愛に満ちた目。 
 彼に出会った時、その教えに胸を打たれた。彼に導かれること、それ自体が幸福だと思っていた。 
 彼は、記憶にある最後の姿ではなかった。いま目の前に立つのは、大聖官としての彼ではない。出会ったときの、若々しい彼だった。 
 重たい義手と義足を引きずりながら、よくもここまで戦えたものだと思う。十二人居た男たちのうち、女王軍による投石で死んだのは半数。残りの四人は、ホラスが倒した。彼らは元々兵士ではない。まとめてかかってきたとしても、さほど労する敵ではない。 
 だが、彼だけは別だった。 
 ブライアの前に立ちはだかる、アンガス・ギラン。 
 彼は多くの審問官に慕われた柔和さの仮面を捨て去り、心底軽蔑するような眼差しでホラスを見下ろしていた。 
「神によって与えられた肉体を、よくもそこまで損なえたものだな」 
「それは悪魔の道具だ、ホラス」ギランの背後で、ブライアは悲しげに言った。「そのようなものに縋ってまで生にしがみついてはならん」 
 彼の正しさを疑ったことはなかった。ブライアに与えられた数々の訓戒や助言は、ホラスにとっては聖典の次に尊いものだったのだ。彼を裏切り、己の復讐に血道を上げていた長い年月の間も、彼の言葉は救いであり、神がもたらす正義と繋がるよすがだった。 
 だが、わたしはそれに背を向けた。 
 何のために? 
「惨めだな、ホラス・サムウェル」 
 ギランはホラスをあざ笑った。 
「そうまでして生きて、お前は何を成したのだ? 師を裏切り、世界から光を奪い、混沌をもたらし──見ろ! お前が蘇らせた邪神が、生と死の摂理を冒涜している!」 
 ギランが示した方を見下ろす。 
 地中から這い出てきた亡者たちの群れが、戦場を覆い尽くしていた。痛みや恐怖を感じない亡者たちの戦いぶりは、果実に群がり、あっという間に食い崩してゆく蟻の大群のようだった。 
 ホラスは歯を食い縛り、剣の切っ先をギランに向けた。 
 もはや身体中の何処にも、痛みを感じない場所はない。それでも、彼に屈するわけにはいかない。戦い続けなければ。 
 だが、何のために? 
「神の定めに身を委ねよ、ホラス」ブライアが言う。「それが、我ら人間の──陽神の子ディナエの正しいせいなのだ」 
 ギランが剣を振りかぶり、ホラスはそれを受けようと剣を掲げる。重たい剣戟が、腕を痺れさせる。一度、二度防いで、三度目で体勢が崩れた。ギランはその隙を見逃さず、ホラスの剣の根元に、ひときわ強烈な一撃を叩き込んだ。 
 剣が弾き飛ばされ、壁の下へと落ちてゆく。 
「これまでだ、ブラザー・サムウェル」ギランが言った。「自らの過ちを悔いて死ぬがいい!」 
 足が動かない。銀の閃光が、こちらに向かってくる。だが、ホラスは死を覚悟しなかった。 
 金属同士が触れあうけたたましい音──とっさに掲げた魔法仕掛けの左腕が、ギランの剣を掴んでいた。 
 ギランの眼差しが、一層強まる軽蔑に歪む。 
「あさましい!」 
 彼は唸り、剣を引き抜くと、今度は義手の根元をめがけて思い切りたたきつけた。 
 義肢と身体を固定していた革の帯が千切れ、重々しい音を立てて、義手が外れた。 
 ギランは均衡を崩したホラスの胸を足で押しのけ、仰向けにした喉元に剣を突きつける。 
 彼は、落ちた義手を左手で持ち上げた。 
「なんとおぞましい」そう言う彼の口調は嫌悪に満ちていたが、口元には歪な笑みが浮かんでいた。 
