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1巻
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「水甕があるじゃないか」
土間の隅の台所には水を貯めてある甕があるものだ。新九郎は普段、自宅でもあまり台所に立たないので気付くのが遅かった。
流し場の隣に水甕が見える。新九郎は弥左衛門の遺骸を置いて走り寄った。
中には四分の三ほど水が入っていた。これぐらいなら持ち上げられそうだった。
この間にもどんどんと炎は回る。
新九郎は焦る心を必死に落ち着かせながら、慎重に水甕を持ち上げて木戸の前まで運んだ。そして柄杓で何度も水をかけ回し、火が小さくなり始めたところで甕を持ち上げ、残りの水を一気に撒いた。
炎がジュッという音を立てて消失した。
よし、と思わず声を上げた新九郎が一気に戸を引くと、裏手に広がる竹林が見えた。
新九郎は弥左衛門の遺骸を再び抱えて外に飛び出した。少し走って屋敷から離れると、新九郎は弥左衛門の遺骸を地面に置き、自分も倒れるように仰向けに転がった。
その頬へ、水滴が当たった。
空を見れば灰色だった雲が黒く広がっており、小雨が降り始めていた。
「もっと降れ!」
と、新九郎は思わず叫ぼうとしたが、疲労で声にならなかった。
だが、その無言の叫びに応えたかのように、黒雲は雨粒を強く落として来た。この調子で雨が降り続ければ、飛び火で村全体が炎上してしまうのは避けられるだろう。
新九郎は少し安心し、雨粒に打たれながらも目を閉じて呼吸を整えた。
そこへ、三木辰之助と韮沢万次が駆けつけて来た。二人はあの濃紺装束の連中を追いかけて行ったが、追いつけずに戻って来たのだった。
「新九郎、無事だったか」
万次がほっとした声で膝をつき、新九郎の煤で汚れた顔を見た。
「何とか」
新九郎は息を吐いて上半身を起こしたが、
「だが、弥左衛門どのは……」
と、脇に横たえた弥左衛門の遺骸の前でうなだれた。
「何故、名主どのも襲われたんだ? しかも屋敷まで燃やされてよ」
辰之助が、雨で炎の勢いが弱まって行く屋敷を見やった。
騒ぎを聞きつけて集まって来た村人らが、何とか消火しようと右往左往している。
「わからん……やったのはあの濃紺装束の連中の一人、燕と呼ばれていた奴で間違いないだろうが、奥座敷の書棚が酷く荒らされていた。奴は、弥左衛門どのが持っていた何かを強引に奪おうとしたが、抵抗されたので斬ったのかもしれん」
「ふむ。奴らの真の目的はお前ではなく名主どのだったということか」
「いや、そうとも思えない。まず俺が蔵に閉じ込められて襲われた。目的は俺と弥左衛門どの、両方だろう」
新九郎が言うと、万次と辰之助が顔を見合わせて、
「我らが着いた時にちょうど見かけたのだがな、蔵に閂をかけたのは名主どのだぞ」
「え? 弥左衛門どのが?」
新九郎は驚いた。蔵の戸が閉じられた時、新九郎も一瞬それを疑った。だが、直後に濃紺装束の連中に襲われたので、やったのは奴らの仲間だと思い直したのだ。
「慌てた様子で戸を閉じて閂をかけ、屋敷の方へ走って行った。その後に、蔵の中から斬り合いの音が聞こえてな。これは新九郎が閉じ込められて襲われたかと思い、急いで閂を外そうとしたところ、我らも横から奴らに襲われたのだ」
「では、弥左衛門どのは奴らとぐるで俺を襲ったということか?」
新九郎は愕然とした。
「だと思うが、奴らは名主どのも襲ったのだろう?」
「そこがよくわからんな。何かの口封じか?」
辰之助が顔をしかめた。
新九郎はため息をついて弥左衛門の顔を見た後、
「そもそもわからんことだらけだ。俺がここに来ることは大鳥家老しか知らないはずだ。なのに、何故奴らは俺が来ることを知っていたかのように蔵の中で待ち構えていたんだ?」
「新九郎とご家老の話を奴らの誰かが盗み聞きしていたとか?」
万次が言うと、新九郎は首を横に振った。
「それは考えにくいですね。ご家老の家には何人も家士がいて警戒も厳重です」
「しかし、あいつらはまるで昔の笹川組じゃないか。そういう連中ならば、ご家老の屋敷に潜入できても不思議はないぞ」
「まあ、そうですが……あ、そういえば、韮沢さんたちは何故ここに来たのですか?」
新九郎が不思議そうに二人の顔を見ると、
「大鳥さまの命令よ」
辰之助がため息をつきながら答えた。
「夜中に突然呼び出されてな。こういう事情で新九郎が鉢窪村に向かうが、何があるかわからんからそなたらも応援に行け、とな。夜中だぞ? ご家老が強引なのは知っているがたまらんわ」
万次は苦笑しながら言った後、ごほごほと咳をした。
「俺はお前の助けなんぞしたくはなかったんだが、柳橋でのお前への借りをさっさと返したかったからな」
辰之助はそっぽを向いてぶっきらぼうに言った。
「だがまあ、今回はご家老の強引さでお主の命は助かったわけだ」
「ですが……これで助かったといえるでしょうか」
新九郎は立ち上がり、雨で炎の勢いが衰えて行く弥左衛門の屋敷を見た。
遠慮処分は今日の夜からとはいえ、その日の朝早々から、嫌疑の中心である鉢窪村で、こともあろうに名主が斬られ、その屋敷も炎上するという騒動を起こしてしまった。
「俺への疑いとは関係なく、腹を切らされるかもしれんな」
新九郎は暗い顔で唇を結んだ。それを励ますように、万次は新九郎の肩を叩いた。
「心配するな。お主を襲い、名主どのも襲って更に屋敷に火をかけたのはあの連中だ。それは儂も三木もはっきりと見ている。我らがしっかり証言してやる」
「ありがとうございます」
新九郎は礼を言った後、
「それにしてもあの濃紺装束の連中は本当に何者なんだ。昨夜も三木を襲い、今日はわざわざここで待ち構えていて俺を襲った」
「わからんが……一つ言えるのは、奴らが主に襲っているのは大鳥さまに味方している藩士たちということだ」
辰之助が言うと、
「お前……それに韮沢さんも、大鳥さま派に入っていたのか?」
新九郎が驚いて二人の顔を見た。
「俺は大鳥さまの仲立ちで三木家に婿入りできたという恩がある。韮沢さまは、お前も知っているように大鳥さまとは遠縁だ。その関係でいつの間にか、な」
「といっても、我ら二人とも、大鳥派に入ったのは本当につい最近のこと。言っていなかったことは気を悪くしないでくれ」
と、万次も続けて言ったのだが、その後再び咳き込んだ。
「風邪ですか?」
「かもしれん」
万次が袖で口元を拭うと、辰之助は空を見上げた。
「雨に濡れ続けるのは身体に悪い。木陰へ移ろう」
三人は弥左衛門の遺骸と共に竹林の傍らにある大きな樹の下に移った。
三
辰之助は座り込んで大木の幹にもたれると、
