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1巻
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第一章 春の嵐
一
出会いと別れは突然やってくるという。
だが、災難もまた突然やってくる。
その日は二月の中旬にしては日差しが強く、汗ばむような陽気であった。
黒の小袖に裁着袴をつけ、網笠を被った一人の青年が、釣竿と魚籠を持って城下を歩いていた。
青年の名は黒須新九郎、二十一歳。藩の郡方に勤める中級の藩士である。
この日、新九郎は非番で、早朝から趣味の川釣りに出かけて、春木町にある屋敷に帰ってくるところであった。
網笠の下の、やや眉が濃いが整った顔には微かな笑みが浮かんでおり、この日の釣果が上々であることを物語っていた。
自邸の門を潜ると、ちょうど女中のりよが玄関前を掃除していた。
「お帰りなさいませ」
りよは新九郎に気付くと、箒を持つ手を止めて振り返った。
一月ほど前に、ふとした縁から新しく雇った女中であった。目尻がやや上がり気味で、見方によってはきつい顔立ちにも見えるが、筋の通った細い鼻、薄く朱を引く小ぶりの唇がよく整っており、美人であった。
「よく釣れたのですね」
りよはにこりとした。春の陽光に照らされて笑顔はより美しく見え、女中であるにもかかわらず、新九郎は思わずどきりとした。
が、誤魔化すように咳払いをして、
「何故わかった?」
「お顔が明るいですもの。釣れなかった日はいつも暗い顔でございますから」
「私はそんなに顔に出るか」
新九郎は苦笑した。
「山女魚は釣れなかったが、岩魚が五匹だ。夕餉に食べよう」
新九郎が魚籠の中をりよに見せると、
「はい、炭火で塩焼きにいたしますね」
と、りよは魚籠を受け取った。
その時であった。
門の外から、怒鳴るような大きな声が聞こえた。
「黒須新九郎はいるか?」
新九郎が振り返ると、開けたままの門の向こうに、横目付の佐久間甚兵衛が立っていた。背後には二人の徒目付もいる。
「これは佐久間さま。如何されましたか?」
非番の日に横目付の突然の訪問。只事ではない。驚きながら訊くと、佐久間は新九郎を一瞥した後にその目を鋭く奥の屋敷に走らせた。
「黒須新九郎、その方に役目を利用した横領、及び抜け売りの疑いが出ておる」
「横領? 何のことでございましょう?」
新九郎は我が耳を疑った。
新九郎は郡方で小物成役を務めている。
担当は領内南西の鉢窪村とその支村で、鉢窪村で栽培されている青苧(織物の糸がとれる草)と、それから作られる藩の特産品である縮(織物の一種)の生産と納品を管理している。
藩では青苧の栽培を奨励しており、また、それを利用して作る独自の縮を藩専売の特産品として管理し、京や大坂を通じて全国に販売し、重要な財源の一つとしていた。
「家老の大鳥さまが、鉢窪村の青苧の取れ高と、納める縮の量が、ちょうど一年前から大幅に減っていることを指摘されてな。そこで調べたところ、鉢窪村の担当であるその方が横領して抜け売りしたのではないかとの疑いが出たのだ」
と、横目付の佐久間は述べたが、
――何を言っているのだ?
新九郎は呆然とした。そのようなことをした覚えはないし、するはずもない。
何故突然、そのような嫌疑がかけられたのか。新九郎はすぐに反論した。
「いや、私がそのようなことをするはずがござりませぬ」
「だが、鉢窪村からの納入量が減り出したのはちょうど一年前で、その方が鉢窪村の担当になったのと同じ時期なのだ。そして何より、郡奉行の松山さまが、その方が作成した小物成帳を検めたところ、ちょうど一年前から改竄されている跡が見られたのだ」
「馬鹿な。全く身に覚えがございませぬ」
「ほう。違うと?」
「もちろんです」
「では、ちと屋敷内を調べさせてもらうが、構わぬか?」
「ええ。どうぞ」
落ち着きを取り戻し始めた新九郎は、笑みを見せて答えた。
「よし。では失礼する。行け」
と、佐久間は従えて来た徒目付二人に命じ、自らも「御免」と屋敷内に入った。
「旦那さま……」
りよが魚籠を抱えたまま不安そうに言うと、騒ぎを聞きつけた新九郎の五歳下の妹の奈美も屋敷から出て来た。
「兄上、どうされたのですか?」
「さあな。俺にもわからん。だが心配するな、何事もない。二人とも中に入っていろ」
新九郎は笑って二人を促した。
しかし、それはすぐに覆された。
「何だ、これは?」
徒目付の一人が、庭の納屋の前で大声を上げた。
新九郎が行ってみると、横目付の佐久間もおり、中を指差した。
「この沢山の縮はなんだ? 何故お主の納屋にある?」
中を見た瞬間、新九郎は目を疑った。
白っぽく埃漂う納屋の奥に、覚えのない縮が沢山積み上げられていたのだ。
「何故、このような物がここに……」
新九郎が呆然と呟くと、
「それはこちらが訊きたいことじゃが、とにかくこれはお主が鉢窪村から横領した物で間違いなかろう」
「いや、佐久間さま。これは何かの間違いでござる。私はこのようなことはいたしませぬ」
「では、何故ここに藩専売の縮がこのように沢山あるのだ」
「それは私にも……何故ここに縮が……とにかく私には身に覚えのなきこと」
新九郎は狼狽しながらも佐久間に訴えたが、佐久間は険しい目つきで新九郎を見て、
「とりあえず、評定所まで来てもらうぞ」
と、徒目付二人に新九郎の両脇を固めさせた。
「わかりました。しかし、流石にこの格好のままでは城へは上がれませぬ」
新九郎が言うと、佐久間は新九郎の渓流釣りで汚れた小袖と裁着袴を一瞥した。
「そうだな。では急ぎ着替えて参れ」
新九郎は屋敷内に入り、裃姿に着替えて再び出て来た。
女中のりよ、妹の奈美も、色を失った顔でついて出て来た。
新九郎は努めて穏やかな声で、その二人に言った。
「案ずるな、私が不正などするはずがないだろう。誤解だ、すぐに戻る。おりよ、夕方までに岩魚を焼いておいてくれ」
だが、事は新九郎の言う通りにはいかなかった。
城の二の丸曲輪の一角にある評定所。
そこに押し込められた新九郎は、早速、横目付の佐久間の尋問を受けた。
「黒須。これはお主が作成している鉢窪村の小物成元帳だな?」
佐久間は、持って来た帳簿を新九郎の目の前に置いた。
「そうでございます」
新九郎が表紙を確認して答えると、佐久間はぱらぱらと中をめくって、
「見よ。ちょうどお主が担当になった一年前に納入量が急減し、以後ずっとこの調子だ」
「これは確かに……」
新九郎は、見るなり目を瞠ったが、すぐに顔を上げて、
「しかし、おかしゅうございます。はっきりとは覚えておりませぬが、私も実地にて検分しております。このように納入量が大幅に減ったような記憶はございませぬ。先々月もこのような数字ではなかったはず」
新九郎が不審を指摘すると、佐久間は扇子の先で帳簿を突いた。
