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腥血と遠吠え

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 降り出した雨の中、クヴァルドは川に身を浸して水浴びをした。魔狼の血とグレタの血の匂いが肌の奥にまで染みついて消えないのではないかと思ったが、杞憂だった。澄んだ川の水は、ここ数日のめまぐるしさまでも、しばしの間忘れさせてくれた。流れに寄りかかるように空を仰ぐと、霧よりもほんの少しだけ重い雨が、肌の上を優しく流れ落ちていった。
 春の雨は風景を蒼くけぶらせ、川面に何千もの波紋を描き出す。雪解け水は冷たかったが、苦痛は感じなかった。身体はすでに火照り始めている。分厚い灰色の雲が太陽の位置を覆い隠しているせいで、正確な時刻はわからない。だが今日は、今日だけはそれでも構わなかった。満月の日、時間は意味を失う。
 先に水浴びを済ませていたヴェルギルは、雨宿りが出来そうな場所を探すため、木陰に憩い、蝙蝠を飛ばしている。キャラバンと別れてから、二人ともおかしいくらいに不自然な距離の取り方をしていた。視線を合わせることを恐れてでもいるかのように。
 
 服を着てヴェルギルと合流すると、彼はいい場所を見つけたという。相変わらず、目が合うことはない。森と川との境界線を辿る道を彼について歩くと、開けた土地にたどり着いた。崩れ落ちた壁と半壊した門楼の向こうに、二つの塔を備えた古い屋敷跡があった。
「森の中で見たのと同じ時代のものだろうか」
「はじまりは、もっと古い。昔の砦を改築したのだろう。だが、棄てられたのは同じ時代だ」
 窓のほとんどは割れ落ち、腐って落ちた屋根の残骸にも蔦が絡みついている。贅沢を言える身分ではないが、雨風を防げるようには到底見えない。
「君が考えていることはわかるぞ、クロン」ヴェルギルは、屋敷の傍の木陰に馬を繋ぎながら、愉快そうに言った。「判断するのは、中を見てからにしてくれたまえ」
 いくつもの木片と化した戸を跨いで、屋敷の中に入る。広々とした玄関ホールの奥に居間があった。腐りかけた木の棚は虚ろで、立派な食卓も沢山の椅子も、顧みられぬままに朽ちている。大きな石を組み合わせて作られた暖炉は苔むして、薪があるべき場所に茸が生えていた。
「ここだ」
「ここ?」
 ヴェルギルが示したのは、まさにその暖炉だった。
「小さな子供二人ぐらいなら押し込むことは出来そうだが……」
「物騒なことを。人食い魔女の伝説を信じているわけでもあるまい?」
 ヴェルギルが暖炉の中に手を差し入れ、炉棚の裏にある何かをまさぐった。すると、どこからともなく轟くような音がした。驚きに目を瞠っているうちに、暖炉の奥の壁が、震えながら床の中に吸い込まれていった。ぽっかりと開いた口の向こう側には、奥行き──いや、通路があるのが見て取れる。
「隠し扉」そして、ふと思いついた。「魔女隠しか?」
「その通り」ヴェルギルは言い、恭しい手つきで入り口を示した。「お先にどうぞ」
「話には聞いていたが、中に入るのは初めてだ」
 魔女隠しは、ナドカの迫害が苛烈を極めていた時代、およそ二百年前に生まれた。昔はどこの村にも一人は魔女が住んでいて、治療師や産婆、時には教師として大事にされてきた。だが、権力者によるナドカ狩りが始まると、その矛先は魔女にも向けられるようになる。こうした大きな屋敷の中に作られた隠し部屋は、当時の審問官たちの目から魔女をかくまうためのものだ。
 身をかがめて隠し扉をくぐり、狭い通路をいくらか下ると、ひらけた空間に出た。硝子の筒に入れた〈魔女の灯明〉を天井の鉤に吊すと、部屋の全貌が見えた。