「こんな事態になった以上、黒須も我らの仲間に入るしかないだろう。だから明かす。昨晩、俺が柳橋のたもとで襲われた時もな、実は大鳥さまの命で密かに藤之津へ行った帰りだったのだ」
「藤之津へ?」
新九郎はどきりとした。藤之津は、黒須家の女中、りよがいた北方の湊町である。
「藤之津に高木屋という商家がある。かなり手広く商売をやっていて船問屋もやっているのだが、この高木屋がどうも小田家老と癒着しているらしいと大鳥さまが嗅ぎつけてな。大鳥さまに言われて密かに調べに行ってたのよ」
「その帰りに襲われたというわけか」
すると、万次が言った。
「先日斬られた勘定方小頭の桂さま、納戸役の寺坂なども皆、大鳥さま派で、小田家老の不審を暴くべく動いていた」
「そうだったのか。では、あの連中は小田家老の指示……ではなかったな。奴ら、自分たちが小田家老を使っている、と言っていた。一体どういうことなんだ?」
と、新九郎は言ったところで、あの連判状を思い出した。
一瞬、ためらったが、万次は歳こそ一回り以上も上だが、家が近所で幼少の頃から可愛がってくれた仲。辰之助も、仲は良くないが、やはり幼少の頃からの付き合いである。それにどうやらいつの間にか仲間になってしまったと知り、新九郎は二人を信頼して連判状を懐から出した。
「そういえば、弥左衛門どのの奥座敷でこんなものを見つけた」
新九郎は、連判状を広げて見せた。
万次も辰之助も、一瞬で目を瞠った。
「傘連判じゃない。これは尋常ではないぞ。何故こんな物が名主どのの屋敷にある?」
「ああ。だが、冒頭に何も書いていない上、最初の二行の名前が墨で塗り潰されている」
「一揆目的ではない連判状とは、何かの企みか」
「墨で消されている最初の二人が間違いなく首班で大物だろう。消させるあたり、ちと卑怯と思うが」
「今回の疑惑と、濃紺装束の連中がここに現れたこと……小田家老と何か関係があるかも」
新九郎たちは頭を寄せ合って連判状を覗き込んだ。
武士、町民にかかわらず多くの名前が交ざって並んでいる。三人はそれを順々に見て行くと、ほぼ同時にあっと声を上げた。
数行目に、郡奉行松山帯刀の名前があり、更に最後の方に西村弥左衛門の名前もあったのである。
「松山さまが……この連判状が何の為のものかはわからないが、名主どのが持っていた連判状に郡奉行の松山さまと名主どのの名前があるということは……」
「考えたくはないが、弥左衛門どのと松山さまには繋がりがあり、もしかしたら直接やり取りをして今回の不正をしていたのかも」
新九郎は顔を暗くした。
「ということは今回の横領疑惑は、松山さまがやったことか? 或いはこの消されている最初の二人が松山さまと名主どのに指示をしたとか」
「で、それが露見しそうになったので、鉢窪村担当であるのをいいことに、黒須になすりつけたということか」
辰之助が険しい顔をした。
新九郎は、弥左衛門の顔を見ながら沈黙していた。
まだ憶測である。はっきりとはわからない。だが、新九郎と弥左衛門は役目を越えて仲を深めていた。そんな弥左衛門が、新九郎を陥れたということだろうか。
仮に弥左衛門の本意ではなく、松山帯刀の主導で命令されていたとしても、弥左衛門が新九郎を裏切ったことは間違いない。
雨のせいではなかっただろう。新九郎の胸が冷たく締め付けられたのは。
その日の夕刻には、知らせを受けた徒目付たちが鉢窪村にやって来て調べを始めた。
新九郎たち三人はひとまず城下へ戻ることが許されたが、新九郎は真っ直ぐに評定所に連れて行かれて再び吟味を受けた。
まだ目付衆の捜査が始まる前に、しかも遠慮処分を待つ身であるにもかかわらず、勝手に鉢窪村に向かい、結果あのような騒ぎを起こしてしまった。執政衆からは、黒須新九郎は即刻死罪にするべし、との厳しい声が多く出た。
だが、現場に居合わせていた万次と辰之助が、鉢窪村でのことを詳しく証言した上、
「このことから、鉢窪村の小物成の不正は、名主の西村弥左衛門が行ったのではないかと思われます。また、あの笹川組のような連中もそれに関わっているのかと思います」
と、言葉を尽くして新九郎を擁護した。
また、弥左衛門の家族や奉公人、鉢窪村の村人らも、濃紺装束の連中が新九郎らを襲ったことを証言したことに加え、家老大鳥順三郎の強引な主張もあって、とりあえず新九郎の即時死罪は回避された。
だが、これは新九郎の無実が証明されたわけではない。新九郎は再び、そのまま評定所に押し込められた。
しかしその翌朝、またも事態は速く動いた。
大目付の石川左内がやって来て告げた。
「黒須新九郎、その方を釈放する」
「はっ」
新九郎は少々の驚きと共に返事をした。
「喜ぶが良い、その方の嫌疑は晴れた。その方は無実じゃ」
その言葉を聞いた瞬間、新九郎は胸の重しが取れたような心地がした。
「ありがとうございまする。しかしそれはまたどうして……」
新九郎が顔を上げると、
「うむ。佐久間らが調べたところによると、どうやら鉢窪村の一件は名主の西村が一人でやっておったらしい。村中から集めた青苧と縮の一部を、密かに近隣に抜け売りしておったようじゃ。それを、担当であるその方がやったように工作していたらしい」
「さようでございましたか」
新九郎は頷いたが、心の中では納得していなかった。
――嘘だ。
弥左衛門が関わっていたのは間違いないだろう。だが、祖先が地侍とはいえ、山間の小村の名主が、一人で横領から抜け売りまで行うなどできるはずがない。
――それに一人でやっていたならば、城内にある俺の帳簿の改竄はどうやって行ったのだ。
疑念は多くある。だが、自分の嫌疑が蒸し返されぬよう、新九郎は黙っておいた。
するとそこへ、石川がじろりと新九郎を見て言った。
「しかしだ。無実がわかったとはいえ、そなたの勝手な行動とその結果は見過ごせぬ。そこで、改めて遠慮を申し付ける。今からじゃ」
こうして、新九郎は評定所から解放された。
即時遠慮となったので、徒目付二人に両脇を挟まれて屋敷に帰った。
再び遠慮とはなったが、新九郎の嫌疑は晴れて無実とされた。死罪は免れ、減禄もない。当然家の取り潰しもない。
万事解決である。だが、新九郎の心は晴れなかった。
身分差を越えて仲を深めていた弥左衛門が、新九郎を陥れたことに加担していたという、その事実のせいである。
新九郎は悶々としながら、裏口から屋敷に入った。
「兄上」
「旦那さま」
妹の奈美が真っ先に出て来て、その後ろから女中のりよも来て新九郎を出迎えた。
「ご無事でようございました。心配しておりましたよ」
奈美が泣き出しそうな顔をした。目の下にうっすらと隈ができている。
新九郎のことは、昨日中に黒須家に伝えられていた。
「奈美さまは、昨晩はあまり眠れなかったようでございます」
りよが奈美の後ろからそっと言うと、
「すまぬな、二人には心配をかけた。だが、改めて遠慮処分を受けたとはいえ、私の無実は証明された。黒須家は安泰だ」