「そこでじゃ。一年前からの数字をよく見てみよ。書き換えた跡がある」
新九郎が覗き込むと、確かにそこには元あった数字を何かで巧妙に削り取り、上から新たに書き入れたような跡があった。
「まことに……しかし、何故このような……」
新九郎は唖然としたが、少し考えた後に、
「いや、佐久間さま。これは何者かが私を陥れようとする陰謀でございましょう。私はこのような改竄はしておりませぬ」
そう訴えた新九郎を、佐久間はじろりと見た。
「経緯はこうじゃ。先日からの重役会議で、家老の大鳥さまが鉢窪村の昨年からの青苧や縮の納入量が急減していることを指摘され、産物方とその上の勘定奉行の柿崎さまを追及したのだ。だが、柿崎さまと産物方は何もおかしいところはないと撥ね付け、対して大鳥さまも更にいくつかの資料を出して追及し、会議の度にこのことで揉めていた。すると一昨日、郡奉行の松山さまが、鉢窪村は黒須の担当だと言った上で、この元帳を持って来させて開くと、この有り様だった」
佐久間は扇子を動かしながら、
「そこで松山さまが言われたのだ。その方が鉢窪村の担当であることを利用して横領し、帳簿の数字を後から密かに書き換えたのではないかと」
と、言ったが、新九郎には当然覚えがない。
「それこそ別の者でしょう。本当にやった者が、露見しても全て私に罪をなすりつけられるよう、私の作成した帳簿を密かに書き換えたのでしょう」
「ふむ。だが、松山さまの指摘を受けて今朝、その方の屋敷を調べたところ、納屋で横領したと見られる沢山の縮が見つかったではないか」
佐久間が言うと、新九郎は顔を青くして絶句した。
「あれこそ、その方が横領及び抜け売りをしたという動かぬ証拠ではないか」
佐久間は扇子の先で元帳の上を突いて言うと、新九郎はうなだれた。
「それこそわけがわかりませぬ。あの縮も、全く身に覚えはございませぬ。何故私の家であのような縮が見つかったのか……」
新九郎がそこまで言って言葉に詰まると、佐久間は薄笑いを浮かべて新九郎を見た。
「あまり言いたくはないが……お主の家は戦国期から城戸家に仕えて来ているとはいえ、祖先は元々足軽故に禄高は低いな」
「はい……」
「それ故に、筆頭家老の小田さまをはじめ、執政の方々は皆、黒須ならば暮らしに困った末に不正に手を染めてもおかしくはない、と言われておる」
佐久間が薄笑いのまま言うと、新九郎は思わず目を剥いた。
「確かに当家は七十石。ですが、両親はすでになく、姉も他家に嫁いでおり、今は私と妹だけです。暮らしには困っておりませぬ」
更に新九郎は続けて、
「今、佐久間さまが言われた通り、我が黒須家は元は足軽とはいえ、戦国期より藩祖城戸頼龍公に仕えて来ております。その上、祖先の作十郎は藩祖頼龍公より直々に剣の奥義を伝授され、その技を代々受け継いで来た家です」
そして新九郎は膝を進めた。
「その黒須家の私が、このような不正をするとお思いですか」
新九郎の目は二重瞼ではっきりとしており、瞳の光も強い。佐久間は、真っ直ぐに見つめてくる新九郎の目力に一瞬気圧されたような顔をしたが、すぐに取り繕って、
「お主の言い分はわかった。とりあえずはここにおれ。追って沙汰を出す」
と言って立ち上がると、
「だが、お主の家で現物証拠が見つかっているのは事実。覚悟はしておくがよい」
と、冷たく言い残してから、徒目付たちに何か言いつけて出て行った。
こうして、新九郎は評定所押し込めとなってしまった。
――何故このようなことに。
新九郎は、一人取り残された評定所の中で呆然としていた。
突然かけられた嫌疑だが、まるで覚えがない。
――納屋にあったあの縮、あれは何だ?
横領の証拠とされ、黒須家の納屋で見つかった沢山の縮。あのようなもの、もちろん自分で運び入れた覚えはないし、するわけもない。
一昨日、探し物があって納屋に入ったが、その時にはあの縮はなかった。
――俺が不在の時に、本当の犯人が俺に罪を着せる為に運び入れたのか?
新九郎は、まずそう考えたが、だとしたら、それはいつ、どうやって行ったのか?
――考えられるのは昨日登城していた間、そして今朝釣りに行っていた間だ。だが、その時間はおりよと奈美がいた。何者かが侵入すれば気付いていたはずだ。
新九郎は苦しげな顔で頭を掻いた。
――いや、それより誰だ? 誰が俺を陥れようとしている?
しばらく考え込んだが、答えは闇の向こうにあるようで見えてくる気がしない。
その夜、新九郎は眠れなかった。
佐久間に言ったように、黒須家の祖先、黒須作十郎は軽輩ではあったが、戦国期より藩主の城戸家に仕えて来ており、家臣としての歴史は古い。
戦国期、とある戦で藩祖城戸頼龍が危機に陥った際、黒須作十郎が属する部隊が奮戦して頼龍を守ったことがあった。その時、作十郎の働きが際立っていたことから、頼龍は直々に作十郎に褒美を出そうとした。だが作十郎はそれを断り、代わりに剣豪としても知られた頼龍に、剣の技を一つ教えて欲しいと願い出た。
頼龍は快諾し、自身が持つ秘技を一つ、直々に伝授した。猛稽古の末にその技を会得した作十郎は、頼龍にこう誓ったという。
「殿直伝のこの技、それがしは子々孫々に伝えて行き、御家に危機があればこの技でもって救わせまする」
ところが今、御家を救うどころか、御家に背いているような立場にされてしまった。
このままでは、新九郎の命どころか、黒須家も取り潰されるであろう。
――祖先作十郎さまに申し訳が立たぬ。それに、奈美だってまだ嫁に行っていないのに。
様々な想いがぐるぐると新九郎の脳内を回った。
最後に、女中のりよの顔が浮かんだ。ややきつめの顔立ちだが、美しい笑顔。
――りよはどうなる……いや、りよにも、もう会えなくなるのか。
そう思った瞬間、新九郎は自らの胸の内の声に、はっとして首を振った。
――何を考えている。りよは女中だぞ。
新九郎は想いを振り切るように目を閉じた。
だが、いくら瞼を塞いでも、そこにはりよの白い顔がいつまでも残っていた。
そして、評定所に押し込められてから翌々日の夕刻。
不意に襖が開き、横目付の佐久間と共に現れた人物を見て、新九郎は慌てて平伏した。
佐久間を従えて現れた者、それは大目付の石川左内であった。
――終わりか。
新九郎は絶望に目を閉じた。
大目付が直々に来たということは重い処分が決まったということだ。
間違いなく切腹であろう。
だが、大目付石川左内は意外なことを告げた。
「黒須新九郎、一旦その方を解放する」
新九郎は、驚いて顔を上げた。
「確かにその方の屋敷で見つかった縮は決定的な証拠かと思われた。だが、執政衆のお一人が、それだけですぐに処分を下すには早すぎると強く主張されてな。そこで、悪いがその方の屋敷と周辺を更に調べさせてもらった。だが、その方が横領や抜け売りをしていたような痕跡は一切見つからなかったのだ。これはもしかしたら、その方が言うように何者かの陰謀である可能性も高いと見た」
