剣影、桜下に哭く 剣客黒須新九郎 城戸家騒動録

五月雨輝

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1巻

1-2

「だがな、それを言いたいが為にそなたを呼んだわけではない。儂がなかば強引にそなたを釈放させたが、微塵みじんも安心はできん。そなた、このままでは切腹は確実ぞ」
「え?」

 新九郎がぽかんとすると、大鳥は呆れたように、

「なんと。陥れられたことを自覚しておりながら呑気な奴じゃの。目付衆が調査するとは言っておるが、そなたの無実を明らかにするどころか、更なる証拠を捏造してそなたを切腹に追い込むであろう」
「そんなまさか」
「大目付の石川は無いと思うが、横目の佐久間は完全に小田内膳に取り込まれておると儂は見ている。他に数人の徒目付もな」
「小田内膳……筆頭家老の小田さまでしょうか? ということは……」

 新九郎が顔色を変えると、大鳥は腰帯に挿した扇子を取り出して畳に立てた。

「そうよ。そなたを陥れたのは上司の郡奉行松山帯刀と、それに結託した勘定奉行柿崎忠兵衛、そして黒幕は小田内膳で間違いあるまい」
「なんと」
「小田内膳は確かに優秀で、ご先代さまに抜擢されて、数々の改革案を成功させて藩の財政を立て直した。だが、その後がいかん。先の殿が亡き後、今の殿がまだ年少であるのをいいことに、派閥を作って藩政を牛耳ぎゅうじっておる」
「はい」
「それだけでも藩にとってはしきことなのだが、そこに謎が一つある。小田はあちこちにかなりの大金をばらまいて人を取り込み、派閥を急拡大させているようだが、小田は筆頭家老とはいえ、抜擢された一代家老だ。元は小身であるがゆえに禄高はわずかに五百石。役高を足してもそのような金があるわけがない。ではその金はどこから出ておる?」

 大鳥順三郎が鋭い目で新九郎を見ると、新九郎は息を呑んで、

「よくあるのは、城下の富商からの賄賂わいろあるいは……小物成の運上銀などの横領」
「それだ。実は儂は、数年前から小田の動きに不審を感じて密かに調べておるのだが、どうも賄賂や横領などをしている節がある」
「では、今回の鉢窪村の件も、裏で小田さまが松山さまを操って横領し、それが露見しそうになったので鉢窪村の担当である私に罪を着せた、ということでしょうか」
「それだけではなく、勘定奉行の柿崎とその下の産物方も結託しておるであろう」

 新九郎は言葉を失った。事実ならば巨大な不正である。

「そなたも当然知っておる通り、小物成などの藩の特産物は勘定方の下の産物方に回される。勘定奉行の柿崎は小田内膳と縁戚であるのもあり、小田一派の中枢にいる。不正は、小田が柿崎と共に産物方を金と権力で抱き込み、上がって来た小物成を横領したものではないかと儂は睨んだ。しかし、目付衆とは別に儂も密かに手を回して調べたのだが、上手く隠蔽しているのか尻尾が掴めぬ」

 大鳥はそこで扇子を開いた。

「そこで、儂が矛先を転じて郡方を調べると、鉢窪村の小物成の納入量が急減しておることがわかった。それを追及したところ、奉行の松山があの小物成元帳を持って来て、鉢窪村担当の黒須新九郎が帳簿を改竄して横領した、と言って来おったのじゃ」
「なんと……」

 新九郎は愕然とすると同時に、心中に怒りを感じた。

「恐らく、松山帯刀も小田内膳の一派に取り込まれておるのだろう」
「そんなことが……」
「それゆえにじゃ。そなた、自ら鉢窪村に調べに行かぬか?」
「私自ら?」
「そうじゃ。鉢窪村の名主のところには、小物成帳の控えを残しているのではないか?」
「ああ……そういえば、あるはずです」
「ならば良いぞ。柿崎や松山らも、鉢窪村の控えにまでまだ考えが及んでいない様子。そこで、そなたが鉢窪村の名主なぬしから控えを借りて来て、その数字を見せるのだ。そなたが本当に不正をしていたならば、鉢窪村の控えの数字も改竄しているはず。だがそれがなければ、そなたが不正をしていないという証拠にできるのではないか? もちろんそれだけでは完全に証明はできぬが、大きな助けにはなるはずじゃ」
「なるほど」
「できれば、名主もこちらに連れて来て証言させれば尚良いであろう」
「はっ、承知仕りました。しかし、私は遠慮を命じられた身ですが」

