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3、変革のシトリン
210、「結婚してくださいッ!」
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一方、会場ではフィロシュネーがリッチモンドをけしかけていた。
ダンスパートナーを青王アーサーに連れて行かれたリッチモンド・ノーウィッチ伯爵公子は、まるで事態が想定通りというように落ち着いていた。
白金の髪をオールバックにして、パリッとした正装姿の彼は、とても姿勢がいい。もう少し遠慮してもいいぞといいたくなるくらい背筋をピンと伸ばし、肩をそびやかし、胸を張っている。
その彼がダンスフロアから出て向かうのは、青王アーサーに置いて行かれた婚約者候補のカタリーナ・パーシー=ノーウィッチ公爵令嬢のところであった。
途中でモンテローザ公爵が薔薇の花束を投げる。危なげなくキャッチしたリッチモンドは、カタリーナに花束をを差し出した。つまり、モンテローザ公爵が後ろ盾についた上での求婚、というのが誰の目にも明らかだ。
真紅の薔薇の花束を片手に。もう片方の手は腰の後ろにまわして。
「結婚してくださいッ!」
会場中に響き渡る大声量でプロポーズしたリッチモンドの勇姿と、ぽろりと扇を落として両手で口元を覆い、おそるおそる薔薇を受け取ったカタリーナの微笑ましい姿は、それからしばらく語り継がれるのであった。
「こういうのを、青国の令嬢言葉では元鞘といいますの。文句がある方は名乗りでなさい」
青国の王妹フィロシュネーは、ダンスを止めて優雅に一礼し、強気に言いのけた。権力とはこんな強引にことを進めるときにこそ、責任とリスクを感じつつ活用するものなのだ、と思いながら。
「この愛の女神の加護を受ける聖女フィロシュネーに文句の言えるものがいたら、ですけどね」
そう言って見せるのは、サイラスから借りた愛の女神アム・ラァレの聖印だ。赤い果実を模った聖印が魔導具だと、この会場のほとんどの者は知らない。
「愛は憐み、されど自分を憐れまぬもの」
聖句をとなえると、聖印が赤く輝く。
そして、フィロシュネーを中心に赤い薔薇の花びらがひらひらと舞い踊った。
「おお……!!」
「これはまさに、女神の奇跡!」
主に紅国勢が大興奮している。心なしか全員、頬が上気していて目がとろんとしている。
「うふふ。では、そういうことで、よしなに」
わたくしも失礼しますわ、とドレスの裾をひるがえし、フィロシュネーが退場する。
後に残った人々は恍惚の眼差しでそれを見送り……しばらくして、夢から覚めたような顔になった。
「魅了です。今のは、愛の女神の魅了効果ですよ」
「なんと、この老骨が忘れていた胸の高鳴りを再び体験できようとは」
青国の王妹フィロシュネーには、愛の女神アム・ラァレの加護がある――人々はこの日、そう認識した。
――そして、青王アーサーの婚約者候補たちは元婚約者の登場により、全員お役御免となったのだった。
* * *
青王アーサーの婚約をめぐる事件から数日、『ラクーン・プリンセス』は月隠の日を迎えていた。
調査隊は日が上りきるより先に出発していて、船上には彼らの帰りを待つ人々が集まっている。
風は穏やか、波が高め、水温は高い。
二つの月が隠れる姿を眺められる時間には、まだ時間があった。フィロシュネーがサイラスと一緒に甲板に上がると、人々が恭しく礼をしてくる。
「愛の女神の申し子フィロシュネー姫殿下……」
「魅惑の聖女様……」
――変な称号が増えている!
