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竜と結んだ循環陣(ファンタジー 異種族の番 竜人族×人族 攻視点)1
竜人族が人族と番になった記録は、少なくともルナリアの交易街の文献には残っていない。
だから左胸に灼けるような熱が走ったとき、ヴェルトは最初、戦傷の古傷が疼いたのだと思った。
◇
辺境の交易街ルナリアは、竜人族の領域と人族の領域を隔てる霧峡谷のほぼ中央に位置する。双方の商人が行き交い、荷を交わし、互いの言語で値を競り合う。表面上は友好的だが、その均衡はひどく脆い。竜人族は人族を「脆き者」と呼び、人族は竜人族を「角持ち」と呼ぶ。名前ではなく種族で呼び合っているうちは、本当の友好など程遠い。
ヴェルトはこの街の国境守備隊長を務めていた。竜人族の族長ガルドラの末子でありながら辺境に赴任しているのは、本人がそれを望んだからだ。長兄ゼルガが純血主義を掲げる長老派閥を束ね、後継の座をほぼ手中に収めている王宮に、末子の居場所などなかった。権力争いに巻き込まれる前に、自ら願い出て辺境に退いた。実力は認められていた。二十一にして竜人族の精鋭部隊で指揮を執れるだけの力はある。だが政治の駆け引きと権謀術数に興味がない。命令を聞き、判断し、動く。求められるのはそれだけでいい。
ルナリアに着任して二年。ヴェルトの日常は、守備隊の巡回と警備報告の処理で完結していた。現地の竜人族の兵は十二名。人族側の自警団との定期連絡も事務的なものだ。大きな事件は起きない。霧峡谷を越えて魔獣が現れることはあるが、ヴェルトが単騎で片がつく程度の相手ばかりだった。
退屈かと問われれば、退屈だった。だが退屈は嫌いではない。平穏を守ることに意味がある。少なくとも、ここでは誰の後継争いにも巻き込まれない。
◇
その夜——月蝕の夜だった。
年に一度、双月が重なり空が暗紫に沈む夜。古い伝承では「魔力の理が揺らぐ刻」とされ、竜人族の間では番の紋が浮かび上がると言い伝えられている。もっとも、ヴェルトはその手の伝承を信じていなかった。番など、血筋を管理したがる長老会の制度にすぎない。魔力の相性を測定し、最適な組み合わせを決める。合理的な仕組みだが、「運命」などという詩的な言葉で飾る必要はないと思っていた。
巡回を終え、宿舎に戻ったヴェルトは、鎧を解いて寝台に腰を下ろした。
そのとき、左胸が灼けた。
古傷の疼きではなかった。皮膚の下から、もっと深い場所から、骨の芯を灼くような熱が這い上がってくる。ヴェルトは思わず胸を押さえた。シャツを引き開くと、鎖骨の下に淡い光の紋様が浮かび上がっていた。
三日月を二つ重ねたような意匠。竜の鱗にも似た細かい紋様が、脈拍に合わせて明滅している。
番の紋だ。
ヴェルトは息を呑んだ。
あり得ない。いや、あり得るからこそ灼けているのだと、本能の奥底が告げていた。
紋が示す方角がある。南東。人族の街区の方だ。胸の灼熱が指し示す先に、紋が共鳴する相手がいる。
ヴェルトは長い間、己の胸元に浮かぶ光の紋を見つめていた。
◇
翌朝。ヴェルトは通常の巡回を装い、人族の街区へ足を踏み入れた。
竜人族の守備隊長が人族側に出向くこと自体は珍しくない。治安維持の名目で週に一度は巡回している。だが今日は目的が違った。紋が引く方角を辿っていた。
ルナリアの人族街区は、石畳と乾いた煉瓦でできた小さな町だ。市場通りに沿って食料品店、鍛冶屋、雑貨屋が並び、脇道に入れば住居が密集している。竜人族の街区に比べれば質素だが、人族の商人たちは活気があった。ヴェルトが歩くと道を空ける者もいれば、軽く会釈をする者もいる。二年間大きな問題を起こしていないおかげで、睨まれることは少なくなっていた。
紋の共鳴が強くなったのは、市場通りの外れにある魔石工房の前だった。
間口は狭い。看板は古びた木に手書きの文字。「フィオの魔石工房」と読める。店先の棚に並んだ磨き上げられた魔石が淡い光を放ち、空気にかすかな魔力の波動を撒いていた。
ヴェルトは足を止めた。
紋が痛いほどに疼いた。
店の中から声がした。明るくて、よく通る声だ。
「はいはい、おじいちゃん、この護符、十日は持つからね! 効果が薄くなったらまた持ってきてよ!」
杖をつく老人が店から出てきた。入れ違いにヴェルトの目に入ったのは、磨きあげた晶石を抱えた青年だった。
銀灰色の長い髪を一つに緩く束ね、翠色の大きな瞳が笑みの形に細くなっている。頬には魔石の研磨粉がうっすらとついていた。白い肌に、華奢な体つき。だが動きには無駄がなく、慣れた手つきで棚の魔石を磨き布で拭い直している。
人族の青年だ。ヴェルトの鼻腔が微かな残り香を捉えた。白い花を水に浸したような、淡くて澄んだ香り。竜人族である自分の本能が、その香りに鋭く反応するのがわかった。
紋が、震えていた。
「あ、いらっしゃい!」
青年が振り向いた。翠の瞳がヴェルトを捉え、一瞬だけ瞬きが止まった。角が二本、首筋と腕に微かな鱗。竜人族だと気づいたのだろう。