 新九郎が困った顔をすると、大鳥は扇子をとんとんと畳に突いて笑った。

「その為に儂が、遠慮は明日、と強引に決めさせたのだ。それに、遠慮でも夜間の外出は黙認されておる。それゆえ、これからすぐに鉢窪村に向かうのだ」
「これから、でございますか?」
「そうじゃ。ぐずぐずしておると小田らも儂の狙いを察知して、佐久間らを鉢窪村に向かわせ、強引に控えを奪ってしまうかもしれぬぞ。その前に鉢窪村へ向かうのだ」

 大鳥は猛将で知られた祖先の血が濃いのか、正義感に溢れているが強引で性急なところがある。
 今から行けと言う大鳥の言葉に、新九郎は顔を引きつらせた。新九郎は、押し込めから解放されたばかりである。心身の疲労はたまっているのだ。
 だが、家老大鳥順三郎は、そんな新九郎の心底を見透かしたように眼光を鋭くした。

「休んでいる暇などないぞ。釈放されたその夜にそなたがすぐ動くとは、敵も思ってはおるまい。その隙を突くのだ」

 ――戦国武将の血だな……。
 新九郎は心の中で苦笑いしながら、

「わかりましてございます」
「幸い、大目付の石川が言うには、領内で南条なんじょうを見たという報告が上がっているらしく、明日は総出で南条捜索に向かうらしい」
「南条? あの馬廻うままわり組の南条宗之進さんでしょうか?」

 新九郎は驚いて声を大きくした。

「そう、あの南条じゃ」

 大鳥順三郎は険しい顔で頷いた。
 南条宗之進そうのしんは、新九郎もよく知っている男であった。三木辰之助も共に通っていた城下の一刀流戸沢道場の兄弟子に当たる。
 南条宗之進の剣の腕は非凡どころではなく、開藩以来最強という呼び声もある天才剣士であった。
 しかし、南条はそれを鼻にかけるような男ではなく、謙虚で優しく正義感に溢れている上、後輩たちの面倒見も良かった。特に新九郎は弟のように可愛がられ、新九郎もまた彼を兄のように慕っていた。
 ところが、約一年前、南条は馬廻うままわぐみの上役を斬り、逐電ちくでんした。南条の性格からして、突然そのような凶行に及んだのは不可解であり、藩内でも不思議がられていた。
 だがともかく、南条は上役を斬った上に脱藩した罪人である。噂では江戸に潜伏しているとのことだったが、それが領内で目撃されたとあれば、目付衆が総出で捜索に出るのも当然であった。
 新九郎があれこれ考えていると、大鳥が急かすように言った。

「まあ、まずはそなたのことじゃ。早う行け」
「はっ。急ぎ支度をして鉢窪村に向かいます」
「頼むぞ。これでそなたが何かを掴めれば、そなた自身の切腹を回避できるだけでなく、小田内膳らの不正を暴くことができ、奴らを一気に壊滅させて藩政を正せるかもしれぬ」

 元々は新九郎の冤罪のことだったが、話が急に大きくなった気がする。
 そのことにやや戸惑いを覚えながら、新九郎は再び老爺千吉の案内で大鳥邸を出た。
 屋敷に戻ると、女中のりよが真っ先に出て来た。