フィロシュネーはきれいな笑顔を保ちながら兄を見た。兄はひとりだ。病弱な婚約者は、部屋に引きこもっているらしい。聞いた話によると、兄の側は熱心に口説いているが、相手側は逃げ腰なのだとか……。
(あとでお部屋に行ってみましょう)
フィロシュネーはそう決意した。
「霧が濃くなってきたな」
誰かの声で、ふと気づく。
確かに、霧が濃い。
それも、見るからにあやしげな紫色の霧なのだ。
「幻が見えるぞ」
「魔力が濃い霧ですね、気をつけてください」
注意喚起する声が飛び交う中、フィロシュネーはチクタクと働く時計の針や、月の幻を見た。
「これでは、少し離れると互いがわからなくなりますね」
サイラスが低く唸るように言って、フィロシュネーを抱き寄せる。ぐらりと大きく床が傾いたのは、その直後。目の前が高く。背後が低く。その角度が、短時間でグッと大きくなる。
「きゃ!」
「わーっ!!」
悲鳴と同時に、ばしゃりと上から塩辛い水がかかる。高波が船の上にかかったのだ。
霧の中で人々が倒れて転ぶ音と悲鳴がつづいて、フィロシュネーはサイラスにしがみついた。がっしりとした体躯は頼もしくて、縋りがいがある。
サイラスの手が骨が浮き出るほど強く船の手すりを掴んでいる。視線が一瞬霧の中を彷徨い、唇が音を紡ぐ。
「姫、少し移動します」
「はっ……」
タイミングを見計らってパッと手を放すのが見えて、フィロシュネーは無我夢中で口をつぐんだ。
サイラスはフィロシュネーを抱えたまま甲板を蹴り、霧の中を高速で滑り落ちる。そして、太いマストとそれが立つ床に腕と脚をかけて急停止した。
「んきゅっ」
舌を噛まないように――心の準備をしたおかげで、なんとか無事だ。はぁはぁと鼓動を落ち着かせる視界は、今度は逆側にぐらりと傾いている。
霧の中で、目の前をスルッとあらわれた人と木箱が一緒になって下になった側へと滑っていって、見えなくなる。
「な、なあに、これっ」
全身をカタカタを震わせてサイラスにしがみついて言えば、サイラスは残念そうに言った。
「お天気が悪いようですね」
――その子どもに教えるような口調といったら!
「海が荒れているのよね? そ、それくらい、わかりますわっ」
「さすがです」
サイラスは短く言って、険しい視線を周囲に向けた。霧の果てまで見透かすような瞳が細くすがめられ、「お静かに」とささやかれる。
同時に、べちゃり、べちゃりというじめっと粘り気のある音があちらこちらで悲鳴と共演を始めた。
「海の魔物が出たようです」
サイラスが冷静すぎる声で言うので、フィロシュネーはゾッとした。
「海にも魔物がいるの? あなたが出しました? わたくし浄化します?」
「姫は俺をなんだと思っておられるのです?」
片眉を上げて胡乱な顔をするサイラスは、「何を言ってるんだこの姫は」と呆れ返る顔だ。
知らぬは本人ばかりなり、この男の魂を浄化するためにオルーサは気の遠くなる年月、苦労したのだ――フィロシュネーはふとオルーサの苦労を思った。
「少し失礼しますよ」
「アッ」
ぐらつく船の上で、マストに背を押し付けるように座らされ、サイラスがマストごと抱きしめるように覆い被さってくる。そして、体温が離れた時には近くにあった縄でマストにグルグルに縛り付けられていた。
「ふぇっ!?」
「自力でしがみついているより楽ではないかと。失神なさっても大丈夫ですし」
言いながら、サイラスは腰に履いた長剣をしゃらりと抜き放つ。
優れた体幹による鋭い剣線が閃いた後で、ばらばらと傾いた地面に何かが落ちて下の方へと転がっていく。
霧の中からぬるりと姿を見せた魔物の体だ。タコに似ている。あまり可愛くない。
「ふ、ふあぁ……タコが……」
「魔物です」
「それは、わかりますわ……」
フィロシュネーはふるふると震えた。
そのやり取りの間も、傾く船上でサイラスは器用にバランスをとり、スパリスパリと魔物を斬っていく。
ダンスパートナーを青王アーサーに連れて行かれたリッチモンド・ノーウィッチ伯爵公子は、まるで事態が想定通りというように落ち着いていた。
白金の髪をオールバックにして、パリッとした正装姿の彼は、とても姿勢がいい。もう少し遠慮してもいいぞといいたくなるくらい背筋をピンと伸ばし、肩をそびやかし、胸を張っている。
その彼がダンスフロアから出て向かうのは、青王アーサーに置いて行かれた婚約者候補のカタリーナ・パーシー=ノーウィッチ公爵令嬢のところであった。
途中でモンテローザ公爵が薔薇の花束を投げる。危なげなくキャッチしたリッチモンドは、カタリーナに花束をを差し出した。つまり、モンテローザ公爵が後ろ盾についた上での求婚、というのが誰の目にも明らかだ。
真紅の薔薇の花束を片手に。もう片方の手は腰の後ろにまわして。
「結婚してくださいッ!」
会場中に響き渡る大声量でプロポーズしたリッチモンドの勇姿と、ぽろりと扇を落として両手で口元を覆い、おそるおそる薔薇を受け取ったカタリーナの微笑ましい姿は、それからしばらく語り継がれるのであった。
「こういうのを、青国の令嬢言葉では元鞘といいますの。文句がある方は名乗りでなさい」
