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腥血と遠吠え
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まず、予言があった。
正体のわからぬ奇石や太古の骨を、折に触れ取り出しては眺めるように、ヴェルギルは同じ問いを幾度も、また幾度も自分自身に投げかけてきた。
あの予言が、その後に起こったすべてを引き寄せたのではなかったか?
あるいはあの予言は、定められた未来へ導くための道標に過ぎなかったのか?
戦の傷で死の床についた父から、エイルの王位を譲り受けたのは二十八の時。臨終の際で、導者が父の冠帯を外し、予言と共にシルリクに授けた。
汝、希代なる王とならむ。
されど災禍の子を得らむ。
予言はその正しさを証明した。シルリクは国を滅ぼした希代の愚王となり、息子は〈災禍〉と成り果てた。
今でも考える。あの予言を聞かなかったことにできたのなら、何かが変わっていたのだろうか、と。
答えなどあるはずもない。いまさら答えを与えられたところで、何かが変わるわけでもない。
あの暁から、あまりにも永い時が流れた。
祖国が滅びゆくのを、ただ見ているしかなかったあの暁から。
今は昔。
二人の男が、緑海を臨むエイルの断崖から座礁して流れついたという小舟を見下ろしていた。
近海の岩礁の手荒い歓迎を受けたらしい船は半壊し、岩だらけの海岸に横たわっていた。その傍で、粗末な麻のガウンを身に纏った青白い肌の客人を、見張りの戦士三人が取り囲んでいる。身元を問いただす間、その女性は、なぶるような潮風がガウンを引きちぎろうとするのに必死で抵抗していた。
エイルという国は──戦況により多少の増減はあれど──大小八つの島から成る。島々を抱く緑海は嵐に魅入られた海で、海流も地形も複雑だ。剣を持つよりも先に船の索具の持ち方を学ぶのがエイルの子らだが、それでも、この季節の海には挑まない。
冬に遭難者が流れ着くのは珍しいことではない。冬に訪れた客を各家で代わる代わるもてなしながら、また航海できる春になるまでの間、外の世界についてあれこれ尋ねる。そうしてまた、炉端で新しい歌が産声を上げる。これが、エイルの冬の風物詩だ。
だが、今日ばかりは妙な胸騒ぎがする。
シルリクは、岸壁の上に立つ彼の城──ダンモルニ城の見張り台から海岸を見下ろしていた。
「あの顔は、イムラヴ人ではありませんな」隣で同じ光景を覗き込み、トレナルが言った。
「ああ。小大陸か……あるいは、さらに遠くからの客かも知れぬ」
トレナルがシルリクを見た。「客、であればよいですが」
「嵐神よ、かくあれかし」シルリクは、ゆっくりと頷いた。「これ以上、敵は作りたくはない」
そして、連行されてくる客人を出迎えるため、砦の中へと戻った。
エイルという島国には二つの宿命がある。
ひとつは、絶え間なく吹きすさぶ海風に耐えねばならぬこと。西風がふきつけるこの島の暮らしは厳しい。土に貧しく、岩がちな地形だ。海から水揚げした海藻を地面に撒いて腐らせることで、ようやく作物が根を張れるだけの土が手に入る地域もある。強い風になけなしの土壌を吹き飛ばされるのを防ぐため、農地は積み石の垣で囲われ、細かく区切られている。羊や山羊を育てても、牧草地が充分にないので存分に産み増やすこともできない。
もう一つは、隣国イムラヴとの戦だ。この二国間の戦争がいつ端を発したものなのか、シルリクは知らない。幼い時分にいくつもの英雄譚を語ってくれた祖父も、年寄りの吟遊詩人も、はっきりとした答えをくれはしなかった。ただ、そう運命づけられているのだと語るばかり。まるで、戦わねば神々の怒りを買うと信じているようだった。
父王からの教えを受けながら、大人になったシルリクは真実を知った。エイルの東北に散らばるイムラヴの島々は、強い北風を受ける気候のせいでエイル以上に土に乏しく、作物に恵まれない。だから彼らは夏が来る度に、船団を組んでエイルの島々に上陸しては、作物や人間を攫ってゆく。そうする他に、生きる道が残されていないのだ。
だからといって、大事な民と彼らの財産をむざむざくれてやるわけにもいかない。
エイルの冠と王位を譲り受けた二十八の時から、六年の歳月が過ぎた。平和な瞬間を数えようとすれば片手で事足りるほど、戦続きの毎日だ。だが、例外もあった。
広間へと続く廊下の中程に、小さな人影が飛び出してきた。
「漂流者ですか、父上?」
「エダルト」
片手で足りる『平和な瞬間』のうちの一つが、この息子を授かった日のことだ。我が子を胸に抱いた瞬間、神の祝福を確かに感じることが出来た。今年で五つになるエダルトは、病弱ではあるが、とても賢い。シルリクは、自分の代でイムラヴとの戦を終わらせるのが無理でも、息子ならばそれをやり遂げるような気がしていた。そう言うと、長い付き合いのトレナルは決まって『またシルリクの夢物語が始まった』という顔をするのだが。
「出歩いても平気なのか?」
「はい。父上」元気よく頷いた。「今日は、とても気分がいいのです」
エダルトは母親似だった。青灰色のつぶらな瞳も、利発そうな眉も、豊かな唇も、彼を産んだ次の年に神々のもとへ召されたムールンを思い起こさせる。彼女は愛される者という名の意味する通り、慈しみと神への献身に満ちた女性だった。ただし、エダルトの夢見がちなところは父親似だとよく揶揄いの種になっていた。
息子に備わったものの中でただ一つ、父親にも母親にも似なかったのは、その髪の色だ。月光を思わせる、透き通るほどの白。ムールンはひどく怯えた。『月の子供を産んでしまった』と。吉兆ではないのは確かだが、恐れることは無いと何度も説得しようとした。結局、彼女が心の底から納得したことはなかったように思う。その恐怖が心を蝕んだから、彼女は病を引き寄せたのだろうか。
あるいは、母親の死が〈災禍〉のはじまりなのか。いや。そんなはずはない。
予言を盲信するあまり、嵐に抗うこともせず、船が沈むに任せた首長や王たちの話をいくつも知っている。シルリクは、そう簡単に予言に従う気はなかった。希代の王になどなれなくてもいい。息子を災禍の子にしないために己の栄光を手放す必要があるというのなら、迷い無くそうするつもりだった。エダルトは間違いなくシルリクとムールンの子であり、次なるエイルの王だ。