「旦那さま、どうなさったのですか? 釈放されたと聞きましたのにお戻りが随分と遅いので心配しておりました」

 時刻はすでに夜四つ(午後十時)を過ぎていた。
 新九郎は誤魔化すように作り笑顔を見せて、

「すまぬ……その……少し考え事をな」
「また早月川ですか」
「ああ」

 間違いではない。しかし、辰之助と濃紺装束の者との斬り合いの件、そして大鳥家老の屋敷に寄ったことは言わなかった。
 だが、りよの方から心配そうに言って来た。

「近頃、早月川の辺りは、まるで昔の笹川組のような者が現れて人を襲っていると聞いております。お気を付けくださいませ」
「ああ、わかった」

 新九郎は、履物を脱いで上がりながら、

「奈美はどうした?」
「ずっと心配して落ち着かぬ様子でございましたが、今日釈放されたと聞いて安心されたのか、もうお休みになられました」
「そうか。おりよにも心配かけたな、すまぬ」
「いえ。ご無事なら何よりでござります」
「だが、釈放されたといっても安心はできん。目付衆が調査をするそうだが、それを待っていても私は腹を切らされるだけであろう」
「え? どういうことでございますか?」

 りよは不思議そうに小首を傾げた。

「まだ詳しくは言えぬが……いずれわかる。とにかく、私の命、そしてこの黒須家は滅亡のふちに立たされている。それを防ぐ為、戻ったばかりだが、少し眠ったらすぐに鉢窪村に出かける。夜が明ける前にだ」
「夜明け前に鉢窪村へ? 慌ただしいことでございますね」
「仕方ない」
「では、わたくしもいつもより早く朝餉あさげをご用意いたしますね」
「いつもすまぬな」
「とんでもございませぬ。わたくしの方こそ、旦那さまに拾っていただいたのですから。わたくしは今のうちにできる準備をいたしますので、旦那さまはお休みくださいませ」

 りよは言うと、台所の方へ向かった。
 彼女は、元からいた女中ではない。
 およそ一月ひとつき前、新九郎が山回りから帰って来た夜道で、道端にうずくまっている町人風の女を見かけた。それがりよだった。声をかけると、城下へ向かっている途中に足を怪我して動けなくなってしまったという。家まで送ろう、と言うと、りよは家などないと答えた。
 そこで話を聞いてみると、りよは元々領内北方のみなと町、藤之津ふじのつの小さな商家の一人娘であったが、商売が傾きかけていたところに両親が流行はやり病で亡くなり、家も潰れてしまったという。
 りよの父親は偏屈者で親戚付き合いもなかった為、りよは無一文で天涯孤独となってしまった。そこで、りよは城下に行けば何かしらの奉公の口があると思い、一人で城下へ向かった。
 しかし、その途中で運が悪かったのか良かったのか、怪我をしてしまったところを新九郎に声をかけられたのであった。
 りよの事情を聞いた新九郎は、黒須家に女中として来ないかと誘ってみた。ちょうどその頃、長年通いで来ていた下女が老齢の為に辞めたいと申し出て来ていた。
 黒須家は七十石とはいえ、両親はすでになく、妹の奈美と二人だけである。時々内職もしているし、住み込みの女中一人を入れるぐらいの余裕はある。
 りよが、新九郎の申し出を大喜びで受け入れたのは言うまでもなかった。