 ホラスは言った。 
「俺にしてみれば、ギラン。魔女を実験台にして残酷な実験を続けさせたあなたの方が、よほどおぞましい」 
 ギランは怒るでもなく、反論するでもなく、ただ喉に突きつけた切っ先を僅かに前に突き出した。 
「最後に言うことが、それでいいのか? 陽神教徒らしく、罪の告解をしてから死にたくはないか? 悔いは山ほどあるはずだ、お前には」 
 敵対する者の言葉であるにもかかわらず、その言葉は的を射ていた。ホラスは思わず、小さく笑った。 
「ああ、そうだな」 
 ため息をついて、天を仰ぐ。渦巻く鈍色の曇天。太陽の姿は、どこにもない。 
「わたしは、多くの者を失望させてきた」ホラスは言った。「だが、それは過ちではない」 
 ギランは虚を突かれたような顔をした。しかしすぐに気を取り直し、ありったけの力を剣に込めた。 
「過ちだ!」ギランは叫んだ。「師を裏切り、世界から光を奪い、混沌をもたらし──」 
「それは……もう聞いた」 
 ホラスは言い、ゆっくりと身を起こした。片腕を失ったせいで、均衡を取るのに手こずったが、それでもどうにかして立ち上がる。 
「わたしが使命に背を向けたのは、より尊い使命を選んだからだ」 
 ギランは鼻に皺を寄せた。「神に仕えることよりも、尊い使命があるものか!」 
 それを信じていたこともあった。 
 人びとの心の支えとして、この世の善の守り手として、陽神デイナを愛し、その信仰を護るのはとても自然なことだった。今でも心のどこかでは、そうした生き方を望んでいる。悪を正し、善をあまねく行き渡らせる助けになりたいと。 
 それに背を向けたのは、愛のためだ。 
 過ちではない。決して。 
「セオン・ブライア」ホラスは、ギランの背後に立つかつての師を見つめた。「あなたがわたしに授けてくれたのは、信仰だけではなかった。決意を貫くやりかたを、わたしはあなたから教わったのだ。たとえ、あなたが私の大事な者の仇だとしても、それは変わらない」 
 師は、なにも答えなかった。それでもよかった。伝えられなかった言葉を、最後にここで告げることができただけで、幸運だった。 
「決意を貫くだと! よくもぬけぬけと!!」 
 ギランが手にした義手を振りかざし、ホラスの頭を殴りつけた。 
「ならば、お前はそれさえし損じた男だ! 穢らわしい犬殺しめ!」 
 目眩に襲われて、ホラスは再び膝を突いた。 
 機会は、今しかない。 
 そして、強く目を閉じ、義足の付け根に隠されていた起爆装置を起動した。 




      46 
 
 『聞けよ 聞け 
  もはやおらぶることもなき 
  青白き枯骨ここつども──』 
 
 まだ弱い。注意を惹くことはできても、彼らを消し去れるほどではない。霊魂を操るサーリヤの力は、やはり曙神アシュタハの力があればこそなのだ。けれどいまは、亡者たちの気を引けただけでも十分だ。 
 マタルは両手を広げ、指先に、爪先に、髪の毛の先にまで、持てる全ての魔力を行き渡らせた。感覚が自分を突き破って拡がり、自分を取り巻く大気に水、草花に木々と繋がってゆく。そして意識が──ようやく、剣に届いた。骸たちが掲げる数多の剣。古びた革と鉄、青銅、鋼。染みこんだ血。それらを屈服させ、真の主が誰なのかを思い知らせる。 
 誇り高き剣よ、大地が生んだ最も鋭き者たちよ。死人の手に身を委ね、良いように振るわれるな。生ける者の処に、俺のところに来い! 