だが、彼は怯えなかった。
「守備隊長さんだよね? 巡回? うちは怪しい魔道具は扱ってないよ。見る?」
悪びれもせずそう言って、笑った。裏表のない、まっすぐな笑顔だった。
「……怪しい魔道具の査察に来たわけじゃない」
「じゃあ何? 冷え性? 竜人族でも冷え性ってあるの?」
「ない」
「じゃあ肩こり? 鎧重そうだもんね」
「用はない」
……何をしに来たのか、自分でもよくわかっていなかった。紋に引かれるまま来てしまっただけだ。ヴェルトは踵を返しかけた。
「あ、待って待って。せっかく来たんだから、何か買ってってよ。治癒促進の護符とかどう?うちのは安いし、結構効くよ」
押しが強い。ヴェルトは無言で店内を見回した。小さいが手入れの行き届いた工房だ。棚に並ぶ魔石は大きさごとに整理され、それぞれに手書きの札が結ばれている。作業台には使い込まれた研磨器と細工用の刻刀。壁際の棚には原石が産地ごとに分けられ、整然としていた。
雑ではない。むしろ、かなりの腕だ。
「……治癒促進の護符を一つ」
「まいどー! えっと、切り傷用? 打撲用? 火傷用?」
「汎用のもので構わない」
「了解。じゃあこれ。竜人族にも効くかわかんないけど、試してみて。合わなかったら返品オッケーだから」
淡く光る小さな魔石の護符を手渡された。指先が触れた瞬間、紋がひときわ強く脈打った。ヴェルトは顔に出さなかったつもりだが、わずかに息が詰まったのは隠しきれなかったかもしれない。
「大丈夫? 顔色悪い」
「問題ない」
「ふーん。まあいいけど。あ、オレの名前はフィオ。よろしくね、隊長さん」
「……ヴェルトだ」
「ヴェルトね。覚えた。また来てよ」
細い髪が揺れ、笑い皺が柔らかく弧を描いた。
ヴェルトは護符を懐にしまい、無言で工房を出た。
背中に感じるフィオの視線が、妙に温かかった。紋がまだ、じんじんと泣いている。
種族が、違う。
竜人族が人族と番になることなど、本来あり得ない。
それでも足が勝手にこの工房に来た。紋がこの男を指した。それだけは嘘のつけない事実だった。
◇
翌日も、ヴェルトは魔石工房を訪れた。
巡回の延長を装い、護符の追加を求めた。フィオは「もう使ったの? 怪我しすぎじゃない?」と笑いながら応じた。
三日目は霧峡谷の境界に現れた魔獣を討伐した帰りに立ち寄った。鱗に浅い裂傷を負っていたため、フィオが血相を変えて治癒促進の護符を押しつけてきた。
四日目は、棚の奥で鈍く光っていた小さな集束晶石を買った。魔力を一点に集める性質を持つ原石で、通常は術式の触媒に使うものだ。使い道は知らないが、淡い光に目を引かれた。
五日目に、フィオが不思議そうに首を傾げた。
「ヴェルト、毎日来るね。よっぽどうちの魔石気に入った?」
「……品質が良い」
嘘ではなかった。フィオの細工する魔石は、竜人族の魔道具師が作るものとは違う繊細さがある。魔力の込め方が丁寧で、体への馴染みが良い。竜人族の魔道具は強力だが粗い。力で押し切るような術式だ。対してフィオの魔石は、穏やかに体に馴染む。
「へへ、嬉しい。竜人族のお墨付きもらったの初めてだよ」
フィオが笑うと、目元がきらきらと光った。研磨粉で汚れた指先でカウンターを拭きながら、世間話を始める。ヴェルトは黙って聞いていた。もともと寡黙な性格だ。自分から話す言葉はほとんどないが、フィオの話を聞くのは嫌ではなかった。
「オレ、孤児なんだよね。赤ん坊のとき、街の教会の前に置かれてたらしい。育ててくれたのは市場のみんな。パン屋のおばちゃんがご飯くれて、鍛冶屋の爺さんが読み書き教えてくれて。この工房も、前にここで魔石細工をやってたおっちゃんが引退するとき『お前が継げ』って」
「……一人か」
「一人だよ。でも寂しくはないかな。お客さんが来るし、話し相手には困らない」
フィオはそう言いながら棚の原石を整えている。手つきは慣れたもので、石の一つ一つを丁寧に確認しながら並べ直していく。
「ヴェルトは? 家族いるの?」
「……父と、兄が一人」
「へえ、二人兄弟。仲いいの?」
「いや」
「あー……そっか。まあ、色々あるよね」
それ以上踏み込まなかった。聞かないことの優しさというものがある。フィオはそれを自然にやった。ヴェルトは少し、肩の力が抜けた気がした。
六日目。ヴェルトが店を訪れると、フィオは留守だった。代わりに隣の雑貨屋の女主人が教えてくれた。
「フィオなら裏山に採取に行ってるよ。朝早くに出たきり戻ってこない。いつもならお昼前には帰るんだけどねえ」
ヴェルトは無言で裏山に向かった。
林道を二十分ほど歩くと、急斜面の岩場の手前でフィオを見つけた。崖際に張り出した岩棚に、銀灰色の髪が揺れている。どうやら岩壁に露出した原石を採ろうとしているらしい。
「おい」
ヴェルトの声に、フィオがびくりとして振り向いた。
「わ、ヴェルト? なんでここに?」
「帰りが遅いと聞いた。あの岩場は危険だ。降りろ」
「もうちょっとなの! この岩壁にしかない晶石があってさ、雪が降る前に採っとかないと」