 第二章 えんじん剣風けんぷうの屋敷


     一


 二刻(約四時間)ほど眠った後、新九郎は屋敷の裏口からまだ暗い夜空の下へと出た。
 城を出て早月川に行った時はよく晴れた星月夜であったが、今の空は灰色の雲に覆われており、月も星も見えなかった。
 ――雨が降るかもな。
 新九郎は、雨気をはらんだ夜空を見上げ、万が一に備えて二刀の柄に柄袋をかけた。
 鉢窪村は、領内南西の山と山の間に位置し、その名前の通り、すり鉢状の地形の中にある。高くはないが、山を一つ越えて行くので、城下からは歩いて一刻ほどかかる。
 その途上にも、右手に一つ低い小山があり、名を甲法山こうぽうやまという。そのふもとには同名の村があり、そこを通り抜けて行く折、新九郎は甲法山の山頂を見上げた。
 いただきには大きな屋敷が立っている。
 その屋敷は重厚な鉄門を構えた上に高い塀に囲まれており、標高は低いものの山の上に立っているので、まるで戦国期の山城のようであった。
 ――相変わらずりゅうさいさまのお屋敷はすごい。
 新九郎は、屋敷の豪壮さに改めて感嘆した。
 流斎とは、現藩主城戸まさたつの伯父であり、先代藩主つねたつの異母兄に当たる城戸なりたつのことである。
 斉龍は、先代藩主つねたつよりも七年早く生まれたが、側室の子であった。
 その為、最初は世子せいしとされていたのだが、後に正室が、当時としては高齢で経龍を産むと、その立場は微妙になり始め、結局世子から外されることとなった。
 そこで、先々代は斉龍をどこか他藩の養子に、或いは幕府の旗本はたもととして取り立ててもらおうと運動したが、どれも上手く行かなかった。
 というのも、根深い理由があった。
 藩を治める城戸家は、戦国期には上野国こうずけのくにの小さな国人領主にすぎなかった。だがその初代城戸頼龍は、天正てんしょう年間に徳川家康とくがわいえやすと一戦したことがあり、しかもその戦で頼龍は家康の重臣を一人討ち取った上に、家康の本隊をも追い詰めたという伝説があった。
 それゆえ関ヶ原せきがはらの時には徳川に味方したとはいえ、幕府の中では未だに城戸家に対する冷ややかな目があった。
 それが今でも影響し、斉龍の他家への養子入りや旗本立家はことごとく失敗し、結果的に斉龍は甲法山一帯におよそ一千五百石もの知行地ちぎょうちたまわってそこで暮らすこととなった。
 二十代で甲法山に入った斉龍は、以後は世俗から離れて流れるがまま生きるという意味で流斎と号し、歌や茶の湯など、芸事に生きた。
 だが、先代経龍が一昨年病死して現藩主政龍が跡を継ぐと、政龍がまだ年少であるが為に、重臣たちより請われてその後見役になり、今は様々な場面で藩政に力を貸している。
 流斎もまた優秀であり、穏やかな人柄であることから人望があつい。
 ――そうだ、小田さまの件に関して、流斎さまに相談してみたらどうだろう?
 ふと、新九郎は思った。
 ――今度、ご家老に話してみよう。
 新九郎は、我ながら良い考えではないかと思いながら、また道を急いだ。


 そして空が白み始めた頃、新九郎は眼下の朝靄あさもやの中に鉢窪村を見透かせるとうげに立った。
 夜は明けたが、空には灰色の雲が広く垂れ込め、陽光は薄い。
 鉢窪村の名主は西村弥左衛門にしむらやざえもんという。
 弥左衛門は四十過ぎで、名主だが少しも偉ぶったところがなく、性格は穏やかで礼儀正しい。
 新九郎が初めて役目で来た時も、親切丁寧に村や仕事に関することを教えてくれた。そうして何度も訪れるうちに、新九郎と弥左衛門は身分の垣根を越えて親しくなり、共に趣味の川釣りを楽しんだりするような仲になった。
 村に入ると、新九郎はすぐに西村弥左衛門の屋敷を訪ねた。
 戦国時代には祖先がこの辺りを束ねていた地侍じざむらいであっただけに、敷地は武家屋敷のように広い。
 おとないを入れると、中年の女中がまだ眠そうな顔で戸を開けたが、

「まあ、これは黒須さま。こんな早くから如何されましたか」

 と、驚きながら新九郎を中へ入れた。

「弥左衛門どのに急用があってな。このように朝早くから申し訳ない。まだお休みであろうゆえ、起こさずとも良い。板の間で待たせていただく」

 新九郎は、履物を脱いで玄関に上がった。

「いえ、旦那さまはもう起きていらっしゃいます」
「なに? 随分と早いな」
「はい、いつもはまだ眠っておられるのですが、今日は珍しく夜が明ける前に起きて来られました」
「ならば事は早い」
「お知らせして参りますので、お待ちください」