 隅には簡単な寝台が一つ、傍には衣装棚が置かれていた。ごく小さなものではあるが、暖炉もある。家の者が暖炉に火を入れている間は、この部屋でも火を焚くことが出来たのだろう。煙突は屋敷の壁の中で一つに合わさり、隠し部屋の存在がばれない造りになっているはずだ。机代わりに使われていたらしい壁の窪みには、朽ちた羽根ペンと素朴な呪文書グリモワールが残されている。
 荒れ果てた屋敷の様子からは想像できないほど、部屋の状態は良かった。
「お気に召したかな」
「ああ」
 クヴァルドは言いながら、文献で得ただけの知識に色づけするように、部屋を観察していった。呪文書には、産後の肥立ちをよくする呪文や、乳の出を良くするための呪文が書かれていた。口の中で呪文を辿ると、まるで子守歌のような、素朴で優しい魔法だったことがわかった。開いたページに雫が落ち、慌てて拭って上を見る。天井梁の向こう側にある上階の床板に隙間が出来ていて、そこから水滴と、微かな明かりが差し込んでいる。おそらく、この部屋の上に先ほど見た居間があるのだろう。
「いい場所だ」クヴァルドは、腰から下げた革袋スポーランに本をしまった。「日が沈むまで、どれくらいあるだろうか」
 そう言って振り向いたクヴァルドは、部屋の反対の壁に寄りかかるヴェルギルの目を見て息を呑んだ。菫色の目に宿る赤い色が、暗がりで燃えている。
「ひとつ嘘をついてもいいかな、クロン。君には是非とも騙されて欲しい」
 心臓が──ほんの一瞬前まで自制できていたはずなのに、心臓がうるさいほどに鼓動し始める。
「どんな嘘だ?」
 尋ねると、ヴェルギルはゆっくりとこちらに歩いてきた。狭い部屋だから、たった三歩で横切ることができる。瞬きを一つする間に、彼は息がかかる距離にまでやってきた。
「日は沈んだ」彼は言い、指の背で頬を撫でた。「東の空には満月が昇っている。だからクロン──これ以上は、もうらすな」
 
 雨音と遠雷の轟きが、狭い部屋の中を満たしていた。
 小さな寝台の上、壁際に追い詰められて、首筋に沈む一対の牙を感じる。彼の冷たい舌は渇望を隠そうともせず、溢れる血を貪った。
 グレタの脚を治すときにも、彼はクヴァルドを噛んだ。ただ、大分抑えていたのだろうと思う。でなければ、頭の後ろがしびれるような感覚に襲われて、不面目な事態に陥っていたはずだ。
 だが、ここには誰もいない。
「は……っ」
 長衣チュニックは、床の上に無造作に捨てられている。薄いシャツと下穿きまでは、脱ぐ余裕がなかった。首筋に噛みつくヴェルギルの手がシャツをまさぐり、裾を引き出す。隙間から差し込まれた手は、微かに温まり始めていた。脇腹を這う手つきに、ため息が漏れる。今まで、彼にこんなふうに触れられたことはなかった。
「クロン」血の恍惚に少し掠れた声で、低く囁く。「今夜ここで何が起ころうと、それは満月のせいだ」
「わ……わかっている」答えたものの、自信は無かった。
 満月のせい──本当にそれだけだろうか? 彼に幾度も救われて、『とんでもなく長生きの卑しい蛭』とみなしていたときには思いも寄らなかった感情を抱きはじめているのでは? それは秘すべきことか? 恥ずべきことなのだろうか。
 ヴェルギルが身を起こし、いつも完璧に着こなしていた長衣の留め金を外した。魔女の仕立てだというその衣装は、指を鳴らすだけで脱ぎ着が出来、の際にはもってこいなのだと、かつて彼自身が語った。だが彼は今、壁にもたれて息を荒くしているクヴァルドを見つめながら、留め具をひとつずつ外していった。心臓が動いている間だけ見ることが出来る彼の青灰色の瞳は揺るぎない輝きを放ち、『今夜ここで起こること』がなんなのか、はっきりわからせようとしているようだった。
 だからクヴァルドも、彼を見つめたままシャツを脱いだ。そして長靴ちょうかと、下穿きも。
「脱がす楽しみを残しておいてはくれないのか?」と、微笑み混じりにヴェルギルが言う。
「焦らすなと言ったのはお前だ」クヴァルドは、彼の身体を隠したままのシャツを掴んで引き寄せた。「そちらこそ、もったいつけるな」