新九郎は努めて明るく言った。
「この調子で、奈美の縁談も何とかするからな」
新九郎は二十一歳。亡父の跡を継いで黒須家の当主となっているし、妻を娶っていてもおかしくはない歳である。だが新九郎は、両親もすでにいないことであるし、まずは妹の奈美を嫁に出してから、と考えていた。
ところが、奈美は顔を赤くしながらも、逆に口を尖らせて文句を言った。
「いつも言っておりますが、まずは兄上が先なのではございませぬか? 早く黒須家の跡継ぎを作りませぬと。さて、わたくしはお琴の稽古に行って参ります」
奈美は、そそくさと自室へ戻って行った。
その小さな背が奥へと消えると、新九郎は「ませた奴だ」と、と笑った。だが、すぐにまた、弥左衛門のことを思い出して顔を暗くさせた。
りよも、くすくすと口元を押さえて笑っていたのだが、新九郎の横顔に射した暗い影に気付いて、心配そうに訊いた。
「いかがいたしましたか?」
「いや、何でもない」
新九郎は作り笑顔で答えたが、りよは鋭く見抜いた。
「嘘でございましょう。釣りに行ってあまり釣れなかった時と似た顔をしておりますよ」
「はは……」
「何かわたくしにできることがあればお申し付けくださいませ」
りよは新九郎に一歩寄った。甘い香りがして、新九郎はどきりとしたが、同時に気持ちがやや和らぐのを感じた。
新九郎は「実はな……」と、思い切って弥左衛門のことを話した。
「弥左衛門どのとは役目の外でも親しくしていた……と、私だけが思っていたらしい」
新九郎は目を伏せながら言葉を続ける。
「弥左衛門どのは私を裏切っていた……真相は未だに不確かだが、私を陥れるのに手を貸していたのは間違いなかったらしい」
「…………」
「それが少し、心に痛い」
新九郎は寂しそうに呟いた。
りよは、俯いた。腰の前で両手をぎゅっと結んだ。そのあと、右手をほどいて上げかけたが、ためらってやめた。
「書見をする」
新九郎は言って、廊下を歩き出した。その背中へ、りよが声をかけた。
「旦那さま」
その声に、新九郎は振り返った。
「でも、名主さまは最後に謝られたのではございませぬか? きっと、己の過ちを悔いて、旦那さまに謝られたのです。裏切ったままではございませぬ」
「おりよ……」
「もしかしたら、誰か別の者が名主さまを脅して操った可能性もございます。それ故に、名主さまの最期のお気持ちを忘れないであげてくださいませ。それがきっと、旦那さまのお心の傷を治し、また名主さまへの何よりの供養になるはずです」
「……そうだな」
新九郎の顔に射していた影が薄くなり、それを見たりよも、にこりと微笑んだ。そして新九郎は再び奥へ向かった。
「お茶をお持ちいたしますね」
「すまぬな」
そう返答した新九郎の背を、りよはその場に立ったまま、じっと見つめていた。
そして新九郎が自室へ入った音を聞くと、りよは目を閉じ、左胸に右手を当てた。
それから、新九郎は家に籠もる日々が続いた。
遠慮は処罰の中では最も軽く、日中は屋敷に籠もっていなければならないが、夜間の外出と、自宅での人との面会は黙認されている。だが、新九郎は特に外出したいとも思わず、逆に今回の件で色々と思うところがあったので、夜もずっと自室で本を読んだり調べものをしたりしていた。
屋敷に籠もっている間も、世間の話は聞こえてくる。
あの、昔の笹川組のような濃紺装束の連中の活動がより活発になっているらしい。伝わってくる話では、彼らが襲っているのはやはり大鳥家老派の人間ばかりであった。
――小田を我々が使っているのだ。
鉢窪村で奴らの一人がこう言っていた。筆頭家老ほどの大物をあの連中が使っていると言うのは信じがたいが、
――少なくとも、小田さまとあの連中に繋がりがあるのは間違いなさそうだ。
第三章 蕾光る家と雲陰る城
一
そうして十四日後、ようやく新九郎の遠慮処分が解けた。
三月上旬、その日の夜であった。
新九郎は夜食を食べた後、綿入れを羽織り、縁側に出て簀子に座った。
眉根を寄せて星空を睨む。
――藩政は俺が思っている以上に腐敗していた。
新九郎は元来真面目な性格からか、藩内の政争や派閥争いのようなものを嗅ぎつけると、何となく距離を置いてきた。
しかし今回、そんな自分の意思とは関係なく強引に巻き込まれて初めて知った。
――目付の一部まで小田さまに取り込まれているとなると深刻だ。
新九郎は腕を組んだ。
――先代の殿が生きておられたらどうなっていただろうか。
暴君として悪評が高かった先々代と違い、その息子の先代藩主経龍公は英邁を謳われていたが、一昨年にまだ三十代半ばという若さで急死し、その嫡子の政龍が跡を継いで藩主となった。
政龍もまた、先代経龍に似て聡明であるが、まだ十五歳という若さであった。
いくら優秀で幼少の頃から藩主となるべく教育を受けていたとはいえ、十五歳の若さでは流石に藩内をまとめきれなかった。
それをいいことに、小田内膳は昨年から派閥の力で藩政を牛耳って来ているのだ。
「儂は殿より藩政を一任されておる」
小田内膳は、事あるごとにこう言って自分の権力を正当化して来た。
――だが、そもそもそれが疑わしい。
噂では、現藩主の政龍は、元々は活発で明るい性格であったが、先代の病死後に跡を継いでからは、人が変わったようにおとなしく寡黙になったという。
――とりあえず、〝あれ〟は目付に渡さなくて正解だったかな。
新九郎は一人、無言で頷いた。
その時、背後からそっと声がした。
「旦那さま、そのようなところで何をしておられるのですか?」
りよの声であった。
新九郎は振り返って微笑んだ。
「少し考え事をな」
「そうですか。ですが、まだ寒うございます。そのようなところにおりましたら風邪をひいてしまいますよ」
「心配はいらぬ。このように綿入れも羽織っている」
「ですが……」
と、りよは言いかけて、ふと気付いて明るい声を上げた。
「あら、もう蕾が開き始めておりますね」
庭の隅に、大きな桜の樹がある。りよの目は、その桜の枝に注がれていた。
「花か? 本当か?」
新九郎も目を凝らしたが、夜闇の中なので蕾の様子は全くわからなかった。
「ええ、今年は暖かいからでしょうか。いくつか咲いております」
「ふうむ」
新九郎には、蕾が黒くぼんやりと浮かんでいるだけで、淡紅色は見えなかった。
新九郎は感心したようにりよを見た。
「やはり見えないぞ。おりよ、そなた、こんな暗い中でよく見えるな」
するとりよは、何故か少し戸惑ってから、
「ええ……その、わたくしは桜が大好きですので。藤之津の実家の近くにも桜の樹がありまして、毎年花が咲くのを楽しみにしておりました」
「そうか。私もここの桜は好きだ」
黒須家の屋敷があるこの一帯には、元々桜の木々が自生していた。