 下女は新九郎を奥座敷へ案内すると、そのまま弥左衛門に知らせに行った。
 程なくして、弥左衛門が奥座敷に現れて向かいに座った。

「これは黒須さま、お早いですな。どうなさいましたか」

 早朝の突然の訪問だが、弥左衛門は特に驚いた様子もなく笑顔を見せた。

「ちと、深刻な事態が起きてな。弥左衛門どのに話があって参ったのだ」
「おや、深刻な事態とは」

 顔をしかめる弥左衛門に、新九郎はこれまでの事情を話して聞かせた。

「というわけで、まずは昨年の小物成帳の控えを見せてもらいたいのだが」

 新九郎が言うと、弥左衛門は顔を青くして両手をつき、いきなり額を畳につけた。

「も、申し訳ございませぬ。実は、ちょうど次に黒須さまがお見えになったらお詫び申し上げようと思っていたのですが、あいにく、うちの下女が先日ごみと共に間違えて燃やしてしまったのでございます」
「なに……」

 新九郎は思わず声を大きくした。ぐらりと眩暈めまいがするような感覚を覚えた。

「もとはといえば、私がいらなくなった書類を燃やすよう命じていたところに、手違いで控えも交ぜてしまっていたのです。まことに申し訳ございませぬ。罰ならば受けまする」

 畳に額を擦り付けて謝る弥左衛門を見て、新九郎は呻いた。

「うむ……そうか……」

 小物成の控えを紛失してしまった場合の罰則などない。
 新九郎としては怒りたいところであったが、そこは堪えるしかなかった。

「では……他に何か、納入量がわかるような物はないか? 控えの下書きとか」
「他に……」

 弥左衛門は顔を上げ、眉根を寄せて考え込んだが、

「申し訳ございませぬ、下書きなどはなく、他にも思い当たるようなものは……」
「ないか」
「はい。まことに申し訳ございませぬ」

 弥左衛門は再び畳に額を擦り付けた。
 しばし沈黙が流れた後、新九郎は弱り切った顔で、

「とりあえず、手間をかけるが共に城下まで来てもらえまいか?」

 弥左衛門は、ぱっと顔を上げて、

「ええ。どこへでもお供いたします」
「すまぬな。その前に、村の様子など見せてもらえるかな。織機おりきや作業の状況などを見てみたい」
「もちろんでございます、ご一緒いたします」

 新九郎は、弥左衛門と共に屋敷を出ると、すでに起きて炊事や作業をしている村の家々を見て回った。
 どの家にも織機が一台あり、作業を中断したまま休んだと思われるところや、早めに朝食を済ませてまさにこれから仕事をしようとしている若い娘などがいた。
 しかし、特にこれといって変わった様子はない。
 新九郎はしばらく各家を見回った後、弥左衛門を振り返って、

くらを見せてくれるかな」
「はい」

 村で収穫した青苧、各家で織った縮は、出来上がり次第、弥左衛門の屋敷の隅にある土蔵に保管される。
 二人は再び弥左衛門の屋敷の長屋門を潜り、隅の土蔵へ向かった。弥左衛門がかんぬきを外して縮の蔵の中に案内する。
 蔵の中は、四方の壁の上方に明かり取りの小窓があるが、今日は曇天であるので朝陽が射し込まず、暗くひんやりとしていた。
 土蔵の壁に沿って、村人によって織られた縮がいくつも積み上げられている。

「黒須さま、申し訳ございませぬが、朝の仕事がございますので、少し屋敷に戻らせていただいても構いませぬか?」

 弥左衛門が後ろから言った。
 新九郎は振り返り、申し訳なさそうな顔をして、

「もちろんだ。時間を取らせてすまぬ」
「ついでにお城へ向かう支度もして参ります」

 弥左衛門はそう言うと一礼し、蔵を出て行った。
 ――しかしこれは本当に困った。
 新九郎は蔵の中を見回した。
 新九郎の無実をよく証明できるであろう小物成帳の控えがないのだ。
 ――とりあえず今月の見込み量を計算して……弥左衛門どのに共に来てもらって……。
 新九郎は、積まれている縮を見ながら、あれこれと思案にふけった。
 すると、突然背後でがたん、と音がした。
 振り返ると、蔵の戸が閉じられていた。次に、外から閂をかける音がした。