そこで、石川左内は一つ咳払いをしてから、
「だからといって、その方が不正をしていなかったとも言い切れぬ。あの帳簿の数字は明らかに不自然である。それ故に、我々でもう少し調査をすることにした。その結果が出るまでは、暫時その方には遠慮を申し付ける。明日の夜からじゃ」
「明日……の夜からですか?」
新九郎は怪訝そうな顔をした。
「そうせよ、と仰せだ」
「はっ。承知仕りました」
新九郎は改めて両手をついた。
こうして新九郎は解放され、徒目付に両脇を挟まれながら城を出た。
二
すでに辺りは薄暗くなっている。
約二日間拘束されていた。心配しているであろう妹の奈美や女中のりよを安心させる為にも、早く屋敷に帰らねばならない。しかし、新九郎は真っ直ぐには帰らなかった。
脳裏に疑念雑念が渦巻いて離れない。それを静かに整理しようと、新九郎は城下の東側を流れる早月川に向かった。
早月川は、幅は広いが浅い清流で、対岸には田畑が広がっている先に山々が横たわり、中秋の頃ともなればその頂に満月が美しく輝くことから、月見にやってくる者が多い。
だが、城下からはやや離れている為、普段は昼も夜も人気は少ない。
それ故に、新九郎は何かあるとよく一人でここにやって来て、土手や川岸に座り込んで物思いに耽っていた。
今日の夜空は雲もなく晴れ渡っており、川面が月光を砕いて煌めかせていた。
誰かが椅子代わりにでも置いたのか、萎びた丸太が打ち捨てられている。新九郎はその上に腰かけ、静かな音を立てる早月川の流れを見つめた。
――何かおかしい。
全く身に覚えのない不正の嫌疑。そもそもそれ自体がまずありえないことなのだが、帳簿の数字改竄と、納屋の縮という現物証拠が見つかったにもかかわらず、証拠不十分として釈放された。
しかも、目付衆の調査結果が出るまでは遠慮処分だという。
遠慮は、処罰としては最も軽い。日中は外出も人に会うことも許されぬが、夜間の外出などは黙認されている。証拠不十分で釈放とはいえ、今回ほどの事件であれば遠慮などではなく、逼塞や閉門を命じられて当然である。
それが遠慮で、しかも何故か明日の夜からだという。おかしな話である。
――執政衆の間で何か揉めているのだろうか?
現在、藩の執政部は筆頭家老の小田内膳と、他に次席家老の大鳥順三郎、斎藤内蔵助の二人の家老、そして勘定奉行の柿崎忠兵衛、新九郎の上司にも当たる郡奉行の松山帯刀たちである。
その中で、現在最も権力を有しているのが筆頭家老の小田内膳である。小田は、一昨年急逝した先代藩主に抜擢されて一代家老となったが、その優秀さによって筆頭家老にまで上り詰め、今や絶大な権力を握って派閥のようなものまで形成している。しかし、その小田の専横を次席家老の大鳥順三郎は快く思っておらず、何かある度に小田と大鳥は激しくぶつかり合っていた。
新九郎を巡る処分の二転三転は、それと関係があるようにも思える。
ふと、新九郎は、大目付の石川左内が言った言葉を思い出した。
石川は、執政衆の一人が、処分を下すには早すぎると強く主張した、と言っていた。
――それは誰だったのだろう? 訊いておけばよかったな。
新九郎は、早月川の流れの音を聞きながら考え込んだ。だが、いくら考えたところで、一介の藩士である新九郎にわかるわけがない。
何より、およそ二日にわたる拘束で心身ともに酷く疲れていた。
――もういい、帰ろう。
新九郎は立ち上がり、河岸を南へと歩いた。
と、対岸に渡れる柳橋に近くなったところで、金属音が二回、三回と聞こえた。
闇に銀光が疾り、青い火花が弾け飛ぶのが見えた。
――斬り合いだ。
新九郎は咄嗟にすぐ側にあった柳の幹の陰に隠れ、様子を窺った。
薄闇の向こう、柳橋の上で距離を取って睨み合う二人の人影が見えた。
――こんな時間に何事だ?
新九郎は左手の親指を大刀の柄に当てながら、目を凝らしたが、その瞬間、あっ、と思わず声を上げそうになった。
一人が、まるで戦国期の伊賀者のような頭巾覆面姿だったからである。
近頃、城下を騒がせている事件がある。
先月から、数人の藩士が立て続けに何者かに襲われて命を落としているのだ。
目付衆が調べてはいるが、未だ犯人はわかっておらず、誰が何の目的でそのような凶行に及んだのかは不明であった。
だが、襲われたある藩士が、まだ息のあるうちに語ったところによると、
「相手は数人いて、濃紺の上下に頭巾と覆面、まるで伊賀者のようだった……解散したはずの〝笹川組〟のような。夜なのに太刀筋は正確で鋭く、動きは俊敏……そして互いに仲間を狐とか燕とかと呼んでいた」
とのことで、城下はもちろん、家中でも不気味がられていた。
――あれが、その狐とか燕か?
新九郎は一気に緊張が高まるのを感じたが、同時に驚いてもいた。
その濃紺装束の人間と対峙している相手が知人で、勘定方に勤めている三木辰之助だったからである。
新九郎と三木辰之助は、子供の頃から同じ剣術道場に通っていた間柄であった。
だが、新九郎と辰之助は不仲であった。どちらかといえば辰之助の方が一方的に新九郎を嫌っているのだが、嫌われていたら新九郎だって良い気はしない。新九郎も辰之助を快く思っていなかった。
――なんだ、三木か。
新九郎は急に気分が冷めて力が抜けた。
しかし、辰之助と対峙している相手が普通ではない。
間違いなく、近頃城下を騒がせている連中であろう。しかも、見れば辰之助の方が押されているようである。
――好かぬ奴だが、ここで見て見ぬふりはできん。
新九郎は刀の鯉口を切って橋へ向かって駆けた。
「三木、助太刀するぞ」
声をかけながら敵の右側に回り込める位置に立つと、辰之助は驚いて新九郎を見た。
「黒須? 何故ここに」
「たまたまだ。それよりも、こやつがあの狐とか燕とかいう連中か?」
新九郎は抜刀して正眼に構えた。
「恐らくそうだ」
辰之助は、答えながら左へと動いた。新九郎とで敵を挟撃できる位置である。
対して敵は、覆面の隙間から新九郎を見た。突然の新九郎の加勢にも動じていないようであった。
敵は、小柄な体格であったが、一目で尋常ではない使い手とわかる気を全身から放ち、覆面の隙間から目を光らせて新九郎と辰之助を交互に見ている。
互いの息遣いが聞こえるかのような静寂――
と、それを突き破って相手が飛んだ。同時に、辰之助に向かって銀光が鋭く飛ぶ。
だが、辰之助はさっと後ろに飛びながらそれを弾き飛ばした。その時を逃さず、新九郎が踏み込んで左薙ぎの一閃。
隙を捉えた。やったか、と思ったが手応えどころか敵の姿もなかった。
敵はいつの間にか、柳橋の欄干の上に立っていた。
――何て速さだ。まさに燕……。
新九郎、辰之助ともに、その身のこなしに唖然とした。