「落ちれば死ぬ」
「死なないよ、オレ意外とこういうの得意で」
フィオの足元の石が崩れた。
小さな悲鳴。体がバランスを崩し、岩棚から滑り落ちる。
ヴェルトが地を蹴った。
竜人族の脚力は人族の数倍だ。一瞬で距離を詰め、落下するフィオの体を空中で抱き止めた。着地の衝撃を片膝で受け止め、腕の中にフィオの軽い体をしっかり収める。
数秒間。二人とも動かなかった。
「……怪我は」
「な、ない。ない、大丈夫。ありがと……」
フィオの声が震えていた。腕の中で心臓がばくばく鳴っているのが伝わってくる。翠の瞳が至近距離でヴェルトを見上げている。白い顔が赤くなっていた。
そして、香りが濃くなった。
フィオの魔力の残り香が、恐怖と安堵で制御を外れている。白い花の香りが甘く濃密に立ち昇り、ヴェルトの竜の本能を深く揺さぶった。
紋に甘い痛みが走った。歯の奥まで響くような。
ヴェルトは奥歯を噛みしめ、フィオをそっと地面に下ろした。
「……もう一人で来るな」
「う、うん……」
「採りたい原石があるなら、俺が付き添う」
「え? いいの?」
「国境守備隊の管轄区域だ。住民の安全確保は職務の範囲内になる」
本音を建前で覆い隠すのは、ヴェルトの癖だった。フィオがそれを見破ったのかどうかはわからないが、その表情が少しだけ柔らかくなった。
「……ありがと、ヴェルト。じゃあ、来週も一緒に来てくれる?」
「ああ」
帰り道、二人は並んで歩いた。フィオが採った原石の袋を半分持ってやると、フィオは「重いのに悪いね」と言って笑った。
ヴェルトは答えなかった。ただ、隣を歩くフィオの髪が西日に透けて淡い金色に光るのを、横目で見ていた。
◇
裏山の木々が色づき始めた頃には、ヴェルトの足は自然とフィオの工房へ向かうようになっていた。
週に二度の原石採掘の護衛が定着した。フィオが採掘し、ヴェルトが周囲の安全を確保する。人族の魔石細工師と竜人族の守備隊長が連れ立って山を歩く姿は、ルナリアの住民の間でちょっとした話題になっていた。
「隊長さん、あの魔石工房の坊主とよく歩いてるね」
部下の竜人族兵にからかわれても、ヴェルトは「職務だ」と短く返すだけだった。
フィオもまた、ヴェルトの存在に慣れていった。最初は「竜人族の隊長が来てる」と身構えていた近隣の住民たちも、ヴェルトがフィオの工房先で黙って護符を受け取り、黙って去る光景を見慣れるうちに態度を軟化させた。
「あの隊長さん、怖い顔してるけど悪い人じゃないね」
「フィオの店の常連ってことは、目が利くんだよ」
ある日の原石採掘の帰り道で、フィオが不意に言った。
「ねえ、ヴェルト。竜人族って、どのくらい生きるの」
「……三百年から五百年と言われている」
「やっぱり。人族はせいぜい八十年くらいだから、だいぶ違うんだね」
軽い口調だったが、不意にフィオが黙った。原石の袋を抱え直しながら、少し俯く。
「番になったらさ……ヴェルトの方が、ずっと長く残ることになるよね」
ヴェルトは答えなかった。答えを持っていなかった。これまで考えたこともなかった。番という関係の先に、そういう孤独があることを。
「あ、ごめん。変なこと言った。忘れて」
フィオが慌てて笑顔を作った。だがヴェルトの足は止まったままだった。
「……忘れない」
「え?」
「忘れない。だが今はまだ、答えが出ない」
フィオがヴェルトを見上げた。その翠色の瞳の奥に小さな揺れがあるのを、ヴェルトは見逃さなかった。
「出たら、教えてね」
「……ああ」
その日の帰り道は、いつもより少しだけ距離が近かった。
◇
別の日。採掘の帰りに工房で原石を下ろしていると、作業台の隅に見慣れない帳面が積まれていた。表紙が擦り切れた古いもので、竜人族の文字と人族の文字が混在している。
「フィオ。これは」
「あ、それ。師匠の……この工房の前の主のおっちゃんの研究帳面。おっちゃん、元々は竜人族の魔道具の修繕もやってたんだ。竜の魔力って人族のものと流れ方が違うんだけど、おっちゃんはそれを『循環させる方法』をずっと研究してた」
ヴェルトは帳面を手に取った。黄ばんだ紙に、魔力の流路を図示した精緻な術式図が描かれている。竜人族の魔力は一方向に噴出するのが特徴だが、この図では人族の魔石を介して魔力を環状に回す構造が記されていた。余白に師匠の走り書きがある。『竜の魔力は出力が桁外れに高く、竜の術者が自力で循環を試みると術式が焼き切れる。人族の魔石で減衰・冷却してやらねば環は回らぬ』
さらにページをめくると、赤い墨で枠囲みされた一節があった。
『最大の難関は、術式の起点である。竜の魔力の源泉——逆鱗に直接陣を刻まねば、循環は始まらない。だが逆鱗は竜の魂の核であり、他者が触れれば竜は死に至る。この矛盾を解かぬ限り、理論は永遠に理論のままである』
「循環陣——竜の魔力を、一方向の放出ではなく、環として回す術式か」
「そう。竜人族の魔道具って、すごく強力だけど、力を使い切ったら終わりでしょ。でも循環させれば効率が跳ね上がる。おっちゃんは完成させられなかったけど、オレが引き継いで、ここ三年くらいずっと改良してる」