 ヴェルギルはくつくつと笑い、たくし上げたシャツを一息に脱ぎ去った。長い黒髪がこぼれ、冷たく湿った空気の中に、年経た森──苔むした木肌を濡らす雨──ひっそりと咲く薔薇のような、彼の匂いが溢れた。
 ヴェルギルの裸を見るのはこれが初めてだったから、細身の身体が想像以上に筋肉質だったことにも、そこに見事な入れ墨が刻まれていることにも驚かされた。左胸から臍にかけて、そして右の上腕をぐるりと取り囲んでいるのは、クヴァルドには読むことが出来ない古代文字と、見たこともない文様だった。
 夜の光を受けて輝く白い肌は、独特の美しさを備えている。吸血鬼を〈月のからだ〉と呼ぶ理由はこれかもしれないと、クヴァルドは思った。
「ほらほら、クロン」ヴェルギルが言い、クヴァルドの顎をそっと持ち上げる。「君の悪い癖が出ている」
「悪い癖?」
「好奇心がありすぎるところだ」そして、額に口づけた。「それとも、単に見蕩みとれただけか」
 クヴァルドは曖昧に唸った。「少し……心配していただけだ」
「心配?」
「おまえがその古代文字と同じくらい年寄りなら、ちゃんと使い物になるのか疑わしい」
 ヴェルギルはほんの一瞬あっけにとられた顔をした。
「はっ!」それから目を逸らし、声を上げて笑った。「君には何度でも驚かされる」
 そして、再びクヴァルドに向き直ったとき、彼の目の中にあったのは、背筋が震えそうな程の欲望だった。
「使い物になるか、と言うのだな」
 唇が、唇に触れる。満たされなかった夜の記憶が蘇り、すぐさま口づけを受け入れた。異質な、だが決して不快ではない彼の味をもっと知りたくて、噛みつくようにキスを深める。今、絡み合う舌の温度は等しい。そうさせたのが、ほかならぬ自分の血であることが嬉しかった。
「ん……」
 舌先で牙をくすぐられると、隠したままの尾の根元がむず痒くなる。そして、それよりもっと深いところにある虚ろもまた、重く、つよく疼いた。
 彼は唇を放し、甘い脅しを含ませた声で言った。
「ならば、試してみてもいいということか?」
 鼓動が強く刻まれるたび、本音が溢れそうになる。
 試してみてもいい。いいに決まっている。それこそが望みだ、と。
 けれど、吸血鬼と長く旅をして、嘘をつくのも少しは上手くなった。
「満月のせいだ」クヴァルドは言った。「それに、俺は好奇心の塊だからな」
 
 青みがかった〈魔女の灯明〉は、月明かりに似ている。そのささやかな光のもとで見ると、青白い背中に広がるヴェルギルの黒い髪は一層美しかった。
 フェリジアの流儀だと言って、彼がクヴァルドのものを口に含んだときには大声を上げそうになった。だが最初の衝撃がおさまると、自身をなぞり、味わう舌の動きに、腰が溶けそうなほどの快感を享受するしかなくなった。発情した人狼の陰茎は、人間よりも遥かに多い量の先走りを溢れさせる。どうやら彼はそれをすべて飲み下しているらしい。嚥下する喉の動きを感じて、また声が漏れそうになる。
 唇をきつく噛み、寝台の上に敷いた間に合わせの織物を握りしめる。勝手に揺れたがる腰を押さえつけるために、意思の力を総動員する必要があった。
「クロン」
 叱るような声色に目を開けると、ヴェルギルが身を起こして、クヴァルドの唇を指でなぞった。指先についた血を見て、眉を上げる。
「拷問をしているつもりはないのだが」
「それは──」
 答えようすると、口づけに邪魔された。滲んだ血を舐めとって、彼は満足げに喉を鳴らした。
「気持ちがいいのなら、隠さずに伝えてくれ──君の声で」
 そう言って、彼は濡れたものに触れた。
「あ……」
 先端から根元へ、ゆっくりと指を滑らせながら、その形を手中に収めてゆく。戦慄が駆け巡り、目に涙が滲む。
「あ、あ……っ」
 あられもない声が溢れてしまうのが嫌で唇を噛もうとしても、ねじ込まれた舌がそれを許さなかった。彼は片手でクヴァルドの首根をつかまえて口づけから逃れられないようにし、もう片方の手で二人分の屹立を握って、それを愛撫した。