二人は、かつて通っていた城下の一刀流戸沢道場で、共に席次上位を争っていた腕前である。そんな二人を同時に相手にして、敵は全く引けを取っていない。
――これは、三木と二人がかりでも勝てないかもしれん。
新九郎は正眼に構え直しながら呼吸を整えた。
だが、相手は欄干の上からじっと新九郎を見つめた後、背を返して柳橋の向こうへ飛び、そのまま闇の中へと走って消えた。
「待てっ」
と、言う間もないほどの速さで敵は消えてしまい、二人は追えなかった。
新九郎は納刀しながら三木辰之助に言った。
「あの姿、直接見たことはないが、まるで伝え聞く笹川組のようだな」
「ああ、俺も思った。だが……」
辰之助は深く息を吐きながら懐紙を出して刀身を拭った。
笹川組とは、戦国の頃より藩主の城戸家を支えて来た忍び集団である。
戦国期、彼らは平時には敵方の情報収集を行い、戦場では遊軍の一部隊を成して攪乱、奇襲などの工作を担っただけでなく、戦闘にも加わったという。
しかし、戦国期が終わるとその存在は秘匿され、藩主の命だけを受けて動く隠密集団となった。笹川組は、領内や家中で藩主が気になる不審事が起こると、藩主から直接命令を受けて独自に偵察や監視を行った。時には闇で家臣の暗殺や粛清を行っていたとも伝えられている。
しかし、先々代藩主に暴君の気質があり、その権力で笹川組を乱用した。諫言をした家臣を笹川組に殺させたり、借金を断った城下の富商を殺させたりと、先々代藩主は笹川組を好き放題に使い、領民や藩士たちの信望を失ってしまった。
そのことへの反省から、先代藩主は跡を継いだ時に、自ら笹川組の存在を公とした上で解散させていた。
「笹川組解散から二十年以上も経っている。奴らが笹川組なわけがないと思うが」
辰之助は納刀しながら言った。
「そうだな……しかしお前、何故こんな時にこのようなところで襲われたんだ?」
「俺にわかるか。役目でちと出かけた帰り、ここで突然襲われたのだ」
「役目? こんな時間までか?」
「どうでもよかろうが」
辰之助は面倒臭そうに答えると、逆に新九郎に訊いた。
「それより、何故ここに来た? 貴様が来なくても俺一人でどうにかできたものを」
「何?」
新九郎は眉を動かした。
「貴様が来たせいで奴は逃げたのだ。貴様が来なければ俺が奴を仕留めていたものを」
辰之助は苛立たしげに吐き捨てた。
「ぬかせ。押されていただろうが。腕も斬られているぞ」
新九郎は冷ややかに辰之助の左腕を見やった。
薄闇の中ではっきりとしないが、左上腕に血の染みのようなものが見えていた。
「それは策だ。油断させておいて奴の隙を作り、仕留めるつもりだった」
辰之助は嘯いた。
「強がるな。そんな余裕があるようには見えなかったがな」
「なんだと?」
と、辰之助はむっとして新九郎を睨んだが、ふと気付いて、
「お前、不正で切腹と聞いたがどうしたんだ?」
「証拠不十分ということで釈放された。だが、目付衆の調べが終わるまでは遠慮を言い渡された」
「なんだ、切腹にならずに残念だぜ」
辰之助は冷笑しながら背中を向けた。
「おい、聞き捨てならんな」
新九郎が目を怒らせてその背に詰め寄ると、辰之助は振り返った。
「やめておけ。今のお前が喧嘩騒ぎを起こしたら、目付の調べの前に確実に切腹だぞ」
辰之助は笑いながら言うや、そのまま立ち去った。
――本当に嫌な奴だ。助けなければ良かったわ。
新九郎は舌打ちし、不快な気分を抱えたまま再び家の方へ歩き始めた。
だがそこで突然、薄闇の中からすっと提灯の光が現れた。
新九郎は咄嗟に後方へ跳んで身構えた。
気配もなく突然出現した提灯。不快な気持ちに心が捉われていたとはいえ、全く気が付かなかった。
――先ほどの狐とか燕とかか?
新九郎は腰を落とし、目を凝らした。
だが、提灯の向こうからは、殺気のかけらもない嗄れた老人の声が聞こえてきた。
「黒須新九郎さまでございますな?」
「いかにも」
新九郎が短く答えると、
「それがし、千吉と申す者。我が主人がお呼びでございます。ご同行願えますかな」
「主人とは?」
「ここでは言えませぬ」
「ならば無理だ。私は身に覚えのない嫌疑をかけられた上、遠慮となった身。何者が私を陥れようとしているのかわからぬ今、ついて来いと言われて行けるわけがない」
すると、老爺千吉は納得したようにゆっくり首を振り、
「では、我が主人の名前を明かしましょう」
と、一歩進んで、小声でその名を囁いた。
聞いた瞬間、新九郎は「まことか?」と、目を瞠った。
「これでも?」
老人は、懐から匕首を出して見せた。
新九郎は一瞬ぎょっとして身構えたが、その鞘に描かれている家紋を見て頷いた。
「わかった。すぐに参ろう」
新九郎は老人について城下への道に戻った。
三
今夜は晴天で、月が光を投げているとはいえ、夜であるので道は暗い。だが、老爺は迷うことなく道を歩いて行き、上士の屋敷が立ち並ぶ堀留町に入った。
そして一軒の大きな屋敷に着いたが、老爺は表門ではなく裏の勝手口から中に入った。
裏口からでさえ、大きく立派な造りであることがわかる見事な屋敷であった。
新九郎は千吉の案内のままに屋敷に上げられ、長い廊下を歩いて奥の客間に通された。
「こちらでお待ちを」
老人が言って出て行くと同時、女中が茶を運んで来て、新九郎の前に置いて行った。
四畳半ほどの一室。新九郎は出された茶を飲みながら待っていると、程なくしてこの屋敷の主人が現れた。
その姿を見て、新九郎はすぐさま平伏した。
襖を開いて入って来たこの屋敷の主人は、次席家老の大鳥順三郎であった。
大鳥は、くつろいだ着流し姿である。新九郎を見ながら上座に腰を下ろすと、
「そなたが黒須新九郎じゃな」
「はっ」
「面を上げい。遠慮はいらぬ」
新九郎は、恐る恐る顔を上げ、大鳥の顔を見た。城中で何度か見かけてはいるが、間近で大鳥の顔を見るのは初めてであった。
がっちりとした体格。太い眉に、意志の強さを感じさせる強い眼光。大鳥の先祖は藩祖城戸頼龍の第一の重臣であり、勇猛果敢な猛将として伝えられている。その血を引いているだけあって、大鳥順三郎本人も、威風堂々とした風貌をしていた。
その大鳥が、表情を和らげて言った。
「さて、黒須新九郎。すでに察しているとは思うが、その方の横領及び抜け売りの嫌疑を証拠不十分としたのは儂じゃ」
やはり、と思いながら新九郎は頷いた。
「ありがとうございまする」
「一応訊いておくが、そなた、まことに横領や抜け売りはしておらぬであろうな?」
大鳥は真っ直ぐに新九郎の目を見つめた。
「当然でございます」
新九郎は、きっぱりと言い切った。
「さようか。儂は信じるぞ。そなたの祖先、黒須作十郎が頼龍公より剣の奥義を伝授された話は、儂もよく知っておる。その作十郎の子孫が、不正などするはずはない。それに、そなたの顔を一目見ればわかる。不正をするような男の顔ではないわ」
「ありがとうございます」