初代藩主頼龍がこの地に入って城下を再整備した時、この辺りの桜の見事さに感心して、春木町と名付けたのであった。
「おりよ」
「はい」
「え……っと」
新九郎は何か言いかけたが、ためらって顔を庭に向けた。
「いかがされましたか?」
りよは不思議そうな顔で新九郎の横顔を見た。
「いや……桜が好きなら、ここで共に見ぬか? といってもまだ開きかけだが」
新九郎は思い切って言ったが、その顔は気まずそうに庭に向いたままであった。
「え? ですが、わたくしなどが旦那さまのお隣には……」
「そのようなことどうでもいいではないか。それでも気になるなら、私の左後ろにでも座ればよい」
新九郎が言うと、今度はりよがためらいを見せたが、すぐに微笑して、
「では、失礼いたします」
と、新九郎の左後ろに正座した。
「本当に、ここの桜は立派でございますね。満開になるのが楽しみです」
しみじみと言ったりよの髪を、そっと吹いた夜風が揺らした。
「だが、桜は、咲いている時は目を楽しませてくれるが、それも短い間だけ。散り始めると寂しいものだ」
「いいえ。それ故に桜は人を魅了するのです。桜は散る様も美しゅうございます。美しく咲くのがわずかな時故に、散って行く様もまた美しいのです」
「……まあ、それもわかるが」
「わたくしは、葉桜も好きでございますよ」
りよは、柔らかい笑顔を見せた。
「それはまた珍しいな」
「散って行く花と入れ違いに若々しい新緑が芽吹く。新しい季節が来ることを実感し、何だか気分も一新できるような気がするのです」
「なるほど、そういうものか」
新九郎は納得しながら闇の中の樹を見つめた。その時、りよが小さくくしゃみをした。
「ああ、寒いか」
新九郎は振り返り、自らの綿入れを脱ぐと、りよの両肩に回しかけた。
「え……」
りよは、両頬をぽっと染めて新九郎を見た。
「あっ……」
新九郎は自身の行動に気付いて狼狽した。完全に無意識だった。
幼少の頃より、妹の奈美が家で寒がると、新九郎はいつも自分の着ている物をかけてやっていた。この二年ほどは奈美も年頃になったせいか、恥ずかしがるのであまりやらなくなったが、その習慣はまだ無意識に残っていた。それでつい、りよにも同じことをやってしまったのだ。
「すまぬ……嫌ならば外してくれ」
新九郎は気まずそうに言った。
「い、いえ……暖かいです。ありがとうござります」
りよは頬を赤くしたまま、下を向いた。
綿入れを通して、新九郎の体温がりよの肌に伝わっていた。
新九郎は何を言っていいかわからず、再び庭に目をやった。りよは無言のままだった。気恥ずかしく、気まずいような空気が流れた。
――何か言わねば……。
新九郎が言葉を探していると、表門の方から訪いの声が聞こえた。
「このような時刻に誰でございましょう」
りよが訝しんだ。
「遠慮が解けたばかりとはいえな」
「出て参ります」
りよが立ち上がったが、再び聞こえた声が聞き覚えのある嗄れたものであることに気付いた新九郎は、
「もしやご家老のところの……待て、私も行こう」
と、共に門に向かった。
門の外にいたのは、果たして大鳥家の老下男、千吉であった。
「このような夜更けに申し訳ございませぬ」
千吉は頭を下げた。
「とんでもござらん。それより、ご家老に何かございましたか」
「いえ。旦那さまよりの使いです。急ぎ当家に来てもらいたいと」
遠慮が解けたその夜にいきなり来いと……相変わらず強引だ、と新九郎は心の中で苦笑しながらも、
「承知いたしました、すぐ着替えて参りますのでお待ちを」
と、一旦奥へ向かい、着替えてから戻って来た。
「遅くなると思う」
新九郎はりよに言うと、千吉と共に門を出た。
「お気を付けくださいまし」
りよは、新九郎の背を見送った後、まだ新九郎の綿入れを着ているままだったことに気付いた。だがりよはそれを脱がず、袖口をじっと見つめていた。その顔から照れはすでに消えていたが、却って無表情になっていた。
大鳥邸への夜道を、千吉が提灯を下げて前を進み、新九郎はその後ろを歩いた。
道中、ぽつぽつと他愛もない話をしていたが、不意に千吉が立ち止まった。
「如何された?」
新九郎が不審に思ったその瞬間、
――剣気!
新九郎はさっと振り返ると同時、右手を大刀の柄にやった。
だが、薄闇の向こうから剣は飛んで来なかった。
「黒須新九郎。あれをどこにやった?」
そう言いながらゆっくりと歩いて来て姿を現した男は、例の濃紺装束姿だった。覆面の隙間から覗くのは猫のような目。鉢窪村で新九郎を襲った連中の一人で、他の者たちを指図していたあの大柄な男であった。
新九郎は「千吉どの、後ろの方へ」と、千吉を下がらせて、
「あれとは何だ?」
「弥左衛門が屋敷に持っていた連判状だ」
「連判状? 何のことやら」
新九郎はわざとらしく首を傾げた。
「とぼけるな。貴様があの屋敷で連判状を拾っていたことはすでにわかっているのだ」
「何のことかわからないが、その連判状は他人の手に渡るとまずい物らしいな」
新九郎がにやりと笑うと、男は苛ついた様子を見せ、
「あの連判状、貴様はきっと目付に渡すものだと思っておった。ならば問題はない。目付どもに渡るのならば、いずれ我々のもとに戻るからな」
「なに? お前たちは目付衆とも……?」
新九郎は驚いたが、すぐに目付衆の一部も小田内膳に取り込まれていると言った大鳥順三郎の話を思い出した。
――こいつらは小田家老を使っていると言っていた。ならば不思議はない。
「だが、目付どもは連判状を持っていなかった。それ故、我々は貴様の屋敷を隅々まで調べたが、どこにもない。一体どこにやった?」
「屋敷の隅々まで? 嘘をつくな。俺はずっと屋敷の中にいた。お前たちのような者が忍び込んでいれば、気配ですぐに気付く」
「ふっ、そのようなこと、我々にとっては造作もないことよ。特に貴様の屋敷なぞはな」
男は低く笑って言うと、すぐにまた苛立ちを見せ、
「で、どこだ? 言え」
「知っていたとしても答えると思うか?」
「……それもそうだ。ならば無理にでも口を割らせてやるか」
男の足が砂を踏む音を立てると、その背後から同じ濃紺装束の男が四人現れた。
新九郎はさっと飛び下がって抜刀し、
「千吉どの、逃げられよ」
と、背後の千吉に言ったが、
「私のことは構わず」
千吉はやけに落ち着いた口調で答えながら、じっと大男を見つめた。
「やれ」
この大男が頭目格らしい。四人に命令した。
四本の刃が一斉に光る。
二
――四人相手は流石に無理だ。
新九郎が、どう立ち回るか、と急いで考えを巡らせた時であった。
「四人がかりで一人をやるとは流石に卑怯すぎるだろう」
と、不意に別の男の声が響いた。
相手の四人がぱっと振り返ったその瞬間、一人が呻き声を上げて崩れ落ちた。その先に月を背負って浮かび上がった人影。
――助太刀? 何者だ?