「は……、んん……っ」
 理由のわからない不安に苛まれて、両手をヴェルギルの背中に回す。豊かな髪をくしけずって緩く掴むと、彼は低く笑って、突き上げるようにゆっくりと腰を揺らした。
 そのなまめかしい動きに、耳の後ろがカッと火照る。
「あ……!」
「君の心臓が、楽を奏でている」ヴェルギルは、熱に浮かされたような声で呟き、首筋に耳を寄せた。「血潮が歌っている──人魚セイレーンのように」
 船人を誘惑する歌を? そんなものを歌えるなら、俺の血はさぞかし優秀なのだろう。もどかしい想いを伝えることも出来ない俺より、ずっと優秀だ。
「ああ……」
 彼の匂いは、ほんの少しずつ変化していた。年経た森──苔むした木肌を濡らす雨──ひっそりと咲く薔薇が花開き、強く匂い立つ。かぐわしい。溺れてしまいたいほど。
「ヴェルギル」
 強請ねだるように名を呼ぶと、彼はもう一度、物欲しげな口をキスで塞いでくれた。羞恥も何もかもかなぐり捨てて、緩やかな律動に合わせて腰を揺らす。ふたりの手の中で擦れ合う屹立が濡れた音を立て、鋭敏になった聴覚を震わせた。快感に邪魔されたたどたどしい吐息、欲情を暴き立てる水音、激しくつよい鼓動、堪えようもない喘ぎ、そんなものの全てが耳からはいりこんで、官能をかきたてる。
「ああ……っ!」
 己の中で、何かが研ぎ澄まされてゆく。それは自分を満たし、同時に虚ろにするもの。息を奪っておきながら、新しい息吹を与えるものだ。
「ヴェルギル──あ……」
 息が苦しい。苦しいのがいい。背中を撫でさするヴェルギルの手が、水面にさざ波を立てるように戦慄を掻き立ててゆく。これ以上の快感を受け入れることは出来ないと思うのに、肉体はさらに貪欲に求めた。
「あ」
「ああ、そうだ。クロン」なだらかな声が囁く。「それでいい」
 震えが全身を満たす。閃きのような、落下のような、上昇のようなその一瞬が訪れる。
「あ……!」
 炸裂する白い光に意識を呑まれ、呼吸がおぼつかない。掠れた喘ぎ声をヴェルギルが舌で奪い、クヴァルドは、その口づけにすがりついた。
 およそひと月のあいだ身のうちにとどめていたものが、強烈な快感とともにあふれた。痛いほどの鼓動に合わせて放たれる精液が、重なり合った身体に迸る。射精の度に身を震わせながら、それでもクヴァルドは、絡ませた舌を離しはしなかった。
「ん……んん……」
 震えが、徐々におさまってゆく。クヴァルドが深いため息をつくと、ヴェルギルは喉の奥で笑い、自分の胸に飛び散った白いものを指で掬い、それを舐めた。
「確かに、君の味だ」青い瞳が微笑みに揺れている。「深い悦びの味がする……」
 恍惚を滲ませたその表情に、一度満たされたはずの欲望が再び燃え上がった。
 首筋に手を当てて引き寄せ、キスをする。応えた舌には精液の味が残っていたけれど、気にならなかった。体液から相手の感情を味わうヴェルギルを、今だけはうらやましいと思った。
「ん……」
 だが、これでは満足できない。狂おしいほどの疼きを、静めることが出来ない。それどころか、一層強くなっている。
「ヴェルギル……」囁いて、強請ねだるように唇を甘噛みする。「ヴェルギル、お前が欲しい」
 重なり合う胸の中で、彼の心臓が大きく跳ねたのがわかった。
 何を躊躇うのか、彼はしばらく答えずにいた。不思議に思って顔を覗き込むと、クヴァルドはそこに初めて、ヴェルギルの迷いを見た。すこし可笑しくて、勝手に微笑んでしまう。
「いつもの余裕が見当たらないな」
「君がそうさせている、黄昏の狼クヴァルド・ウルヴ」彼は弱り果てたような笑みを浮かべた。「わたしの余裕を奪うことにかけて、君は日々上達しているようだ」
「フィランだ」クヴァルドは言い、促すようにキスをした。「父の名はキリアン。フィラン・クローアル・オロフリン。それが俺の名前だ」