     二


「どうした? 弥左衛門どの……何をする?」

 新九郎は木戸に寄って声をかけたが、外から返答はない。

「弥左衛門どの! 何故戸を閉める?」

 新九郎は戸を叩いたが、やはり返事はない。
 何とかして戸を開けようとしたが、閂をかけられているのでびくともしない。
 ――一体どういうつもりだ?
 新九郎は戸に手をつきながら困惑していたが、ふと不穏な気を感じて振り返った。
 奥の暗がりの中から黒い人影が二つ、滑るようにして姿を現した。
 濃紺の上下に頭巾覆面姿である。
 ――蝙蝠こうもりやら燕とかいうあの連中か?
 昨晩も三木辰之助が襲われていた。
 近頃、夜闇の中で複数の藩士らをあやめて城下を不安に陥れている連中である。

「何者だ」

 新九郎は素早く柄袋を外して捨てると、刀の鯉口を切った。
 しかし相手二人は答えず、無言のままじりじりと間合いを詰めてくる。
 新九郎は抜刀して正眼に構えた。
 その瞬間、一つの影がさっと宙を跳んで新九郎に上段から斬りかかった。
 新九郎は剣を左上へ振って斬撃をはね返すと、左へ回りながら右へ剣を薙いだ。
 しかし黒い影はそこになく、剣は空振りした。
 同時、背後に剣気を感じて、振り返りざまに剣を水平に振った。
 もう一人がいつの間にか背後に回って袈裟けさに斬りつけて来ていた。
 間一髪であった。刃が激突し、青い火花が薄闇にはじけた。
 新九郎は後ろに飛んで、二人との間合いを取った。
 二人とも、濃紺の覆面の間から覗く眼に不気味な殺気が光っている。

「貴様らは何者だ。ここで私を待ち伏せていたのか?」

 新九郎はふうっと息を吐いて、再び問いかけた。
 だが、当然二人は答えず、刀を構えながらじりじりとあしで寄ってくる。
 その時であった。

「新九郎!」

 と、新九郎を呼ぶ声に続き、剣がぶつかり合う激しい金属音が二度、三度と聞こえた。
 外でも、複数の者らが斬り合いをしているようであった。

「黒須、もう少し堪えろよ!」

 聞き覚えのある大声がした。

「三木か?」

 新九郎も大声で応えた。間違いなく三木辰之助であった。

「新九郎、無事か」

 そう呼びかけてくるもう一人の声は、歳は新九郎より一回り以上も上だが、家が近所なので幼少の頃より付き合いがある韮沢万次にらさわまんじであった。

「韮沢さん!」
「待っていろ、今開けてやる!」

 激しい金属音に交じりながら、韮沢万次が怒鳴った。だが、

「させん」

 と、静かに呟きながら、濃紺装束の二人が同時に新九郎に襲いかかって来た。
 新九郎は刮目し、素早く飛びながら一本の銀光をはね返し、もう一本の刃風を躱した。
 一対二の斬り合いであった。
 圧倒的に不利であったが、新九郎は必死に剣を振って応戦する。
 と、大きな音が響いて、蔵の戸が開けられた。
 広がった薄い朝光の中から韮沢万次が身体をおどらせて来て、同時に濃紺装束の一人に豪剣を振り下ろした。
 相手は真正面から受け止めて防いだが、その機を逃さずに新九郎が横腹に斬りつけた。
 悲鳴と共に、相手が崩れ落ちた。

「二人とも、何故ここに?」

 新九郎が訊いたが、

「話は後だ。外に出よう」

 万次は短く言うや、外に飛び出た。
 見れば、外には同様の濃紺装束の者が三人もいて、三木辰之助が一人で奮戦している。
 蔵の中にはまだ一人が残って新九郎の隙を窺っている。新九郎はそれに警戒しながら、万次の後に続いて外に出た。
 当然のように、残った一人も新九郎らを追って走り出て、たちまち蔵の外での乱戦が開始された。
 新九郎、三木辰之助、韮沢万次の三人と、相手四人との戦いである。
 人数では不利である上に、相手らは不思議な太刀筋の難敵であった。
 だが、新九郎と辰之助は城下の一刀流戸沢道場で席次上位にいた名手であり、韮沢万次も道場は別であるが家中屈指の使い手として名高い。
 目まぐるしく態勢を入れ替えながら互角の戦いを繰り広げた。