フィオは棚の奥から小さな魔石を取り出した。ヴェルトが買った汎用の護符とは違う、複雑な紋様が刻まれた試作品だ。
「まだ完成じゃないんだけどね。竜の魔力に直接試せる機会がないから、理論だけ先に進んじゃってる状態」
フィオが苦笑した。だがその目は、職人としての静かな矜持に満ちていた。
ヴェルトは帳面をめくりながら、黙ってその術式図の精度に驚いていた。長老会直属の魔道具師でも、ここまで竜の魔力構造を理解している者は少ない。
「……大したものだ」
「え、ほんと? 嬉しい。竜人族の人にそう言ってもらえると、やっぱり方向性は間違ってないのかなって」
フィオの翠色の瞳がきらりと光った。原石を磨くときと同じ、真剣で純粋な輝きだった。
この男は魔石しか磨けない街の細工師ではない。竜人族の魔力の本質に独力で迫ろうとしている、異端の研究者だ。ヴェルトは静かにそう認識を改めた。
◇
ある夕方。フィオの工房の裏で、二人で原石の仕分けをしていたときのことだ。
「ヴェルト」
「ん」
「聞いてもいい? その……胸の紋」
ヴェルトの手が止まった。
フィオは気まずそうに視線を逸らし、自分の鎖骨の下あたりを指した。
「オレにも……あるんだ。一ヶ月前の月蝕の夜に、浮かんだ」
ヴェルトは黙ってフィオを見た。
「人族の体にこんな光る紋様が浮かぶなんて、聞いたこともないし、街の医師にも見せたけど、首を傾げられただけだった」
フィオが襟元を少しずらした。鎖骨の下に、ヴェルトと同じ三日月を重ねた紋がうっすらと光っている。ただし、ヴェルトのものが琥珀色なのに対し、フィオのそれは淡い銀色だった。
「それで、その紋がヴェルトが近くにいるとすごく温かくなるんだ。最初から。お店に初めて来てくれた日から」
翠色の瞳がまっすぐにヴェルトを見た。怯えてはいなかった。ただ、確かめたいという静かな決意があった。
「ヴェルトのも……そう?」
ヴェルトは数瞬、答えなかった。
それから、自分の胸元のシャツを無造作にずらした。鎖骨の下、琥珀色の紋が脈動している。フィオが近くにいるから——今まさに、熱を帯びて。
「……ああ。同じだ」
フィオの目が潤んだ。泣いているのではない。安堵だ。
「よかった。オレだけじゃなかった」
その声があまりに素直で、ヴェルトの胸の奥で何かが軋んだ。
この人を守りたいと思った。守備隊長としてではなく、ヴェルトという個人として。
「フィオ」
「ん?」
「俺は竜人族だ。人族との番は前例がない。長老会も、族長も、認めないだろう」
「うん。知ってる」
「それでも、紋は嘘をつかない。俺の紋はお前を指している。それだけは、事実だ」
不器用な言葉だった。告白でも誓いでもない、ただの事実の確認。それなのにフィオの目からぽろりと涙が落ちた。
「……ヴェルト、そういうとこだよ」
「何がだ」
「不器用すぎるところ。でも、嬉しい。すごく」
フィオが袖で目元を拭い、泣き笑いの顔で言った。
「オレも同じだよ。種族とか、前例とか、そういうの関係なく。ヴェルトが近くにいると、嬉しいんだ。オレの番は、ヴェルトがいい」
魔石の淡い輝きと、清涼な残り香が混ざり合う夕暮れの工房先。二人の紋が静かに共鳴し、同じ色に染まっていく。琥珀と銀が混ざり合うような、淡い光を放った。
◇
冷たい霧がルナリアの街を覆い始めた朝だった。
ヴェルトの元に本国からの使者が現れたのは、紋の共鳴をフィオと確かめ合ってから半月後のことだった。
早朝の詰所に、見覚えのない竜人族の男が二人立っていた。灰色の長衣に純血長老会の紋章、双頭の竜が刺繍されている。ヴェルトは一目でわかった。兄ゼルガの息がかかった使者だ。長老会の名を借りているが、ゼルガの手の者が動いたということは、この件を政争の道具にする腹だ。
「ヴェルト・ラ・ガルドラ殿下。長老会よりの言伝を申し上げる」
年嵩の方の使者が、薄い笑みを浮かべた。
「ヴェルト殿下が人族の青年と接触を繰り返している件、ゼルガ殿下のお耳に入っております。族長の血筋たる者が脆き者と番を結ぶことなど、到底認められません。過去に種族を超えた番が何をもたらしたか……殿下もご存知のはずです。竜の長大な寿命が人族のそれまで削られるという、呪われた真実を」
それは、長老会が歴史から抹消した禁忌だった。数百年前、人族と番になった竜が、わずか数十年で命を落としたという記録。純血を尊ぶ長老会が、決して認めるわけにはいかない「竜の危機」だ。
「長老会は殿下に即時帰還を命じ、番の紋の消去儀式への出席を求められます」
紋の消去儀式。対になる紋の片方を魔力で焼き消し、番の共鳴を断ち切る古い術式だ。成功率は高いが、消された側には激しい苦痛が伴い、精神に傷を残すとも聞く。
「……拒否する」
ヴェルトの声は低く、静かだった。
だから左胸に灼けるような熱が走ったとき、ヴェルトは最初、戦傷の古傷が疼いたのだと思った。
◇