 ナドカが自分の名前を全て打ち明けるのがどういう意味を持つのか、ヴェルギルが知らないはずはない。それは相手を信頼した証しであり、命を預けてもいいと思う気持ちの表れだった。
「キリアンの息子、フィラン」舌で味わうような響きだった。「フィラン・クローアル・オロフリン」
 彼の声が自分の名を呼ぶのを耳にして、勝ち誇りたいような満足感が胸を満たす。と同時に、彼の名を知りたいという思いがチクリと胸の裏側を刺すのも感じた。だが、彼が望まないのならそれで構わない。少なくとも、今はまだ。
「ヴェルギル……」
「毛皮が現れないな」クヴァルドの肌を撫でて、彼は言った。
「雨と雲で、月が遠い」声が震えてしまう。「だからだ」
 それに、自分がそれを望んだから。狼の血が解放を期待して身体の中を駆け巡っているのがわかる。爪は鋭くなり、牙も伸びて、五感は鋭さを増している。だが、なんとかそこまでで押しとどめている。今だけはどうしても、この姿のままでいたかった。
 手を伸ばし、彼のものに触れる。クヴァルドの血に熱く脈打っている。その熱を、自分の中で感じたくて仕方が無かった。
 今まで、これほどの渇望を抱いたことはない。の相手をしていたときはもちろん、エギルにさえ覚えたことのなかった、燃えるような欲望がこの身を焦がしている。もうこれ以上、否定のしようがない──彼にどうしようもなく惹かれていることは。
 なぜなら彼は、人を嫌いながら人を助け、善行をいといながら善行を行う男だから。まつろわぬ星でありながら、極北に磔にされた孤独の星を名乗る男だから。
「これは、満月のせいだ」ヴェルギルはもう一度言った。痛切な声で。
「ああ、そうだ」
 それでいい。それでもいい。
 この男に捧げ、この男を温め、そして叶うのなら──この男を俺のものにしたい。
 白い頬に手を当てて、クヴァルドは言った。
「抱いてくれ、ヴェルギル」
 
            †
 
 満月に浮かされた夜には決まって、半狼の姿のままの彼に手を貸していた。そのせいか、毛皮に覆い隠されていない裸は──これほどまでに逞しい肉体であるにも関わらず──どこか無防備に見えた。それは身体中に残された傷跡のせいでもあったのかも知れない。彼が味わった数えきれぬ痛苦の証し。ヴェルギルは、その全てに口づけをしたいと思った。
 たっぷりと溢れる先走りと、クヴァルドが放った精液とで湿らせた場所を、爪で傷つけないようにそっと解してゆく。受け入れるのには慣れているはずだとはわかっていても、痛い思いをさせたくはなかった。彼にはすでに、十分すぎるほどの痛みを与えてしまっている。
 冷たい血が流れる〈月の體〉であるが故に、他の生き物が生来持っている温度に触れると、そのたびに驚かされる。クヴァルドの中も熱かった。熱く、濡れていて、締め付けるようにうねっている。
「ん……んん」
 クヴァルドはうつ伏せに寝そべり、もどかしげな声を上げていた。わずかに浮かされた腰の下で、彼のものは再び張り詰めているのだろう。どこかいかしく、それでいて美しい陰影を描く背中の凹凸おうとつから引き締まった腰へと、口づけで辿ってゆく。腰の下のえくぼのちょうど真ん中に、産毛が少し濃くなっている場所があった。試しに舌を這わせると、彼は声を上げ、大きく身を震わせた。
「あっ」ふり返った目に、羞恥と困惑を浮かべている。「そこは、駄目だ」
 思った通り、この場所には彼の尾が隠されているらしい。駄目だという言葉を無視して、腰の付け根の少し上を、引っ掻いてみる。
「あっ、あ……!」
 ビクビクと身を震わせながら、身をすくめ、背中を丸める。指を飲み込んだその場所が危険なほど窄まるので、爪が内壁を傷つけないように、そっと抜いた。
「ヴェルギル、はやく」熱を帯びた声が、掠れている。「はやくしてくれ……」
 かがみ込んで口づけをすると、彼の匂いに包まれた。彼の若さは野生の果実のようにみずみずしく香る。今、それは温かく熟して、酒を思わせる芳醇な香気を放っていた。