三木辰之助でも韮沢万次でもない。新九郎は驚きながらも目を凝らした。
「加勢するぜ、新九郎」
と言ったその声と、同時に次の敵を斬り伏せた独特で鮮やかな太刀捌きを見て、新九郎は声を上げた。
「南条さん!」
「なにっ、南条?」
頭目格の大男も驚いた声を出した。この男でも知っているほどの天才剣士として有名であったが、昨年突如として上役を斬って脱藩した男、南条宗之進であった。
「こいつらは俺に任せろ。お前はそのでかいのだ。やれるか? 新九郎」
南条宗之進は薄闇の中で笑いながら剣を振るった。
南条は、一刀流戸沢道場での新九郎の先輩である。その強さと頼もしさを間近で見て来た新九郎は、俄然勇気を得て足を踏み出した。
「もちろんです」
新九郎は、頭目格の大男に斬りかかった。
「調子に乗るなよ」
大男は、刀を抜きざまに、新九郎の袈裟斬りを下からはね返した。剛力の乗った一撃で、新九郎は刀を大きく弾かれたが、すぐに退いて体勢を整え直すや竜巻の如き斬り上げを放った。
大男はこれも叩き落とそうと剣を振り下ろしたが、新九郎の神速が勝った。大男の剣は空を斬って途中で止まり、同時に脛から血が噴いた。
「おのれ」
男は咄嗟に忍び者の技量を見せて、大きく二間ほども飛び退いた。そして憤怒に目を剥いて逆襲に転じようとしたが、ちょうどその時、南条が残りの手下たちも全て斬り伏せたのに気付いて足を止めた。
「さて、でかいの。どうする? このまま新九郎とやるか、俺が代わるか」
南条は血振りをしながら余裕の笑みを見せた。
「また今度だ。黒須、南条、次は覚悟しておけ」
大男は捨て台詞を吐くと、さっと身を闇に翻した。
待てっ、と新九郎と南条が同時に追いかけようとしたが、
「やめましょう、追いつけますまい」
と、背後から聞こえた千吉の声で足を止めた。嗄れているが、思わず二人が動きを止めてしまうような不思議な響きがあった。
「千吉どの……」
「あとで、このことを旦那さまに報告いたしましょう」
「そうですね」
新九郎は頷きながら納刀すると、表情を一転、嬉しそうに南条に声をかけた。
土間の隅の台所には水を貯めてある甕があるものだ。新九郎は普段、自宅でもあまり台所に立たないので気付くのが遅かった。
流し場の隣に水甕が見える。新九郎は弥左衛門の遺骸を置いて走り寄った。
中には四分の三ほど水が入っていた。これぐらいなら持ち上げられそうだった。
この間にもどんどんと炎は回る。
新九郎は焦る心を必死に落ち着かせながら、慎重に水甕を持ち上げて木戸の前まで運んだ。そして柄杓で何度も水をかけ回し、火が小さくなり始めたところで甕を持ち上げ、残りの水を一気に撒いた。
炎がジュッという音を立てて消失した。
よし、と思わず声を上げた新九郎が一気に戸を引くと、裏手に広がる竹林が見えた。
新九郎は弥左衛門の遺骸を再び抱えて外に飛び出した。少し走って屋敷から離れると、新九郎は弥左衛門の遺骸を地面に置き、自分も倒れるように仰向けに転がった。
その頬へ、水滴が当たった。
空を見れば灰色だった雲が黒く広がっており、小雨が降り始めていた。
「もっと降れ!」
と、新九郎は思わず叫ぼうとしたが、疲労で声にならなかった。
だが、その無言の叫びに応えたかのように、黒雲は雨粒を強く落として来た。この調子で雨が降り続ければ、飛び火で村全体が炎上してしまうのは避けられるだろう。
新九郎は少し安心し、雨粒に打たれながらも目を閉じて呼吸を整えた。
そこへ、三木辰之助と韮沢万次が駆けつけて来た。二人はあの濃紺装束の連中を追いかけて行ったが、追いつけずに戻って来たのだった。
「新九郎、無事だったか」
万次がほっとした声で膝をつき、新九郎の煤で汚れた顔を見た。
「何とか」
新九郎は息を吐いて上半身を起こしたが、
「だが、弥左衛門どのは……」
と、脇に横たえた弥左衛門の遺骸の前でうなだれた。
「何故、名主どのも襲われたんだ? しかも屋敷まで燃やされてよ」
辰之助が、雨で炎の勢いが弱まって行く屋敷を見やった。
騒ぎを聞きつけて集まって来た村人らが、何とか消火しようと右往左往している。
「わからん……やったのはあの濃紺装束の連中の一人、燕と呼ばれていた奴で間違いないだろうが、奥座敷の書棚が酷く荒らされていた。奴は、弥左衛門どのが持っていた何かを強引に奪おうとしたが、抵抗されたので斬ったのかもしれん」
「ふむ。奴らの真の目的はお前ではなく名主どのだったということか」
「いや、そうとも思えない。まず俺が蔵に閉じ込められて襲われた。目的は俺と弥左衛門どの、両方だろう」
新九郎が言うと、万次と辰之助が顔を見合わせて、
「我らが着いた時にちょうど見かけたのだがな、蔵に閂をかけたのは名主どのだぞ」
「え? 弥左衛門どのが?」
新九郎は驚いた。蔵の戸が閉じられた時、新九郎も一瞬それを疑った。だが、直後に濃紺装束の連中に襲われたので、やったのは奴らの仲間だと思い直したのだ。
「慌てた様子で戸を閉じて閂をかけ、屋敷の方へ走って行った。その後に、蔵の中から斬り合いの音が聞こえてな。これは新九郎が閉じ込められて襲われたかと思い、急いで閂を外そうとしたところ、我らも横から奴らに襲われたのだ」
「では、弥左衛門どのは奴らとぐるで俺を襲ったということか?」
新九郎は愕然とした。
「だと思うが、奴らは名主どのも襲ったのだろう?」
「そこがよくわからんな。何かの口封じか?」
辰之助が顔をしかめた。
新九郎はため息をついて弥左衛門の顔を見た後、
「そもそもわからんことだらけだ。俺がここに来ることは大鳥家老しか知らないはずだ。なのに、何故奴らは俺が来ることを知っていたかのように蔵の中で待ち構えていたんだ?」
「新九郎とご家老の話を奴らの誰かが盗み聞きしていたとか?」
万次が言うと、新九郎は首を横に振った。
「それは考えにくいですね。ご家老の家には何人も家士がいて警戒も厳重です」
「しかし、あいつらはまるで昔の笹川組じゃないか。そういう連中ならば、ご家老の屋敷に潜入できても不思議はないぞ」
「まあ、そうですが……あ、そういえば、韮沢さんたちは何故ここに来たのですか?」
新九郎が不思議そうに二人の顔を見ると、
「大鳥さまの命令よ」
辰之助がため息をつきながら答えた。
「夜中に突然呼び出されてな。こういう事情で新九郎が鉢窪村に向かうが、何があるかわからんからそなたらも応援に行け、とな。夜中だぞ? ご家老が強引なのは知っているがたまらんわ」
万次は苦笑しながら言った後、ごほごほと咳をした。
「俺はお前の助けなんぞしたくはなかったんだが、柳橋でのお前への借りをさっさと返したかったからな」
辰之助はそっぽを向いてぶっきらぼうに言った。
「だがまあ、今回はご家老の強引さでお主の命は助かったわけだ」
「ですが……これで助かったといえるでしょうか」
新九郎は立ち上がり、雨で炎の勢いが衰えて行く弥左衛門の屋敷を見た。
遠慮処分は今日の夜からとはいえ、その日の朝早々から、嫌疑の中心である鉢窪村で、こともあろうに名主が斬られ、その屋敷も炎上するという騒動を起こしてしまった。
「俺への疑いとは関係なく、腹を切らされるかもしれんな」
新九郎は暗い顔で唇を結んだ。それを励ますように、万次は新九郎の肩を叩いた。
「心配するな。お主を襲い、名主どのも襲って更に屋敷に火をかけたのはあの連中だ。それは儂も三木もはっきりと見ている。我らがしっかり証言してやる」
「ありがとうございます」
新九郎は礼を言った後、
「それにしてもあの濃紺装束の連中は本当に何者なんだ。昨夜も三木を襲い、今日はわざわざここで待ち構えていて俺を襲った」
「わからんが……一つ言えるのは、奴らが主に襲っているのは大鳥さまに味方している藩士たちということだ」
辰之助が言うと、
「お前……それに韮沢さんも、大鳥さま派に入っていたのか?」