辺境の交易街ルナリアは、竜人族の領域と人族の領域を隔てる霧峡谷のほぼ中央に位置する。双方の商人が行き交い、荷を交わし、互いの言語で値を競り合う。表面上は友好的だが、その均衡はひどく脆い。竜人族は人族を「脆き者」と呼び、人族は竜人族を「角持ち」と呼ぶ。名前ではなく種族で呼び合っているうちは、本当の友好など程遠い。
ヴェルトはこの街の国境守備隊長を務めていた。竜人族の族長ガルドラの末子でありながら辺境に赴任しているのは、本人がそれを望んだからだ。長兄ゼルガが純血主義を掲げる長老派閥を束ね、後継の座をほぼ手中に収めている王宮に、末子の居場所などなかった。権力争いに巻き込まれる前に、自ら願い出て辺境に退いた。実力は認められていた。二十一にして竜人族の精鋭部隊で指揮を執れるだけの力はある。だが政治の駆け引きと権謀術数に興味がない。命令を聞き、判断し、動く。求められるのはそれだけでいい。
ルナリアに着任して二年。ヴェルトの日常は、守備隊の巡回と警備報告の処理で完結していた。現地の竜人族の兵は十二名。人族側の自警団との定期連絡も事務的なものだ。大きな事件は起きない。霧峡谷を越えて魔獣が現れることはあるが、ヴェルトが単騎で片がつく程度の相手ばかりだった。
退屈かと問われれば、退屈だった。だが退屈は嫌いではない。平穏を守ることに意味がある。少なくとも、ここでは誰の後継争いにも巻き込まれない。
◇
その夜——月蝕の夜だった。
年に一度、双月が重なり空が暗紫に沈む夜。古い伝承では「魔力の理が揺らぐ刻」とされ、竜人族の間では番の紋が浮かび上がると言い伝えられている。もっとも、ヴェルトはその手の伝承を信じていなかった。番など、血筋を管理したがる長老会の制度にすぎない。魔力の相性を測定し、最適な組み合わせを決める。合理的な仕組みだが、「運命」などという詩的な言葉で飾る必要はないと思っていた。
巡回を終え、宿舎に戻ったヴェルトは、鎧を解いて寝台に腰を下ろした。
そのとき、左胸が灼けた。
古傷の疼きではなかった。皮膚の下から、もっと深い場所から、骨の芯を灼くような熱が這い上がってくる。ヴェルトは思わず胸を押さえた。シャツを引き開くと、鎖骨の下に淡い光の紋様が浮かび上がっていた。
三日月を二つ重ねたような意匠。竜の鱗にも似た細かい紋様が、脈拍に合わせて明滅している。
番の紋だ。
ヴェルトは息を呑んだ。
あり得ない。いや、あり得るからこそ灼けているのだと、本能の奥底が告げていた。
紋が示す方角がある。南東。人族の街区の方だ。胸の灼熱が指し示す先に、紋が共鳴する相手がいる。
ヴェルトは長い間、己の胸元に浮かぶ光の紋を見つめていた。
◇
翌朝。ヴェルトは通常の巡回を装い、人族の街区へ足を踏み入れた。
竜人族の守備隊長が人族側に出向くこと自体は珍しくない。治安維持の名目で週に一度は巡回している。だが今日は目的が違った。紋が引く方角を辿っていた。
ルナリアの人族街区は、石畳と乾いた煉瓦でできた小さな町だ。市場通りに沿って食料品店、鍛冶屋、雑貨屋が並び、脇道に入れば住居が密集している。竜人族の街区に比べれば質素だが、人族の商人たちは活気があった。ヴェルトが歩くと道を空ける者もいれば、軽く会釈をする者もいる。二年間大きな問題を起こしていないおかげで、睨まれることは少なくなっていた。
紋の共鳴が強くなったのは、市場通りの外れにある魔石工房の前だった。
間口は狭い。看板は古びた木に手書きの文字。「フィオの魔石工房」と読める。店先の棚に並んだ磨き上げられた魔石が淡い光を放ち、空気にかすかな魔力の波動を撒いていた。
ヴェルトは足を止めた。
紋が痛いほどに疼いた。
店の中から声がした。明るくて、よく通る声だ。
「はいはい、おじいちゃん、この護符、十日は持つからね! 効果が薄くなったらまた持ってきてよ!」
杖をつく老人が店から出てきた。入れ違いにヴェルトの目に入ったのは、磨きあげた晶石を抱えた青年だった。
銀灰色の長い髪を一つに緩く束ね、翠色の大きな瞳が笑みの形に細くなっている。頬には魔石の研磨粉がうっすらとついていた。白い肌に、華奢な体つき。だが動きには無駄がなく、慣れた手つきで棚の魔石を磨き布で拭い直している。
人族の青年だ。ヴェルトの鼻腔が微かな残り香を捉えた。白い花を水に浸したような、淡くて澄んだ香り。竜人族である自分の本能が、その香りに鋭く反応するのがわかった。
紋が、震えていた。
「あ、いらっしゃい!」
青年が振り向いた。翠の瞳がヴェルトを捉え、一瞬だけ瞬きが止まった。角が二本、首筋と腕に微かな鱗。竜人族だと気づいたのだろう。
だが、彼は怯えなかった。
「守備隊長さんだよね? 巡回? うちは怪しい魔道具は扱ってないよ。見る?」
悪びれもせずそう言って、笑った。裏表のない、まっすぐな笑顔だった。
「……怪しい魔道具の査察に来たわけじゃない」
「じゃあ何? 冷え性? 竜人族でも冷え性ってあるの?」
「ない」
「じゃあ肩こり? 鎧重そうだもんね」
「用はない」