新九郎は思わず目頭が熱くなった。
一
出会いと別れは突然やってくるという。
だが、災難もまた突然やってくる。
その日は二月の中旬にしては日差しが強く、汗ばむような陽気であった。
黒の小袖に裁着袴をつけ、網笠を被った一人の青年が、釣竿と魚籠を持って城下を歩いていた。
青年の名は黒須新九郎、二十一歳。藩の郡方に勤める中級の藩士である。
この日、新九郎は非番で、早朝から趣味の川釣りに出かけて、春木町にある屋敷に帰ってくるところであった。
網笠の下の、やや眉が濃いが整った顔には微かな笑みが浮かんでおり、この日の釣果が上々であることを物語っていた。
自邸の門を潜ると、ちょうど女中のりよが玄関前を掃除していた。
「お帰りなさいませ」
りよは新九郎に気付くと、箒を持つ手を止めて振り返った。
一月ほど前に、ふとした縁から新しく雇った女中であった。目尻がやや上がり気味で、見方によってはきつい顔立ちにも見えるが、筋の通った細い鼻、薄く朱を引く小ぶりの唇がよく整っており、美人であった。
「よく釣れたのですね」
りよはにこりとした。春の陽光に照らされて笑顔はより美しく見え、女中であるにもかかわらず、新九郎は思わずどきりとした。
が、誤魔化すように咳払いをして、
「何故わかった?」
「お顔が明るいですもの。釣れなかった日はいつも暗い顔でございますから」
「私はそんなに顔に出るか」
新九郎は苦笑した。
「山女魚は釣れなかったが、岩魚が五匹だ。夕餉に食べよう」
新九郎が魚籠の中をりよに見せると、
「はい、炭火で塩焼きにいたしますね」
と、りよは魚籠を受け取った。
その時であった。
門の外から、怒鳴るような大きな声が聞こえた。
「黒須新九郎はいるか?」
新九郎が振り返ると、開けたままの門の向こうに、横目付の佐久間甚兵衛が立っていた。背後には二人の徒目付もいる。
「これは佐久間さま。如何されましたか?」
非番の日に横目付の突然の訪問。只事ではない。驚きながら訊くと、佐久間は新九郎を一瞥した後にその目を鋭く奥の屋敷に走らせた。
「黒須新九郎、その方に役目を利用した横領、及び抜け売りの疑いが出ておる」
「横領? 何のことでございましょう?」
新九郎は我が耳を疑った。
新九郎は郡方で小物成役を務めている。
担当は領内南西の鉢窪村とその支村で、鉢窪村で栽培されている青苧(織物の糸がとれる草)と、それから作られる藩の特産品である縮(織物の一種)の生産と納品を管理している。
藩では青苧の栽培を奨励しており、また、それを利用して作る独自の縮を藩専売の特産品として管理し、京や大坂を通じて全国に販売し、重要な財源の一つとしていた。
「家老の大鳥さまが、鉢窪村の青苧の取れ高と、納める縮の量が、ちょうど一年前から大幅に減っていることを指摘されてな。そこで調べたところ、鉢窪村の担当であるその方が横領して抜け売りしたのではないかとの疑いが出たのだ」
と、横目付の佐久間は述べたが、
――何を言っているのだ?
新九郎は呆然とした。そのようなことをした覚えはないし、するはずもない。
何故突然、そのような嫌疑がかけられたのか。新九郎はすぐに反論した。
「いや、私がそのようなことをするはずがござりませぬ」
「だが、鉢窪村からの納入量が減り出したのはちょうど一年前で、その方が鉢窪村の担当になったのと同じ時期なのだ。そして何より、郡奉行の松山さまが、その方が作成した小物成帳を検めたところ、ちょうど一年前から改竄されている跡が見られたのだ」
「馬鹿な。全く身に覚えがございませぬ」
「ほう。違うと?」
「もちろんです」
「では、ちと屋敷内を調べさせてもらうが、構わぬか?」
「ええ。どうぞ」
落ち着きを取り戻し始めた新九郎は、笑みを見せて答えた。
「よし。では失礼する。行け」
と、佐久間は従えて来た徒目付二人に命じ、自らも「御免」と屋敷内に入った。
「旦那さま……」
りよが魚籠を抱えたまま不安そうに言うと、騒ぎを聞きつけた新九郎の五歳下の妹の奈美も屋敷から出て来た。
「兄上、どうされたのですか?」
「さあな。俺にもわからん。だが心配するな、何事もない。二人とも中に入っていろ」
新九郎は笑って二人を促した。
しかし、それはすぐに覆された。
「何だ、これは?」
徒目付の一人が、庭の納屋の前で大声を上げた。
新九郎が行ってみると、横目付の佐久間もおり、中を指差した。
「この沢山の縮はなんだ? 何故お主の納屋にある?」
中を見た瞬間、新九郎は目を疑った。
白っぽく埃漂う納屋の奥に、覚えのない縮が沢山積み上げられていたのだ。
「何故、このような物がここに……」
新九郎が呆然と呟くと、
「それはこちらが訊きたいことじゃが、とにかくこれはお主が鉢窪村から横領した物で間違いなかろう」
「いや、佐久間さま。これは何かの間違いでござる。私はこのようなことはいたしませぬ」
「では、何故ここに藩専売の縮がこのように沢山あるのだ」
「それは私にも……何故ここに縮が……とにかく私には身に覚えのなきこと」
新九郎は狼狽しながらも佐久間に訴えたが、佐久間は険しい目つきで新九郎を見て、
「とりあえず、評定所まで来てもらうぞ」
と、徒目付二人に新九郎の両脇を固めさせた。
「わかりました。しかし、流石にこの格好のままでは城へは上がれませぬ」
新九郎が言うと、佐久間は新九郎の渓流釣りで汚れた小袖と裁着袴を一瞥した。
「そうだな。では急ぎ着替えて参れ」
新九郎は屋敷内に入り、裃姿に着替えて再び出て来た。
女中のりよ、妹の奈美も、色を失った顔でついて出て来た。
新九郎は努めて穏やかな声で、その二人に言った。
「案ずるな、私が不正などするはずがないだろう。誤解だ、すぐに戻る。おりよ、夕方までに岩魚を焼いておいてくれ」
だが、事は新九郎の言う通りにはいかなかった。
城の二の丸曲輪の一角にある評定所。
そこに押し込められた新九郎は、早速、横目付の佐久間の尋問を受けた。
「黒須。これはお主が作成している鉢窪村の小物成元帳だな?」
佐久間は、持って来た帳簿を新九郎の目の前に置いた。
「そうでございます」
新九郎が表紙を確認して答えると、佐久間はぱらぱらと中をめくって、
「見よ。ちょうどお主が担当になった一年前に納入量が急減し、以後ずっとこの調子だ」
「これは確かに……」
新九郎は、見るなり目を瞠ったが、すぐに顔を上げて、
「しかし、おかしゅうございます。はっきりとは覚えておりませぬが、私も実地にて検分しております。このように納入量が大幅に減ったような記憶はございませぬ。先々月もこのような数字ではなかったはず」
新九郎が不審を指摘すると、佐久間は扇子の先で帳簿を突いた。
「そこでじゃ。一年前からの数字をよく見てみよ。書き換えた跡がある」
新九郎が覗き込むと、確かにそこには元あった数字を何かで巧妙に削り取り、上から新たに書き入れたような跡があった。