 鉄が、青銅が、鋼が目覚める。風に吹かれる銀の稲穂のように、何百もの剣がさわめき、燦めいた。その全てが、マタルの手中にあるも同然だった。 
 それでいい。死んだ者は死なせておけ。彼らにはもう──何の力もない。 
 
 『いざ 還魂よみがえりて何せむに 
  剣なげうち 槍を納めよ 
  罷道よみじは あれにぞのびたるかし!』 
 
 最後の呪文を放って、マタルは剣を引き寄せた。 
 まるで輝く魚群のように──あるいはことわりから解き放たれた雨のように、剣は亡者の手を離れ、マタルのところへ向かってきた。マタルはそれを纏い、身体の周りに従えた。実体を持たない文身の剣を操るのとは違う。全ての剣にかかる重みを持ち上げるのは、文字通り骨が折れるほどきつい。だが、マタルはそうした。 
 そうしなければ戦えない。俺には、それができる。 
 マタルが何百振りもの剣に命じると、それらは空を裂いて飛んだ。金属が触れあう音が全てを飲み込むと、剣は瞬き一つの間に、骸の群れを千々に引き裂いた。 
 空が翳り、戦場に雨が降り始める。 
 女王軍は形勢を立て直そうとしていた。指揮がまとまり、崩れた陣形が整いはじめる。ガーナリンの兵たちの包囲作戦はまだ続いていたけれど、女王の兵たちはすんでの所でそれを防いでいる。 
 マタルは挑むように、曙神アシュタハを見上げた。 
「これ以上、邪魔はさせないぞ」 
 すると、女神は茨をしならせて、地面の中からさらなる亡者を呼び出そうとした。 
「ああ……そうだよな」マタルは首を振った。「あなたは相当な負けず嫌いだったっけ」 
 次に地面から現れたのは兵士ではなかった。 
 目に魔力の炎を宿して這い出でたのは、人の骸よりもさらに深いところに眠っていた者たち。何百年もの昔、ベイルズの地で死んだナドカと、彼らがこの世に生み出した最初の魔狼の群れだ。青白き枯骨ここつの群れ──それが、瞬く間にマタルを取り囲んだ。 
 マタルは小さく笑った。虚勢だが、それでもないよりはマシだ。 
「アシュタハ、あなたのそういうところ……嫌いじゃないよ。でも──」 
 マタルは、千本ちもとの剣を再び構えた。ぎらつく刀身に絡みつく炎の蛇を思い浮かべると、剣には炎が宿った。 
「でも俺だって、そう簡単には負けてやれない!」 
 燃えさかる剣が宙を舞い、飛びかかる骸をなぎ払う。一体、また一体と、切り伏せた骨がマタルの周りに積もっていった。 
 少なくとも、骸の注意をこちらに引きつけておくことができれば、女王軍にも勝ち目はある。 
 あと少し。もう少し。 
 限界と言う言葉が、脳裏に浮かぶ。 
 古く脆い剣は次々に折れ、何振りもの刀身が地面に突き刺さっていた。骸の数は一向に減らない。それどころか、曙神アシュタハは茨の数を更に増やし、さらに骸を呼び出していた。 
 骸は再び女王の軍に取り憑こうとしていた。鎧を纏った兵たちの上に折り重なり、彼らの生気を貪っている。いま現実世界の兵たちは、のし掛かる倦怠感に苛まれているはずだ。なんとかしないと。彼らが倒れたら、防壁は一気に崩れてしまう。 
 骨が軋んで、身体中が熱い。意識は朦朧としかけて、目の前の光景を正しく見られているのかもわからない。 
 使える剣は、あと百本くらいか? 少し頼りないけれど、仕方がない。 
「こういう最後は……ちょっと想像してなかったな」マタルは呟いた。「世界の隙間で、誰にも知られずに、ってのは」 
 マタルは最後に一度だけ、城壁に目を向けた。ここからでは、ホラスの姿は見えない。けれど、彼がそこで戦っていると思うだけで、力がわいてきた。 
 約束、守れなくてごめん。 
「ホラス……どうか元気で」 
 マタルは微笑み、最後に残った魔力の全てを、剣に注ぎ込んだ。 
 炎が明るさを増し、辺りを目映く照らし出す。 
「これで、けりをつけてやる……!」 
 その時──まさにその時、マタルはガーナリンの街がある方角から響いてくる角笛を聞いた。 
 角笛? 敵? まだ援軍が来るのか? 