新九郎が驚いて二人の顔を見た。
「俺は大鳥さまの仲立ちで三木家に婿入りできたという恩がある。韮沢さまは、お前も知っているように大鳥さまとは遠縁だ。その関係でいつの間にか、な」
「といっても、我ら二人とも、大鳥派に入ったのは本当につい最近のこと。言っていなかったことは気を悪くしないでくれ」
と、万次も続けて言ったのだが、その後再び咳き込んだ。
「風邪ですか?」
「かもしれん」
万次が袖で口元を拭うと、辰之助は空を見上げた。
「雨に濡れ続けるのは身体に悪い。木陰へ移ろう」
三人は弥左衛門の遺骸と共に竹林の傍らにある大きな樹の下に移った。
三
辰之助は座り込んで大木の幹にもたれると、
「こんな事態になった以上、黒須も我らの仲間に入るしかないだろう。だから明かす。昨晩、俺が柳橋のたもとで襲われた時もな、実は大鳥さまの命で密かに藤之津へ行った帰りだったのだ」
「藤之津へ?」
新九郎はどきりとした。藤之津は、黒須家の女中、りよがいた北方の湊町である。
「藤之津に高木屋という商家がある。かなり手広く商売をやっていて船問屋もやっているのだが、この高木屋がどうも小田家老と癒着しているらしいと大鳥さまが嗅ぎつけてな。大鳥さまに言われて密かに調べに行ってたのよ」
「その帰りに襲われたというわけか」
すると、万次が言った。
「先日斬られた勘定方小頭の桂さま、納戸役の寺坂なども皆、大鳥さま派で、小田家老の不審を暴くべく動いていた」
「そうだったのか。では、あの連中は小田家老の指示……ではなかったな。奴ら、自分たちが小田家老を使っている、と言っていた。一体どういうことなんだ?」
と、新九郎は言ったところで、あの連判状を思い出した。
一瞬、ためらったが、万次は歳こそ一回り以上も上だが、家が近所で幼少の頃から可愛がってくれた仲。辰之助も、仲は良くないが、やはり幼少の頃からの付き合いである。それにどうやらいつの間にか仲間になってしまったと知り、新九郎は二人を信頼して連判状を懐から出した。
「そういえば、弥左衛門どのの奥座敷でこんなものを見つけた」
新九郎は、連判状を広げて見せた。
万次も辰之助も、一瞬で目を瞠った。
「傘連判じゃない。これは尋常ではないぞ。何故こんな物が名主どのの屋敷にある?」
「ああ。だが、冒頭に何も書いていない上、最初の二行の名前が墨で塗り潰されている」
「一揆目的ではない連判状とは、何かの企みか」
「墨で消されている最初の二人が間違いなく首班で大物だろう。消させるあたり、ちと卑怯と思うが」
「今回の疑惑と、濃紺装束の連中がここに現れたこと……小田家老と何か関係があるかも」
新九郎たちは頭を寄せ合って連判状を覗き込んだ。
武士、町民にかかわらず多くの名前が交ざって並んでいる。三人はそれを順々に見て行くと、ほぼ同時にあっと声を上げた。
数行目に、郡奉行松山帯刀の名前があり、更に最後の方に西村弥左衛門の名前もあったのである。
「松山さまが……この連判状が何の為のものかはわからないが、名主どのが持っていた連判状に郡奉行の松山さまと名主どのの名前があるということは……」
「考えたくはないが、弥左衛門どのと松山さまには繋がりがあり、もしかしたら直接やり取りをして今回の不正をしていたのかも」
新九郎は顔を暗くした。
「ということは今回の横領疑惑は、松山さまがやったことか? 或いはこの消されている最初の二人が松山さまと名主どのに指示をしたとか」
「で、それが露見しそうになったので、鉢窪村担当であるのをいいことに、黒須になすりつけたということか」
辰之助が険しい顔をした。
新九郎は、弥左衛門の顔を見ながら沈黙していた。
まだ憶測である。はっきりとはわからない。だが、新九郎と弥左衛門は役目を越えて仲を深めていた。そんな弥左衛門が、新九郎を陥れたということだろうか。
仮に弥左衛門の本意ではなく、松山帯刀の主導で命令されていたとしても、弥左衛門が新九郎を裏切ったことは間違いない。
雨のせいではなかっただろう。新九郎の胸が冷たく締め付けられたのは。
その日の夕刻には、知らせを受けた徒目付たちが鉢窪村にやって来て調べを始めた。
新九郎たち三人はひとまず城下へ戻ることが許されたが、新九郎は真っ直ぐに評定所に連れて行かれて再び吟味を受けた。
まだ目付衆の捜査が始まる前に、しかも遠慮処分を待つ身であるにもかかわらず、勝手に鉢窪村に向かい、結果あのような騒ぎを起こしてしまった。執政衆からは、黒須新九郎は即刻死罪にするべし、との厳しい声が多く出た。
だが、現場に居合わせていた万次と辰之助が、鉢窪村でのことを詳しく証言した上、
「このことから、鉢窪村の小物成の不正は、名主の西村弥左衛門が行ったのではないかと思われます。また、あの笹川組のような連中もそれに関わっているのかと思います」
と、言葉を尽くして新九郎を擁護した。
また、弥左衛門の家族や奉公人、鉢窪村の村人らも、濃紺装束の連中が新九郎らを襲ったことを証言したことに加え、家老大鳥順三郎の強引な主張もあって、とりあえず新九郎の即時死罪は回避された。
だが、これは新九郎の無実が証明されたわけではない。新九郎は再び、そのまま評定所に押し込められた。
しかしその翌朝、またも事態は速く動いた。
大目付の石川左内がやって来て告げた。
「黒須新九郎、その方を釈放する」
「はっ」
新九郎は少々の驚きと共に返事をした。
「喜ぶが良い、その方の嫌疑は晴れた。その方は無実じゃ」
その言葉を聞いた瞬間、新九郎は胸の重しが取れたような心地がした。
「ありがとうございまする。しかしそれはまたどうして……」
新九郎が顔を上げると、
「うむ。佐久間らが調べたところによると、どうやら鉢窪村の一件は名主の西村が一人でやっておったらしい。村中から集めた青苧と縮の一部を、密かに近隣に抜け売りしておったようじゃ。それを、担当であるその方がやったように工作していたらしい」
「さようでございましたか」
新九郎は頷いたが、心の中では納得していなかった。
――嘘だ。
弥左衛門が関わっていたのは間違いないだろう。だが、祖先が地侍とはいえ、山間の小村の名主が、一人で横領から抜け売りまで行うなどできるはずがない。
――それに一人でやっていたならば、城内にある俺の帳簿の改竄はどうやって行ったのだ。
疑念は多くある。だが、自分の嫌疑が蒸し返されぬよう、新九郎は黙っておいた。
するとそこへ、石川がじろりと新九郎を見て言った。
「しかしだ。無実がわかったとはいえ、そなたの勝手な行動とその結果は見過ごせぬ。そこで、改めて遠慮を申し付ける。今からじゃ」
こうして、新九郎は評定所から解放された。
即時遠慮となったので、徒目付二人に両脇を挟まれて屋敷に帰った。
再び遠慮とはなったが、新九郎の嫌疑は晴れて無実とされた。死罪は免れ、減禄もない。当然家の取り潰しもない。
万事解決である。だが、新九郎の心は晴れなかった。
身分差を越えて仲を深めていた弥左衛門が、新九郎を陥れたことに加担していたという、その事実のせいである。
新九郎は悶々としながら、裏口から屋敷に入った。
「兄上」
「旦那さま」
妹の奈美が真っ先に出て来て、その後ろから女中のりよも来て新九郎を出迎えた。
「ご無事でようございました。心配しておりましたよ」
奈美が泣き出しそうな顔をした。目の下にうっすらと隈ができている。
新九郎のことは、昨日中に黒須家に伝えられていた。
「奈美さまは、昨晩はあまり眠れなかったようでございます」
りよが奈美の後ろからそっと言うと、
「すまぬな、二人には心配をかけた。だが、改めて遠慮処分を受けたとはいえ、私の無実は証明された。黒須家は安泰だ」
新九郎は努めて明るく言った。
「この調子で、奈美の縁談も何とかするからな」