「まことに……しかし、何故このような……」
新九郎は唖然としたが、少し考えた後に、
「いや、佐久間さま。これは何者かが私を陥れようとする陰謀でございましょう。私はこのような改竄はしておりませぬ」
そう訴えた新九郎を、佐久間はじろりと見た。
「経緯はこうじゃ。先日からの重役会議で、家老の大鳥さまが鉢窪村の昨年からの青苧や縮の納入量が急減していることを指摘され、産物方とその上の勘定奉行の柿崎さまを追及したのだ。だが、柿崎さまと産物方は何もおかしいところはないと撥ね付け、対して大鳥さまも更にいくつかの資料を出して追及し、会議の度にこのことで揉めていた。すると一昨日、郡奉行の松山さまが、鉢窪村は黒須の担当だと言った上で、この元帳を持って来させて開くと、この有り様だった」
佐久間は扇子を動かしながら、
「そこで松山さまが言われたのだ。その方が鉢窪村の担当であることを利用して横領し、帳簿の数字を後から密かに書き換えたのではないかと」
と、言ったが、新九郎には当然覚えがない。
「それこそ別の者でしょう。本当にやった者が、露見しても全て私に罪をなすりつけられるよう、私の作成した帳簿を密かに書き換えたのでしょう」
「ふむ。だが、松山さまの指摘を受けて今朝、その方の屋敷を調べたところ、納屋で横領したと見られる沢山の縮が見つかったではないか」
佐久間が言うと、新九郎は顔を青くして絶句した。
「あれこそ、その方が横領及び抜け売りをしたという動かぬ証拠ではないか」
佐久間は扇子の先で元帳の上を突いて言うと、新九郎はうなだれた。
「それこそわけがわかりませぬ。あの縮も、全く身に覚えはございませぬ。何故私の家であのような縮が見つかったのか……」
新九郎がそこまで言って言葉に詰まると、佐久間は薄笑いを浮かべて新九郎を見た。
「あまり言いたくはないが……お主の家は戦国期から城戸家に仕えて来ているとはいえ、祖先は元々足軽故に禄高は低いな」
「はい……」
「それ故に、筆頭家老の小田さまをはじめ、執政の方々は皆、黒須ならば暮らしに困った末に不正に手を染めてもおかしくはない、と言われておる」
佐久間が薄笑いのまま言うと、新九郎は思わず目を剥いた。
「確かに当家は七十石。ですが、両親はすでになく、姉も他家に嫁いでおり、今は私と妹だけです。暮らしには困っておりませぬ」
更に新九郎は続けて、
「今、佐久間さまが言われた通り、我が黒須家は元は足軽とはいえ、戦国期より藩祖城戸頼龍公に仕えて来ております。その上、祖先の作十郎は藩祖頼龍公より直々に剣の奥義を伝授され、その技を代々受け継いで来た家です」
そして新九郎は膝を進めた。
「その黒須家の私が、このような不正をするとお思いですか」
新九郎の目は二重瞼ではっきりとしており、瞳の光も強い。佐久間は、真っ直ぐに見つめてくる新九郎の目力に一瞬気圧されたような顔をしたが、すぐに取り繕って、
「お主の言い分はわかった。とりあえずはここにおれ。追って沙汰を出す」
と言って立ち上がると、
「だが、お主の家で現物証拠が見つかっているのは事実。覚悟はしておくがよい」
と、冷たく言い残してから、徒目付たちに何か言いつけて出て行った。
こうして、新九郎は評定所押し込めとなってしまった。
――何故このようなことに。
新九郎は、一人取り残された評定所の中で呆然としていた。
突然かけられた嫌疑だが、まるで覚えがない。
――納屋にあったあの縮、あれは何だ?
横領の証拠とされ、黒須家の納屋で見つかった沢山の縮。あのようなもの、もちろん自分で運び入れた覚えはないし、するわけもない。
一昨日、探し物があって納屋に入ったが、その時にはあの縮はなかった。
――俺が不在の時に、本当の犯人が俺に罪を着せる為に運び入れたのか?
新九郎は、まずそう考えたが、だとしたら、それはいつ、どうやって行ったのか?
――考えられるのは昨日登城していた間、そして今朝釣りに行っていた間だ。だが、その時間はおりよと奈美がいた。何者かが侵入すれば気付いていたはずだ。
新九郎は苦しげな顔で頭を掻いた。
――いや、それより誰だ? 誰が俺を陥れようとしている?
しばらく考え込んだが、答えは闇の向こうにあるようで見えてくる気がしない。
その夜、新九郎は眠れなかった。
佐久間に言ったように、黒須家の祖先、黒須作十郎は軽輩ではあったが、戦国期より藩主の城戸家に仕えて来ており、家臣としての歴史は古い。
戦国期、とある戦で藩祖城戸頼龍が危機に陥った際、黒須作十郎が属する部隊が奮戦して頼龍を守ったことがあった。その時、作十郎の働きが際立っていたことから、頼龍は直々に作十郎に褒美を出そうとした。だが作十郎はそれを断り、代わりに剣豪としても知られた頼龍に、剣の技を一つ教えて欲しいと願い出た。
頼龍は快諾し、自身が持つ秘技を一つ、直々に伝授した。猛稽古の末にその技を会得した作十郎は、頼龍にこう誓ったという。
「殿直伝のこの技、それがしは子々孫々に伝えて行き、御家に危機があればこの技でもって救わせまする」
ところが今、御家を救うどころか、御家に背いているような立場にされてしまった。
このままでは、新九郎の命どころか、黒須家も取り潰されるであろう。
――祖先作十郎さまに申し訳が立たぬ。それに、奈美だってまだ嫁に行っていないのに。
様々な想いがぐるぐると新九郎の脳内を回った。
最後に、女中のりよの顔が浮かんだ。ややきつめの顔立ちだが、美しい笑顔。
――りよはどうなる……いや、りよにも、もう会えなくなるのか。
そう思った瞬間、新九郎は自らの胸の内の声に、はっとして首を振った。
――何を考えている。りよは女中だぞ。
新九郎は想いを振り切るように目を閉じた。
だが、いくら瞼を塞いでも、そこにはりよの白い顔がいつまでも残っていた。
そして、評定所に押し込められてから翌々日の夕刻。
不意に襖が開き、横目付の佐久間と共に現れた人物を見て、新九郎は慌てて平伏した。
佐久間を従えて現れた者、それは大目付の石川左内であった。
――終わりか。
新九郎は絶望に目を閉じた。
大目付が直々に来たということは重い処分が決まったということだ。
間違いなく切腹であろう。
だが、大目付石川左内は意外なことを告げた。
「黒須新九郎、一旦その方を解放する」
新九郎は、驚いて顔を上げた。
「確かにその方の屋敷で見つかった縮は決定的な証拠かと思われた。だが、執政衆のお一人が、それだけですぐに処分を下すには早すぎると強く主張されてな。そこで、悪いがその方の屋敷と周辺を更に調べさせてもらった。だが、その方が横領や抜け売りをしていたような痕跡は一切見つからなかったのだ。これはもしかしたら、その方が言うように何者かの陰謀である可能性も高いと見た」
そこで、石川左内は一つ咳払いをしてから、