「僕の部屋からも船が見えました。手漕ぎ船なのに、彼女の他には誰も乗っていませんでしたね」
「良い目をしている」シルリクは言い、息子の肩に手を置いた。「嵐に遭って、投げ出されたのだろう」
「あのガウンは、導者スーランが着ているものに似ています。よその国の導者でしょうか?」
大陸では巫女や教父と呼ばれる神職の者たちを、緑海を取り巻く地域では導者と呼ぶ。神事を司り、予言を授ける重要な役目を負う。王や首長をいただく村落には必ず導者もいなければならないしきたりだ。スーランは六年前に、シルリクに王冠をかぶせた導者だった。
「そうだな。尋ねてみるとしよう」
「大陸の話を聞かせてくれると思いますか?」
なるほど、それが知りたくて、部屋を抜け出してきたのか。
「どうであろうな」
ちいさな歩幅に合わせてゆっくり歩いても、エダルトはやはりどこか辛そうだった。五歳ともなれば、諸侯の息子たちは木剣を振り回し始める年頃だ。だが病気がちなエダルトは剣の稽古はもちろん、自分の部屋の外にでることもめったに許されないから、物語を聞く他にすることもない。今は乳母と治療師とが代わる代わる彼の面倒を見ているが、じきに教師が必要になるのはわかりきっていた。賢く好奇心旺盛な息子は、子供向けの物語ではすでに満足できない。緑海を隔てた南にある小大陸や、さらに大きな東方大陸をよく知る教師を雇うために、そろそろ使いを出すべきかと考えていたところだった。
「イムラヴ人でなく、敵でもないなら、歓迎の宴を開くとしよう」シルリクは言った。
「本当ですか?」
エダルトは飛び上がりそうなほど喜んだ。
「本当だ。だから、宴に出られるよう安静にしているのだぞ。わたしが言いたいことはわかるな、エダルト」
「はい! ありがとうございます、父上!」
息子は言い、軽い足取りで自室へと戻っていった。あの様子では、興奮のあまり今夜は眠れなくなるはずだ。あとで世話役のデードゲルから小言を貰う羽目になるだろう。
月神の巫女、とその者は名乗った。彼女は、多くの導者が学問をするのに使うカルタ語でも、東方大陸や小大陸で広く話されるいかなる言語でもなく、緑海の民の浪語を流暢に操った。
「わたしはカルタナのマニバと申す者。万神宮で、月の女神に仕えておりました」
広間がどよめく。
カルタナ──この辺境の城でその名が発せられるなど、そうあることではない──こそ、世界を総べる神々が人間に与えた最初の祝福と言われている。
カルタナは国ではない。いかなる国の、いかなる支配者にもまつろわぬ、神に身を捧げた者たちの都だ。中心には全ての神々を祀る巨大な神殿、万神宮があり、どれほどの地位を持った者であっても、万神宮での修行と洗礼を経なければ神職に就くことはできない。そして、その神殿で各々の神に仕える者こそが、全ての神職者たちの長であった。
つまり、この女性は、月の女神に最も近い人間と言うことになる。
「政変が起こり、多くの神が神宮を追われました。わたしも供の者も、神のご加護の元に街を出ましたが、嵐ですべてを失いました」
粗末な麻のガウンを纏い、至極穏やかに身上を語っているにもかかわらず、彼女の顔立ちや声、立ち居振る舞いには、この世の全ての王を前にしてもひれ伏すことをよしとしない強さが備わっているようだった。
「政変」シルリクは王座の肘掛けを握って身を乗り出した。「それはどういうことです」
「もう何年も前から、万神宮では〈陽神〉デイナの一派が力を増していました。〈間に立つ者〉リコヴが異端の誹りを受けてカルタナを追放されたのが、一つ前の夏のこと。それに異を唱えた我々も、ついに神宮を追われたのです」
広間のざわめきは一層大きくなった。
「ひとつの神が他の神を、異端と呼んで追放するのですか?」導者スーランがたまらず声を上げた。「なんということだ……」
聖なるものを司るカルタナの権威は、ほぼ全ての大陸、全ての島に及ぶ。多くの国の王たちは、何百柱もの神の中のただひと柱、己の信ずる神を主神として祀る。もしも、そこに優劣が生まれてしまえば、序列の影響は神宮の内部だけには留まらないだろう。
「慈悲深き王を頼りに、粗末な船で緑海を渡って参りました。あなたの名は遠くカルタナにも届いております」マニバが言い、深く辞儀をした。「どうかお助けください。あなた方エイル人が愛する〈嵐神〉の娘──ヘカの名にかけて、できうる限りのご恩返しを致します」
城の広間は静まりかえっていた。だが、たった今もたらされた報せは居並ぶ諸侯たちの表情を強ばらせた。沈黙の中でさえ、彼らの胸中に芽生えた憶測や懸念が聞こえるかのようだった。
カルタナが神に序列を与え、〈太陽神〉を最高の神と位置づけるのであれば、異端の神の僕を隠匿したエイルはカルタナの敵だ。古くから陽神を信奉してきたフェルジ王国と同盟国にとっては、それだけでエイルに攻め込む十分な口実となる。
「あなたは東からの海流に乗ってやってきた」シルリクは言った。「大陸から直接ここを目指したのならば、冬潮に流されて西から上陸したでしょう。その方が安全な航路だ」
意図が正しく伝わったらしい。マニバはほんのわずかに見開いた目を伏せて動揺を隠した。
「あえてお伝えしなかったわけではないのです。仰るとおり、始めに流れ着いたのはイムラヴでした」冷静な声で、彼女は言った。「しかしながら、オシァン王には受け入れられませんでした。それで、貴方を頼りました」
広間にどよめきがおこる。いくつもの囁きの中から、『間者』や『嘘』という言葉が聞こえた。無理もない。遭難者や亡命者を装って上陸した間者が、イムラヴの略奪軍の手引きをする手口を知らぬ者はいない。
だが、いま目の前で俯く女性は、裏切り者には見えなかった。彼女はそうした諍いに煩わされぬところで生きている者のように、シルリクには思えた。
「なるほど、よくわかった」シルリクが言葉を発すると、広間は再び静寂に包まれた。「あなたの苦境は察するにあまりある、カルタナのマニバ殿。わたしを頼ってくださったこと、光栄に思う」
目という目、耳という耳が自分に集まっているのを感じる。
この決断は、我が国を滅びに向かわせるだろうか?