「こちらを向いて、フィラン」
 クヴァルドは、ヴェルギルの腕の中で身をよじった。潤んだ瞳は黄金に輝き、悩ましいため息を溢す唇からは、すっかり伸びた牙が覗いていた。微かな光のもと、彼の瞼までもが鮮やかに紅潮しているのが見える。まるで、夏の盛りの桃のように。
「君は……美しい」
 ヴェルギルは呟き、口づけをした。すると、睫毛の下からこちらを見つめる金の瞳に、微かな怯懦きょうだがよぎった気がした。
「お前は、嘘が上手い」クヴァルドが言う。
「嘘なものか」
 安心させるように、掌で頬に触れた。すると、彼は鼻先でそっと親指の付け根をなぞり、クンクンと匂いを嗅いでから、目を閉じて掌に頬を押しつけた。
 そんな仕草に、胸を刺し貫かれる。
「フィラン……」
 満月のせいだ。そう言ったのは他ならぬこのわたしだ。
 だが、そうでなければよかった。そんな言葉を使わずに済めばよかった。
「君に備わった以上の美を、わたしは他に見たことがない」
 それを証明するように、先端をその場所にあてがった。クヴァルドは閉じた瞼を持ち上げて、潤んだ目でヴェルギルを見上げた。そこにはもう、怯えの気配はなかった。彼の腰に手を当てて、ゆっくりと、自身を沈めていく。
「あ」限りなく吐息に誓い、微かな喘ぎ。「あ、あ……ヴェルギル、ヴェル……」
くそシャイテ
 数百年ぶりの悪態が口を突いて出た。とても熱い。誘うように柔らかく締め付けられて、気遣いをかなぐり捨ててしまいそうになる。まだ中程までしかおさまっていないというのに。
 クヴァルドが腰を揺らして、むずがるような声を上げた。
もっと深くニース・ディームナ……」
「わかっている」
 そう呟いて根元まで押し込むと、彼は満足げに呻いて、身震いをした。「ああ……!」
 温かくほぐれた彼の内部がヴェルギル自身に貪欲に絡みつき、もっと奥へと誘おうと艶めかしく蠢いている。
「ああ……フィラン」この息に込めた賛美が、きちんと伝わっていればいいが。「フィラン……君は素晴らしい」
 ゆっくりと引き抜き、またうずめる。彼は深い悦びをため息に滲ませて、身をしならせた。そしてヴェルギルの手を取り、自分の胸に導いた。
「なあ……触れてくれ……」
「喜んで」
 幾度かの満月を経た今でさえ、こんな姿は〈クラン〉の仕着せをかっちりと身に纏っている時には想像さえ出来なかった。そこにあるのは確かに戦士の肉体なのに、ひどく艶めかしい。あらゆる隆起や窪み、そして傷跡を辿るように手を這わせると、彼の温かい肌は悦びに震えて、繋がる場所を締め付けた。その締め付けに突き入れ、さらに深く穿つ度に、彼の心臓は高らかに脈打ち、血が熱を帯びる。
「ああ……ヴェルギル」官能に煙った獣の瞳。そこから、一筋の涙が零れる。「すごい……こんな──」
 余裕など、とうに失われていた。一欠片も残さず。
 腰を押し込み、熱い肉をえぐり、抱きすくめる。何度も突き入れ、引き抜いては、さらに深く穿つ。
「あっ、ああ……っ!」
 啜り泣くような悦びの声が、吐息と混ざり合い、こぼれ落ちる。
 首筋の薄い皮膚から立ち上る彼の濃厚な匂いにあてられて、ヴェルギルは、いっそ正気を手放してしまえたらと思った。
おれを噛めクー・グレム・オム
 クヴァルドが言い、髪を掴んで引き寄せる。「よせ」という言葉は口づけに封じられた。牙の鋭さを確かめるように、彼の熱い舌が触れる。それならば、望みを叶えるまでだ。
 濡れた舌を捕まえて、牙を沈める。
「ん……!」
 その痛みに、彼は身をゾクリと震わせて、さらにきつく締め付けた。
 あふれ出した血を舌に絡ませ、彼自身の味と混ざり合ったものを飲み下すと、燃え上がるような灼熱を身のうちに感じた。喘ぎ声と、吐息と、血。全てを味わうと、耳朶が焦げ付き、眼球の裏が滲む。
 これ以上は、耐えられそうにない。
「フィラン」
「ああ──」