「だからといって、その方が不正をしていなかったとも言い切れぬ。あの帳簿の数字は明らかに不自然である。それ故に、我々でもう少し調査をすることにした。その結果が出るまでは、暫時その方には遠慮を申し付ける。明日の夜からじゃ」
「明日……の夜からですか?」
新九郎は怪訝そうな顔をした。
「そうせよ、と仰せだ」
「はっ。承知仕りました」
新九郎は改めて両手をついた。
こうして新九郎は解放され、徒目付に両脇を挟まれながら城を出た。
二
すでに辺りは薄暗くなっている。
約二日間拘束されていた。心配しているであろう妹の奈美や女中のりよを安心させる為にも、早く屋敷に帰らねばならない。しかし、新九郎は真っ直ぐには帰らなかった。
脳裏に疑念雑念が渦巻いて離れない。それを静かに整理しようと、新九郎は城下の東側を流れる早月川に向かった。
早月川は、幅は広いが浅い清流で、対岸には田畑が広がっている先に山々が横たわり、中秋の頃ともなればその頂に満月が美しく輝くことから、月見にやってくる者が多い。
だが、城下からはやや離れている為、普段は昼も夜も人気は少ない。
それ故に、新九郎は何かあるとよく一人でここにやって来て、土手や川岸に座り込んで物思いに耽っていた。
今日の夜空は雲もなく晴れ渡っており、川面が月光を砕いて煌めかせていた。
誰かが椅子代わりにでも置いたのか、萎びた丸太が打ち捨てられている。新九郎はその上に腰かけ、静かな音を立てる早月川の流れを見つめた。
――何かおかしい。
全く身に覚えのない不正の嫌疑。そもそもそれ自体がまずありえないことなのだが、帳簿の数字改竄と、納屋の縮という現物証拠が見つかったにもかかわらず、証拠不十分として釈放された。
しかも、目付衆の調査結果が出るまでは遠慮処分だという。
遠慮は、処罰としては最も軽い。日中は外出も人に会うことも許されぬが、夜間の外出などは黙認されている。証拠不十分で釈放とはいえ、今回ほどの事件であれば遠慮などではなく、逼塞や閉門を命じられて当然である。
それが遠慮で、しかも何故か明日の夜からだという。おかしな話である。
――執政衆の間で何か揉めているのだろうか?
現在、藩の執政部は筆頭家老の小田内膳と、他に次席家老の大鳥順三郎、斎藤内蔵助の二人の家老、そして勘定奉行の柿崎忠兵衛、新九郎の上司にも当たる郡奉行の松山帯刀たちである。
その中で、現在最も権力を有しているのが筆頭家老の小田内膳である。小田は、一昨年急逝した先代藩主に抜擢されて一代家老となったが、その優秀さによって筆頭家老にまで上り詰め、今や絶大な権力を握って派閥のようなものまで形成している。しかし、その小田の専横を次席家老の大鳥順三郎は快く思っておらず、何かある度に小田と大鳥は激しくぶつかり合っていた。
新九郎を巡る処分の二転三転は、それと関係があるようにも思える。
ふと、新九郎は、大目付の石川左内が言った言葉を思い出した。
石川は、執政衆の一人が、処分を下すには早すぎると強く主張した、と言っていた。
――それは誰だったのだろう? 訊いておけばよかったな。
新九郎は、早月川の流れの音を聞きながら考え込んだ。だが、いくら考えたところで、一介の藩士である新九郎にわかるわけがない。
何より、およそ二日にわたる拘束で心身ともに酷く疲れていた。
――もういい、帰ろう。
新九郎は立ち上がり、河岸を南へと歩いた。
と、対岸に渡れる柳橋に近くなったところで、金属音が二回、三回と聞こえた。
闇に銀光が疾り、青い火花が弾け飛ぶのが見えた。
――斬り合いだ。
新九郎は咄嗟にすぐ側にあった柳の幹の陰に隠れ、様子を窺った。
薄闇の向こう、柳橋の上で距離を取って睨み合う二人の人影が見えた。
――こんな時間に何事だ?
新九郎は左手の親指を大刀の柄に当てながら、目を凝らしたが、その瞬間、あっ、と思わず声を上げそうになった。
一人が、まるで戦国期の伊賀者のような頭巾覆面姿だったからである。
近頃、城下を騒がせている事件がある。
先月から、数人の藩士が立て続けに何者かに襲われて命を落としているのだ。
目付衆が調べてはいるが、未だ犯人はわかっておらず、誰が何の目的でそのような凶行に及んだのかは不明であった。
だが、襲われたある藩士が、まだ息のあるうちに語ったところによると、
「相手は数人いて、濃紺の上下に頭巾と覆面、まるで伊賀者のようだった……解散したはずの〝笹川組〟のような。夜なのに太刀筋は正確で鋭く、動きは俊敏……そして互いに仲間を狐とか燕とかと呼んでいた」
とのことで、城下はもちろん、家中でも不気味がられていた。
――あれが、その狐とか燕か?
新九郎は一気に緊張が高まるのを感じたが、同時に驚いてもいた。
その濃紺装束の人間と対峙している相手が知人で、勘定方に勤めている三木辰之助だったからである。
新九郎と三木辰之助は、子供の頃から同じ剣術道場に通っていた間柄であった。
だが、新九郎と辰之助は不仲であった。どちらかといえば辰之助の方が一方的に新九郎を嫌っているのだが、嫌われていたら新九郎だって良い気はしない。新九郎も辰之助を快く思っていなかった。
――なんだ、三木か。
新九郎は急に気分が冷めて力が抜けた。
しかし、辰之助と対峙している相手が普通ではない。
間違いなく、近頃城下を騒がせている連中であろう。しかも、見れば辰之助の方が押されているようである。
――好かぬ奴だが、ここで見て見ぬふりはできん。
新九郎は刀の鯉口を切って橋へ向かって駆けた。
「三木、助太刀するぞ」
声をかけながら敵の右側に回り込める位置に立つと、辰之助は驚いて新九郎を見た。
「黒須? 何故ここに」
「たまたまだ。それよりも、こやつがあの狐とか燕とかいう連中か?」
新九郎は抜刀して正眼に構えた。
「恐らくそうだ」
辰之助は、答えながら左へと動いた。新九郎とで敵を挟撃できる位置である。
対して敵は、覆面の隙間から新九郎を見た。突然の新九郎の加勢にも動じていないようであった。
敵は、小柄な体格であったが、一目で尋常ではない使い手とわかる気を全身から放ち、覆面の隙間から目を光らせて新九郎と辰之助を交互に見ている。
互いの息遣いが聞こえるかのような静寂――
と、それを突き破って相手が飛んだ。同時に、辰之助に向かって銀光が鋭く飛ぶ。
だが、辰之助はさっと後ろに飛びながらそれを弾き飛ばした。その時を逃さず、新九郎が踏み込んで左薙ぎの一閃。
隙を捉えた。やったか、と思ったが手応えどころか敵の姿もなかった。
敵はいつの間にか、柳橋の欄干の上に立っていた。
――何て速さだ。まさに燕……。
新九郎、辰之助ともに、その身のこなしに唖然とした。
二人は、かつて通っていた城下の一刀流戸沢道場で、共に席次上位を争っていた腕前である。そんな二人を同時に相手にして、敵は全く引けを取っていない。
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新九郎は正眼に構え直しながら呼吸を整えた。