……何をしに来たのか、自分でもよくわかっていなかった。紋に引かれるまま来てしまっただけだ。ヴェルトは踵を返しかけた。
「あ、待って待って。せっかく来たんだから、何か買ってってよ。治癒促進の護符とかどう?うちのは安いし、結構効くよ」
押しが強い。ヴェルトは無言で店内を見回した。小さいが手入れの行き届いた工房だ。棚に並ぶ魔石は大きさごとに整理され、それぞれに手書きの札が結ばれている。作業台には使い込まれた研磨器と細工用の刻刀。壁際の棚には原石が産地ごとに分けられ、整然としていた。
雑ではない。むしろ、かなりの腕だ。
「……治癒促進の護符を一つ」
「まいどー! えっと、切り傷用? 打撲用? 火傷用?」
「汎用のもので構わない」
「了解。じゃあこれ。竜人族にも効くかわかんないけど、試してみて。合わなかったら返品オッケーだから」
淡く光る小さな魔石の護符を手渡された。指先が触れた瞬間、紋がひときわ強く脈打った。ヴェルトは顔に出さなかったつもりだが、わずかに息が詰まったのは隠しきれなかったかもしれない。
「大丈夫? 顔色悪い」
「問題ない」
「ふーん。まあいいけど。あ、オレの名前はフィオ。よろしくね、隊長さん」
「……ヴェルトだ」
「ヴェルトね。覚えた。また来てよ」
細い髪が揺れ、笑い皺が柔らかく弧を描いた。
ヴェルトは護符を懐にしまい、無言で工房を出た。
背中に感じるフィオの視線が、妙に温かかった。紋がまだ、じんじんと泣いている。
種族が、違う。
竜人族が人族と番になることなど、本来あり得ない。
それでも足が勝手にこの工房に来た。紋がこの男を指した。それだけは嘘のつけない事実だった。
◇
翌日も、ヴェルトは魔石工房を訪れた。
巡回の延長を装い、護符の追加を求めた。フィオは「もう使ったの? 怪我しすぎじゃない?」と笑いながら応じた。
三日目は霧峡谷の境界に現れた魔獣を討伐した帰りに立ち寄った。鱗に浅い裂傷を負っていたため、フィオが血相を変えて治癒促進の護符を押しつけてきた。
四日目は、棚の奥で鈍く光っていた小さな集束晶石を買った。魔力を一点に集める性質を持つ原石で、通常は術式の触媒に使うものだ。使い道は知らないが、淡い光に目を引かれた。
五日目に、フィオが不思議そうに首を傾げた。
「ヴェルト、毎日来るね。よっぽどうちの魔石気に入った?」
「……品質が良い」
嘘ではなかった。フィオの細工する魔石は、竜人族の魔道具師が作るものとは違う繊細さがある。魔力の込め方が丁寧で、体への馴染みが良い。竜人族の魔道具は強力だが粗い。力で押し切るような術式だ。対してフィオの魔石は、穏やかに体に馴染む。
「へへ、嬉しい。竜人族のお墨付きもらったの初めてだよ」
フィオが笑うと、目元がきらきらと光った。研磨粉で汚れた指先でカウンターを拭きながら、世間話を始める。ヴェルトは黙って聞いていた。もともと寡黙な性格だ。自分から話す言葉はほとんどないが、フィオの話を聞くのは嫌ではなかった。
「オレ、孤児なんだよね。赤ん坊のとき、街の教会の前に置かれてたらしい。育ててくれたのは市場のみんな。パン屋のおばちゃんがご飯くれて、鍛冶屋の爺さんが読み書き教えてくれて。この工房も、前にここで魔石細工をやってたおっちゃんが引退するとき『お前が継げ』って」
「……一人か」
「一人だよ。でも寂しくはないかな。お客さんが来るし、話し相手には困らない」
フィオはそう言いながら棚の原石を整えている。手つきは慣れたもので、石の一つ一つを丁寧に確認しながら並べ直していく。
「ヴェルトは? 家族いるの?」
「……父と、兄が一人」
「へえ、二人兄弟。仲いいの?」
「いや」
「あー……そっか。まあ、色々あるよね」
それ以上踏み込まなかった。聞かないことの優しさというものがある。フィオはそれを自然にやった。ヴェルトは少し、肩の力が抜けた気がした。
六日目。ヴェルトが店を訪れると、フィオは留守だった。代わりに隣の雑貨屋の女主人が教えてくれた。
「フィオなら裏山に採取に行ってるよ。朝早くに出たきり戻ってこない。いつもならお昼前には帰るんだけどねえ」
ヴェルトは無言で裏山に向かった。
林道を二十分ほど歩くと、急斜面の岩場の手前でフィオを見つけた。崖際に張り出した岩棚に、銀灰色の髪が揺れている。どうやら岩壁に露出した原石を採ろうとしているらしい。
「おい」
ヴェルトの声に、フィオがびくりとして振り向いた。
「わ、ヴェルト? なんでここに?」
「帰りが遅いと聞いた。あの岩場は危険だ。降りろ」
「もうちょっとなの! この岩壁にしかない晶石があってさ、雪が降る前に採っとかないと」
「落ちれば死ぬ」
「死なないよ、オレ意外とこういうの得意で」
フィオの足元の石が崩れた。
小さな悲鳴。体がバランスを崩し、岩棚から滑り落ちる。
ヴェルトが地を蹴った。
竜人族の脚力は人族の数倍だ。一瞬で距離を詰め、落下するフィオの体を空中で抱き止めた。着地の衝撃を片膝で受け止め、腕の中にフィオの軽い体をしっかり収める。
数秒間。二人とも動かなかった。
「……怪我は」