青国の王妹フィロシュネーは、ダンスを止めて優雅に一礼し、強気に言いのけた。権力とはこんな強引にことを進めるときにこそ、責任とリスクを感じつつ活用するものなのだ、と思いながら。
「この愛の女神の加護を受ける聖女フィロシュネーに文句の言えるものがいたら、ですけどね」
そう言って見せるのは、サイラスから借りた愛の女神アム・ラァレの聖印だ。赤い果実を模った聖印が魔導具だと、この会場のほとんどの者は知らない。
「愛は憐み、されど自分を憐れまぬもの」
聖句をとなえると、聖印が赤く輝く。
そして、フィロシュネーを中心に赤い薔薇の花びらがひらひらと舞い踊った。
「おお……!!」
「これはまさに、女神の奇跡!」
主に紅国勢が大興奮している。心なしか全員、頬が上気していて目がとろんとしている。
「うふふ。では、そういうことで、よしなに」
わたくしも失礼しますわ、とドレスの裾をひるがえし、フィロシュネーが退場する。
後に残った人々は恍惚の眼差しでそれを見送り……しばらくして、夢から覚めたような顔になった。
「魅了です。今のは、愛の女神の魅了効果ですよ」
「なんと、この老骨が忘れていた胸の高鳴りを再び体験できようとは」
青国の王妹フィロシュネーには、愛の女神アム・ラァレの加護がある――人々はこの日、そう認識した。
――そして、青王アーサーの婚約者候補たちは元婚約者の登場により、全員お役御免となったのだった。
* * *
青王アーサーの婚約をめぐる事件から数日、『ラクーン・プリンセス』は月隠の日を迎えていた。
調査隊は日が上りきるより先に出発していて、船上には彼らの帰りを待つ人々が集まっている。
風は穏やか、波が高め、水温は高い。
二つの月が隠れる姿を眺められる時間には、まだ時間があった。フィロシュネーがサイラスと一緒に甲板に上がると、人々が恭しく礼をしてくる。
「愛の女神の申し子フィロシュネー姫殿下……」
「魅惑の聖女様……」
――変な称号が増えている!
フィロシュネーはきれいな笑顔を保ちながら兄を見た。兄はひとりだ。病弱な婚約者は、部屋に引きこもっているらしい。聞いた話によると、兄の側は熱心に口説いているが、相手側は逃げ腰なのだとか……。
(あとでお部屋に行ってみましょう)
フィロシュネーはそう決意した。
「霧が濃くなってきたな」
誰かの声で、ふと気づく。
確かに、霧が濃い。
それも、見るからにあやしげな紫色の霧なのだ。
「幻が見えるぞ」
「魔力が濃い霧ですね、気をつけてください」
注意喚起する声が飛び交う中、フィロシュネーはチクタクと働く時計の針や、月の幻を見た。
「これでは、少し離れると互いがわからなくなりますね」
サイラスが低く唸るように言って、フィロシュネーを抱き寄せる。ぐらりと大きく床が傾いたのは、その直後。目の前が高く。背後が低く。その角度が、短時間でグッと大きくなる。
「きゃ!」
「わーっ!!」
悲鳴と同時に、ばしゃりと上から塩辛い水がかかる。高波が船の上にかかったのだ。
霧の中で人々が倒れて転ぶ音と悲鳴がつづいて、フィロシュネーはサイラスにしがみついた。がっしりとした体躯は頼もしくて、縋りがいがある。
サイラスの手が骨が浮き出るほど強く船の手すりを掴んでいる。視線が一瞬霧の中を彷徨い、唇が音を紡ぐ。
「姫、少し移動します」
「はっ……」
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サイラスはフィロシュネーを抱えたまま甲板を蹴り、霧の中を高速で滑り落ちる。そして、太いマストとそれが立つ床に腕と脚をかけて急停止した。
「んきゅっ」
舌を噛まないように――心の準備をしたおかげで、なんとか無事だ。はぁはぁと鼓動を落ち着かせる視界は、今度は逆側にぐらりと傾いている。
霧の中で、目の前をスルッとあらわれた人と木箱が一緒になって下になった側へと滑っていって、見えなくなる。
「な、なあに、これっ」
全身をカタカタを震わせてサイラスにしがみついて言えば、サイラスは残念そうに言った。
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知らぬは本人ばかりなり、この男の魂を浄化するためにオルーサは気の遠くなる年月、苦労したのだ――フィロシュネーはふとオルーサの苦労を思った。
「少し失礼しますよ」
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「ふぇっ!?」
「自力でしがみついているより楽ではないかと。失神なさっても大丈夫ですし」
言いながら、サイラスは腰に履いた長剣をしゃらりと抜き放つ。
優れた体幹による鋭い剣線が閃いた後で、ばらばらと傾いた地面に何かが落ちて下の方へと転がっていく。
霧の中からぬるりと姿を見せた魔物の体だ。タコに似ている。あまり可愛くない。
「ふ、ふあぁ……タコが……」
「魔物です」
「それは、わかりますわ……」
フィロシュネーはふるふると震えた。
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