いや。そうは思わない。
シルリクは、額に撒かれた帯の正面に嵌め込まれた蒼い石に触れ、厳かに言った。
「エイルの冠帯にかけて、あなたと、あなたの神を守ろう」
ため息のような音が広間を満たす。安堵、それとも落胆のため息か。諸侯の不安を和らげるために、長い会議を催す必要があるだろう。一方、マニバは肩を小さくふるわせていた。
「なんと感謝をもうしあげればよいか──海の光、あなたは正しく、船人が目指す海の光です」
シルリクはむず痒い賛辞を頷き一つで受け流した。
「どうか顔を上げてください。あなたはこれより、わたしの客人だ。あなたが望むだけ、ここに留まれるよう取り計らおう」そして、王座の後ろの隠し部屋に潜んでいるはずの息子にも聞こえるようにはっきりと言った。「そのかわり、あなたにはわたしの息子、エダルトの教育に手を貸していただきたい。外の世界を知るよい機会となろう」
案の定、タペストリーと壁の向こう側から、押し殺した快哉の声がした。
マニバは微笑み、優雅な辞儀をした。
「お仕えします。我が神明に誓って」
謁見が終わるやいなや、諸侯に取り囲まれた。
「異端者を保護するなど、カルタナに対して反旗を翻すのと同義です」エイルの中で二番目に大きな島を預かるバラデア伯が、まず噛みついた。「これで、エイルは東方大陸にとって格好の狩り場になりましたぞ。いまに船団が挙ってやってくるでしょう」
「海の果てのちっぽけな島国にか?」シルリクは言った。「東方大陸は豊かだ。どこもかしこも黒土で覆われている。わざわざ船を駆って、ここまで攻め込んでも見返りは乏しい」
「イムラヴと同盟を組んで我が国に攻め入る可能性はあるかと」トレナルが言った。
「だが、イムラヴとフェルジとの関係は北洋の氷山よりも冷え切っている」シルリクは言い切ってから、親友でもある男の言葉を素直に受け入れた。「可能性はある。とは言え、すぐにではない。時間がかかるだろう」
「山ほどいるオシァン王の姪のうち、一人か二人をフェルジに嫁がせるのが先だ」オクト島のビョルンが笑い混じりに言った。「とは言え、それほど悠長に構えていられるわけでもないでしょうな」
「わかっている」シルリクは頷いた。「だが、月神を崇める勢力との同盟を結ぶよい機会にはなるやも知れぬ」
月神を主神に奉じる国は少ないものの、東方大陸の北、ウサルノ半島に散在する小国群や、アシュモールの部族たちは昔から月神との関わりが深い。
「畏れながら陛下──そいつは猫を戦力に数えるような話かと」ビョルンは臆面も無く言った。
「鼠が相手ならば、そう馬鹿にしたものでもあるまい?」シルリクは笑みを浮かべた。「我々を育てたのは、北方の浪と嵐だ。大陸の柔土に甘やかされた兵士などものの数ではない」
同意の声がいくつもあがる。だが、勇ましげな言葉だけでは充分でないことは、よくわかっていた。
「オシァン王がマニバを受け入れなかったのは、次に我が国を目指すと知っていたからだろう。彼女を匿い、異端となった我が国を東方大陸の餌に差し出す機会を、奴がみすみす逃すはずはない。ガルマル!」シルリクは家臣を手招きした。「そなたの姉は、ウサルノの──ピトゥークを治める首長に嫁したのだったな。みな息災か?」
「はい。一昨年に三人目の児を産みました」
「それはなによりだ。嵐神に感謝せねば」シルリクは言った。「できるだけ早く、手紙と土産を携えて姉の元へ行って欲しい。旧交を温め、息子を──お前の甥を一人連れ帰るのだ。月神の神官のもとで学べるとあれば、あちらも喜ぶだろう」
ガルマルは頷いた。「明朝に出立します」
同盟国の子を預かり高度な教育を授ける習慣は、緑海の周辺国では広く根付いている。それはまた、裏切りを抑制するための人質でもあった。無策のまま東の連中の出方を待つつもりはない。フェルジ王国やカルタナの頭上に迫り出すウサルノ半島──そこを支配する人々は操舵術に長けた熟練の戦士だ。味方につけておけば、抑止力としては申し分ない。
「あの巫女ひとりに、そこまでする価値がありましょうか」バラデア伯が食い下がった。「月神は血の贄を請う神です。必ず戦になりますぞ」
「勝利は我々が掴み、価値は我々が見出すものだ」シルリクは言った。「嵐神に加え、月神の加護を得ることが出来れば、エイルはさらに栄えよう。この期に乗じてイムラヴを平らげたなら、ウサルノとの交易を阻む邪魔者もいなくなる」
ビョルンが膝を打った。「それでこそ、我らが王だ!」
「わたしは、この冠帯にかけて誓ったのだ。彼女を助けると」シルリクは言った。
〈嵐神〉ユルンが初代エイル王に授けた冠帯は、一度身につければ王位を譲るその時まで外すことが許されない宝具だ。正面に嵌められた宝石は本島の要石のかけらだ。正統な王の額におさまっている間は、島に災いが満ちるのを食い止めると言われている。王がひとたびでも冠帯を外せば継承権は最下位に落ち、再び戴くためには大きな犠牲を払わねばならない。このことから、エイルでは冠にかけて行われた誓いは絶対であった。決断が覆らぬことを告げるのに、それ以上決定的な言葉はない。
「父神であり、戦神であり、知神である我らが〈嵐神〉よ。我らの手と、刃と、眼に加護をあたえたまえ」
導者スーランが厳かに言い、それ以降、王に異を唱える声はなかった。
人目を忍んで見張り塔にもぐりこみ、夜の海を見つめるのが密かな楽しみだった。『密か』と言っても、トレナルにはばれてしまっている。ただ、長年の親友は王にも気晴らしが必要だと知っているから、あえて苦言を呈することもなく、気配を消す術に長けた護衛を寄越す。そしてシルリクもまた、その気遣いに感謝しながら、気づいていないふりを続けるのだった。
マニバが島に訪れてから何度目かの新月の夜だった。
見張り塔から眺める、新月の夜の美しさは筆舌に尽くしがたい。頭上に広がる天蓋は、背筋が凍るほど冴え冴えとした星で埋め尽くされていた。夜の海は漆黒に沈み、小さな波頭がわずかに閃く程度だ。あの北極星を目指して、何処まで漕げば果てに行き着くのか……ただただ茫漠とした海原の轟くような潮騒が、海の匂いに湿った大気を震わせていた。
ふと、海岸に、今夜は身を隠しているはずの月を見たような気がして視線を落とす。
そこにいたのは月ではなく、白いローブをはためかせたマニバだった。
マニバとエダルトは、出会ってほんの数日で意気投合したようだった。彼女はよい導者であり、よい教師だ。彼女は東方大陸の西に居並ぶ国々についてだけではなく、こことはまるで異なる神に支配されているという、遠く極東の国々のことまでよく知っていた。いまでは、息子が自室からの脱走を図ることもなくなった。ガルマルの甥で、ピトゥークから人質としてやってきたラグナルはエダルトより二つ年上だが、彼と競うようにみるみるうちに知恵をつけている。
