俺が想うよりも溺愛されているようです。

あげいも

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日常

選択-8-A-

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──ユルストレーム家で過ごした、あの優しい時間が嘘のようだ。

 屋敷に戻った瞬間から、余韻に浸る余裕もなく、空気はすっかり仕事のものになっていた。アルノシトもその波にのまれるようにして、次々と差し出される業務をこなし続け、夕食の時間が近づく頃にようやく一息。
「お疲れさん」
 エトガルの軽い口調。アルノシトも笑みを浮かべて
「お疲れ様です」
 と返した。アルノシトの表情を見て彼は笑みを深める。
「今日の仕事は終わりやさかいな。後はゆっくりしとき」
 そう言って彼は、軽やかに部屋を出て行った。扉が閉まる音を背に、アルノシトは視線をルートヴィヒへ向けた。執務机の前で、彼はまだペンを動かしている。
「……あの」
 アルノシトの声にペンを走らせる音が止まる。ルートヴィヒが顔を上げると、自然に視線が交わった。
「夕食……どうされますか?」
 僅かの間の後、ふと空気が和らぐ。
「一緒に食べよう。少しだけ待ってくれるか?」
 もちろん。
 返事を聞いてルートヴィヒも笑った。彼が書類に目を落とし、「少し」を片付ける間、アルノシトは窓の外を見る。
 暮れなずむ街に、小さな灯がぽつぽつと。帰路を急ぐ人々の影が、街灯の下を通り過ぎていく。
 あの中に、祖父もいるのだろうか──。
 雑貨屋の看板をしまい、店内を掃除して、夕食を用意する。そんな日々が、もうずいぶんと遠くに感じられた。
「──アルノシト?」
 名を呼ばれて、肩がぴくりと跳ねる。
 次の瞬間、背後からふわりと回された腕に包まれた。
「あ……ごめんなさい、気づかなくて」
「謝らなくていい。何か見えたのか?」
 穏やかな声。目には見えないが、その響きが心を撫でる。
「なんとなく。爺ちゃん、見えるかなって」
「そうか」
 本気で祖父を探していた訳ではないことは、ルートヴィヒも理解しているだろう。それ以上は何も言わないまま、二人で窓の外を見つめる時間。
 暖かく、柔らかい空気が流れる。抱きしめる腕には力がこもっておらず、いつでも離れられる緩やかさ。
 少し迷った後、そっとルートヴィヒの腕に触れる。ちょんちょん、と悪戯するように指先をつつくと、返事の代わりに指を握られた。
 じゃれつくように動かしていたルートヴィヒの指が、不意に真剣な力を帯びる。
「──?」
 こめかみのあたりへと触れる柔らかい感触。続けて耳の上部から耳朶、首筋へと滑る動きに肩が跳ねる。
「っ、……ルートヴィヒ、さん?」
 驚きに振り返ると、目が合った。穏やかで優しい青に吸い寄せられるように顔を傾け──

 こんこん。

 触れあう直前に響くノックの音。飛び跳ねるように離れたアルノシトとは対照的に、落ち着いた声で返事を返すルートヴィヒ。
 名残惜し気に離れた彼が、夕食をどうするかとメイドと話す声を聞きながら、アルノシトは大きく息を吐き出した。
 そっと耳に手をやる。残された熱に指をあてて──記憶するように。
「アルノシト」
「はい」
 指の動きが止まる。
「食堂ではなく、部屋へ運んでもらうように頼んだ」
 行こう、と自然な動きで手を取られた。掌を重ね、指を絡めて握られる。はしゃぐでもなく、恥かしがるでもなく。静かに握り返してから歩き出した。

        ◇◇◇◇◇◇◇

 ルートヴィヒの部屋で食事を終え、風呂に入った後。他愛ない話をしながら夜を過ごす。
 ソファの上、ルートヴィヒの膝の上に横向きに腰を落ち着けた格好。今日の料理がたまたま祖母の得意料理の一つだったため、祖母の話から子供のころの話、雑貨店の客とのやりとり──
 懐かしさと、どこかほろ苦いものがにじむ会話。
 ふと、話題が途切れた。ほんの少しの沈黙。ランプの灯りが揺らめいて互いを染める間。
「……アルノシト」
 首を傾げて返事を待つ。
「まだ、“慣れない”か?」
 微妙に発音を変えた問いかけ。一瞬、きょとんとした後でアルノシトは笑みを浮かべた。
「……慣れないです」
 ルートヴィヒの手を取ると、自分の胸へと押し当てた。心臓の上。彼の掌越しに、自分の鼓動が届いているかはわからない。でも──胸の奥の鼓動が、確かに速くなっていくのを感じる。
「たぶん……慣れないままでいいんだと思います」
 その手を離さず、そっと自分の頬に寄せる。
「……こうしてるだけで。俺……すごくどきどきする。でも──安心、もして。少しだけ、怖くもあって」
 ルートヴィヒの動く気配にそっと指を離した。詰まる距離に眼を伏せれば、唇へと押し当てられた柔らかい感触。何度も啄まれるうちに零れる吐息。
 自然と腕をルートヴィヒの首へと絡めて体を寄せる。
 触れ合わせる時間が長くなるにつれ、熱が籠る。小さな水音を残して一度唇を離して見つめ合う。
「ルートヴィヒさん」
 頼りなく揺れるランプの灯り。
「安心も、怖さも──全部。ルートヴィヒさんと一緒に抱きしめたい。嬉しさや楽しさだけじゃなくて。辛いことも、悲しい気持ちも全部」
 だから──
「もう……一人で抱えないでください。俺の手は頼りないかも知れないけど。一緒に持つことはできるから」
 自分から顔を寄せて口づける。触れ合わせてすぐに離れた後、言葉に出来ない思いに眼を細めてルートヴィヒを見つめた。
 穏やかに自分を見つめ返してくれる青い眼が揺らぐ。そっと回される腕に眼を閉じて体を預ける。
 ランプの灯がふたりの影を重ねて、消えそうで消えない灯火が部屋を淡く包んでいた。
「……ありがとう」
 耳元に届いた声は、祈るように──そして、どこまでも深く、優しかった。
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