「な、ない。ない、大丈夫。ありがと……」
フィオの声が震えていた。腕の中で心臓がばくばく鳴っているのが伝わってくる。翠の瞳が至近距離でヴェルトを見上げている。白い顔が赤くなっていた。
そして、香りが濃くなった。
フィオの魔力の残り香が、恐怖と安堵で制御を外れている。白い花の香りが甘く濃密に立ち昇り、ヴェルトの竜の本能を深く揺さぶった。
紋に甘い痛みが走った。歯の奥まで響くような。
ヴェルトは奥歯を噛みしめ、フィオをそっと地面に下ろした。
「……もう一人で来るな」
「う、うん……」
「採りたい原石があるなら、俺が付き添う」
「え? いいの?」
「国境守備隊の管轄区域だ。住民の安全確保は職務の範囲内になる」
本音を建前で覆い隠すのは、ヴェルトの癖だった。フィオがそれを見破ったのかどうかはわからないが、その表情が少しだけ柔らかくなった。
「……ありがと、ヴェルト。じゃあ、来週も一緒に来てくれる?」
「ああ」
帰り道、二人は並んで歩いた。フィオが採った原石の袋を半分持ってやると、フィオは「重いのに悪いね」と言って笑った。
ヴェルトは答えなかった。ただ、隣を歩くフィオの髪が西日に透けて淡い金色に光るのを、横目で見ていた。
◇
裏山の木々が色づき始めた頃には、ヴェルトの足は自然とフィオの工房へ向かうようになっていた。
週に二度の原石採掘の護衛が定着した。フィオが採掘し、ヴェルトが周囲の安全を確保する。人族の魔石細工師と竜人族の守備隊長が連れ立って山を歩く姿は、ルナリアの住民の間でちょっとした話題になっていた。
「隊長さん、あの魔石工房の坊主とよく歩いてるね」
部下の竜人族兵にからかわれても、ヴェルトは「職務だ」と短く返すだけだった。
フィオもまた、ヴェルトの存在に慣れていった。最初は「竜人族の隊長が来てる」と身構えていた近隣の住民たちも、ヴェルトがフィオの工房先で黙って護符を受け取り、黙って去る光景を見慣れるうちに態度を軟化させた。
「あの隊長さん、怖い顔してるけど悪い人じゃないね」
「フィオの店の常連ってことは、目が利くんだよ」
ある日の原石採掘の帰り道で、フィオが不意に言った。
「ねえ、ヴェルト。竜人族って、どのくらい生きるの」
「……三百年から五百年と言われている」
「やっぱり。人族はせいぜい八十年くらいだから、だいぶ違うんだね」
軽い口調だったが、不意にフィオが黙った。原石の袋を抱え直しながら、少し俯く。
「番になったらさ……ヴェルトの方が、ずっと長く残ることになるよね」
ヴェルトは答えなかった。答えを持っていなかった。これまで考えたこともなかった。番という関係の先に、そういう孤独があることを。
「あ、ごめん。変なこと言った。忘れて」
フィオが慌てて笑顔を作った。だがヴェルトの足は止まったままだった。
「……忘れない」
「え?」
「忘れない。だが今はまだ、答えが出ない」
フィオがヴェルトを見上げた。その翠色の瞳の奥に小さな揺れがあるのを、ヴェルトは見逃さなかった。
「出たら、教えてね」
「……ああ」
その日の帰り道は、いつもより少しだけ距離が近かった。
◇
別の日。採掘の帰りに工房で原石を下ろしていると、作業台の隅に見慣れない帳面が積まれていた。表紙が擦り切れた古いもので、竜人族の文字と人族の文字が混在している。
「フィオ。これは」
「あ、それ。師匠の……この工房の前の主のおっちゃんの研究帳面。おっちゃん、元々は竜人族の魔道具の修繕もやってたんだ。竜の魔力って人族のものと流れ方が違うんだけど、おっちゃんはそれを『循環させる方法』をずっと研究してた」
ヴェルトは帳面を手に取った。黄ばんだ紙に、魔力の流路を図示した精緻な術式図が描かれている。竜人族の魔力は一方向に噴出するのが特徴だが、この図では人族の魔石を介して魔力を環状に回す構造が記されていた。余白に師匠の走り書きがある。『竜の魔力は出力が桁外れに高く、竜の術者が自力で循環を試みると術式が焼き切れる。人族の魔石で減衰・冷却してやらねば環は回らぬ』
さらにページをめくると、赤い墨で枠囲みされた一節があった。
『最大の難関は、術式の起点である。竜の魔力の源泉——逆鱗に直接陣を刻まねば、循環は始まらない。だが逆鱗は竜の魂の核であり、他者が触れれば竜は死に至る。この矛盾を解かぬ限り、理論は永遠に理論のままである』
「循環陣——竜の魔力を、一方向の放出ではなく、環として回す術式か」
「そう。竜人族の魔道具って、すごく強力だけど、力を使い切ったら終わりでしょ。でも循環させれば効率が跳ね上がる。おっちゃんは完成させられなかったけど、オレが引き継いで、ここ三年くらいずっと改良してる」
フィオは棚の奥から小さな魔石を取り出した。ヴェルトが買った汎用の護符とは違う、複雑な紋様が刻まれた試作品だ。
「まだ完成じゃないんだけどね。竜の魔力に直接試せる機会がないから、理論だけ先に進んじゃってる状態」
フィオが苦笑した。だがその目は、職人としての静かな矜持に満ちていた。