彼女の訪れを天の助けだと思うのは、それほど可笑しくもないのかも知れない。
視線に気づいたのか、マニバが顔を上げてこちらを見た。不思議なことに、彼女の顔は年齢というものを感じさせない。少女のように若々しいときもあれば、母親のように見えるときもあり、ほんの一瞬老婆の姿を見るときもある。いまも、彼女は計り知れぬ白い面に微かな笑みを浮かべていた。マニバは夜を楽しむようにゆっくりと見張り台まで歩いてくると、階段を上ってシルリクの隣に立った。
「ご一緒してもよろしいですか、陛下」
「もちろん」とシルリクは答えた。
「銀鉤に釣られたのが、わたくしだけではないとわかって嬉しく思います」マニバは言った。
「ご自分の神を釣り針に喩えるのですか」シルリクは笑った。
「あら。はるか東のユアン国では、月は魚にも釣り針にも、宮殿にもなるのですよ。見るものによって姿を変えるのが、わが神のありようです」そして、マニバはくすりと笑った。「いやだわ、つい教師のような物言いをしてしまいました。どうかお許しを」
「かしこまる必要などありません。あなたは紛れもなく、我が子の教師なのですから」シルリクは言った。「貴方の目からご覧になって、あの子はいかがです?」
マニバは小さく頷いた。
「とても聡明であらせられます。それゆえ、ご自分をとりまくものを深く理解されているようですね。戦神の国の王となる身であるがゆえに、お身体が弱いことを恥じている──だからこそ、勉学で報いるために懸命に努力なさっています」彼女は言い、小さなため息をついた。「あの子はとてもよい子です。子を持たぬ我が身を疎ましく思いそうになるほど」
彼女は言い、それから俯いて、聞き取れぬほどの声で月神へ謝罪の祈りを捧げた。
「いまからでも遅くないでしょう」シルリクは言った。
「わたしをいくつだとお思いですか?」マニバは首を振りつつ笑った。「いいえ。たとえあと十歳若くても、月神に仕える女は子を持つことを許されません。処女の神ですから」
「子を持つ方法は一つではない」シルリクはわずかに肩をすくめた。「養い子であるとか。あなたは素晴らしい教師なのだし、弟子をとるのもいい。あなたの教えを受けたものは、あなたの知識を血肉として育つのだから──ある意味では、エダルトもあなたの息子のようなものです」
マニバはまじまじとシルリクの顔を見つめた。
「わたしは思い違いをしていたようです、陛下」
シルリクは眉を上げた。「思い違い?」
「ええ。北方の殿方は、もっと……好戦的で──」
「おまけに粗野で?」
「そうは申しておりません」マニバは言ったが、横顔は笑っていた。「一介の巫女の小言にまで真摯に耳を傾けてくださるなどとは、つゆほども思いませんでした」
シルリクは微笑んだ。「我らが〈嵐神〉は戦神であり、知神でもある。あなたはそういう国に流れ着いたのです」
「父神がこの国を加護する理由がわかったような気がいたします」マニバは言った。「エイルの王は、国を危険にさらしてまで一介の巫女の命を救った──だれにでも出来ることではありません」
シルリクはくつくつと笑った。「エイルの男を思うままに操る呪文をご存じか?」
「呪文? いいえ」マニバは首を振った。
「『イムラヴがあれをやった』といえば断り、『イムラヴがこれをしなかった』と言えば喜んでやるのです。オシァンは貴方を助けなかった。ならば、エイルはなんとしてでも貴方を守る。どの王もそうするはずだ」
マニバは声を上げて笑った。つい一瞬前まで、隣に座っていたのは落ち着き払った導者だったはずなのに、いま隣で笑っているマニバは少女のように見えた。
「ああ月神よ、照覧あれ! なんと小気味よい王でしょう」そして、彼女は言った。「あなたとあなたの民は、これからは月神の加護をも賜る──きっとそうなります」
「あまりある光栄だ」シルリクは言った。
「もしも願いが叶うなら……月神があなたにその機会を与えたら、何を願いますか?」
神職者がするには珍しい質問だった。彼らは、贄や犠牲の伴わぬ軽々しい願い事を好まないし、願えばたやすく叶うはずだと考えられるのを嫌う。
シルリクはこちらを見つめるマニバの顔を、改めて見返した。
興味深そうにこちらを見ている灰色の瞳は、闇夜の中だというのに明るく輝き、ほとんど白くみえる。まるで月のような目だと思ったとき、なぜか背筋に重い悪寒が走った。
「もしも……叶うなら」シルリクはのろのろと言った。「息子を死なぬ身にし、この国に二度と侵略の手が伸びぬようにしてもらいたい。無論、叶うはずも無いが」
「ご自身のことはお望みにならないのですね」マニバが静かに言った。
シルリクは頷いた。「多くは望まぬようにと育てられました。わたしには息子がいて、友がいて、家臣と、彼らのための国がある。これ以上は過ぎた願いです」
「もし、この願いが叶うと言ったら?」
マニバは、妙に感情のない声で言った。顔に浮かんでいるのが微笑なのか、それとも他の感情の表れなのか判じがたい。
「月神は血の贄を要求する神だ。わたしの手に余る犠牲を求められるのは目に見えている」
「月神が求める見返りは──祝福を受けること」マニバが言った。「そして、彼女の子らを見守ること」
「そんなことで? いいでしょう。エイルの王として、この城で月神の子らの面倒を見ましょう」やはり、からかわれていたのだ。シルリクは笑った。「お安いご用だ。なにしろ月神には子がいない」
それにしても、カルタナの冗談は解しがたい──酒の席で口にされても、冗談と気づかぬまま聞き流してしまいそうだ。そう思っていると、マニバが言った。
「こどもは、これから生まれるのです」
不意に潮騒が轟き渡り、世界そのものが揺れたような錯覚に襲われた。膝から力が抜け、自分がしっかりと立っているのかどうかもわからなくなる。それは瞬く間のことだった。
いまのは何だ?
目眩のような一瞬を、頭から振り払う。
「つまり……神話が書き換えられると仰るのですか?」
彼女はようやく、はっきりとした表情を浮かべた。笑みだ。引き寄せられるような、見つめずにいられないような、言い知れぬ力を伴った笑み。
白月のような瞳でシルリクを見つめたまま、彼女は静かに繰り返した。
「こどもは、これから生まれるのです」
正体のわからぬ奇石や太古の骨を、折に触れ取り出しては眺めるように、ヴェルギルは同じ問いを幾度も、また幾度も自分自身に投げかけてきた。
あの予言が、その後に起こったすべてを引き寄せたのではなかったか?