 押しやったはずの絶望が、再び覆い被さってきそうになる。 
「クソッ!」マタルは、食いしばった歯の間から唸った。 
 笛のの余韻を追って、ガーナリンの街の背後に広がる森に目を向ける。かすかな地響きと共に、何かが近づいてくる気配がある。じっと目をこらしていると、鬱蒼とした森の影から、黒々とした波が現れた。それはもの凄い勢いでやってきた。 
「はは……嘘だろ」 
 マタルは思わず、笑っていた。 
 そうだ。あそこはエリトロスの森。ダイラ最古の森。誰もが恐れる妖精シーの住み処だ。そしてそこには、妖精シーたちに手懐けられた魔獣たちがいる。 
 こちらに向かってくるのは、その魔獣の群れだった。 
 獣たちは咆哮を上げ、血の気配に哮りながら疾駆してきた。地響きのような足音をさせながら、何百という獣たちが駆けてくる。 
 それらを率いるのが誰か、見るまでもなかった。人間の女王を救いにやって来た〈聖なる雌犬〉の化身。こんな奇跡を起こせるのは、彼女しかいない。 
「狼たちよ! 我らの女王を助けるのです!」 
 ひときわ大きな魔狼に跨がったエミリア・ホーウッドと、傍らのマイラ・イーリィが群れの先頭に立って戦場に躍り出た。狼に騎乗しているのは、その二人だけではなかった。何人ものナドカが彼らを手懐け、中には魔狼に混じって駆ける人狼の姿もある。彼らは脇目も振らずに軍勢に突っ込み、ベイルズ軍の包囲を切り崩しにかかった。 
 覆るのは、あっという間だった。中には、戦わずして逃げる兵もあった。分厚い鱗が剥がれ落ちるように、少しずつ、ベイルズの兵力が失われてゆく。 
 圧倒──されてる場合じゃない。 
 何百もの魔獣に踏み荒らされた大地の上を見ると、蹴散らされた骸が散乱していた。妖精の加護を得た魔狼たちの進撃が、曙神アシュタハの黒い茨を引き裂いたのだ。いたるところで、千切れた茨が力なくぶら下がっていた。 
 そのただ中に、マタルは九重薔薇アシュタハの蕾を見つけた。 
「アシュタハ!」 
 マタルは叫び、蕾に駆け寄った。 
 膝をついて蕾を腕に抱くと、人間の頭ほどの大きさの蕾が、震えながら開いた。赤い緒は、まるで病魔のように至る所に絡みついていた。緒をむしり取ろうとしたけれど、それがかえって花そのものを傷つけてしまう。 
「アシュタハ……どうしたら……!」 
 花弁が震え、黒い花弁が、はらりと落ちる。一枚、また一枚と、九重の薔薇が解けてゆく。やがて、丸裸になった花のうてなに、彼女がいた。掌に載るほど小さな彼の女神は、浅黒い肌に、麻布を巻き付けた若い娘だった。 
 赤い緒は、彼女の全身をも覆っていた。 
 これじゃ……もう、どうしようもない。 
「アシュタハ……」 
 彼女の目を見てはいけないと思う。彼女が自分に求めるものがなんなのか、それでわかってしまうから。 
 けれど、マタルは彼女を見た。そして、曙神アシュタハが彼女の魔神憑きマジュヌーンに求める最後の仕事を知ってしまった。 
 目の奥が熱くなり、涙が溢れた。 
「こんなことのために、あなたを蘇らせたかったわけじゃないのに」 
 彼女は微笑んだ。 
「暁も、日輪と同じ。何度沈んだとて、また昇る」アシュタハは言い、マタルの腕に小さな手を置いた。「世界がそれを求むるかぎり」 
 涙は止めどなく溢れた。夏の雨のように暖かく、重たい涙が。 
「俺……あなたと一緒にいられて楽しかった」そして、恭しく跪いた。「とても光栄でした。我が暁の女神。我らが一族の守り手よ」 
 アシュタハは微笑み、マタルの手を取ると、そこに黒い文身を描いた。 
 小さな薔薇の文身は、描かれた傍からマタルの掌に浮かび上がり──短剣へと姿を変えた。 
「そなたと、そなたの一族を、制約から解放する」曙神アシュタハは言い、マタルを抱擁した。「さらばだ。わたしのつきびとマジュヌーン」 
 マタルは歯を食いしばり、短剣を握りしめた。 
 そして切っ先を、アシュタハの胸に沈めた。 
「さよなら……曙神アシュタハ」 
 彼女は呻くことも、身を強ばらせることもなかった。ただ柔らかい身体に剣を受け入れ、ゆっくりと頽れていった。その身体──そして、城壁や戦場を覆っていた茨の全てが、無数の薔薇の花びらへと姿を変えた。 
 花弁は風に乗り、遠くへと運ばれていった。 
 マタルの手には、小さな薔薇の文身が一つだけ残された。 
 掌をぎゅっと握りしめて、膝を突いた。喪失の痛みが胸を貫く。 
「ああ……」 
 俺が手にかけたのは、単なる神でも、魔神でもない。彼女は俺の半身にも等しい存在だった。 
「アシュタハ……」 
 その時、マタルは爆発を聞いた。 
「何だ──!?」 
 怒号と叫喚と混乱に満ちた戦場で、その音を耳にしたのはマタルだけのようだった。 
 振り向いたマタルの心臓は、恐怖に呑まれた。ホラスが居るはずの市壁の門楼が崩壊し、どす黒い煙が立ち上っている。 
「嘘だ……」 
 茨の支えを失った市壁は、マタルと全ての者たちの前で、砂の城のように崩れはじめた。 
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