だが、相手は欄干の上からじっと新九郎を見つめた後、背を返して柳橋の向こうへ飛び、そのまま闇の中へと走って消えた。
「待てっ」
と、言う間もないほどの速さで敵は消えてしまい、二人は追えなかった。
新九郎は納刀しながら三木辰之助に言った。
「あの姿、直接見たことはないが、まるで伝え聞く笹川組のようだな」
「ああ、俺も思った。だが……」
辰之助は深く息を吐きながら懐紙を出して刀身を拭った。
笹川組とは、戦国の頃より藩主の城戸家を支えて来た忍び集団である。
戦国期、彼らは平時には敵方の情報収集を行い、戦場では遊軍の一部隊を成して攪乱、奇襲などの工作を担っただけでなく、戦闘にも加わったという。
しかし、戦国期が終わるとその存在は秘匿され、藩主の命だけを受けて動く隠密集団となった。笹川組は、領内や家中で藩主が気になる不審事が起こると、藩主から直接命令を受けて独自に偵察や監視を行った。時には闇で家臣の暗殺や粛清を行っていたとも伝えられている。
しかし、先々代藩主に暴君の気質があり、その権力で笹川組を乱用した。諫言をした家臣を笹川組に殺させたり、借金を断った城下の富商を殺させたりと、先々代藩主は笹川組を好き放題に使い、領民や藩士たちの信望を失ってしまった。
そのことへの反省から、先代藩主は跡を継いだ時に、自ら笹川組の存在を公とした上で解散させていた。
「笹川組解散から二十年以上も経っている。奴らが笹川組なわけがないと思うが」
辰之助は納刀しながら言った。
「そうだな……しかしお前、何故こんな時にこのようなところで襲われたんだ?」
「俺にわかるか。役目でちと出かけた帰り、ここで突然襲われたのだ」
「役目? こんな時間までか?」
「どうでもよかろうが」
辰之助は面倒臭そうに答えると、逆に新九郎に訊いた。
「それより、何故ここに来た? 貴様が来なくても俺一人でどうにかできたものを」
「何?」
新九郎は眉を動かした。
「貴様が来たせいで奴は逃げたのだ。貴様が来なければ俺が奴を仕留めていたものを」
辰之助は苛立たしげに吐き捨てた。
「ぬかせ。押されていただろうが。腕も斬られているぞ」
新九郎は冷ややかに辰之助の左腕を見やった。
薄闇の中ではっきりとしないが、左上腕に血の染みのようなものが見えていた。
「それは策だ。油断させておいて奴の隙を作り、仕留めるつもりだった」
辰之助は嘯いた。
「強がるな。そんな余裕があるようには見えなかったがな」
「なんだと?」
と、辰之助はむっとして新九郎を睨んだが、ふと気付いて、
「お前、不正で切腹と聞いたがどうしたんだ?」
「証拠不十分ということで釈放された。だが、目付衆の調べが終わるまでは遠慮を言い渡された」
「なんだ、切腹にならずに残念だぜ」
辰之助は冷笑しながら背中を向けた。
「おい、聞き捨てならんな」
新九郎が目を怒らせてその背に詰め寄ると、辰之助は振り返った。
「やめておけ。今のお前が喧嘩騒ぎを起こしたら、目付の調べの前に確実に切腹だぞ」
辰之助は笑いながら言うや、そのまま立ち去った。
――本当に嫌な奴だ。助けなければ良かったわ。
新九郎は舌打ちし、不快な気分を抱えたまま再び家の方へ歩き始めた。
だがそこで突然、薄闇の中からすっと提灯の光が現れた。
新九郎は咄嗟に後方へ跳んで身構えた。
気配もなく突然出現した提灯。不快な気持ちに心が捉われていたとはいえ、全く気が付かなかった。
――先ほどの狐とか燕とかか?
新九郎は腰を落とし、目を凝らした。
だが、提灯の向こうからは、殺気のかけらもない嗄れた老人の声が聞こえてきた。
「黒須新九郎さまでございますな?」
「いかにも」
新九郎が短く答えると、
「それがし、千吉と申す者。我が主人がお呼びでございます。ご同行願えますかな」
「主人とは?」
「ここでは言えませぬ」
「ならば無理だ。私は身に覚えのない嫌疑をかけられた上、遠慮となった身。何者が私を陥れようとしているのかわからぬ今、ついて来いと言われて行けるわけがない」
すると、老爺千吉は納得したようにゆっくり首を振り、
「では、我が主人の名前を明かしましょう」
と、一歩進んで、小声でその名を囁いた。
聞いた瞬間、新九郎は「まことか?」と、目を瞠った。
「これでも?」
老人は、懐から匕首を出して見せた。
新九郎は一瞬ぎょっとして身構えたが、その鞘に描かれている家紋を見て頷いた。
「わかった。すぐに参ろう」
新九郎は老人について城下への道に戻った。
三
今夜は晴天で、月が光を投げているとはいえ、夜であるので道は暗い。だが、老爺は迷うことなく道を歩いて行き、上士の屋敷が立ち並ぶ堀留町に入った。
そして一軒の大きな屋敷に着いたが、老爺は表門ではなく裏の勝手口から中に入った。
裏口からでさえ、大きく立派な造りであることがわかる見事な屋敷であった。
新九郎は千吉の案内のままに屋敷に上げられ、長い廊下を歩いて奥の客間に通された。
「こちらでお待ちを」
老人が言って出て行くと同時、女中が茶を運んで来て、新九郎の前に置いて行った。
四畳半ほどの一室。新九郎は出された茶を飲みながら待っていると、程なくしてこの屋敷の主人が現れた。
その姿を見て、新九郎はすぐさま平伏した。
襖を開いて入って来たこの屋敷の主人は、次席家老の大鳥順三郎であった。
大鳥は、くつろいだ着流し姿である。新九郎を見ながら上座に腰を下ろすと、
「そなたが黒須新九郎じゃな」
「はっ」
「面を上げい。遠慮はいらぬ」
新九郎は、恐る恐る顔を上げ、大鳥の顔を見た。城中で何度か見かけてはいるが、間近で大鳥の顔を見るのは初めてであった。
がっちりとした体格。太い眉に、意志の強さを感じさせる強い眼光。大鳥の先祖は藩祖城戸頼龍の第一の重臣であり、勇猛果敢な猛将として伝えられている。その血を引いているだけあって、大鳥順三郎本人も、威風堂々とした風貌をしていた。
その大鳥が、表情を和らげて言った。
「さて、黒須新九郎。すでに察しているとは思うが、その方の横領及び抜け売りの嫌疑を証拠不十分としたのは儂じゃ」
やはり、と思いながら新九郎は頷いた。
「ありがとうございまする」
「一応訊いておくが、そなた、まことに横領や抜け売りはしておらぬであろうな?」
大鳥は真っ直ぐに新九郎の目を見つめた。
「当然でございます」
新九郎は、きっぱりと言い切った。
「さようか。儂は信じるぞ。そなたの祖先、黒須作十郎が頼龍公より剣の奥義を伝授された話は、儂もよく知っておる。その作十郎の子孫が、不正などするはずはない。それに、そなたの顔を一目見ればわかる。不正をするような男の顔ではないわ」
「ありがとうございます」
新九郎は思わず目頭が熱くなった。
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