あるいはあの予言は、定められた未来へ導くための道標に過ぎなかったのか?
戦の傷で死の床についた父から、エイルの王位を譲り受けたのは二十八の時。臨終の際で、導者が父の冠帯を外し、予言と共にシルリクに授けた。
汝、希代なる王とならむ。
されど災禍の子を得らむ。
予言はその正しさを証明した。シルリクは国を滅ぼした希代の愚王となり、息子は〈災禍〉と成り果てた。
今でも考える。あの予言を聞かなかったことにできたのなら、何かが変わっていたのだろうか、と。
答えなどあるはずもない。いまさら答えを与えられたところで、何かが変わるわけでもない。
あの暁から、あまりにも永い時が流れた。
祖国が滅びゆくのを、ただ見ているしかなかったあの暁から。
今は昔。
二人の男が、緑海を臨むエイルの断崖から座礁して流れついたという小舟を見下ろしていた。
近海の岩礁の手荒い歓迎を受けたらしい船は半壊し、岩だらけの海岸に横たわっていた。その傍で、粗末な麻のガウンを身に纏った青白い肌の客人を、見張りの戦士三人が取り囲んでいる。身元を問いただす間、その女性は、なぶるような潮風がガウンを引きちぎろうとするのに必死で抵抗していた。
エイルという国は──戦況により多少の増減はあれど──大小八つの島から成る。島々を抱く緑海は嵐に魅入られた海で、海流も地形も複雑だ。剣を持つよりも先に船の索具の持ち方を学ぶのがエイルの子らだが、それでも、この季節の海には挑まない。
冬に遭難者が流れ着くのは珍しいことではない。冬に訪れた客を各家で代わる代わるもてなしながら、また航海できる春になるまでの間、外の世界についてあれこれ尋ねる。そうしてまた、炉端で新しい歌が産声を上げる。これが、エイルの冬の風物詩だ。
だが、今日ばかりは妙な胸騒ぎがする。
シルリクは、岸壁の上に立つ彼の城──ダンモルニ城の見張り台から海岸を見下ろしていた。
「あの顔は、イムラヴ人ではありませんな」隣で同じ光景を覗き込み、トレナルが言った。
「ああ。小大陸か……あるいは、さらに遠くからの客かも知れぬ」
トレナルがシルリクを見た。「客、であればよいですが」
「嵐神よ、かくあれかし」シルリクは、ゆっくりと頷いた。「これ以上、敵は作りたくはない」
そして、連行されてくる客人を出迎えるため、砦の中へと戻った。
エイルという島国には二つの宿命がある。
ひとつは、絶え間なく吹きすさぶ海風に耐えねばならぬこと。西風がふきつけるこの島の暮らしは厳しい。土に貧しく、岩がちな地形だ。海から水揚げした海藻を地面に撒いて腐らせることで、ようやく作物が根を張れるだけの土が手に入る地域もある。強い風になけなしの土壌を吹き飛ばされるのを防ぐため、農地は積み石の垣で囲われ、細かく区切られている。羊や山羊を育てても、牧草地が充分にないので存分に産み増やすこともできない。
もう一つは、隣国イムラヴとの戦だ。この二国間の戦争がいつ端を発したものなのか、シルリクは知らない。幼い時分にいくつもの英雄譚を語ってくれた祖父も、年寄りの吟遊詩人も、はっきりとした答えをくれはしなかった。ただ、そう運命づけられているのだと語るばかり。まるで、戦わねば神々の怒りを買うと信じているようだった。
父王からの教えを受けながら、大人になったシルリクは真実を知った。エイルの東北に散らばるイムラヴの島々は、強い北風を受ける気候のせいでエイル以上に土に乏しく、作物に恵まれない。だから彼らは夏が来る度に、船団を組んでエイルの島々に上陸しては、作物や人間を攫ってゆく。そうする他に、生きる道が残されていないのだ。
だからといって、大事な民と彼らの財産をむざむざくれてやるわけにもいかない。
エイルの冠と王位を譲り受けた二十八の時から、六年の歳月が過ぎた。平和な瞬間を数えようとすれば片手で事足りるほど、戦続きの毎日だ。だが、例外もあった。
広間へと続く廊下の中程に、小さな人影が飛び出してきた。
「漂流者ですか、父上?」
「エダルト」
片手で足りる『平和な瞬間』のうちの一つが、この息子を授かった日のことだ。我が子を胸に抱いた瞬間、神の祝福を確かに感じることが出来た。今年で五つになるエダルトは、病弱ではあるが、とても賢い。シルリクは、自分の代でイムラヴとの戦を終わらせるのが無理でも、息子ならばそれをやり遂げるような気がしていた。そう言うと、長い付き合いのトレナルは決まって『またシルリクの夢物語が始まった』という顔をするのだが。
「出歩いても平気なのか?」
「はい。父上」元気よく頷いた。「今日は、とても気分がいいのです」
エダルトは母親似だった。青灰色のつぶらな瞳も、利発そうな眉も、豊かな唇も、彼を産んだ次の年に神々のもとへ召されたムールンを思い起こさせる。彼女は愛される者という名の意味する通り、慈しみと神への献身に満ちた女性だった。ただし、エダルトの夢見がちなところは父親似だとよく揶揄いの種になっていた。
息子に備わったものの中でただ一つ、父親にも母親にも似なかったのは、その髪の色だ。月光を思わせる、透き通るほどの白。ムールンはひどく怯えた。『月の子供を産んでしまった』と。吉兆ではないのは確かだが、恐れることは無いと何度も説得しようとした。結局、彼女が心の底から納得したことはなかったように思う。その恐怖が心を蝕んだから、彼女は病を引き寄せたのだろうか。
あるいは、母親の死が〈災禍〉のはじまりなのか。いや。そんなはずはない。
予言を盲信するあまり、嵐に抗うこともせず、船が沈むに任せた首長や王たちの話をいくつも知っている。シルリクは、そう簡単に予言に従う気はなかった。希代の王になどなれなくてもいい。息子を災禍の子にしないために己の栄光を手放す必要があるというのなら、迷い無くそうするつもりだった。エダルトは間違いなくシルリクとムールンの子であり、次なるエイルの王だ。
「僕の部屋からも船が見えました。手漕ぎ船なのに、彼女の他には誰も乗っていませんでしたね」