「貴様ら、近頃城下を騒がせている笹川組もどきの連中だな?」

 距離を取って睨み合った時、新九郎が訊いた。
 相手の大柄な男は、覆面の隙間の猫のような目をにやりとさせただけで答えなかった。

「私がここに来ることを知ってわざわざ襲いに来たのか?」
「…………」
「だとすれば小田家老の指図か? お前たちは小田家老の手下か?」

 すると、相手の男が初めて声を出した。というより笑い声を上げた。

「小田の手下だと? はは、笑わせるな。小田を我々が使っているのだ」

 これには新九郎はもちろん、耳にした辰之助と万次も驚いて太刀捌きが鈍った。
 その隙を見て斬り込んで来た敵の刀を弾き飛ばし、後ろに飛んで間合いを取った辰之助が横目を走らせた。

「貴様らが使っているだと? どういうことだ? 小田さまは筆頭家老だぞ」
「そもそも奴が筆頭家老になれたのも我々のおかげのようなものだ」

 大男が鼻で笑った時、万次が対峙していた相手を斬り伏せた。

「小田さまを筆頭家老にして、それを貴様らが使っているだと? どういうことだ?」

 万次は大男の方を向いて問い詰めようとしたが、大男は味方がまた一人やられたことをまずいと思ったのか、

「あの世で教えてやる」

 と、剣を唸らせて新九郎に斬りかかった。
 斬り合いが再開された。
 しかし、三対三で人数が互角になると、徐々に新九郎たちが押し始めた。
 すると、猫のような目をした大男が、業を煮やしたように叫んだ。

「もういい。燕、あっちをやれ!」

 その命を受け、やや小柄な一人が無言で斬り合いの場から離れた。数の有利を得たことからここで決める、と新九郎らはその言葉の意味も考えずに斬り合いを続けたが、

「まさか!」

 と、新九郎がふと気付いて叫んだ、その瞬間。
 主屋の方から複数の悲鳴が上がり、爆発音と焼け焦げるにおいがした。
 見れば、屋根や窓から黒い煙が立ち上っている。

「よし、退くぞ」

 大柄の男が静かに命じると同時、他の一人と共にそのまま走り去った。

「ここまで来て逃がすか!」

 辰之助と万次は、憤然として彼らを追った。
 新九郎は黒い噴煙を上げる主屋へと走る。主屋からは、奉公人たちが悲鳴を上げながら次々と逃げ出して来ている。
 新九郎は一人を掴まえて口早に訊いた。

「弥左衛門どのは?」
「妙な人に斬られました」

 小太りの下女が身体を震わせながら答えた。

「弥左衛門どの……」

 新九郎は、まだ火が回っていない戸口を睨むように見ていたが、意を決して駆け出した。
 小物成帳の控えがない今、弥左衛門の証言だけでも貴重なのである。だがそれだけではない。役目を越えて仲を深めていた弥左衛門が斬られた上に、燃え盛る屋敷の中に取り残されている。
 ――民を……世話になった人を助けに行けなくて何が武士か。
 その想いが、新九郎を炎の中へと突き動かした。
 立派とはいえ木造の屋敷である。火は、すでに壁や柱を上り始めていた。
 ――これはやはり火薬か。
 歪む空気の中、焼け焦げる臭いと息苦しさが新九郎の肺を苦しめた。
 玄関から次の間へ、更に中の間を開けると、先ほどの燕と呼ばれた小柄な男と出くわした。その男が手に提げている刀が血に濡れているのを見た新九郎は、