ヴェルトは帳面をめくりながら、黙ってその術式図の精度に驚いていた。長老会直属の魔道具師でも、ここまで竜の魔力構造を理解している者は少ない。
「……大したものだ」
「え、ほんと? 嬉しい。竜人族の人にそう言ってもらえると、やっぱり方向性は間違ってないのかなって」
フィオの翠色の瞳がきらりと光った。原石を磨くときと同じ、真剣で純粋な輝きだった。
この男は魔石しか磨けない街の細工師ではない。竜人族の魔力の本質に独力で迫ろうとしている、異端の研究者だ。ヴェルトは静かにそう認識を改めた。
◇
ある夕方。フィオの工房の裏で、二人で原石の仕分けをしていたときのことだ。
「ヴェルト」
「ん」
「聞いてもいい? その……胸の紋」
ヴェルトの手が止まった。
フィオは気まずそうに視線を逸らし、自分の鎖骨の下あたりを指した。
「オレにも……あるんだ。一ヶ月前の月蝕の夜に、浮かんだ」
ヴェルトは黙ってフィオを見た。
「人族の体にこんな光る紋様が浮かぶなんて、聞いたこともないし、街の医師にも見せたけど、首を傾げられただけだった」
フィオが襟元を少しずらした。鎖骨の下に、ヴェルトと同じ三日月を重ねた紋がうっすらと光っている。ただし、ヴェルトのものが琥珀色なのに対し、フィオのそれは淡い銀色だった。
「それで、その紋がヴェルトが近くにいるとすごく温かくなるんだ。最初から。お店に初めて来てくれた日から」
翠色の瞳がまっすぐにヴェルトを見た。怯えてはいなかった。ただ、確かめたいという静かな決意があった。
「ヴェルトのも……そう?」
ヴェルトは数瞬、答えなかった。
それから、自分の胸元のシャツを無造作にずらした。鎖骨の下、琥珀色の紋が脈動している。フィオが近くにいるから——今まさに、熱を帯びて。
「……ああ。同じだ」
フィオの目が潤んだ。泣いているのではない。安堵だ。
「よかった。オレだけじゃなかった」
その声があまりに素直で、ヴェルトの胸の奥で何かが軋んだ。
この人を守りたいと思った。守備隊長としてではなく、ヴェルトという個人として。
「フィオ」
「ん?」
「俺は竜人族だ。人族との番は前例がない。長老会も、族長も、認めないだろう」
「うん。知ってる」
「それでも、紋は嘘をつかない。俺の紋はお前を指している。それだけは、事実だ」
不器用な言葉だった。告白でも誓いでもない、ただの事実の確認。それなのにフィオの目からぽろりと涙が落ちた。
「……ヴェルト、そういうとこだよ」
「何がだ」
「不器用すぎるところ。でも、嬉しい。すごく」
フィオが袖で目元を拭い、泣き笑いの顔で言った。
「オレも同じだよ。種族とか、前例とか、そういうの関係なく。ヴェルトが近くにいると、嬉しいんだ。オレの番は、ヴェルトがいい」
魔石の淡い輝きと、清涼な残り香が混ざり合う夕暮れの工房先。二人の紋が静かに共鳴し、同じ色に染まっていく。琥珀と銀が混ざり合うような、淡い光を放った。
◇
冷たい霧がルナリアの街を覆い始めた朝だった。
ヴェルトの元に本国からの使者が現れたのは、紋の共鳴をフィオと確かめ合ってから半月後のことだった。
早朝の詰所に、見覚えのない竜人族の男が二人立っていた。灰色の長衣に純血長老会の紋章、双頭の竜が刺繍されている。ヴェルトは一目でわかった。兄ゼルガの息がかかった使者だ。長老会の名を借りているが、ゼルガの手の者が動いたということは、この件を政争の道具にする腹だ。
「ヴェルト・ラ・ガルドラ殿下。長老会よりの言伝を申し上げる」
年嵩の方の使者が、薄い笑みを浮かべた。
「ヴェルト殿下が人族の青年と接触を繰り返している件、ゼルガ殿下のお耳に入っております。族長の血筋たる者が脆き者と番を結ぶことなど、到底認められません。過去に種族を超えた番が何をもたらしたか……殿下もご存知のはずです。竜の長大な寿命が人族のそれまで削られるという、呪われた真実を」
それは、長老会が歴史から抹消した禁忌だった。数百年前、人族と番になった竜が、わずか数十年で命を落としたという記録。純血を尊ぶ長老会が、決して認めるわけにはいかない「竜の危機」だ。
「長老会は殿下に即時帰還を命じ、番の紋の消去儀式への出席を求められます」
紋の消去儀式。対になる紋の片方を魔力で焼き消し、番の共鳴を断ち切る古い術式だ。成功率は高いが、消された側には激しい苦痛が伴い、精神に傷を残すとも聞く。
「……拒否する」
ヴェルトの声は低く、静かだった。
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漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
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漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
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