「良い目をしている」シルリクは言い、息子の肩に手を置いた。「嵐に遭って、投げ出されたのだろう」
「あのガウンは、導者スーランが着ているものに似ています。よその国の導者でしょうか?」
大陸では巫女や教父と呼ばれる神職の者たちを、緑海を取り巻く地域では導者と呼ぶ。神事を司り、予言を授ける重要な役目を負う。王や首長をいただく村落には必ず導者もいなければならないしきたりだ。スーランは六年前に、シルリクに王冠をかぶせた導者だった。
「そうだな。尋ねてみるとしよう」
「大陸の話を聞かせてくれると思いますか?」
なるほど、それが知りたくて、部屋を抜け出してきたのか。
「どうであろうな」
ちいさな歩幅に合わせてゆっくり歩いても、エダルトはやはりどこか辛そうだった。五歳ともなれば、諸侯の息子たちは木剣を振り回し始める年頃だ。だが病気がちなエダルトは剣の稽古はもちろん、自分の部屋の外にでることもめったに許されないから、物語を聞く他にすることもない。今は乳母と治療師とが代わる代わる彼の面倒を見ているが、じきに教師が必要になるのはわかりきっていた。賢く好奇心旺盛な息子は、子供向けの物語ではすでに満足できない。緑海を隔てた南にある小大陸や、さらに大きな東方大陸をよく知る教師を雇うために、そろそろ使いを出すべきかと考えていたところだった。
「イムラヴ人でなく、敵でもないなら、歓迎の宴を開くとしよう」シルリクは言った。
「本当ですか?」
エダルトは飛び上がりそうなほど喜んだ。
「本当だ。だから、宴に出られるよう安静にしているのだぞ。わたしが言いたいことはわかるな、エダルト」
「はい! ありがとうございます、父上!」
息子は言い、軽い足取りで自室へと戻っていった。あの様子では、興奮のあまり今夜は眠れなくなるはずだ。あとで世話役のデードゲルから小言を貰う羽目になるだろう。
月神の巫女、とその者は名乗った。彼女は、多くの導者が学問をするのに使うカルタ語でも、東方大陸や小大陸で広く話されるいかなる言語でもなく、緑海の民の浪語を流暢に操った。
「わたしはカルタナのマニバと申す者。万神宮で、月の女神に仕えておりました」
広間がどよめく。
カルタナ──この辺境の城でその名が発せられるなど、そうあることではない──こそ、世界を総べる神々が人間に与えた最初の祝福と言われている。
カルタナは国ではない。いかなる国の、いかなる支配者にもまつろわぬ、神に身を捧げた者たちの都だ。中心には全ての神々を祀る巨大な神殿、万神宮があり、どれほどの地位を持った者であっても、万神宮での修行と洗礼を経なければ神職に就くことはできない。そして、その神殿で各々の神に仕える者こそが、全ての神職者たちの長であった。
つまり、この女性は、月の女神に最も近い人間と言うことになる。
「政変が起こり、多くの神が神宮を追われました。わたしも供の者も、神のご加護の元に街を出ましたが、嵐ですべてを失いました」
粗末な麻のガウンを纏い、至極穏やかに身上を語っているにもかかわらず、彼女の顔立ちや声、立ち居振る舞いには、この世の全ての王を前にしてもひれ伏すことをよしとしない強さが備わっているようだった。
「政変」シルリクは王座の肘掛けを握って身を乗り出した。「それはどういうことです」
「もう何年も前から、万神宮では〈陽神〉デイナの一派が力を増していました。〈間に立つ者〉リコヴが異端の誹りを受けてカルタナを追放されたのが、一つ前の夏のこと。それに異を唱えた我々も、ついに神宮を追われたのです」
広間のざわめきは一層大きくなった。
「ひとつの神が他の神を、異端と呼んで追放するのですか?」導者スーランがたまらず声を上げた。「なんということだ……」
聖なるものを司るカルタナの権威は、ほぼ全ての大陸、全ての島に及ぶ。多くの国の王たちは、何百柱もの神の中のただひと柱、己の信ずる神を主神として祀る。もしも、そこに優劣が生まれてしまえば、序列の影響は神宮の内部だけには留まらないだろう。
「慈悲深き王を頼りに、粗末な船で緑海を渡って参りました。あなたの名は遠くカルタナにも届いております」マニバが言い、深く辞儀をした。「どうかお助けください。あなた方エイル人が愛する〈嵐神〉の娘──ヘカの名にかけて、できうる限りのご恩返しを致します」
城の広間は静まりかえっていた。だが、たった今もたらされた報せは居並ぶ諸侯たちの表情を強ばらせた。沈黙の中でさえ、彼らの胸中に芽生えた憶測や懸念が聞こえるかのようだった。
カルタナが神に序列を与え、〈太陽神〉を最高の神と位置づけるのであれば、異端の神の僕を隠匿したエイルはカルタナの敵だ。古くから陽神を信奉してきたフェルジ王国と同盟国にとっては、それだけでエイルに攻め込む十分な口実となる。
「あなたは東からの海流に乗ってやってきた」シルリクは言った。「大陸から直接ここを目指したのならば、冬潮に流されて西から上陸したでしょう。その方が安全な航路だ」
意図が正しく伝わったらしい。マニバはほんのわずかに見開いた目を伏せて動揺を隠した。
「あえてお伝えしなかったわけではないのです。仰るとおり、始めに流れ着いたのはイムラヴでした」冷静な声で、彼女は言った。「しかしながら、オシァン王には受け入れられませんでした。それで、貴方を頼りました」
広間にどよめきがおこる。いくつもの囁きの中から、『間者』や『嘘』という言葉が聞こえた。無理もない。遭難者や亡命者を装って上陸した間者が、イムラヴの略奪軍の手引きをする手口を知らぬ者はいない。
だが、いま目の前で俯く女性は、裏切り者には見えなかった。彼女はそうした諍いに煩わされぬところで生きている者のように、シルリクには思えた。
「なるほど、よくわかった」シルリクが言葉を発すると、広間は再び静寂に包まれた。「あなたの苦境は察するにあまりある、カルタナのマニバ殿。わたしを頼ってくださったこと、光栄に思う」
目という目、耳という耳が自分に集まっているのを感じる。
この決断は、我が国を滅びに向かわせるだろうか?