「貴様……弥左衛門どのに何をした!」

 と、激しく目を怒らせて剣を構えた。
 だが、燕は当然のように無言で、いきなり新九郎に斬りかかった。
 新九郎も飛び出して迎え撃った。刃が十文字に激突し、二人は交錯して位置を逆にして向かい合った。
 ――妙だ。
 新九郎は思った。
 こちらを覆面の隙間から見る両眼には、冷たい気が光っている。
 だが、今の相手が放った斬撃には、熱風を吹く速さこそあったが、殺気がなく力も乗っていなかったように感じたのだ。
 新九郎が不審に思っていると、燕は新九郎を見据えながらもゆっくりと退しりぞき、やがて後ろの間に移って飛ぶように消えた。
 新九郎は追いかけようとしたが、
 ――いや、先に弥左衛門どのだ。
 と、思い直して左手の間を開けると、すぐに倒れている弥左衛門を見つけた。
 そこは書院造しょいんづくりの座敷で、書斎代わりにも使われていた部屋なのだが、中は酷く荒らされていた。違い棚は倒され、積まれていた書籍や紙が畳の上に散乱している。
 その中に、弥左衛門が藍染の着物を真っ赤にして倒れていたのだ。

「弥左衛門どの!」

 新九郎は駆け寄って抱き起こしたが、「ああ……」と無念の呻きを漏らした。左肩から右脇腹へと深い斬り跡。明らかな致命傷であった。
 だが、弥左衛門はまだ意識があった。目を開けて新九郎を見ると、

「黒須さま……申し訳……ござりませぬ……」

 と、かすれた声を出した。

「控えのことならばもう良い」
「いえ、そのことでは……」
「なに?」
「こ、小物成……申し訳ござりませぬ……じ、実は私と……」

 と、弥左衛門は言いかけたが、そこで息尽きたのか頭が落ちた。

「実はなんだ……? いや、しっかりなされよ!」

 新九郎は身体を揺すったが、答えは返って来なかった。

「弥左衛門どの……」

 新九郎は悔しそうに唇を結び、目を閉じた。
 その時、どこかから何かが崩れ落ちる音が響いた。目がみ、焦げる臭いが更に強まる。炎がまた広がっているようであった。
 ――せめて遺骸だけでも。
 新九郎は、息をしていない弥左衛門の身体を抱えて外に出ようとした。
 だがそこで、散乱している紙の中の一枚にふと目が留まった。裏返っているが、文章ではなく、縦一行ずつに短い文字列が並んでいるように見えた。
 胸騒ぎがした。
 新九郎はそれを手に取り、表を見た。長い紙に、一行ずつ人名が書かれている。
 ――連判状れんぱんじょう
 新九郎は衝撃に目を見開いた。
 農村でよくあるのは一揆いっきの計画に関する連判状である。だが、一揆の連判状などでは、首謀者を隠す為に円環状に名前を連ねるからかさ連判が多い。
 しかしこれは通常の連判状であり、一揆に関するものとは思えなかった。
 更に不可解な点がある。冒頭に目的や誓約等を記す文言がない上に、最初の二名と見られる行が墨で塗り潰されていた。
 新九郎は更に詳しく見ようとしたが、炎の音がまた一段と強くなるのを聞いて止め、連判状を懐にしまった。そして弥左衛門の遺骸を抱え直す。
 この部屋には窓がない。新九郎は中の間へ入り、そこから次の間へ抜けようとしたが、次の間は完全に燃え上がっていて、炎の先に玄関が霞んで見えた。
 左手の納戸に通じる襖にはまだ火が回っていない。
 ――納戸から土間だ。
 肺を責めさいなむ煙に、新九郎は朦朧もうろうとしてよろめきかけたが、全身を奮い立たせて襖を開け、納戸から土間へと出た。
 だが、辿り着いた土間では、唯一外に通じる木戸がすでに燃えていた。日中であれば、この木戸は開けっ放しにされているのだが、早朝である上に初春の寒さから閉じられていたのが災いした。
 ――ここまでか……。
 新九郎の心に絶望感が忍び寄った。
 四方の壁のあちこちに、無情の炎がい回っている。
 ――奈美、すまぬ……おりよも折角うちに来てくれたばかりなのに……。
 新九郎は、心の中で二人に詫びた。
 だがその瞬間、新九郎ははっと気が付いた。

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