 彼は小さく頷いて、ヴェルギルの肩に腕を回した。陶然と緩められた唇は血に染まり、鋭い歯列の奥の舌も鮮やかに赤い。
「は……、あっ、ヴェルギル」
 彼の中で高まるものが、震えとなってこちらの身体にも伝わってくる。
いきそうだターム・エ・チャ……また……!」
「わたしも……近い」
 そう呟くと、クヴァルドの目がとろりと滲んだ。誇らしげに。
「ああ……」
 ふたりの間で濡れそぼつ、彼のものを握る。熱く張り詰めた屹立の、根元のわずかな膨らみが彼の弱点であることを、もう知っていた。
「あ……っ、いい……」クヴァルドが声を上げ、爪を背中に食い込ませる。「頼む、このまま……このまま最後まで──」
 ヴェルギルは我知らず笑みを浮かべて、クヴァルドに口づけた。彼の望みを満たすことがこんなにも深い悦びをもたらすとは──何度でも感銘を受ける。
「あ、あ……!」切羽詰まった声。そして息が途切れ、彼の肉体が張り詰める。「あ……っ!」
 手の中のものが大きく跳ね、二度目の絶頂の証しが迸る。小刻みに震える彼の身体の表面を舐めあげる波のように、黄昏の色の毛皮が現れ、幻のように消えていった。
 それは、なんと美しく官能的な神秘であったことか。
 深い満足が醸し出す甘い香りと、濃厚な獣の体臭、放たれたばかりの精液の匂いが混ざり合う。それは忘我エクスタシーそのものの香りだった。そして、ヴェルギルにもその瞬間が訪れた。
「……っ!」
 自身を引き抜き、濡れた腹の上で数度扱く。傾ぎそうになる身体を片手で支えなければならないほど、それは強烈な絶頂だった。
 気が遠くなるほどの時間の中で、最も死に近い感覚。解放、そして救済そのもの。着古した己を脱ぎ捨て、感覚を受け止めるだけの何かに成ることが出来る、あまりにも希有けうな一瞬。
 しばらくは、ただ息を喘がせ、達したばかりの敏感なものを握りしめたまま動くことも出来なかった。
 同じく呆然と息を喘がせているクヴァルドと目が合う。金の瞳は、本来の色を取り戻しはじめていた。彼は小さく笑い、それから、おずおずと笑みを拡げた。
 名状しがたい想いに胸を揺さぶられて、何も言わずにそっと寄り添い、身を横たえる。なにか言葉を発すれば、この完璧な瞬間は崩れてしまう気がした。
 声に出さずに互いの名を呼ぶために、二人は口づけをし、額を合わせたまま目を閉じた。
 時が止まればいいと願ったのはいつぶりだったか。
 なんと愚かな願いだろう。『時』から解放された我が身なのに。
 いつのまにか、雨は止んでいた。天井の隙間から差し込む月光が、滴る雨の名残を静かに輝かせている。白い霧と共に森のかぐわしい薫りが流れ込み、情事に温もった部屋の空気を押し流そうとしていた。
「瞳の色が戻ったな」
 ヴェルギルは囁き、ささやかな恩寵の時間を終わらせた。クヴァルドはゆっくりと瞬きをして、言った。
「お前の瞳も」
「わたしの?」
 言われてみれば、そうだ。心臓が息を吹き返している間、元の目に戻っていても何ら不思議はない。
「本当の瞳の色など、忘れてしまった」
 そう言うと、クヴァルドは口の端を少し持ち上げて微笑んだ。「ガーリンネだ」
 なつかしい響きに、つかの間、言葉を失った。クヴァルドはそれを、知らないが故の沈黙だと思ったのだろう、説明を付け加えた。
「イムラヴの古い言葉で、北極星ヴェルギルのことをそう呼ぶ。『海の光ガーリンネ』。お前の目の色はそれだ」
 ああ。そうだった。わたしはそう呼ばれていたのだ。遠い、遠い昔に。
「君が言うなら、そうなのだろう」ヴェルギルは言い、汗ばんだ額にキスをした。「少し眠るといい、クロン」
「ん……」
 無防備な瞼がおりて、仔犬はつかの間の眠りに落ちた。その様子を眺めながら、己の中できつく閉じられていたはずの扉が開くのを、ヴェルギルは感じていた。
 痛みを伴い、重く軋みながら。
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