いや。そうは思わない。
シルリクは、額に撒かれた帯の正面に嵌め込まれた蒼い石に触れ、厳かに言った。
「エイルの冠帯にかけて、あなたと、あなたの神を守ろう」
ため息のような音が広間を満たす。安堵、それとも落胆のため息か。諸侯の不安を和らげるために、長い会議を催す必要があるだろう。一方、マニバは肩を小さくふるわせていた。
「なんと感謝をもうしあげればよいか──海の光、あなたは正しく、船人が目指す海の光です」
シルリクはむず痒い賛辞を頷き一つで受け流した。
「どうか顔を上げてください。あなたはこれより、わたしの客人だ。あなたが望むだけ、ここに留まれるよう取り計らおう」そして、王座の後ろの隠し部屋に潜んでいるはずの息子にも聞こえるようにはっきりと言った。「そのかわり、あなたにはわたしの息子、エダルトの教育に手を貸していただきたい。外の世界を知るよい機会となろう」
案の定、タペストリーと壁の向こう側から、押し殺した快哉の声がした。
マニバは微笑み、優雅な辞儀をした。
「お仕えします。我が神明に誓って」
謁見が終わるやいなや、諸侯に取り囲まれた。
「異端者を保護するなど、カルタナに対して反旗を翻すのと同義です」エイルの中で二番目に大きな島を預かるバラデア伯が、まず噛みついた。「これで、エイルは東方大陸にとって格好の狩り場になりましたぞ。いまに船団が挙ってやってくるでしょう」
「海の果てのちっぽけな島国にか?」シルリクは言った。「東方大陸は豊かだ。どこもかしこも黒土で覆われている。わざわざ船を駆って、ここまで攻め込んでも見返りは乏しい」
「イムラヴと同盟を組んで我が国に攻め入る可能性はあるかと」トレナルが言った。
「だが、イムラヴとフェルジとの関係は北洋の氷山よりも冷え切っている」シルリクは言い切ってから、親友でもある男の言葉を素直に受け入れた。「可能性はある。とは言え、すぐにではない。時間がかかるだろう」
「山ほどいるオシァン王の姪のうち、一人か二人をフェルジに嫁がせるのが先だ」オクト島のビョルンが笑い混じりに言った。「とは言え、それほど悠長に構えていられるわけでもないでしょうな」
「わかっている」シルリクは頷いた。「だが、月神を崇める勢力との同盟を結ぶよい機会にはなるやも知れぬ」
月神を主神に奉じる国は少ないものの、東方大陸の北、ウサルノ半島に散在する小国群や、アシュモールの部族たちは昔から月神との関わりが深い。
「畏れながら陛下──そいつは猫を戦力に数えるような話かと」ビョルンは臆面も無く言った。
「鼠が相手ならば、そう馬鹿にしたものでもあるまい?」シルリクは笑みを浮かべた。「我々を育てたのは、北方の浪と嵐だ。大陸の柔土に甘やかされた兵士などものの数ではない」
同意の声がいくつもあがる。だが、勇ましげな言葉だけでは充分でないことは、よくわかっていた。
「オシァン王がマニバを受け入れなかったのは、次に我が国を目指すと知っていたからだろう。彼女を匿い、異端となった我が国を東方大陸の餌に差し出す機会を、奴がみすみす逃すはずはない。ガルマル!」シルリクは家臣を手招きした。「そなたの姉は、ウサルノの──ピトゥークを治める首長に嫁したのだったな。みな息災か?」
「はい。一昨年に三人目の児を産みました」
「それはなによりだ。嵐神に感謝せねば」シルリクは言った。「できるだけ早く、手紙と土産を携えて姉の元へ行って欲しい。旧交を温め、息子を──お前の甥を一人連れ帰るのだ。月神の神官のもとで学べるとあれば、あちらも喜ぶだろう」
ガルマルは頷いた。「明朝に出立します」
同盟国の子を預かり高度な教育を授ける習慣は、緑海の周辺国では広く根付いている。それはまた、裏切りを抑制するための人質でもあった。無策のまま東の連中の出方を待つつもりはない。フェルジ王国やカルタナの頭上に迫り出すウサルノ半島──そこを支配する人々は操舵術に長けた熟練の戦士だ。味方につけておけば、抑止力としては申し分ない。
「あの巫女ひとりに、そこまでする価値がありましょうか」バラデア伯が食い下がった。「月神は血の贄を請う神です。必ず戦になりますぞ」
「勝利は我々が掴み、価値は我々が見出すものだ」シルリクは言った。「嵐神に加え、月神の加護を得ることが出来れば、エイルはさらに栄えよう。この期に乗じてイムラヴを平らげたなら、ウサルノとの交易を阻む邪魔者もいなくなる」
ビョルンが膝を打った。「それでこそ、我らが王だ!」
「わたしは、この冠帯にかけて誓ったのだ。彼女を助けると」シルリクは言った。
〈嵐神〉ユルンが初代エイル王に授けた冠帯は、一度身につければ王位を譲るその時まで外すことが許されない宝具だ。正面に嵌められた宝石は本島の要石のかけらだ。正統な王の額におさまっている間は、島に災いが満ちるのを食い止めると言われている。王がひとたびでも冠帯を外せば継承権は最下位に落ち、再び戴くためには大きな犠牲を払わねばならない。このことから、エイルでは冠にかけて行われた誓いは絶対であった。決断が覆らぬことを告げるのに、それ以上決定的な言葉はない。
「父神であり、戦神であり、知神である我らが〈嵐神〉よ。我らの手と、刃と、眼に加護をあたえたまえ」
導者スーランが厳かに言い、それ以降、王に異を唱える声はなかった。
人目を忍んで見張り塔にもぐりこみ、夜の海を見つめるのが密かな楽しみだった。『密か』と言っても、トレナルにはばれてしまっている。ただ、長年の親友は王にも気晴らしが必要だと知っているから、あえて苦言を呈することもなく、気配を消す術に長けた護衛を寄越す。そしてシルリクもまた、その気遣いに感謝しながら、気づいていないふりを続けるのだった。
マニバが島に訪れてから何度目かの新月の夜だった。
見張り塔から眺める、新月の夜の美しさは筆舌に尽くしがたい。頭上に広がる天蓋は、背筋が凍るほど冴え冴えとした星で埋め尽くされていた。夜の海は漆黒に沈み、小さな波頭がわずかに閃く程度だ。あの北極星を目指して、何処まで漕げば果てに行き着くのか……ただただ茫漠とした海原の轟くような潮騒が、海の匂いに湿った大気を震わせていた。
ふと、海岸に、今夜は身を隠しているはずの月を見たような気がして視線を落とす。
そこにいたのは月ではなく、白いローブをはためかせたマニバだった。
マニバとエダルトは、出会ってほんの数日で意気投合したようだった。彼女はよい導者であり、よい教師だ。彼女は東方大陸の西に居並ぶ国々についてだけではなく、こことはまるで異なる神に支配されているという、遠く極東の国々のことまでよく知っていた。いまでは、息子が自室からの脱走を図ることもなくなった。ガルマルの甥で、ピトゥークから人質としてやってきたラグナルはエダルトより二つ年上だが、彼と競うようにみるみるうちに知恵をつけている。