新九郎は二十一歳。亡父の跡を継いで黒須家の当主となっているし、妻を娶っていてもおかしくはない歳である。だが新九郎は、両親もすでにいないことであるし、まずは妹の奈美を嫁に出してから、と考えていた。
ところが、奈美は顔を赤くしながらも、逆に口を尖らせて文句を言った。
「いつも言っておりますが、まずは兄上が先なのではございませぬか? 早く黒須家の跡継ぎを作りませぬと。さて、わたくしはお琴の稽古に行って参ります」
奈美は、そそくさと自室へ戻って行った。
その小さな背が奥へと消えると、新九郎は「ませた奴だ」と、と笑った。だが、すぐにまた、弥左衛門のことを思い出して顔を暗くさせた。
りよも、くすくすと口元を押さえて笑っていたのだが、新九郎の横顔に射した暗い影に気付いて、心配そうに訊いた。
「いかがいたしましたか?」
「いや、何でもない」
新九郎は作り笑顔で答えたが、りよは鋭く見抜いた。
「嘘でございましょう。釣りに行ってあまり釣れなかった時と似た顔をしておりますよ」
「はは……」
「何かわたくしにできることがあればお申し付けくださいませ」
りよは新九郎に一歩寄った。甘い香りがして、新九郎はどきりとしたが、同時に気持ちがやや和らぐのを感じた。
新九郎は「実はな……」と、思い切って弥左衛門のことを話した。
「弥左衛門どのとは役目の外でも親しくしていた……と、私だけが思っていたらしい」
新九郎は目を伏せながら言葉を続ける。
「弥左衛門どのは私を裏切っていた……真相は未だに不確かだが、私を陥れるのに手を貸していたのは間違いなかったらしい」
「…………」
「それが少し、心に痛い」
新九郎は寂しそうに呟いた。
りよは、俯いた。腰の前で両手をぎゅっと結んだ。そのあと、右手をほどいて上げかけたが、ためらってやめた。
「書見をする」
新九郎は言って、廊下を歩き出した。その背中へ、りよが声をかけた。
「旦那さま」
その声に、新九郎は振り返った。
「でも、名主さまは最後に謝られたのではございませぬか? きっと、己の過ちを悔いて、旦那さまに謝られたのです。裏切ったままではございませぬ」
「おりよ……」
「もしかしたら、誰か別の者が名主さまを脅して操った可能性もございます。それ故に、名主さまの最期のお気持ちを忘れないであげてくださいませ。それがきっと、旦那さまのお心の傷を治し、また名主さまへの何よりの供養になるはずです」
「……そうだな」
新九郎の顔に射していた影が薄くなり、それを見たりよも、にこりと微笑んだ。そして新九郎は再び奥へ向かった。
「お茶をお持ちいたしますね」
「すまぬな」
そう返答した新九郎の背を、りよはその場に立ったまま、じっと見つめていた。
そして新九郎が自室へ入った音を聞くと、りよは目を閉じ、左胸に右手を当てた。
それから、新九郎は家に籠もる日々が続いた。
遠慮は処罰の中では最も軽く、日中は屋敷に籠もっていなければならないが、夜間の外出と、自宅での人との面会は黙認されている。だが、新九郎は特に外出したいとも思わず、逆に今回の件で色々と思うところがあったので、夜もずっと自室で本を読んだり調べものをしたりしていた。
屋敷に籠もっている間も、世間の話は聞こえてくる。
あの、昔の笹川組のような濃紺装束の連中の活動がより活発になっているらしい。伝わってくる話では、彼らが襲っているのはやはり大鳥家老派の人間ばかりであった。
――小田を我々が使っているのだ。
鉢窪村で奴らの一人がこう言っていた。筆頭家老ほどの大物をあの連中が使っていると言うのは信じがたいが、
――少なくとも、小田さまとあの連中に繋がりがあるのは間違いなさそうだ。
第三章 蕾光る家と雲陰る城
一
そうして十四日後、ようやく新九郎の遠慮処分が解けた。
三月上旬、その日の夜であった。
新九郎は夜食を食べた後、綿入れを羽織り、縁側に出て簀子に座った。
眉根を寄せて星空を睨む。
――藩政は俺が思っている以上に腐敗していた。
新九郎は元来真面目な性格からか、藩内の政争や派閥争いのようなものを嗅ぎつけると、何となく距離を置いてきた。
しかし今回、そんな自分の意思とは関係なく強引に巻き込まれて初めて知った。
――目付の一部まで小田さまに取り込まれているとなると深刻だ。
新九郎は腕を組んだ。
――先代の殿が生きておられたらどうなっていただろうか。
暴君として悪評が高かった先々代と違い、その息子の先代藩主経龍公は英邁を謳われていたが、一昨年にまだ三十代半ばという若さで急死し、その嫡子の政龍が跡を継いで藩主となった。
政龍もまた、先代経龍に似て聡明であるが、まだ十五歳という若さであった。
いくら優秀で幼少の頃から藩主となるべく教育を受けていたとはいえ、十五歳の若さでは流石に藩内をまとめきれなかった。
それをいいことに、小田内膳は昨年から派閥の力で藩政を牛耳って来ているのだ。
「儂は殿より藩政を一任されておる」
小田内膳は、事あるごとにこう言って自分の権力を正当化して来た。
――だが、そもそもそれが疑わしい。
噂では、現藩主の政龍は、元々は活発で明るい性格であったが、先代の病死後に跡を継いでからは、人が変わったようにおとなしく寡黙になったという。
――とりあえず、〝あれ〟は目付に渡さなくて正解だったかな。
新九郎は一人、無言で頷いた。
その時、背後からそっと声がした。
「旦那さま、そのようなところで何をしておられるのですか?」
りよの声であった。
新九郎は振り返って微笑んだ。
「少し考え事をな」
「そうですか。ですが、まだ寒うございます。そのようなところにおりましたら風邪をひいてしまいますよ」
「心配はいらぬ。このように綿入れも羽織っている」
「ですが……」
と、りよは言いかけて、ふと気付いて明るい声を上げた。
「あら、もう蕾が開き始めておりますね」
庭の隅に、大きな桜の樹がある。りよの目は、その桜の枝に注がれていた。
「花か? 本当か?」
新九郎も目を凝らしたが、夜闇の中なので蕾の様子は全くわからなかった。
「ええ、今年は暖かいからでしょうか。いくつか咲いております」
「ふうむ」
新九郎には、蕾が黒くぼんやりと浮かんでいるだけで、淡紅色は見えなかった。
新九郎は感心したようにりよを見た。
「やはり見えないぞ。おりよ、そなた、こんな暗い中でよく見えるな」
するとりよは、何故か少し戸惑ってから、
「ええ……その、わたくしは桜が大好きですので。藤之津の実家の近くにも桜の樹がありまして、毎年花が咲くのを楽しみにしておりました」
「そうか。私もここの桜は好きだ」
黒須家の屋敷があるこの一帯には、元々桜の木々が自生していた。
初代藩主頼龍がこの地に入って城下を再整備した時、この辺りの桜の見事さに感心して、春木町と名付けたのであった。
「おりよ」
「はい」
「え……っと」
新九郎は何か言いかけたが、ためらって顔を庭に向けた。
「いかがされましたか?」
りよは不思議そうな顔で新九郎の横顔を見た。
「いや……桜が好きなら、ここで共に見ぬか? といってもまだ開きかけだが」
新九郎は思い切って言ったが、その顔は気まずそうに庭に向いたままであった。
「え? ですが、わたくしなどが旦那さまのお隣には……」
「そのようなことどうでもいいではないか。それでも気になるなら、私の左後ろにでも座ればよい」
新九郎が言うと、今度はりよがためらいを見せたが、すぐに微笑して、
「では、失礼いたします」
と、新九郎の左後ろに正座した。
「本当に、ここの桜は立派でございますね。満開になるのが楽しみです」
しみじみと言ったりよの髪を、そっと吹いた夜風が揺らした。
「だが、桜は、咲いている時は目を楽しませてくれるが、それも短い間だけ。散り始めると寂しいものだ」
「いいえ。それ故に桜は人を魅了するのです。桜は散る様も美しゅうございます。美しく咲くのがわずかな時故に、散って行く様もまた美しいのです」