彼女の訪れを天の助けだと思うのは、それほど可笑しくもないのかも知れない。
視線に気づいたのか、マニバが顔を上げてこちらを見た。不思議なことに、彼女の顔は年齢というものを感じさせない。少女のように若々しいときもあれば、母親のように見えるときもあり、ほんの一瞬老婆の姿を見るときもある。いまも、彼女は計り知れぬ白い面に微かな笑みを浮かべていた。マニバは夜を楽しむようにゆっくりと見張り台まで歩いてくると、階段を上ってシルリクの隣に立った。
「ご一緒してもよろしいですか、陛下」
「もちろん」とシルリクは答えた。
「銀鉤に釣られたのが、わたくしだけではないとわかって嬉しく思います」マニバは言った。
「ご自分の神を釣り針に喩えるのですか」シルリクは笑った。
「あら。はるか東のユアン国では、月は魚にも釣り針にも、宮殿にもなるのですよ。見るものによって姿を変えるのが、わが神のありようです」そして、マニバはくすりと笑った。「いやだわ、つい教師のような物言いをしてしまいました。どうかお許しを」
「かしこまる必要などありません。あなたは紛れもなく、我が子の教師なのですから」シルリクは言った。「貴方の目からご覧になって、あの子はいかがです?」
マニバは小さく頷いた。
「とても聡明であらせられます。それゆえ、ご自分をとりまくものを深く理解されているようですね。戦神の国の王となる身であるがゆえに、お身体が弱いことを恥じている──だからこそ、勉学で報いるために懸命に努力なさっています」彼女は言い、小さなため息をついた。「あの子はとてもよい子です。子を持たぬ我が身を疎ましく思いそうになるほど」
彼女は言い、それから俯いて、聞き取れぬほどの声で月神へ謝罪の祈りを捧げた。
「いまからでも遅くないでしょう」シルリクは言った。
「わたしをいくつだとお思いですか?」マニバは首を振りつつ笑った。「いいえ。たとえあと十歳若くても、月神に仕える女は子を持つことを許されません。処女の神ですから」
「子を持つ方法は一つではない」シルリクはわずかに肩をすくめた。「養い子であるとか。あなたは素晴らしい教師なのだし、弟子をとるのもいい。あなたの教えを受けたものは、あなたの知識を血肉として育つのだから──ある意味では、エダルトもあなたの息子のようなものです」
マニバはまじまじとシルリクの顔を見つめた。
「わたしは思い違いをしていたようです、陛下」
シルリクは眉を上げた。「思い違い?」
「ええ。北方の殿方は、もっと……好戦的で──」
「おまけに粗野で?」
「そうは申しておりません」マニバは言ったが、横顔は笑っていた。「一介の巫女の小言にまで真摯に耳を傾けてくださるなどとは、つゆほども思いませんでした」
シルリクは微笑んだ。「我らが〈嵐神〉は戦神であり、知神でもある。あなたはそういう国に流れ着いたのです」
「父神がこの国を加護する理由がわかったような気がいたします」マニバは言った。「エイルの王は、国を危険にさらしてまで一介の巫女の命を救った──だれにでも出来ることではありません」
シルリクはくつくつと笑った。「エイルの男を思うままに操る呪文をご存じか?」
「呪文? いいえ」マニバは首を振った。
「『イムラヴがあれをやった』といえば断り、『イムラヴがこれをしなかった』と言えば喜んでやるのです。オシァンは貴方を助けなかった。ならば、エイルはなんとしてでも貴方を守る。どの王もそうするはずだ」
マニバは声を上げて笑った。つい一瞬前まで、隣に座っていたのは落ち着き払った導者だったはずなのに、いま隣で笑っているマニバは少女のように見えた。
「ああ月神よ、照覧あれ! なんと小気味よい王でしょう」そして、彼女は言った。「あなたとあなたの民は、これからは月神の加護をも賜る──きっとそうなります」
「あまりある光栄だ」シルリクは言った。
「もしも願いが叶うなら……月神があなたにその機会を与えたら、何を願いますか?」
神職者がするには珍しい質問だった。彼らは、贄や犠牲の伴わぬ軽々しい願い事を好まないし、願えばたやすく叶うはずだと考えられるのを嫌う。
シルリクはこちらを見つめるマニバの顔を、改めて見返した。
興味深そうにこちらを見ている灰色の瞳は、闇夜の中だというのに明るく輝き、ほとんど白くみえる。まるで月のような目だと思ったとき、なぜか背筋に重い悪寒が走った。
「もしも……叶うなら」シルリクはのろのろと言った。「息子を死なぬ身にし、この国に二度と侵略の手が伸びぬようにしてもらいたい。無論、叶うはずも無いが」
「ご自身のことはお望みにならないのですね」マニバが静かに言った。
シルリクは頷いた。「多くは望まぬようにと育てられました。わたしには息子がいて、友がいて、家臣と、彼らのための国がある。これ以上は過ぎた願いです」
「もし、この願いが叶うと言ったら?」
マニバは、妙に感情のない声で言った。顔に浮かんでいるのが微笑なのか、それとも他の感情の表れなのか判じがたい。
「月神は血の贄を要求する神だ。わたしの手に余る犠牲を求められるのは目に見えている」
「月神が求める見返りは──祝福を受けること」マニバが言った。「そして、彼女の子らを見守ること」
「そんなことで? いいでしょう。エイルの王として、この城で月神の子らの面倒を見ましょう」やはり、からかわれていたのだ。シルリクは笑った。「お安いご用だ。なにしろ月神には子がいない」
それにしても、カルタナの冗談は解しがたい──酒の席で口にされても、冗談と気づかぬまま聞き流してしまいそうだ。そう思っていると、マニバが言った。
「こどもは、これから生まれるのです」
不意に潮騒が轟き渡り、世界そのものが揺れたような錯覚に襲われた。膝から力が抜け、自分がしっかりと立っているのかどうかもわからなくなる。それは瞬く間のことだった。
いまのは何だ?
目眩のような一瞬を、頭から振り払う。
「つまり……神話が書き換えられると仰るのですか?」
彼女はようやく、はっきりとした表情を浮かべた。笑みだ。引き寄せられるような、見つめずにいられないような、言い知れぬ力を伴った笑み。
白月のような瞳でシルリクを見つめたまま、彼女は静かに繰り返した。
「こどもは、これから生まれるのです」
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