「……まあ、それもわかるが」
「わたくしは、葉桜も好きでございますよ」
りよは、柔らかい笑顔を見せた。
「それはまた珍しいな」
「散って行く花と入れ違いに若々しい新緑が芽吹く。新しい季節が来ることを実感し、何だか気分も一新できるような気がするのです」
「なるほど、そういうものか」
新九郎は納得しながら闇の中の樹を見つめた。その時、りよが小さくくしゃみをした。
「ああ、寒いか」
新九郎は振り返り、自らの綿入れを脱ぐと、りよの両肩に回しかけた。
「え……」
りよは、両頬をぽっと染めて新九郎を見た。
「あっ……」
新九郎は自身の行動に気付いて狼狽した。完全に無意識だった。
幼少の頃より、妹の奈美が家で寒がると、新九郎はいつも自分の着ている物をかけてやっていた。この二年ほどは奈美も年頃になったせいか、恥ずかしがるのであまりやらなくなったが、その習慣はまだ無意識に残っていた。それでつい、りよにも同じことをやってしまったのだ。
「すまぬ……嫌ならば外してくれ」
新九郎は気まずそうに言った。
「い、いえ……暖かいです。ありがとうござります」
りよは頬を赤くしたまま、下を向いた。
綿入れを通して、新九郎の体温がりよの肌に伝わっていた。
新九郎は何を言っていいかわからず、再び庭に目をやった。りよは無言のままだった。気恥ずかしく、気まずいような空気が流れた。
――何か言わねば……。
新九郎が言葉を探していると、表門の方から訪いの声が聞こえた。
「このような時刻に誰でございましょう」
りよが訝しんだ。
「遠慮が解けたばかりとはいえな」
「出て参ります」
りよが立ち上がったが、再び聞こえた声が聞き覚えのある嗄れたものであることに気付いた新九郎は、
「もしやご家老のところの……待て、私も行こう」
と、共に門に向かった。
門の外にいたのは、果たして大鳥家の老下男、千吉であった。
「このような夜更けに申し訳ございませぬ」
千吉は頭を下げた。
「とんでもござらん。それより、ご家老に何かございましたか」
「いえ。旦那さまよりの使いです。急ぎ当家に来てもらいたいと」
遠慮が解けたその夜にいきなり来いと……相変わらず強引だ、と新九郎は心の中で苦笑しながらも、
「承知いたしました、すぐ着替えて参りますのでお待ちを」
と、一旦奥へ向かい、着替えてから戻って来た。
「遅くなると思う」
新九郎はりよに言うと、千吉と共に門を出た。
「お気を付けくださいまし」
りよは、新九郎の背を見送った後、まだ新九郎の綿入れを着ているままだったことに気付いた。だがりよはそれを脱がず、袖口をじっと見つめていた。その顔から照れはすでに消えていたが、却って無表情になっていた。
大鳥邸への夜道を、千吉が提灯を下げて前を進み、新九郎はその後ろを歩いた。
道中、ぽつぽつと他愛もない話をしていたが、不意に千吉が立ち止まった。
「如何された?」
新九郎が不審に思ったその瞬間、
――剣気!
新九郎はさっと振り返ると同時、右手を大刀の柄にやった。
だが、薄闇の向こうから剣は飛んで来なかった。
「黒須新九郎。あれをどこにやった?」
そう言いながらゆっくりと歩いて来て姿を現した男は、例の濃紺装束姿だった。覆面の隙間から覗くのは猫のような目。鉢窪村で新九郎を襲った連中の一人で、他の者たちを指図していたあの大柄な男であった。
新九郎は「千吉どの、後ろの方へ」と、千吉を下がらせて、
「あれとは何だ?」
「弥左衛門が屋敷に持っていた連判状だ」
「連判状? 何のことやら」
新九郎はわざとらしく首を傾げた。
「とぼけるな。貴様があの屋敷で連判状を拾っていたことはすでにわかっているのだ」
「何のことかわからないが、その連判状は他人の手に渡るとまずい物らしいな」
新九郎がにやりと笑うと、男は苛ついた様子を見せ、
「あの連判状、貴様はきっと目付に渡すものだと思っておった。ならば問題はない。目付どもに渡るのならば、いずれ我々のもとに戻るからな」
「なに? お前たちは目付衆とも……?」
新九郎は驚いたが、すぐに目付衆の一部も小田内膳に取り込まれていると言った大鳥順三郎の話を思い出した。
――こいつらは小田家老を使っていると言っていた。ならば不思議はない。
「だが、目付どもは連判状を持っていなかった。それ故、我々は貴様の屋敷を隅々まで調べたが、どこにもない。一体どこにやった?」
「屋敷の隅々まで? 嘘をつくな。俺はずっと屋敷の中にいた。お前たちのような者が忍び込んでいれば、気配ですぐに気付く」
「ふっ、そのようなこと、我々にとっては造作もないことよ。特に貴様の屋敷なぞはな」
男は低く笑って言うと、すぐにまた苛立ちを見せ、
「で、どこだ? 言え」
「知っていたとしても答えると思うか?」
「……それもそうだ。ならば無理にでも口を割らせてやるか」
男の足が砂を踏む音を立てると、その背後から同じ濃紺装束の男が四人現れた。
新九郎はさっと飛び下がって抜刀し、
「千吉どの、逃げられよ」
と、背後の千吉に言ったが、
「私のことは構わず」
千吉はやけに落ち着いた口調で答えながら、じっと大男を見つめた。
「やれ」
この大男が頭目格らしい。四人に命令した。
四本の刃が一斉に光る。
二
――四人相手は流石に無理だ。
新九郎が、どう立ち回るか、と急いで考えを巡らせた時であった。
「四人がかりで一人をやるとは流石に卑怯すぎるだろう」
と、不意に別の男の声が響いた。
相手の四人がぱっと振り返ったその瞬間、一人が呻き声を上げて崩れ落ちた。その先に月を背負って浮かび上がった人影。
――助太刀? 何者だ?
三木辰之助でも韮沢万次でもない。新九郎は驚きながらも目を凝らした。
「加勢するぜ、新九郎」
と言ったその声と、同時に次の敵を斬り伏せた独特で鮮やかな太刀捌きを見て、新九郎は声を上げた。
「南条さん!」
「なにっ、南条?」
頭目格の大男も驚いた声を出した。この男でも知っているほどの天才剣士として有名であったが、昨年突如として上役を斬って脱藩した男、南条宗之進であった。
「こいつらは俺に任せろ。お前はそのでかいのだ。やれるか? 新九郎」
南条宗之進は薄闇の中で笑いながら剣を振るった。
南条は、一刀流戸沢道場での新九郎の先輩である。その強さと頼もしさを間近で見て来た新九郎は、俄然勇気を得て足を踏み出した。
「もちろんです」
新九郎は、頭目格の大男に斬りかかった。
「調子に乗るなよ」
大男は、刀を抜きざまに、新九郎の袈裟斬りを下からはね返した。剛力の乗った一撃で、新九郎は刀を大きく弾かれたが、すぐに退いて体勢を整え直すや竜巻の如き斬り上げを放った。
大男はこれも叩き落とそうと剣を振り下ろしたが、新九郎の神速が勝った。大男の剣は空を斬って途中で止まり、同時に脛から血が噴いた。
「おのれ」
男は咄嗟に忍び者の技量を見せて、大きく二間ほども飛び退いた。そして憤怒に目を剥いて逆襲に転じようとしたが、ちょうどその時、南条が残りの手下たちも全て斬り伏せたのに気付いて足を止めた。
「さて、でかいの。どうする? このまま新九郎とやるか、俺が代わるか」
南条は血振りをしながら余裕の笑みを見せた。
「また今度だ。黒須、南条、次は覚悟しておけ」
大男は捨て台詞を吐くと、さっと身を闇に翻した。
待てっ、と新九郎と南条が同時に追いかけようとしたが、
「やめましょう、追いつけますまい」
と、背後から聞こえた千吉の声で足を止めた。嗄れているが、思わず二人が動きを止めてしまうような不思議な響きがあった。
「千吉どの……」
「あとで、このことを旦那さまに報告いたしましょう」
「そうですね」
新九郎は頷きながら納刀すると、表情を一転、嬉しそうに南条に声をかけた。
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